第三話
「あー、もう!あたしの馬鹿っ!」
無理な針路変更を取ったせいで足が痛む。
大きな声を上げたせいで息は余計に苦しくなった。
それらのことも含めて、リーリアは自分が千載一遇のチャンスを自ら手放してしまったことに、理不尽な怒りをあらわにしていた。
まさか都合よくこんなところに人がいるとは思っていなかった。
自分でもよくわからないまま、とっさに手をとって助けてしまったが、理性的に考えればまったく意味の無い行動だ。
一人が囮となって足を止めるとか、二人が分かれて別々の方向に逃げるというのならそれは意味のある行動だ。
どちらかが犠牲になることが前提ではあるが、わずかに生存の可能性が上がりもする。
しかし二人が同じ方向に連れ添って逃げ出すのであれば、二人まとめてしとめられてそれでお終いだ。
リーリアはできることなら、今からでも二手に分かれて逃げるべきだと考えていた。
隣を走る彼女の様子をちらり伺う。
パニックを起こしている気配はない。
不安や恐怖を感じているふうでもなく、それが逆に彼女が現状を理解していないのではないかと思わせる。
もしここで自分が掴んでいる手を離してしまえば、彼女がどうなるかは想像に難くない。
いや、はっきりといって自分が彼女を殺すことになるのだ。
一度彼女を助けてしまった以上、リーリアにそれはできなかった。
少なくとも、彼女に状況を理解してもらい、納得した上で行動してもらう必要がある。
それはほとんど不可能なことだ。
リーリアがもう僅かでも正気を失っていれば、相手を見殺しにすることは簡単なことだった。
いくらかの手傷を負わされていれば、恐らくそうなっていただろう。
だが現実には、追い込まれてはいるがいまだ無傷であり、そうである以上猟師として獲物と命のやり取りをする覚悟を済ませているリーリアの理性は健在だった。
手を取って走ったときに、彼女が足でももつれさせに転んでしまったりすれば、それで諦めもついただろうが、幸か不幸か確かな足取りで自分についてきている。
きっとあとで文字通り死ぬほど後悔することになるのだろうが、状況が許す限り掴んだ腕を放さないことをリーリアは心に決めていた。
一方、少女に手を引かれる形で走っている彼女の方はというと、自分の幸運とそれをもたらした決断に静かに喜びをかみしめていた。
本当は声を上げて自分自身を賞賛したいところではあったが、すぐ隣には少女が走っている。
少女はこれから初めてコミュニケーション取る事になるであろう、記念すべき重要な人物だ。
相手に対する印象というのは、最初に与えた印象が非常に重要だ。
しかも、その後もずっと引きずるものになる。
彼女は余り外聞をきにすることはなかったが、今回ばかりは特別だ。
みっともないところを見せまいと、自らに自重を促していた。
悲壮な覚悟を決めているリーリアとは対照的に、割とどうでもよい――本人にとっては重要な――事を考えていた彼女だが、手を引かれ走り出してすぐに少女と自分の状況を理解した。
何か大きなものがすぐ後ろにいる。
少女はそれから懸命に逃れようとしている。
そして同時に少女が何に憤りを感じているかも理解できた。
この少女が自分を見つけたときにとるべきだった最善の行動は、手をとって一緒に逃げることではない。
視界の中で走る少女は、息も絶え絶えといった様相だ。
どこをどう見ても、余力があるようには見えない。
少女が自分自信のことを考えるのなら、ふらふらと歩いていた自分に後ろから追いかけてくる追跡者を、積極的に押し付けることだったはずだ。
悪意を持って何かをなす必要はない。
ただ彼女の近くを走り抜けるだけでよかった。
追跡者が標的を自分に変えてそれで満足すれば、少女は逃げ切ることができただろうし、そうならなくてもいくらかの時間稼ぎにはなったはずだ。
なのに少女は、自分を助けることを選んだ。
