第四話
銀狼と対峙していた時間はほんの数分。
少女とは距離にすれば数百メートルも離されてはいないはずなのだが、不慣れな森の中の移動であることに加え森の緑が視界を遮り少女の姿を見つけることができないでいた。
緑を掻き分けるように進んでいるとやがて水の流れる音が聞こえ始め、すぐにそこそこ大きな渓流にたどり着いた。
緑の天井が途切れ青い空が僅かに見える。
涼やかな風が上流から下流側へと流れていた。
「いい風だ」
彼女は頬に感じる風の心地よさと、緑の世界から一変した景色を目にして思わず足を止めた。
少女が逃げていった先となると、恐らくこの川を渡って進んでいっただろう。
川べりに沿って進むこともできるが、障害物が少なく視界が少々開けすぎている。
銀狼が後を追いかけてきているといると思えばそれは選べない。
川幅と水深はそこそこあり流れも速く渡るにもそれなりの時間が掛かったはずだ。
だが、彼女ならば一足飛びに川を飛び越えることができる。
彼女はそれで短縮できたであろう時間を今この風景を楽しむことに当てることを自分に許した。
ゆれる水面と水の流れる音を、彼女は短い時間楽しんだ。
満足するまでには至らなかったが、機会はいくらでもあると自分に言い聞かせ少女の追跡を再開することにした。
助走をつけて一気に川を飛び越えようとしたところで、彼女はあるものに気が付いた。
川の途中で岩に引っかかっている大きな流木である。
長い時間ここにあったようで、枝葉は勿論のこと樹皮まで剥がれ落ちて、地肌がむき出しの幹だけの状態になっていた。
その流木に、まだ青々しい緑の葉が付いた一抱えほどもある木の枝が、不自然な吹き溜まりを作っていた。
彼女がその周りに視線を巡らせると、すぐ近くの川べりに同じ葉が落ちているのを見つけた。
視線を上へとやれば、案の定いくつかの折れて間もない木の枝がある。
そこから導かれることは、子供でもわかることだ。
「力尽きての咄嗟の思いつきか、それとも計算うちか。・・・・・・まあ、追いかけっこが終わって、私としては助かるな」
川の流れは少女の気配や匂いをまとめて押し流してくれる。
人間が相手では、少しでも周囲に目を払っていれば見つかってしまう子供だましのようなものだが、野生の獣相手なら意外と上手くいくのではないかと感心した。
「おーい、そこに隠れているんだろ。銀色の狼は私が始末した。もう危険はないから姿を見せてくれないか?」
彼女は声を上げて呼びかけた。
反応はない。
少女がそこに隠れていることを確信しながらも、もしこれで自分が見当違いのところに声を掛けているとしたら相当恥ずかしいなと、思いながら彼女はさらに言葉を重ねる。
「私はさっき君に助けられたものだ。私がここでこうしてことがその証拠だ。安心してくれ」
二度目の呼びかけで、少女の声が聞こえた。
「・・・・・・狼を始末したって、どういうことですか」
「そのままの意味だ。君を追いかけていた銀色の大きな狼は私が退治した。証拠が見たいというのなら、死体のある場所まで案内もするが」
少女は顔だけを少しだけのぞかせると、慎重にあたりを見渡し、彼女のほうをジッと見つめた。
彼女はその視線をだまって受け止めた。
「・・・・・・今からそちらに向かいます。ちょっと待っててください」
「わかってくれて助かる。ありがとう」
彼女の態度にひとまず危険はないと納得したのか、少女は吹き溜まりから姿をあらわし、ゆっくりと川岸へと近づいてきた。
頭の先まで水につかっていたようで、全身がずぶ濡れだ。
少女の息ははっきりと荒く乱れており、顔は青白く血の気がない。
本当に限界だったようだ。
「・・・・・・もう、大丈夫なんですよね」
「ああ、もう心配要らない」
その言葉を聞くと少女の体から糸が切れたように力が抜けた。
川岸まで後半歩というところで、べちゃりと地面に倒れた。
体の半分はまだ川の中にあった。
流石に彼女も少しあわて、急いで少女近づき川から引き上げると地面に横たえた。
「すいません。気を抜いたら・・・・・・ちょっとクラっときちゃって」
「なに、気にすることはない。疲れているのだろう。私が見張っているから少し休むといい」
「・・・・・・そう・・・・・・させてもらいます」
少女はゆっくりと瞼を閉じた。
