ハワードの決意
燃え盛る青い鳥。先ほどまでアズナとハワードがはけで青い塗料を塗りたくっていたところが、乾きもしないうちにランタンのオイルで剥がされ、機体を貪る炎の餌に成り果てている。もはや期待の全焼は免れないかに見えた。アズナの背中に刺さる視線も、そんな諦観を胸に抱いているのだろうか。
そこに、ラピスラズリの献上の任務を終えて帰還したボルガとライアも加わり、目の前に広がる惨状に息を合わせて膝を折った。アズナの背中には、加わったふたりの失意の眼差しも合わせて突き刺さった。
それでも、彼女は諦めたくなどなかった。
拳を握りしめ、再びその手に魔力をこめる。自分の力なら、自分の力なら、機体を地底湖に沈め、火を一瞬にして消すことができるはず。
しかし、その手は差し止められた。もうヴィンセントの姿は視界から消えてしまっている。アズナの手を止めたのは、この青い鳥の死を誰よりも悼んでいるはずのハワード自身だった。このまま、燃え朽ちていくさまを傍観しろとでもいうのか。そんなことは言って欲しくなかった。革命の中心人物である彼には、地に落ちてほしくなかった。アズナは眉間にしわを寄せて、自身の可憐な顔を歪ませる。
「ハワードさん、諦めるんですか!」
アズナの小さな体は、まるで大筒が鳴くかのような力強い声を出す。
「夢だったんでしょ。この国を変えることが!
夢だったんでしょ。民の希望の鳥になることが!
そんなに簡単に諦めていいんですかっ!」
半ば唾が飛ぶかという勢いでハワードに語り掛ける。だが決してハワードも諦めたわけではないということを、上目づかいで覗き込んだ、その瞳に知ることになった。ハワードの目は、曇ってなどいなかった。いくら目の前ですべてを踏みにじられようとも、彼の蒼い瞳はどこまでも真っ直ぐに澄んでいた。
「諦めてなどいませんよ。ただ一度火が点き、均整を失った機体が
空を舞えるとは思っていない。たとえ、水に沈めて火を消しても
水を吸った重たい機体も、また空を舞うことは叶わない」
「ならば、再び青い鳥を生み出すまでです。
たとえ燃え尽きようとも、我々の意志が死ななければ、青い鳥は
灰の中から息を吹き返すはずですから」
一度燃えてしまったものを、もとに戻すことは叶わない。ならば作り直すしかない。数週間かけてほとんど完成しかけていた機体は、またいちから作り直しということになった。ただ、幸いなことに、翼と胴体をつなげる行程はまだ済んでいない。つまりは、胴体を失えど、翼はまだ生きている。本当の意味での全焼とはなっていなかったのだ。ただ問題は、残された時間は、今までの製作時間よりもずっと少ない。
「張りぼてでもいい。たとえ、美しく飛べなくとも。
バタバタともがき苦しみながら身体をやっと浮かせられる雛鳥のようでも。
我々は羽ばたくことを止めてはなりません」
「何を皆さん、ぼうっとしているのですか。時間はないのですよ」
肩を落としていた他の面々に喝を入れるハワード。残された時間はわずか二日間。文字通り、羽ばたくことを止めてはいけない。不眠不休の作業工程が組まれた。だが、そんなものを以てしても数週間の作業工程を四十八時間弱の中に組み込むことは不可能だ。ハワードはこのとき、ある決意を固めていた。
「ドク、例の設計図を出してくれないか」
その決意はその言葉とともに、ドクにだけ伝わった。材料学に精通している機械技師である彼にだけ伝わったのだ。ドクは生唾をごくりと飲み込み、思わず衝動的に何かを口走りそうになるが、それをハワードの鋭い視線が止めた。まるでのど元まで出かかった言葉を、その視線が張り付けにしたかのように。ドクの喉仏は、言葉を発するために一度上に動くも、後ずさりをするのだった。その奇妙な喉の動きをバレッタが、ひそかに遠目で追っていた。
「……ハワードさん、設計図を変えるんですか?」
アズナの質問に何故か一瞬だけ言葉を渋るハワード。それとともに、羊皮紙を巻いた「例の設計図」を持ってきたドクの顔にも少しだけ翳りがかかる。
「ああ。もとはふたり乗りのものを製作していたが、時間がない。
ひとり乗りでつくりも簡素なものに変える」
「ちょっと待ってよ。もとは魔力による妨害工作に対抗するため
あたいと一緒に乗るつもりだったんじゃ……」
ライアがふたり乗りの機体をひとり乗りのものに変えるというハワードの設計案に抗議する。ブルーバードの飛行には必ずや、妨害工作が入ることはわかっていた。そのときに、すこしでも魔力に対抗できる力が必要だった。ライアは簡単な魔術しか扱えない。せいぜい、妨害工作をしている主を嗅ぎ当てるくらいのものだ。自分の体を浮かせて空を自由に飛び回ることは彼女にはできない。だからこそアズナでなくライアが同乗者として選ばれていた。ブルーバードはあくまで、魔力の力を借りずに、純粋な民の力で飛ぶことが必要だったからだ。もっとも、支配階級の死傷者を出させないための結界という大仕事はライアには務まらないというところもあったが。
