化けの皮
ヴィンセントは斬撃を受けた左腕の傷口を、右腕で抑えて立ち上がる。ふらりとよろけ、前方に倒れそうになったところをバレッタが支える。
「無理すんじゃないよ、あんた」
「……ぼ、僕より……、ヤバい人がいる……
僕は……まだ、立てないわけじゃない……。
クラウガは意識を失っている。幸い、とどめはまだ刺されていない」
「でも早く手当しないと……、ううっ」
頑なにも、再び立ち上がろうとするヴィンセント。だが口では立てると言っていても、叶わずよろけてしまう。バレッタはヴィンセントを抑え、その場に座らせる。そして、ヴィンセントの傷口に自分のスカーフで止血帯を施した。これで、ひとまず応急処置は済んだ。再び肩を貸して立ち上がらせると、ヴィンセントは小さな声でありがとうと言った。自力で立ち上がることは難しいが、立ち続けること、ゆっくりと歩くことぐらいはかろうじてできるらしい。
ところが問題は、意識さえないクラウガのほうだ。腹には大きく刺し傷があり、周りの肉が抉れているところから、そんなに切れ味の良い鋭利なもので刺されたわけがないと判断できる。鈍を無理くりねじ込んだかのような刺し傷だ。不幸なことにそれで傷口が広がってしまっているため失血がひどい状態にある。ヴィンセントの言う通り、とどめこそ刺されていないが危険な状態だ。バレッタはすぐさま自分の上着を脱いで、ヴィンセントともにふたりがかりで、でっぷりとした腹の傷をふさぐ。幸いなことはバレッタとクラウガが、両方とも典型的な中年体系であったがため、クラウガの腹囲に足りる布をバレッタが持っていたということだ。
応急処置が済んだ後、ふたりはぐったりと動かないクラウガをふたりがかりで引きずりながら、地下の鍾乳洞の拠点へと潜っていく。気のせいだろうか。クラウガを支えるヴィンセントは、先ほどバレッタに処置を施してもらう前より回復しているかのように見える。きっと自分が施した手当が、彼を快方に向かわせたのだろう。バレッタはそう考えながら、石造りの螺旋階段を下りていく。事実、クラウガの体重は半分以上がヴィンセントによって支えられていた。
「開けとくれ」
ようやく、螺旋階段の終着点。拠点への入り口までたどり着いた。中年男性を抱えて長い階段を降りてきたふたりはひどく疲弊していた。動かないクラウガの身体を挟んで、互いの荒い息遣いが聞こえてくる。
扉を開けてくれたのは、ハワードだ。見るからにただ事ではないと判断した三人の様子を見るや否や、中にいたドクとアズナも呼び出して、クラウガの身体を中に引き入れる。バレッタは、体力の限界でクラウガから手が離れた途端にその場にへたり込んでしまった。ところがヴィンセントは、若いから体力があるのか。半ば早歩きになりながら、食糧庫の一角にある簡単な薬品などを彼が集めていた場所へと向かう。
アズナはその彼の様子に少し違和感を感じていた。いや、遡れば、初めて会ったその瞬間から、彼の中にうごめく冷たい何かを感じ取っていた。やがて、彼は薬品庫から一本の乾燥された植物がつめられた薬瓶を持って現れた。洞窟の冷たい地面の上に御座を敷いただけの簡素な床に横たわるクラウガにそれを煎じて飲ませようとする。クラウガを治療するため。
いや、違う……。
アズナはヴィンセントの手を打ち払い、薬瓶を叩き落とした。生薬や植物に関して学のあるアズナは、目視で瓶の中身が何たるか分かったのだ。
「何やってるの、あなた……。それ、トリカブトよ」
沈黙の中、御座の上にはたりと落ちた薬瓶の甲高い音が洞窟の岩肌に反響する。普段は聞こえる遠くの海の波音が反響するあの音さえも意識の壁に遮断されて耳に届かない。そんな緊迫感によって作られし無音の静寂が訪れた。まるで時が止まったかのようだった。だがやがて、時は動き出す。正体を暴かれたヴィンセントの自嘲によって。
「……ふっ、邪魔するんですか……。あなたの父親からの命ですよ。