少女は心身ともに極度の疲労困憊状態にあった。
野生の獣に追い掛け回され、命がけで逃げ回ったすえに、川の中身を隠して息を潜めて我慢比べをしていたのだから、当然といえば当然だろう。
今にも死にそうな顔をしているが大丈夫だろうと彼女は判断していた。
死に向かっている人の顔というものを、今までに何人もみたことがある。
いわゆる死相というもだが、苦しげに横たわっているが少女にはそれが見受けられなかった。
できることならば、火をおこして暖をとってやれればいいのだが、あいにくと簡単に火を起こせるような道具が彼女の手元にはない。
権能を使えばやってできないことはないのだが、彼女がそれをやろうとすると少々派手になってしまい、少女を驚かせてしまうだろう。
彼女は少女から適度に離れたところにあった岩に腰をかけると、静かに少女を観察――もとい、見守ることにした。
身長や体格などの見た目からすると、年のころは十六、七といったところか。
行動や言動を考慮すると、もう少し上かもしれないがそれでも二十歳を大きく超えるといったことはないだろう。
肩口まで伸ばした髪は、日に焼けてくすんだ綺麗な本物のブロンドだ。
最初に見たときはうなじの上あたりで束ねてあったが、どこかでほどけてしまったようでそのまま垂れ流している。
瞳の色は薄い青色。
顔の作りはかわいいと賞される部類の顔で整っている。
全体的に小柄だが華奢というわけではない。
さきほどの見事な逃走劇からもわかるように、少女の体は十分に鍛えられている。
特に腰から足首にかけてのラインは、賞賛するに値するものだと彼女は思った。
「・・・・・・素晴らしい」
思わず感想が口からもれ出た。
ちなみに、少女のことを綺麗だのかわいいだの賞賛に値するなどと評価しているが、恋愛や愛欲的なものは一切ない。
単純に好悪の問題だけだ。
言い方は悪いかもしれないがペットに対する評価のようなものだ。
チワワをかわいいと思うものがもいれば、ドーベルマンやブルドッグをかわいいと思うものもいる。
そういう部類の話だ。
しばらく時間が経つと少女の顔色にも赤みがさし、体調もひとまず戻ってきたようだった。
ゆっくりと起き上がろうとする少女に彼女は声を掛けた。
「体調はもういいのか?ゆっくりしていても一向に構わないが」
「・・・・・・十分に休ませてもらいましたから。普通に歩くくらいでしたら、もう大丈夫です」
少女は倒れたときに地面で汚れた顔を川の水で洗い流すと、乱れた髪の毛を手櫛でなでつけて彼女の前までやってきた。
足元はふらつくこともなくしっかりとしている。
大丈夫だというのもやせ我慢というわけではなさそうだった。
「あの・・・・・・それで、銀狼は本当に・・・・・・」
「ん?あー、そのことか。さっきも言ったが退治した。もっとはっきりと言葉にすれば、私に襲い掛かってきたので殺しておいた。約束をしたからそこに連れて行くのはかまわないが、その前に・・・」
彼女の思惑とは別の方向に話の流れがいきそうだったので、即座に修正を図る。
「私達はまだお互いの名前も知らないだろう?私は君に名前を知ってもらいたいし、君の名前も知りたいと思っているのだがどうだろう」
「――あっ!すっ、す、すみません!わたし、その、普段はこんなことなくて。名前も名乗らないで」
少女は顔を真っ赤にしてあわてた。
そんな少女を彼女は愉快げに見ていた。
「気にすることはない。そういう日もあるさ。それじゃあ、言いだしたの私から名乗るとしよう。私のことはベレッタと呼んでくれ」
それは、彼女の数多くいた眷属の内の一つの名前だった。
彼女にも勿論名前はある。
生まれたときからもっていた、誰にも呼ばれたこともなく、誰も知らない彼女だけが知っている名前だ。
特別な思い入れがあるわけではないのだが、新しくやってきた世界で名乗るには、なんとなく不釣合いな気がしていた。
それならば、なんと名乗るのか。
色々考えてはみたものの、自分の名前を自分で決めるというのは案外難しいものだった。
そして出てきたアイディアが、自らの眷属の名前を借りるというものだ。
「ベレッタさん・・・・・・ですね」
「ああ、それでいい」
少女がベレッタの名前を呼ぶと、彼女は満足げにうなずいた。