自らの生死が掛かっているような極限の状態でのとっさの判断には、その人の本性が如実に現れることを彼女は知っていた。
そんなときに相手に手を差し伸べることができるというのは、少なくとも彼女の価値観の中では尊ぶべき性質であった。
出会ったばかりでまだろくに言葉も交わしていないけれども、彼女の中での目の前を走る少女への好感度は急上昇していた。
「助けてくれようとしてありがとう。貴方は、いい人だな」
彼女の言葉はせわしく走るリーリアの耳にも何故か鮮明に届いた。
さらに彼女はリーリアが掴んでいた腕からするりと抜け出すと森が少し開けた場所でゆっくりと足を止めた。
「なっ!?」
少女は予想外のことに驚きの声を上げ、ちらりと一瞬だけ彼女のほうを振り返りるが、足を止めることも無くそのまま走り続けていった。
緑の中へと消えていく少女の後姿を見て彼女は満足げにうなずいた。
少女がここにいても邪魔になるだけだ。
よほどのことでも守りきる自信はあったが、この場合は離れてくれていたほうが助かる。
足を止めた彼女は追跡者を迎え撃つべくその場に身構えた。
「ガァァァァッ」
彼女が身構えたのとほぼ同時に、銀狼が木々の合間から姿を現しそのままの勢いで彼女へと飛び掛ってきた。
「――っ……はぁっ!」
予想以上の追跡者に彼女は内心で驚きの声を上げたが、飛び掛ってきた銀狼を豪快な回し蹴りで叩き飛ばした。
余技として近接格闘術をマスターしていた彼女が繰り出した回し蹴りは、その超人的な身体能力と相まって、人間に当たれば文字通り粉砕できるほどの威力があった。
銀狼は『キャウン』という思いのほかかわいらしい声を上げ地面に叩きつけられはしたものの、すぐに立ち上がり彼女を睨みつけるけに低いうなり声を上げた。
「これは――思ったよりも楽しいところにやってきたみたいだな」
巨大で金属質の光沢をもった毛皮の銀狼を目の前にして、彼女は現状に対する評価を大幅に上方修正した。
素晴らしい。
銀狼を目の前にして彼女が抱いたものは、危機感や恐怖でなく賞賛だった。
以前の世界の常識ではありえない生き物だ。
大きさといい、見た目といいまるでファンタジーの世界の生き物だ。
そこで、彼女の頭に一つのアイディアがひらめいた。
「あー、狼さん、狼さん。少し私の話をきいてくれないか」
警戒の姿勢をを崩さないまま彼女は眼前の巨狼へと話しかけた
彼女の声は神の声。
すなわち相手が言語を解するのであれば、それが誰であろうと彼女の声は相手に伝えることができた。
この権能を使って、対話による闘争の回避を試みたのだ。
今までの常識では動物は言葉を操ることは無いが、その常識がここでもそうであるとは限らない。
「お互い些細な立場の違いから不幸な出会い方になってしまった。そのことはとても残念に思う。だがこちらにも都合がある。そちらにもそちらの都合があるのだろうが、今日は運がなかったとでも思ってここは引いてもらえないだろうか」
手加減なしの殺人キックをくらわしておいたわりに、ずいぶんな物言いだったが、彼女からしてみればこれでもずいぶんと譲歩したつもりであった。
目の前の生き物の危険性は理解していたが、彼女にはなんら脅威として写っていなかった。
「ガルルルゥゥ」
だが返ってきたのは変わらず低いうなり声。
「そこまで希望通りにはいかないか」
彼女は小さな落胆を覚えた。
彼女の耳は神の耳であり、あらゆる言語を聞き分けることができた。
だがそれはあくまで言語でなくてはならず、漠然とした思いや意思といったものを聞き分けられるものではない。
目の前にいる狼にはある程度の知性を感じることができたが、言語を有してはいなかったようだった。
動物との意思の疎通や相手の心を読み取るといった権能は彼女には無かったので、対話によって平和裏にこの場を収めるといった手段が取れなくなった。
後は不本意ながら暴力によってこの場を収めるしかなくなってしまった。
