革命への招待
真っ白なアイスクリームに香ばしいカカオクッキーを砕いて練りこんだような、マーブル模様の大理石の床に自分の身体が半透明になって反射する。もうじきこの床ともおさらば。なだらかな膨らみを持つエンタシス式の石柱が埋め込まれた壁とも。ステンドグラスが七色の光を連れてくる窓とも。半ば感慨に浸るようにして、床にかつりかつりと靴のかかとを打ち付ける。
アズナの部屋は、教皇の第三子という王家直属の立場でありながらひときわ狭い。彼女が、末っ子にあたるからというのもあるのだろうが。彼女が支配階級という良識がないことが良識の歪んだ目線で言う、落ちこぼれだからだろう。
「あの……、アズナ様……?」
自室で荷物をまとめていたところを背後から話しかけられる。振り返るとルイーズ魔術高等学校での同級生であるアイリスが立っていた。彼女は怪訝な顔をして、身支度をするアズナを見下ろしている。
「どこかにお出かけになるのですか……?」
アズナとアイリスはよく一緒にこの部屋で勉強をしていた。奇妙な話だが、アズナは学校では常に落ちこぼれで、アイリスは成績優秀にも拘らず、普段の勉強ではアズナが常に教える側だった。
「随分と長い間お出かけになるのですね。遠征にでも行きなさるのですか」
一枚布に包もうとしている本の量を見て、アイリスはそう尋ねる。一冊や二冊と言わず、十冊ほど。それも、どれもがぶ厚い魔術書や学術書だ。そのうちの一冊を持ち上げてアイリスの額にコツンと打ち付ける。
「いたっ!」
「敬語はやめろって言ったはずよ、アイリス」
「しか……、だ、だって……自分より階級が上の者に
敬語を使わないだなんて慣れてないもの」
「階級だなんてくだらないもの、あたしは嫌いなの。
それに、あたしはもう、あなたより上の階級ではなくなったわ」
「……え……」
「あたし……、王家を追われることになったの」
アズナの身支度は、父親に勘当され、この城を逃げるためのものだと話す。その原因となった市場街での今朝の件を話すと、アイリスの顔つきは驚愕から憤りへと変わっていく。
「そ、そんなの不当よ!教皇を今すぐ説得……」
「もういいの。そんなことをしても、状況は変わらないから
あたしが支配階級の頂点たる王家の血を引きながら、
除け者にされているのは、知ってのことでしょ?」
アズナが支配階級の流儀に逆らったことではない。民間人を腹いせに手にかけようとした護衛兵を制止し、けが人は誰ひとりとして出ていない。咎められるべきは、道徳的に考えれば護衛兵であるはずなのに。実際はアズナが勘当という処罰を受けた。この不条理さがアイリスは許せなかった。彼女も支配階級には珍しく、良識人であるらしい。また、そんな彼女だからこそ、アズナと気が合うのだろう。
「……、あたし…もう我慢なりません……。アズナが学校で落ちこぼれなのも
成績を不当に修正されているから……」
「仕方ないでしょ。庶民の肩を持ち、支配階級の顔に泥を塗ることばかり
してきたあたしが、差別の根源たるルイーズ魔術高等学校に
好かれるわけなどないもの。この前の試験問題もご丁寧に紛い文が
仕込んであったわ」
紛い文とは、初歩的な魔術の一種で、対象となるその人にのみ違う文章が見えるような細工を施すというもので、極秘文書のやり取りにも一方的な貶めにも広く利用されてきた。それがアズナの試験問題に仕込んであったというのだ。もちろん、アイリスのものにはそんなものは仕込まれてなどいない。アズナの成績を無理くり下げるために仕組まれたものだ。
「そ、それでいいんですかっ!」
「……、これに関しては被害者はあたししかいないからね」
「だったら、あたしだって被害者です!
親友をここまでコケにされて……、試験のときの問題用紙は?
