ブルーバード計画
建物の隙間からわずかに漏れる蒼い月明かりと、ぺちゃぺちゃと靴底に張り付く浅い水たまり。三人が進む道は人目に付かない裏導線。先頭を行くのは、アズナの前に突如として現れた革命家を名乗る男、ハワード・シュリーマンだ。夜闇を照らすカンテラを右の手に揺らしながら、早い足取りで進んでいく。まるで何者かに追い立てられるかのように。
「いいのですか。いきなり目の前に現れた男について来たりなんかして」
「どちらにせよ、居所を嗅ぎつけられた時点で
あたしの平穏な暮らしは終わったわ」
「うん、うわさ通りの聡明な方だ。そちらのおばさんは?」
「おばさんって、おばさんだけども!
あたしの名前はバレッタだよ、あの道具屋の店長さ」
列の最後尾で足を引っ張っているバレッタに向かって、振り返りもせずに話しかける。バレてしまった潜伏先から次のあなぐら探し。体勢ひとつ変えずに会話を交わしながらひた進む様子には三人の緊迫感が現れている。
「あなたもアズナ様を突き出せば、教皇から称えられたかもしれませんよ。
それがアズナ様を匿うどころか、逃亡に加担するとは……。
アズナ様は今や手配犯なんですよ」
「こんな国じゃ手配犯にでも身を任せたほうが安心さね」
「なるほど奇特な方ですね。あなた方とは気が合いそうだ」
運動の得意でない年配者のバレッタに足を引っ張られながらも、一行は小さな窓か、無表情な壁が立ち並ぶか、といった具合の裏導線の街並みの中で、ひとつだけこちらに向かって設けられている扉にたどり着く。人目を避けて、人を遠ざけるための壁に囲まれた中、人知れず誰かを招き入れるかのようなその扉は、どこか不気味だった。
「身構える必要はありません。入り組んだ路地の奥まったところの隠れ家
我々は革命家と言えど何ら問題を起こしてすらいません」
木製の分厚い扉が重々しくきしみながら内側へと開く。
「火のないところに煙は立たないとは申しますが、我が火薬庫には
火種すらございませんゆえ」
扉の向こう側のわずかな光は、月明かりで照らされたこちらと溶け合うほどのさもしいもの。古ぼけて朽ちた木の香りがする扉とは対照的に、ランタンで照らされた中の壁の色は小奇麗だ。そこはハワードの言う通り、何の変哲もない倉庫のようなところだった。革命家の鳴りを潜めるためのあなぐらというよりは、浮浪者が勝手に住み着いた巣のようだ。アズナとバレッタが顔をしかめていると、おもむろにハワードは床の底板の一部を外した。よく見るとそこだけ底板の継ぎ目が揃っており、外せるようになっていることが分かる。
「拍子の抜けた顔をしないでください。私が謀るとでも思いましたか。
我々の拠点はここから地下に潜ったところにあります。
何分大がかりなものが必要でございますから」
倉庫の隠し扉からは地下に伸びる石造りの螺旋階段が。地下は、むしろ倉庫の中よりも明るく、下から灯がまるでほとばしる泉のように沸いている。その光の中に三人は降りていく。すると、降りていくにしたがってまた薄暗くなっていき、人工的に塗り固められていたはずの壁が荒々しい自然の岩肌に変わっていく。石造りの階段にもひび割れが目立ち始め、階段の裏側からは鍾乳石のようなものが伸びているのが目につき始める。人工的な内装から洞窟のそれへとグラデーションをつけて変化していくさまは、さながら坑道かのようだ。
「こんなところに拠点を構えるなんて、あなたはフリーメイソンかなにか?」
「フリー……、良い響きですね。我々も自由を愛する者どもですから」
坑道の行きつく先には、これまた古ぼけた扉が。ばらばらに歪んだ木板を鉄の輪っかで無理くり括り付けたような大雑把なつくりだ。しかも立てつけまで大雑把らしく、枠と隙間が開いて中からの灯が漏れているところもあれば、枠に引っかかっているところもあるといった具合だ。ハワードはそれを体重をかけて無理やり押し開く。少し勢いが強すぎたのか、よろめく彼の背中を追ってアズナが中に入ると、彼女の頭に一機の飛行機が不時着する。
「お!待て待て!動くな!」
動くなと言われたので動かないことにする。しゃがんだままの姿勢ではよく確認できないが、立てつけの悪い扉を抜けた先はかなり広い空間だ。
「動くなよ、これは新記録なんだからな」
こちらに向かって走ってくる男の足音と声が反響する様から、ハワードの拠点の広大さが伺える。さながら鍾乳洞の大広間にでもいるかのようだ。だがその憶測は、バレッタの言葉によって誠であったことが明らかになる。
「この町の地下にこんな巨大な洞窟があったのかい?」
「ええ、市場街の土地は地盤に脆弱性のあるカルスト地形でね。
この洞窟は、市場街を抜けた先の港に続いていて、今も広がり続けている。
このまま浸食が進めば、この岩の天井が崩落するとも言われている。
とはいっても何百年か先の話ですがね」
支配階級と庶民の区画整理がされたのも、この洞窟の発見と重なるらしい。もともと港の海岸線に開けた洞窟は有名であったが、それがこの市場町の地下まで浸食していることが分かったのは最近の話だそう。そんな話を横耳に聞きながら、こちらに向かって走ってくる男の動かないでくれという要求のままにかがみこんだ姿勢を保ち続けるアズナ。否が応でも疲労と苛立ちに身体が震え始める。その振動に耐えかねて、ついにアズナの頭の上から飛行機は墜落してしまった。木の棒と紙を組み合わせて作った簡素な機体が、洞窟の中に組まれた石造りの高台に仰向けになって転がる。そしてちょうどそこにその飛行機を飛ばした主が、巻尺の測り紐の端しを持ってずるずると引きずりながら現れる。