「わたしは、リーリア・ホルンといいます」
「なんと呼んだらいい?リーリア、それともホルンかな?」
「リーリアが名前なので、そっちで呼んでください」
「わかった。リーリア、良い名前だな」
「ありがとうございます」
二人の間に少しだけ穏やかになった雰囲気がながれる。
「それじゃあ、リーリア。先ず最初に聞いておきたい・・・・・・というか、確認したいことがあるんだがいいかな?」
「なんですか?」
「君はここがどこだかわかるかな?正直私はここの地理に明るくなくて、どちらに進むべきか困っていたところなんだ」
肩をすくめどこか余裕のある態度は、あまり困っているようにはみえない。
「えーと、ですね・・・・・・」
リーリアはそんな様子も気にしたふうもなく、至極真面目な顔であたりを見渡した。
「ここが、どこだかはわかりませんが、少し歩けばわたしの知っているところに出ると思います。そこからなら私の住んでいる街まで案内できます」
その口調には玄人が発する自然な自信があった。
「そうか、それは良かった。それじゃあ次はリーリアの番だな」
そう言ってベレッタは腰掛けていた岩から立ち上がる。
二人の身長を比べると、ベレッタのほうが一回りほど背が高い。
ベレッタが立ち上がると、自然とリーリアが見あげるような視線になった。
「・・・・・・わたしの番ですか?」
「銀狼とやらの死体を見に行くのだろう。案内しよう。といっても、君と別れた場所になるから私が案内するまでもない気もするが」
「あっ、いえ。ありがとうございます」
二人は元きた森の中へと再び戻っていった。
「本当に銀狼が・・・・・・」
リーリアは銀狼の姿を見るなり静かな驚きの声を上げた。
「なんだ、信じていなかったのか」
「いえ、そういうわけじゃないです。でも実際にこの目で見てもまだ信じられないんです!」
リーリアの銀狼の死体を見る目つきは真剣そのものだ。
初めのうちこそおっかなびっくりといった感じで、少し離れてみているだけだったが、獣の死体には慣れているのか、特に忌避感もない様子で今は大胆に銀狼の死体を触っている。
「やってしまった後で言うのもなんなんだが、こいつは殺してしまって問題なかったのか?」
その様子から、ベレッタは銀狼がある種の特別な存在だったのではないかと問いかける。
「それは大丈夫です。こいつは人を襲いますし。放っておけば大勢の人が犠牲になったはずですから、感謝されることはあっても、その逆はぜったいにないです」
「そうか、それならばいいんだ」
リーリアは再び銀狼の死体の検分に取り掛かかった。
頭の先から尻尾の先まで、一通り見終える頃になると彼女の顔には深い困惑の色が浮かんでいた。
ひどく遠慮がちな声をリーリアが上げた。
「あの・・・・・・ベレッタさん。これは、その・・・・・・どうやって・・・・・・」
リーリアの疑問は当然ものだった。
銀狼の体には傷らしい傷はほとんどなく、その死体は血痕が飛び散ってはいるがきれいなものだ。
あたりにも争いがあったような痕跡はない。
わずかについている傷は致命傷となる二つだけ。
額についている小さな跡と、後頭部の傷だ。
これをなした本人のベレッタは出会ったときから、武器らしいものはおろか荷物のひとつももっていない。
さらに銃器の存在を知らないリーリアからしてみれば、その傷がどうやってつくられたものなのかさえ想像するのは難しいだろう。
「教えてあげるのも吝かではないが、その前にリーリア、君はどうやった思う?」
ベレッタは目を細めて問いかける。
「・・・・・・ひょっとすると、ベレッタさんはどこかの高名な魔法使いの方なんですか?」
「・・・・・・は?」
ベレッタは思わず間の抜けた声を上げてしまう。
リーリアが考えた末に出してきた答えは、ベレッタの予想の斜め上をいくものだった。
「あれ、ちがいましたか」
「えー、あー、そうだな。近かからずとも遠からずといったところなんだが・・・・・・」
小首をかしげるリーリアに、言葉を濁すことで考えるために時間を作りだした。
頭の中で思考が高速に回転する。
リーリアは今、確かに魔法使いと口にした。
すなわち呪文を唱えて、手に持った杖から炎やいかずちを放つ奇跡の存在だ。
そのようなものたちが実在している可能性はあるか。