動かぬ証拠として突き出すのよ!」
「あたしにしか見えない間違った文章。それが紛い文。
あたしじゃない裁判官に突き出したところで、負け犬の遠吠えよ」
アズナに施された不当な修正に憤るも、アズナ自身の返答によって自分はなにもできないのだと悟るアイリス。無力さに拳を握りしめて奥歯を噛みしめ、瞳を潤ませる。水を帯びて歪んだ視界の中でアズナは書物や衣服を包んで一枚布を結び、それを携えて立ち上がる。
王家を勘当され、追い出された。これからは市場街に潜伏しながら庶民として生きていくという。ルイーズ魔術高等学校にも退学届を送るそうだ。
「これであたしも晴れて平民よ」
「……こんな世界間違っている……」
「……奇特な人ね、あたしと同じで」
「でも……アズナみたいな勇気はあたしにはない……。
あたしは、アズナが除け者にされているのを知っていて……。
それでも世界を変えようとしなかった……、あたしも共犯者……」
「アイリスはそのままでいい。あたしは世界が変わることよりも
アイリスが無事なことを望んでいるから……」
そんなことを言われたら、何もできないでいる自分がさらにいたたまれなく感じてしまう。アズナの励ましの言葉に、アイリスは顔をしかめることしかできなかった。
「楽しかったよ、アイリスだけは、あたしの友達でいてくれたから」
アズナは王家の名前、アスタニスラスを返上し、支配階級に別れを告げる。たった一人の友達であるアイリスを置いて。
「じゃあ、さようなら」
別れを告げる友達の声は、いつものごとく凛々しい。しかし少しだけ寂しい色も感じ取れる。アイリスはその声にこたえることもできず、空っぽになった友の部屋で立ち尽くすのみだった。
しばしの間、アイリスを支配した静寂。それをつんざいたのは、朝の謁見が始まる合図となる七時半の鐘。鐘の音が耳に入るや否や、アイリスは慌ててアズナの部屋から大理石の廊下へ、さらには石造りの階段を下りて、白の外へと。
教皇の座る玉座の鎮座する謁見の間から外に出たバルコニーのちょうど下に広がるアイボリーカラーの煉瓦が敷き詰められた中庭が朝の謁見の会場となる。広大な城の中庭とはいえ、支配階級の者が皆集まるとなれば、少し狭い。ごった返す人ごみの中に、アイリスは虚ろな表情で混じっていた。形骸化したこの慣習にもとより進んで参加する気持ちなどあったものではないが、これから仰ぎ見ることになるのは、自分の友達であるアズナを貶めた張本人。そんな彼を教皇として畏敬の念を以て拝み見ることなどできようか。アイリスは感情を押し殺し、心の奥底にある恨みつらみを悟られぬよう無の表情を浮かべる。
アイリスを取り囲む支配階級の者、貴族や魔術師、魔女の者たちも同じように虚ろな眼差しを教皇に差し向ける。かと思えば、教皇に対して好意的な眼差しを送るものもいる。教皇は、差別政治を利用し、支配階級の者に庶民への恐喝、横領に準ずる行為を黙認どころか奨励してきた。つまり、教皇に敬意を払う者はそれなりの所業を庶民にやってきたということだ。そんな教皇に向かい、敬意を払う者。軽蔑の眼差しを送る者。朝の謁見に顔をそろえる面々はくっきりと綺麗な縞模様を描いていた。
「皆の衆、御機嫌よう」
それを一瞥できるバルコニーからなら、教皇も気付いているであろうか。いや、それにすら気づかずのうのうと口上を述べているのだろうか。
「本日は高々と陽の昇る青々とした空の下、よくぞお集まりいただいた。
天下のものとして、誠に嬉しく思う」
そう思うと否が応でもむかっ腹が立ってくる。握りしめている拳を、人混みが隠してくれているのが何よりもの幸いだ。見つかってしまえば、不服はあるかと問いただされ、白状するにしよ、しないにせよ、実刑は免れない。
「しかしながら、至極遺憾なことが今朝方起こった。
この我に献上されし法衣を積みし馬車の進行が妨害された。
これに我が第三子アズナ=アスタニスラスが加担したとされる」
群衆はどよめいた。アイリスも狼狽える。アズナの話では、露天商の品物であった果物が道端に転がり、馬車の馬が進行を停止。これに怒った馬車の護衛兵が果物屋の首をはねようとしたのをアズナが阻止という流れだった。これをまるっと省いてしまいており、聞く限りではまるでアズナが一方的に悪いという様子ではないか。さらに教皇の偏向報道は続く。
