2年前 秋
真っ昼間にも関わらず薄暗い階段を上る。屋上に近づくに連れて、廊下から溢れてくる昼休みのざわめきからは段々と遠ざかっていく。この学校では屋上は常に施錠されて立ち入りが禁止されているが、実はその鍵が壊れているということにどうやら教師陣は気づいていないらしい。そういう自分も気づいたのはつい先月のことだから、知っているのは自分だけなのかもしれない。管理体制はどうなっているんだと言いたいところだが、屋上に入れるのは好都合なので誰にも言わないままでいる。
階段を上り切ると、何の役にも立てていない立ち入り禁止の貼り紙を見遣りながら、念のため音を立てないように扉を開く。肌寒さを感じさせる風が吹き込んで、頬を撫でていく。もうあっという間に冬が来てしまいそうだ。
定位置に向かって一歩踏み出したとき、先約がいることに気づいた。前言撤回。屋上の鍵が壊れていることを知っているのは自分だけではなかったようだ。
長い黒髪を棚引かせながら塀の上に立っている女子生徒の後ろ姿を眺める。どうしたものかと思っていると、彼女は何かを決意したかのように大きく深呼吸をし出した。秋晴れの青空の中で少し長めの制服のスカートを翻しながら立つ彼女の姿がなんだかとても儚げで、思わず声を掛けていた。
「何してんの」
すると彼女は驚いたようにびくりと肩を大きく震わせた。何も言わずにいる彼女に、
「死にたいの」
ともう一度問い掛けると、ゆっくりとこちらに振り向いた。じわりと手に汗がにじむ。
「……何の御用ですか」
小さいけれど芯のある声が響く。女子生徒が自分と向き合って初めて、彼女が自分のよく知る人だったことに気づいた。どうして後ろ姿で気づけなかったのだろう。
「死にたいの」
どうしたらいいのか分からなくなって、芸もなく同じ問い掛けを繰り返した。肺が締め付けられているかのように、うまく呼吸ができない。
「だとしたらあなたに何か問題がありますか」
淡々と質問が投げ返される。
「自分の目の前で人に死なれるのは嫌だから」
どうしたら彼女を引き留めることができるのか。頭の中はそれだけで一杯なのに、具体的な方法が1つとして思い付かない。そんな自分を嘲笑うように、冷たい風が吹き抜ける。
「だったらあなたが他の場所を探してください」
無関係だ、と突き放すような彼女の言葉は正論で、何も言い返せない。彼女が死を望んでいるのだとしたら、自分がそれを邪魔できる理由は持ち合わせていないのだ。何もできない自分が嫌で、手にしていたビニール袋を握り締めてふと思い付く。
「これ」
彼女の方へ近づきながら、ついさっき購買部で買った焼きそばパンの入ったビニール袋を差し出す。
「死ぬのはお腹一杯になってからでも遅くないと思う」
じっと目を見詰めながら続けると、彼女は困ったような戸惑ったような表情を浮かべる。
「旨いから」
差し出したままのビニール袋を軽く揺らすと、彼女はそっとしゃがみこんで手を伸ばしてきた。その時にはらりと髪が揺れて、自分の知る彼女はいつもポニーテールにしていたのだ、ということに気づく。彼女が袋を受け取るとき、指先だけがそっと触れた。
「じゃあ」
彼女に袋を渡した後はそれだけを言って、逃げ出すように屋上を後にした。閉めた扉を背に大きく一度息を吐いてから、一瞬だけ触れた彼女の手を思い出す。それは自分より小さくて、何よりもひどく冷たかった。
彼女とは同じ学年だけれど、同じクラスになったことはなかった。いつから彼女の姿を目で追い掛けるようになっていたのかはもう思い出せない。1、2年生の頃の彼女は数人の女子とわいわいと廊下を通りすぎていくことが多かった。そんな姿は基本的に一人でいる自分とは正反対で、最初は気にも留めず、ただ偶然に通りすがるだけだった。けれど周りの女子が楽しそうに笑っている中で彼女だけが苦笑いしているのを見掛けたことがあって、それが何度も重なるうちに気になる存在になっていた。どうして彼女はあんな表情をするのだろう、と考える時間が増えていた。それからある日の放課後、部活の活動場所である道場に行く途中に通ったグラウンドで、ランニングをする彼女を見かけた。凛とした姿勢で走る彼女に見とれて、部活に行くときには彼女を横目で見るのが習慣になっていった。
3年生になってからの彼女は一人でいることが多くなって、廊下で見掛けることも少なくなっていた。その上部活を引退してからは、道場に行く途中でグラウンドを走る彼女を見掛けることもなくなっていた。
今日になって随分と久し振りに見掛けた名前も知らない彼女。初めて話した彼女。もう一度彼女と話すことはできるだろうか。何度も姿を思い浮かべながら階段を下り、段々とざわめきに包まれていった。