答えはイエスだ。
まさに奇跡そのものといえる神たる自分がここにいるのだ。
他の奇跡を否定するのは狭量といえるだろう。
魔法使いが存在する。
そういう世界であることを考慮して、思考を進める。
魔法使いだという看板は、自身の権能を使う際の態のいい隠れ蓑になるだろう。
今の現状を見て、リーリアが魔法使いだと誤解したのなら、再び権能を使ったときにも少し気を使えば魔法を使ったといえば、余計な詮索をされないですむ。
権能を使う機会はいくらでもあるだろうから、いちいちいいわけを考えなくてすむのは非常に助かる。
また、リーリアが魔法使いと口にしたときの反応を思い出してみる。
どこか期待に満ちた目をしていた。
あれは、魔法使いというものに対して、忌避感や嫌悪感を持っているものの反応ではなかった。
つまり魔法使いは差別扱いや、犯罪者扱いを受けるようなものではないようだ。
ならば、ここで仮に魔法使いを名乗っておいても問題はない。
ベレッタはそう判断した。
「リーリアが魔法使いと呼びたいなら、そう呼んでもらっても構わないぞ」
「やっぱりそうなんですね。すごい!」
リーリアは自分の考えが当たったことに素直に喜びをあらわにした。
「それじゃあ、あの。もしよかったら、ベレッタさんの使う魔法を見せてもらえませんか?」
ベレッタはその要望に銀狼に視線を向けて応える。
「それは、機会があったらだな。私の魔法はあまり人に見せる類のものじゃないからな」
「あっ・・・・・・そうですよね。ごめんなさい」
ベレッタの視線の先にあるものに気が付いて、リーリアは気勢を失っていった。
「私が思わせぶりなことを言ったせいだから、君があやまることはないぞ。ところでリーリア。君の知り合いに、その・・・・・・魔法使いというのは大勢いるのか?」
今後の方針を決めるためにも、もう少し情報を得ておく必要があった。
「いいえ、まさか。知り合いには一人もいません。自称魔法使いって言う人なら街で時折見かけますけど、ほとんどが偽者です。でも、本物の魔法使いは一人だけみたことがあります。街で御領主様に使えている方でクライス・ヤードというこの国でも有名ひとです。あ、ベレッタさんがいるから、これで二人目ですね」
「・・・・・・実際に魔法を見たことは」
「二回だけ見たことがあります。街のお祭りの日の夜に、空に炎の花を作って見せてくれました。とっても綺麗でした」
そのときのことを思い出しているのかリーリアの口調が弾んだものになる。
どうやら魔法使いというものはある程度特殊な人々で、それほど数もいないようだ。
そして大半は手品師まがいの偽者だとおもわれる。
極一部、少なくともリーリアの言う一人は、ベレッタが思い浮かべるような魔法使いの可能性がある。
今までの自分の運の良さから考えると、そうである可能性が非常に大きいのだが、わずかにはあるが、その一人も実は腕のいい花火職人だった、という可能性も否定できない。
「神様改め魔法使い。魔法使い改め花火職人か。ん・・・・・・それも悪くないか」
話をしているときのリーリアは、実に楽しそうな表情をしていた。
あんな表情を人々に浮かべさせることができるなら、魔法使いを名乗り、花火職人となるのも悪くない気がしていた。
幸いなことに、彼女の権能なら花火らしきものも見せることができる。
多少手を加えれば、そう名乗ることにも問題はないだろう。
ただ念のために、一つ保険をうっておくことにした。
「リーリアに一つ頼みたいことがあるんだが」
「ええと、わたしにできることでしたら」
「なに、簡単なことだ。私が実は魔法使いだということを、出来るだけ秘密にしておいてもらいたい」
「秘密にですか」
「そうだ秘密にだ」
「わかりました。絶対に秘密にします」
「ありがとう」
てっきり理由を聞かれることになるかと思っていたのだが、リーリアは二つ返事で引き受けてくれた。
なにやら意気込んでいる様子を見るに、軽い気持ちで引き受けたものでもないようだ。
それがベレッタにはリーリアと良い信頼関係を築いている良い兆候のように思えた。
お読みいただいた方ありがとうございます。
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