「アズナはこの罪を償おうとせず、あまつさえ城下町の外へと亡命を図った
まさに王家の恥さらしだ。潜伏先はおそらくは市場街。
見つけ次第、拘束して連れて参るのだ」
あろうことか、自ら勘当しておいてアズナを逃亡した罪人扱いし、身柄を捜索させるというのだ。アイリスには予想できた。これがどういうことか。教皇は娘を捨ててなどいない。アズナは、成績を操作されて落ちこぼれとして扱いを受けてはいるが、その実力はアイリス自身のそれを優に超える。神童とさえ称するものもいるほどだ。そんな逸材をおめおめと逃がすわけには行かない。捕らえたうえで洗脳をかけ、従順な飼い犬にしようと画策しているに違いない。そんな浅ましい考えをめぐらすなど、王家の恥さらしは教皇自身だと言いたいところだ。だが、アイリスにはその厚顔無恥ぶりをただ黙ってみていることしかできなかった。
*****
市場街のとある一角の万屋。もともとは城下町と市場街の区画整理がされる前にあったもので、裕福層の家が取り残されてしまったものを引き取ってそこに店を構えた。その小奇麗でありながら程よく古びた外見が、ノスタルジックでありお洒落だ。くすんだこげ茶色の大きな扉にぶら下がる、ドアベルのからからという音が来客を知らせる。
「あら、いらっしゃい」
カウンターの奥で頬杖をつきながら応対するのは、この店の店主、バレッタだ。扉を開けてから一向に敷居を跨ごうとしない、ローブを羽織った奇妙な来客のもとへと歩み寄る。
「どうしたんだい、入りな……。あれ……?」
そこで、来客の出で立ちに驚く。やけに多い荷物もそうだが、バレッタを驚かせたのは見覚えのあるくすんだ緋色ローブに身を包んだ少女だったのだ。
「あ、あの……しばらく厄介にさせてもらえないですか……」
「あ……アズナ……」
周りに自分以外の客がいないことに気づくと、かぶっていたフードを脱いで、手入れの行き届いた黄金色の艶やかな髪を露わにする。しばらくの間バレッタは、しなやかに踊る髪の一本一本が店内を照らす燭台に揺らめく灯を反射して輝く様に見とれていたが、事の重大さに気づき始める。アズナはこの国を治める教皇の第三子にあたる。そんな彼女がバレッタのもとに、居候を頼み込んでくるとはどういうことか。
「あんた……城は……?」
「……、あたしは王家を勘当されました。アスタニスラスの名前も
今や自ら捨てた身。あたしはもはや支配階級などではありません」
つらつらと語られる状況を少しずつ少しずつ理解していくバレッタ。今朝の献上物の馬車が足止めを喰らった一件から、アズナが罪に問われたこと。その件と過去に支配階級の顔に泥を塗ったとされる罪状の数々から勘当という処罰を受けたこと。罪状とはいっても、支配階級の者から恐喝や不当な暴力を加えられていた庶民をかばっただけのこと。バレッタの拳は怒りに握りしめられる。
「無理にとは言いません……。どうか、あたしをここに住まわせてください」
自分が勘当された経緯を説明した上で改めてアズナは頭を深々と下げる。バレッタとアズナは早朝の露天商の客同士でよく会話もする仲だが、アズナの頼みにバレッタが返した答えは冷たいものだった。
「嫌だね……」
口をへの字に曲げて、腕を組んで吐き捨てるように言う。だが、その口元をアズナが、お辞儀になった格好から覗き上げるようにして見たときには、バレッタは優しい微笑みを浮かべていた。
「ただし、手伝ってくれるってんなら考えてやってもいいがね」
アズナの口元が緩み、そこから水門が開いて水が流れ出し、運河に満ちるようにして、曇った顔が安堵の笑顔へと変わっていく。
「ありがとうございますっ!」
アズナはバレッタのずんぐりとした身体に両手を広げてがしりと抱き付いた。
これを皮切りに、アズナのバレッタの万屋の看板娘としての生活が始まった。もとより、薬草や生薬に関する知識はルイーズ魔術高等学校での授業と独学によりかなり豊富であった。露天商の品の目利きをアズナがバレッタに教えることもあったくらいだ。アズナ自身の可憐さも相まって、道具屋は大いに繁盛した。バレッタだけで切り盛りしていたころよりも数倍に売り上げが跳ね上がったのだ。
