第一話
気がつくと彼女は目の前に立つ緑の木々を眺めていた。
数十年は樹齢を重ねているのだろう、太い幹から伸びる枝葉が彼女の背丈よりも何倍も高いところで緑の天井を作っていた。
彼女の主観では、ついほんの一瞬前には世界の全ては崩壊し終わっているはずだった。
それならば緑の木々が生い立つここはどこだろうと、頭をめぐらせ始めたところで違和感を感じた。
「これは……緑の匂い?」
最初は嗅覚。
これまであまり縁の無かった生々しい森の匂いだ。
今までにも眷属たちを通じて世界を感じ取ることはできたが、それと似てはいるが違った感触だった。
違和感は次第に大きくなっていき確かな実感へと代わっていった。
自分の足はしっかりと地面を踏みしめており、自分の声は空気を震わせていた。
世界と自分とを意識すると、次にやってきたのは膨大な量の情報だった。
光、音、熱、匂い、味。
彼女が初めて体験する五感の全てから得られるそれらの情報は、彼女のまだ稼働したての貧弱な意識の処理能力を簡単にオーバーフローさせる。
「――かっ――……はっ」
彼女はしばらくの間、人形のようにただその場に立ち尽くした。
しばらくの時間がすぎた。
やがて彼女の動き出し、自らの頬をつねった。
「ひたぁい」
感じた痛みもまた彼女にとっては新鮮なものだった。
気がつくと彼女は仰向けになって、大の字にになって倒れていた。
既に意識ははっきりしており、活動に思考にも活動にも支障はなかった。
「さて、ここはどこでこれはどういうことだ?」
湧き上がる興奮を抑えながら、彼女は改めて周りを見渡した。
先ほどからわかったことだが、どうやら自分はどこかの山か森の中にいるらしい。
それも人の手が加わっていない自然のものだ。
耳を澄ましてみても、聞こえてくるのは風の流れる音や鳥のさえずりそれに木々のざわめく音ばかりで、目の届く程度の範囲で人工物の気配を感じることはできない。
空は木々の枝葉が邪魔をして見ることは出来ないが、きっと澄み渡るような青色をしているだろう。
なんとなく彼女はそう思った。
「ひとまずは周囲に危険はないといったところか」
周囲の状況をそう判断すると、次に自分自身の検分に取り掛かった。
だが幸いにもそれはすぐに終わることができた。
今現在にいたっても彼女は神であるということに変わりは無かったようで、その権能として自身のことについては不足なく理解することができた。
それに寄れば、彼女の肉体は彼女が知る一般的な人類に比べればかなり頑丈で強靭なつくりになっているようだった。
神としての権能もまったく問題なく扱うことができた。
ただし、肉体を得てしまっている代償として一部の権能を扱うことができなくなっていた。
逆にそれまで使うことのできなかった権能が使えるようにもなっていた。
そしてその過程で一つ奇妙なことに気が付いた。
彼女の権能一つに彼女の眷属たちの存在を感じ取り、意識をその眷属のもとへととばすことができるというものがある。
眷属たちというのはもちろん様々な銃器のことだ。
あちこちを見て廻り暇を潰すために、それこそ息をするようにいつも使っていた権能だった。
今は肉体を得てしまっているため、ただ眷属たちの存在を感じ取るだけの権能になってしまったのだが、その権能で感じ取れる眷属たちの数が余りにも少なくなっていた。
少なくなったという表現ではこの場合はたりていないのかもしれない。
以前はそれこそ、その使い手である人類の総数よりも、遥かに多く彼女の眷属たちがいたのだ。
それが今彼女が感じ取れる眷族の数は、比喩でなく両手の指でぞえられるほどのものでしかなかった。
さらに気配自体も何故か希薄なものだった。
「うーん……これはどういうことだ?」
先ず浮かんできたのは、小さくは無い驚き。
次に今日何個目かになる疑問。
現状を推測するのに大きなヒントになるような気がしていた。
考え込む彼女に眷属の存在が感じられる無くなったことに対する、不安や悲しみの念といったものはそれほど無かった。
これは別に彼女が情に薄いだとか、眷属に対して無関心だというわけではない。
神としてのスタンスの問題だった。
神とその眷属との関係は、例えるなら人間と花壇に植えられた花のような関係だろうか。
花壇に植えられた花を見て、嫌悪感などのマイナスのイメージを持つものはそうはいないだろう。
大抵は美しいと思ったり、一種の安らぎを感じたりとプラスのイメージを持つ。
綺麗な花を咲かせると思えば多少の労力を払うのもいとうこともない。
育ちが悪いと思えば栄養を与え、悪い虫がついたのならそれを取り払うこともある。
大きな嵐がるとわかれば、場合によってはそれなりの手間を惜しまずに守ってやったりもする。
そして見事に花をさかせれば、それは喜びになりいとおしくも思う。
ただここで生じた思いは花壇全体に向けられたものなのである。
そこで咲く花の一つが枯れてしまったとしても、たいして気に止めることも無い。
花壇の花が一気に半分ほどかれてしまうようなことがあれば、流石に気にかけたりもするが、今の状態はいつの間にか全ての花がなくなってしまったような状態だ。