新政府総統のクラウガの抹殺は……」
モノクルをかけ直し、まるで左腕の傷など何事もなかったかのようにすくっと立ち上がって見せる。
「意識が戻れば、僕が教皇の犬であったことをバラされる。
必死の僕の看病もむなしく、クラウガは息絶え、
下手人は不明となるはずだった……。
いや、もとより、どこぞの婆さんに邪魔立てされたのが運のツキでしたか」
そして、自らの任務が失敗に終わったことを吐き捨てるかのようにして、血塗られた一本の鋸を投げ捨てる。所謂一般的な鋸ではなく、刃先が細く遠目で見ればナイフのようにも見えるものだ。そしてそれは、先ほどまでドクが探していたものだった。ヴィンセントはミサに行くなどとうそぶいてこの得物で、クラウガの腹を刺したのだ。直前に教皇から受けた命。
『殺せ……。私以外を……、この玉座に座らせるな』
それに準ずるがままに。
「とっさの判断でしたよ。クラウガの腹を刺したこの鋸で
自分の左腕を斬りつけて被害者を演じたのは……」
身の内を白状し、化けの皮を自ら脱ぎ捨てたヴィンセントにハワードの憤りに満ちた鋭い視線が差し向けられる。
「ヴィンセント、私を騙していたのか」
だが、それを彼は嘲笑を交えて右手で地面に叩き落とした。
「あなたも革命家ならば、もう少し懐疑心というものを
お持ちになられた方がいい。身中の虫を以てして獅子の息の根を止めるのは
定石中の定石というもの……」
もともと忍び込んでいた教皇の犬とはいえ、仮にも同士であったハワードに痛烈な物言い。怒りを抑えきれず、ハワードが投げ捨てた刃を手に取ったのは、ドクだった。だが、それをハワード自身が制止する。
「ハワード!ここまでコケにされて黙ってるのか!」
「いいじゃないですか。この僕を殺しても。自ら掲げる血の流れない
栄誉の革命を汚し、ハワードさんの意志を笑い話にしても。
僕としては大いに結構ですよ」
たとえヴィンセントにそう詰られようが、煽られようが、ドクの前に突き出されたハワードの右手は頑として動かなかった。何度ドクが希っても、その右手は動かなかった。潔白を守るため、ヴィンセントの蛮行を苦虫を噛み潰しながら見守るしかない面々。それを背中で見送りながら、ヴィンセントはうっすらと笑い、洞窟の闇を照らすランタンの灯を手に取った。彼の目前には皆が苦心して作り上げた、ブルーバードの胴体が鎮座している。
「ああ……でも、もともと笑い話でしたね。こんな玩具で国を
ひっくり返そうとするだなんて」
「や、やめてください!それだけはっ!」
アズナがヴィンセントの前に躍り出る。彼はこの洞窟から去るために、ランタンの灯を取ったのではない。そう感づいたからだ。
「もういいじゃないですかっ!あたしたちは、あなたを殺せない!
だったら……もう、やめてください。
ハワードさんを……、あたしたちを踏みにじらないでください!」
「どきなさい。敵にそんな要求が通るとでも?」
通らないことはわかっている。それでも止めたかった。止めなければなかった。灯が燃え続けるために大量にオイルの入ったランタンを、木製の機体に向けてぶん投げようとする彼の右腕を。言論の抵抗は通じない。ならば力づくで。
ヴィンセントの右腕が振り下ろされ、火が点いたまま宙に舞うランタン。
アズナは魔力を右の手に込めて、その軌道を反らそうとした。だが、ばちりという音ともに、右手に激痛が走る。アズナの右手に魔力による干渉が入ったのだ。かすかにその主の気配が読み取れる。アズナはその主をよく知っていた。ヴィンセントのものではない。彼が教皇の犬であることの何よりもの証拠。彼自身にかけられた教皇の意志だ。その捻じ曲がった意志によって、アズナの制止もむなしく、ランタンはブルーバードの機体へと真っ直ぐに飛んだ。
「諦めなさい。もう青い鳥は飛びやしませんよ」
そして、アズナの瞳の中で、青い鳥は真っ赤に燃え盛り、一度も空を飛ぶこともないままに地に落とされたのだった。