ここで彼女が踵を返して逃げ出したとすれば、無事でいる自信はある。
だが、この不慣れな森の中では逃げ切るコトはできないだろう。
銀狼が見逃してくれない限り、結局なんらの手を打つことになる。
また例え逃がしてくれたとしても、そうすると今度は先に逃げ出した少女の身が危険だ。
銀狼が少女を追いかければ、間違いなく彼女より先に銀狼が追いつくことになる。
彼女が見つけることになるのは、少女のバラバラ死体だろう。
それはなんとしても避けたかった。
いまや彼女の中で少女と目の前の狼とでは、優先度に明確な差ができていた。
少女の身の安全は、大抵のことに優先される。
彼女はその判断に従って、即座に行動を開始した。
「おまえも運がなかったな」
そう言い放つと、彼女の手のなかに無骨な金属の塊が現れた。
彼女の神としての特有の権能だった。
自身の眷属たちを自由に呼び出し、それを扱うことができた。
彼女が呼び寄せたものは大口径のリボルバー。
全長はおよそ30センチ、重量は2キロを超える最も強力なものだった。
不慣れなものなら構えるだけでも一苦労なそれを、彼女はまるで自身の手足の延長のように扱い、よどみの無い動作で照準を銀狼の眉間へと正確にあわせた。
威嚇や牽制で済ませるつもりはない。
やるのであれば先制攻撃。
与えるのなら致命傷。
相手がこちらに歯向かう牙を持っているのなら、その全てをへし折ってから。
自分の前に立ちはだかったものに容赦はしない。
それが彼女の信条だった。
銃を突きつけられた形になった銀狼は、彼女へと飛び掛る機会を必死にうかがっていた。
内心ではすぐにでも襲い掛かり、逃げ出していったもう一人のあとを追いかけたくはあった。
それを獣としての本能が銀狼の足を止めてしまっていた。
目の前の人間、いや人型のなにかには決して関わるべきではないと最大級の警鐘が、対峙したときから頭の中に鳴り響いていたからだ。
歳を経て経験を積んだ個体であったのなら、その警告にしたがって即座に尻尾を巻いて逃げ出していただろう。
だが不運なことにこの銀狼は若く経験が不足していた。
今までに面倒なことを避けるために相手から逃げることはあっても、相手を脅威に感じて逃げたことが無かった。
引くことを知らない銀狼は、自らの足を止めているものを振り払ってくれるきっかけを待っていた。
相手がもう一歩でも踏み込んできてくれるか、明確な殺意をぶつけてきてくれれば体がそれに反応して飛び掛っていけるはずだった。
しかしその機会が訪れることは無かった。
引き金に指をかけた彼女は、その場から一歩も動くことなくただ機械的にその引き金を引いた。
撃鉄が落ち不必要と思われるほど大きな火薬の炸裂音があたり一面に響く。
銃がはじけるような大きな反動も、彼女は完璧に制御してのけて弾丸は狙い通りに銀狼の頭へと発射された。
僅か数メートルの距離は、音速を超える弾丸の前ではないも同然だ。
リボルバーはその威圧的な外見に反して、威力はそれほどでもないがこの至近距離で発砲すればまったく関係ない。
銀狼は何一つ反応することもできなかった。
鎧のような毛皮も、頑強な頭蓋骨も弾丸は容易く貫いて大きく頭を跳ね上げた。
銃声に驚いた小動物の一斉にざわめきだした。
銀狼は大きく頭を逸らしたまま微動だにしない。
そして自分に何が起こったのかもわからないままに、あっけなくその巨体を地面に横たえることになった。
「・・・・・・」
彼女は地面に倒れた銀狼の胴体に念のためと、さらに二発銃弾を打ち込んだ。
反応が無いことを確認すると、手の中のリボルバーを消し去った。
「……さて、追いつけるといいのだが」
彼女は僅かに目を瞑り銀狼に短い黙祷をささげると、先ほどの少女の後を追うべく硝煙の匂いが漂うその場を後にした。
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