「あたいじゃ力不足だって言うのか」
「もう時間がない。ライア、君を信頼していないわけじゃない」
それでも彼女は、ハワードとともにグライダーに搭乗することを所望した。どれだけ、自分にできることが少なくても彼女は、ハワードを守りたかったのだろう。それを断り、たったひとりで空を飛ぼうとするハワードに対し、彼女は憤りさえ感じているようだった。かすかに上下する彼女の肩にボルガの手がぽんと乗せられる。
「落ち着け。ふたりよりひとりのほうが、飛びやすいのは明白だろ?」
「あたいが重いみたいに言うなっ!」
ボルガなりのフォローだったのだろうか。それともライアをからかっているだけなのか。どちらかは定かではないが、そのいつも通りのやり取りをハワードは噛みしめるようにして笑っていた。アズナは、ハワードがそんな笑い方をするところは見たことがなかった。今まで自分の前で振りまいてきた笑顔とは、明らかにどこか異質だ。アズナは、その笑顔になぜか彼に突き放されたかのような感覚を覚える。だが、その理由はわからない。わからないまま、行程の説明に入る。
「新しいブルーバードの組み立ては、私とドクだけで行う。
ボルガとライアは予定していた離陸位置にウインチを設置してくれ。
バレッタとアズナは、クラウガの手当てを頼む」
「ま、待って……、あたしは手伝ったらダメなんですか」
私とドクだけという表現が、アズナの中で至極引っかかるものだった。先ほどまでは胴体の塗装を一緒にやっていたではないか。少しでも力になりたい。そして、ハワードに感じていた疎外感を気のせいだと思いたい。しかし、そんなアズナの淡い願いは、叶わなかった。
「……クラウガの容体は深刻だ。
薬効の知識のあるアズナの手当てが必要なんだ」
それも至極納得の行ってしまう理由で突き返された。いや、本来なら突き返されたという表現は語弊があるのだが、アズナは少なくともそう感じてしまった。至極納得の行く理由なのに。そしてまた、ハワードの笑顔がアズナの中の疎外感を増長させていく。これまで自分に向けられてきた、彼の笑顔は見ていたいと素直に思えるものだった。でも今自分に向けられているものには、皮膚との間につなぎ目を感じてしまうような、違和感があった。そのつなぎ目を引きはがし、笑顔をめくれば、本当の顔はどんな表情を浮かべているのか。知りたい気持ちと知りたくない気持ちがせめぎ合うも、結局はそのつなぎ目に手をかけられない。
どうしてそう思い悩むのか、アズナは自分でもわからなかった。自分が敏感になりすぎているのだろうか。もやもやを抱えたまま、クラウガに服用させる薬を調合していた。がりごりとすり鉢で生薬を粉末状にすりつぶす。同じく、クラウガの看病に回されたバレッタは、クラウガの身体についた血を濡れた布で拭い取っていた。
「……バレッタさん……。ハワードさんのことだけど」
「何か隠し事をしているんじゃないかって?」
口先から出そうになっていた言葉を、そっくりそのままバレッタに言い当てられてアズナはまごついた。バレッタは、それをアズナの表情から読み取ったのではない。バレッタ自身もまた、同じことを思っていたのだという。
例の設計図を渡してくれと言われた時のドクが見せた動揺。
その設計図を持って来た時に、ドクが浮かべた曇った表情。
バレッタはハワードの胸中に何か秘めたることがあるのを、心中が表情に出やすいドクから読み取っていたが、アズナはそれをハワードから直接読み取っていた。
「……あんたは、ハワードのことをよく見ているね」
「なっ……、そ、それくらい誰だって気づきますよ!」
その差異は、アズナの中に芽吹き始めている感情から来ているのだろう。そして、ハワードに対して感じている疎外感も。バレッタは、それを勘付いて静かに笑う。だが、それを自ら噛み潰すかのようにして顔を曇らせる。
「……バレッタさ……ん……?」
「少し嫌な予感がするんだよ。ハワードのやつ、今の設計図を
ドク以外の誰にも見せていないだろ」