「ああー、もう動かないでって言ったのに、せっかくの新記録が縮まっちまった」
「ご……ごめん……」
なぜだか謝ってしまった。いきなり人の頭に向かって飛行機のおもちゃを飛ばしてきた人に謝る謂れなどないのだが。
巻尺を持った男は、遠くの方の、飛行機を投げた地点と思わしき場所にもうひとりの男を立たせており、ふたりの間を結ぶ距離が巻尺で測られている。男はアズナの頭から転げ落ちた機体に測り紐の端点を合わし、もうひとりの男に紐をぴんと張ってくれと命令する。屈みこんで目盛りを読む男。ハワードもしゃがみ込んで見守る。おもちゃの飛行機がどれだけの距離を飛んだのか、ということに必死になる様はまるで子供のよう。
「47mだぁ!うぉおしっ!これは新記録だ!」
「しかし、惜しかったですねぇ。もう少しで50mの大台に乗れたというのに」
「いや、海に抜けるほうへ飛ばせば、もっと距離は稼げるはずだ」
「空間的にはそうですが、風向き的には不利です」
バレッタはこの、はたから見ればいい年をした男どもがおもちゃ遊びに興ずるさまにため息をつく。
「なんだいなんだい。あんたら革命なんてうそぶいて
こんなだだっ広い洞窟で、おもちゃで遊んでいるのかい?」
バレッタの言葉にハワードは口をゆがめる。この空を飛ぶおもちゃこそ、ハワードの言う革命の箱舟なのだという。いくらハワードの口をして聡明と言われたアズナでさえ、彼の真意を掴みかねていた。彼が掲げる革命とはいったい、どのようなものなのかを。
「おもちゃですか……、ですがこれが人を乗せて飛んだとすれば」
「バカバカしい。人間が空を飛ぶだなんて、箒に乗った魔女じゃあるまいし」
箒に乗った魔女が空を飛ぶことのほうがバカバカしいと思うかもしれないが、この世界では魔法というものが当たり前に存在していて、バレッタやハワードなどの庶民の上にどっかと腰を下ろしてふんぞり返る支配階級の者の大半はその使い手だ。その差別を受ける庶民たちにとって、空を飛ぶという行為は支配階級の象徴そのもの。庶民は魔女や魔導士たちが箒に乗って飛び回る空を、ただ仰ぎ見ることしかできない。
「だからこそ、我々庶民が魔法ではなく科学の力で大空を飛ぶ
あぐらを掻く支配階級の者に、民の力量を見せつけるのが我々の目的です」
ハワードが言うもののバレッタはまだ納得がいかない様子。まだ、魔法の力以外で空を飛ぶという行為そのものに懐疑的なのだ。それもそのはず、支配階級による差別が始まってからは、魔法を使わない科学でさえ、支配階級に取り上げられてしまったのだから。庶民は差別を受ける対象として、学を修めることすら許されないでいた。バレッタのように商いをする市場街の住人は、読み書きと簡単な計算ができて、まだマシな方だ。読み書きどころか発語すらままならない者もごまんといるのだ。そうなるとハワードをはじめ、この革命に加担する者は、飛行に必要な物理学の知識を独学で学んだということになる。
「人や物は重力というものによって地上に押さえつけられています。
高いところから落としたとき、重力によって質量をもつものは加速度を与えられ、
二次関数的に地上に高速で叩きつけられる。しかし、これに逆らうものがある」
「……風、空気抵抗の力ね」
「ええ、その通りです。翼は空気の力を借りて重力に対抗する鋼の剣」
「でも、揚力だけで飛ぶには速度が必要」
「そのために高低差を利用し、重力から速度を譲り受ける」
「つまりは、人を乗せて飛べるほどの大型滑空機をつくると……」
ハワードとアズナのやり取りにバレッタは取り残された形になり、口をポカンと開けている。アズナはルイーズ魔術高等学校で高い教育を受けているため、物理学のある程度の知識を持っているため、彼の話について来れた。アズナが人一倍物わかりも良く学もあるということに、彼はますますトレードマークの含み笑いを強める。彼の中で、彼女が革命にとって理想的な人材だという確信が、ますます強まっているのだろう。
「ご名答です。ではお見せしましょう。我々の革命の箱舟を」
アズナとバレッタはハワードに、彼らの拠点のさらに奥深くへと案内される。進行方向からは常に向かい風が吹いており、歩みを進めるごとにほのかに混じっていた潮の香りが強くなっていくのがわかる。やがて、岩肌の天井を這うようにして波音がかすかに聞こえるまでになってきた。だが、海はとても視界には入ってこない。波音が岩肌を跳ねかえるうちに干渉して強め合って木霊のようにして耳に届いてきているのだろう。目を閉じて耳をすませば、自分が砂浜にいるかのように感じられると言った具合のところでハワードは歩みを止めた。アズナの視界に飛び込んできたのは、大きな影。投げれば矢のように真っ直ぐにかつ、速く遠くまで飛んでいきそうな美しい流線型の細い翼のない胴体が横たわっていた。空の色よりも濃く、深い海の色を映したかのような藍色とも言える濃い青色で塗装されている。
「まだ製作途中で、とても飛びそうにはないですが……、御覧の通り
胴体は完成に近づいている。他の翼の部品も現在着々と作業を進めている。
これが、大空を自由に舞うとき、我々の革命が幕を上げる。
民の希望を乗せた青い鳥。ブルーバードでございます」