そうなればむしろ一から全てを作り直そうという気にもなる。
彼女もこの事態に自分の眷属たちをどうやって増やそうかと、できるだけ前向きに考えることにしていた。
「少し判ったことをまとめるとしよう」
彼女は自分の思考をまとめるために声に出していった。
「先ず前提としてこの状況が私の夢や幻で無いとする」
世界が終わる最後の刹那に見ている、都合のよい夢であるという可能性を真っ先に切り捨てた。
彼女が今五感を通して感じているものは、本物であると確信できていた。
なによりそんな後ろ向きで非生産的な考えは、彼女の趣味ではなかった。
「そして、ここにいるのは他の誰でもなく私である」
自分の姿を頭の中でイメージする。
今の姿はそれにぴったりと一致している。
生まれ変わりや、意識や魂といったものが誰かの中にはいっているという状況ではない。
「と、すれば。その私がいるここはどこかということが問題になる」
その推察を進めるうえでのカギは、彼女自身にあった。
「私にはなんら変化が無いことはわかっている。それでもこうして肉体を得ているということは周りの環境――世界の在り様が変わったのだろう。私の存在が許される世界へ」
以前の世界では神はただあるだけの存在であった。
世界の法則がそう規定されていた。
だがずっとそうだったわけではない。
神代と呼ばれる時代には、神々は世界にその力を行使していたのだ。
彼女は今自分がそんな世界にあるのではないかと思っていた。
「時を遡ったのか、新しい時代が始まったのか、それともまったく別の世界に着たのか。……まあどれでも大差ないか」
彼女と縁がない世界であるという点では、ここが元いた場所であろうともまったく異なる場所であろうともどれも等しく意味のないことだった。
「つまり私は、まったく新しい私の世界にいるということか。何だ単純なことじゃないか――ああ、最高だ!」
彼女はそう結論付けた。
何故自分がここにいるのかということについて、彼女は考えなかった。
偶然であろうと何かの意図があろうと、目の前にある自由に比べればなんであろうと瑣末なことだった。
全てが終わった何も無い世界を永遠と眺め続けることも覚悟していた彼女からしてみれば、現状は彼女が想像していた中でもおおよそ最良といってよい部類の状況だった。
「あっはははは、あっはっははは」
あたりに彼女の笑い声が響く。
喜びの感情が自然と湧き上がってきた。
それを笑い声を上げて表すことを彼女はためらわなかった。
涙がこぼれるほど笑い、ひとしきり満足すると、頭の中もすっきりとしていた。
そして彼女はこの次のとるべき行動を決めることにした。
「堅実なのは、眷属の元を目指して進むことだが……」
彼女の眷属がいるということは、すなわちそれを作った人物がいるということだ。
銃を作り上げるような人物がいる場所なら街があるはずだった。
山野に一人篭って静かに暮らすという選択肢は、最初から彼女の中には存在していない。
自然の中にいるのも嫌いではない。
むしろ心地よさを感じる。
だが日々を過ごすのであれば、可能なら人に混じって過ごすと彼女は決めていた。
「ただ問題は距離か」
前の世界での基準で言えばたいした距離ではない。
様々の手段を使って、人は半日もあれば世界中のどこへでも行くことができた。
だが、今の彼女に許されている移動手段は一つだけ。
すなわち彼女に備わっている二本のだけ足だ。
「うーむ」
彼女は眷族の存在が感じられる方向に目をやった。
徒歩で進んだとして直線距離にすると十日程度の距離だとあたりをつける。
ただしこれは単純に彼女と眷属とを結んだ距離だ。
山や川あるいはその他の踏破が難しい地形に出くわせば迂回する必要がある。
当然移動距離は大きく伸びる。
移動速度にしても、道なき道を進まなければならない。
身体能力にこそ優れているが、森を掻き分けて進むような技術を持っていない彼女の歩みは亀のごときものとなるだろう。
そうなると到着がいったい何時になるのか検討もつかなかった。
幸いにも体力はよほどの無理をしない限り無尽蔵。
餓えや渇きといったものも心配しなくてもいい。
目指すべき方向はわかっているので、いつかはたどり着けるだろうがイマイチ気が乗らない。
気分が絶頂期の中にいる彼女からしてみると、もっと劇的なものを欲していた。
「よし。決めた」
彼女はあたりを見渡した。
手頃なに一本の枯れ枝を見つけると拾い上げた。
「私は進む先はどっちかな」
その枝を地面に立てた。
彼女はこの枝の倒れた方向へと進むことに決めていた。
この世界にいる人間が、眷属の元にいる者たちだけだとは到底思えない。
現に眷属の反応は複数に離れてある。
他にも人が住んでいる街や村があるはずだった。
「こっちか」
彼女は枝が倒れた方向を向くと前へと進んでいった。
その足取りに不安やためらいといったものはまったくなかった。
いざとなれば向かうところがわかっているというのもあるが、彼女には一つの確信があった。
それはこの向かう先には、彼女が望むものが待っているというものだ。
こうして彼女の二回目の神生が始まった。