1月
薄暗い生徒会室で半分だけ窓を開くと、入り込んできた風が無防備な頬を刺す。桟に頬杖をつきながら空を眺めれば、遠くから部活中のランニングの掛け声が聞こえてくる。吸い込まれてしまいそうなくらいに澄み切った青空と、痛いくらいに冷たい風が心地良かった。そっと目を閉じてもうすぐ来るであろう待ち人の姿を想うだけで、ほんのりと体が温かくなる。そんなことを考えていてから間もなく、控えめな音を立てて扉が開いた。振り返らないまま、そこで驚いているであろう後輩の姿を想像してみる。あるいはいつも通りの無表情かもしれない。
「中村先輩、帰らなくて良いんですか。来週末にはセンター試験でしょう」
「んー、会いたい人がいてだなぁ」
至極冷静な後輩の発言に嘯くように答えると、背後で呆れたような溜め息を吐く気配がする。
「何でも良いですけど、とりあえず窓閉めてくださいよ。この部屋寒いです」
大きく伸びをしながら振り向くと、河野は寒そうに腕組みをして体を擦っていた。
「河野に会いに来たんだ」
電気のスイッチへと向かおうとした河野にそう声を掛けると、ピタリと動きが止まった。一歩ずつ歩みを進め、少し困ったような顔をしたまま立ち止まっている河野の手を取り、その冷たさに驚く。それとも緊張から自分の手が温かくなっていただけだろうか。
「言いたいことがある」
体温を移すようなつもりで、少し強く握る。男にしては柔らかくて小さい手だった。
「でも今は言わない」
じっと目を見つめたまま続ければ、河野は黙ったまま俺の言葉に耳を傾ける。
「卒業式の日、会いに来る。だから式の後はこの生徒会室で待っていてくれないか」
「先輩、僕は」
何かを言いかけた河野の口にそっと人差し指を当てる。
「受験生に少しくらい夢を見せてやってくれよ」
冗談めかしてそう言うと、河野は困ったように顔を歪ませながらも黙って頷く。そのまま俯いてしまった河野の頬を手の甲でそっと撫でる。色白で柔らかい肌。河野が驚いて少し体を引こうとしたところを、耳の後ろに手を添えて止める。
「先輩は分かっているんですか」
少し震えている河野の声。小柄な河野が不安気に俺を見上げると、添えていた手に細くて柔らかい髪が絡んだ。それまで逸らしていた視線を、また河野に合わせる。それと同時に、開け放ったままにしていた窓から急に強風が吹き込んできた。この教室にいるのは自分と河野のたった二人だけ。お互い見詰め合って黙り込んでいる中、カーテンがはためく音だけが聞こえる。
「たぶんね」
この時間が永遠に続けば良いと思った。誰にも邪魔されず、たった二人だけの世界が永遠に。そんなこと願っても実現できるわけがないのに。
「そうですか」
泣きそうな顔をしながらも笑って答えた河野に、手を添えたまま少し屈んでゆっくりと顔を近づける。身を引かれそうになって、少し手の力を強めた。
「……」
そのまま重力に従いながら、それでも優しく、静かに目を閉じて額同士を合わせる。不意に風も止んで本当の静寂が包み込んだ。体に感じる寒さと目の前にある温かい体温だけが、今が現実であることを伝える。
「充電」
そう囁くように喋ると、今にも触れてしまいそうな距離にある唇を思わず意識してしまう。この感情は人としての親愛なのか、安っぽい恋愛感情なのか、自分で名前を付けてやることさえもできない。
未練を振り切るように、勢いをつけて体を起こす。戸惑っているような、理解し切れていないような河野に一瞬目を遣ってから、扉の方へと足を動かす。
「また3月な」
背を向けたまま手を振って声を掛け、扉を開く。一歩出た廊下は生徒会室よりは暖かくて、体が冷え切っていたことに今更気づいた。