*****
ライアとボルガも、同じような違和感を感じながら、ウインチをリヤカーに乗せて離陸位置に向かっていた。離陸位置までは、拠点としている鍾乳洞を海に向かって抜けたほうが早い。なにしろ海岸沿いの切り立った崖が、青い鳥が飛び立つカタパルトなのだから。ブルーバードの飛行において、滑空機であり原動機がないため、発射台のようなものが必要だ。ふたりはその設置作業を頼まれていた。伸縮性の強い太い革のバンドを端点に固定し、ゆっくりと巻き取りながら引っ張って負荷を与えていく。この際に使われる巻き取り機がウインチというものだ。ウインチによってかけられた負荷を解き放つことによって、革バンドが一気に縮まり、ちょうどおもちゃのパチンコの要領で、機体を空に向けて撃ち出す。初速度を与えられた機体は、落下エネルギーにより加速度を貰い受け、やがて風を捕らえて舞い上がるといった具合だ。ブルーバードのフライトにおいて、これがなくてはならないという作業を任されたふたりに不満はない。それでも何か引っかかる。やはり、あの設計図のことだ。
「……、設計図、見せてくれなかったな……」
「なんだ?また、搭乗させてくれと抗議する気でいるのか」
波が打ち付ける音。洞窟の中に吹き込んでくる風にも、はっきりと潮の香りが感じられるようになった。それと同時に、丹念に時間を重ねてできたと思わせる雨水による浸食から、荒々しく削り取られたかのような波の浸食へと、洞窟の形態が変化していく。
「そういうわけじゃないよ……」
それはちょうどライアの心境の変化を表わしているようでもあった。ハワードに対しての疎外感から、疑問が浮かび上がり、色を強めるさまが潮の香と比例しているようであった。
「前の設計図はこれ見よがしと見せつけていたのに
今回の設計図は、あたいたちにひとつも見せようとしない」
「前に興味本位で、ハワードが書いていた設計図を眺めていたときがある。
鉛筆で大きくバツ印がされたボツ案も多々あった。
だがひとつだけ、くしゃくしゃにされたボツ案にまみれて、
やけに綺麗に巻かれた設計図があってな。それに手を伸ばそうとしたとき
後ろからハワードに呼び止められた。それは見ないでくれと」
「ど、どうして……そんなものが……」
「……きっと、すごくカッコいいから誰にも見せたくないんだろ」
「違うから!絶対に違うから!」
誰にも見せない設計図。そしてその設計図の内容を知るハワードとドクのみによる製作作業。ブルーバードの搭乗員からライアが外され、ハワードのみの操縦になったことも加えて、否が応にでもはっきりと不安が募る。
顔にかかる荒々しい波しぶき。いよいよ海に出た。離陸位置である海に突き出た尾根の根元にあたる場所。ここからボルガが崖を上って上から縄をたらし、ライアがそれにウインチをくくりつけ、引き上げる。だが、ライアはここで募る不安に歩みを止めてしまう。
「……、ハワードはもしかしたら……、死ぬつもりじゃないんだろうか」
そう考えれば、つじつまが合ってしまうからだ。設計図を見せないのは、明らかに見て分かるような脆弱性があり、長時間の飛行に耐えられない。あるいは安全な着陸を確保できない。それを見せてしまえば、フライトが自殺行為と変わらないということが露見し、隊内の士気に多大な影響を与える。そう考えれば、そう考えてしまえば、設計図を見せないわけも、作業工程に関わらせないわけも、搭乗員がひとりだけの理由も至極納得がいってしまう。
「だから、あたいは搭乗員から外された……。
ハワードはひとりで行くつもりなんだ。
あの顔は……、そんな覚悟を決めた表情だった」
「……ライア、俺が上に登ったら縄を下ろすから、しっかり括り付けるんだぞ」
「ボルガ、人の話を聞いてよ!あたいたちが用意しているのは
ハワードの処刑台かも知れないのよ!」
そんなライアの心配をよそに、ボルガは非情にもカタパルトの用意を進めると言い出す。間接的とはいえ、ハワードを死にに行かせるつもりなのか。憤りに変わりつつある苛立ちを、その背中にぶつける。ボルガは歩みを止め、背中越しに答えた。
「……あいつなら、死なねえよ」
「……な、何を根拠に言ってるのよ」
「根拠なんてないさ。仲間を信じるのに根拠なんているかよ」
「俺たちは血の流れない栄誉革命を掲げているが……、
それは俺たちが誰も殺さないだけだ。
俺たちの誰もが殺されないわけじゃない」
「……だからこそ、信じるんだよ。信じるしかねえだろうがよ」
ボルガとてハワードを死にに行かせたいわけではなかった。ただ、その心配よりも彼の中では、ハワードを信じる気持ちの方が勝っていたようだ。なんと呑気で純粋なのだろうか。ライアはそれを鼻で笑い、そして、次にそんな信じ方をできない自分の心の弱さを嘲笑った。そんな呑気で純粋な信じ方をできるのは、仲間以外の誰でもないのだから。だったら信じようと心に誓った。
「ボルガ……、早く上に登れ」
「……、ほんっと可愛くねー女だな……」