「思ったよりも繁盛して嬉しいよ」
アズナによって収益が増えることは確信があったが、まさかここまでに膨れ上がるとは思っても見なかったバレッタは思わずにんまりとしながら、札束を数え上げるごとに首を振っている。
「いえ……そんな……」
「胸を張ったっていいんだよ。あんたみたいな気の強い女に
謙遜は似合わないさね」
「もう……、あたしがじゃじゃ馬みたいな言い方はやめてください」
ちょうど閉店をしたところで客もいなくなった店では会話も弾む。
「護衛兵相手に立ち向かった勇猛な女をじゃじゃ馬と呼ばずに何と呼ぶのさ」
閉店後はバレッタとともにその日一日の店の稼ぎを集計しながら談笑する。ルイーズ魔術高等学校で勉学や魔術の稽古に精を出しながらもそれを認めてもらえず、孤独な努力を重ねていた日々とは違い、アズナは充足感を感じていた。こんな日がずっと続けばいいと思っていた矢先にのことだった。
もう店じまいを済ませたはずの店の入り口が乱暴に開けられ、ドアベルががらがらと荒々しい音を立てる。すると扉の向こう側から荒々しい甲冑に身を包んだ客が敷居をご丁寧にぐりぐりと踏んづけて現れた。ついに兵士にアズナの居所がばれてしまったのだ。しかもずかずかと入り込んできた兵士は、数日前のアズナが勘当されるきっかけとなった事件で、果物屋の首をはねようとしていたあの兵士ではないか。おそらくその一件での怨恨から、アズナの身柄の捜索に躍起になっていたのだろう。
バレッタが店の外に引きずり出された。アズナにとって恩人であるバレッタの存在は、兵士にとっては好都合だったのだ。バレッタの喉元に剣を突き付ける。怪しい月明かりを反射させて刃がぎらりと光る。そして、店の前に停められた馬車を目にするや否や、アズナは状況を理解した。兵士はバレッタを人質に、アズナに城に戻るよう強要する気でいるのだ。きっと勘当というのは、教皇の気の迷いだったのか。それでも胸を撫で下ろしていそいそと馬車に乗り込む気にはなれない。だからと言って、自分を拾ってくれたバレッタの命を見捨てたくはない。アズナが、城に戻れとの要求に首を縦に振りかけたそのときだった。
停めてあった馬車が大きく傾き、道端に車輪がからからと転がる。馬車は進行方向に向って右の前輪と後輪を失い、自立することすらままならないものとなってしまった。突然の事態に狼狽するも、すぐさま矛先はアズナに向かうことになる。
「この姑息な魔女めがっ!」
「ち、違う!あたしは何もっ!」
「嘘をつくなぁ!」
声を荒げ、アズナを責めたてる兵士の背後に忍び寄る影。
「いいえ、そのお嬢様は嘘などついていませんよ」
影は、声を発したかと思うと、腰に携えていた刀身の反り返った蛮刀を引き抜き、その峰でひと払い。バレッタを取り押さていた兵士は、その場に倒れこんだ。血は流れていないことから、急所である延髄を強く打ち、気絶させたようだ。
「下手人はこの私でございますから」
「ご安心ください。殺してはいませんよ。
名誉ある革命に、血は必要ございませんゆえ」
「……、あ、あなたは……?」
月明かりに照らされて蛮刀を携えた男の姿が露わになる。蛮刀はもともと森林伐採や荒れ地を開拓するときに使う鉈のような刃物で、兵士など支配階級にあたる者は使おうとはしない。文字通り、野蛮な刀として見られている。そんなものを携えているということは、おそらく彼は庶民階級の者だということだ。にしては小奇麗な紳士服を着用している。端正な顔立ちと色白な肌が清潔感を漂わせるが、ひょろ長い体型と相まって少し頼りなさも感じさせる。眼鏡の奥から切れ長の瞳を猫のように輝かせた後、大きく手振りを添えてアズナの前にしゃがみ込み、舞踏会で美しい姫に相方を申し出る王子のごとく礼をした。
「私、ハワード・シュリーマンと申します。私の理想とする革命に
お嬢様……いえ、王家の血を引くアズナ様のお力添えを頂きたいと
月夜にあなたをお迎えに上がりました」