哲学ゾンビからの華麗な逃げ方
ある日の昼下がり、博士と助手は休憩室で優雅な午後のティータイムを楽しんでいた。
「博士、実は最近気になっていることがあるんですよ。夜も眠れないくらいに」
「ほう、君にしては珍しい。一体、どんなことかね」
助手は日ごろから明朗快活で、悩みなどなさそうな性質だった。
「博士はクオリアってご存知ですか。哲学用語なんですけど」
「いや知らんね。君も知っての通り、私の専門は工学だ」
博士は笑って応える。助手は少し考えたが、せっかくなのでと哲学談義を持ちかけた。
「クオリアっていうのは、簡単に言えば『感じ』のことですよ。よく例に出させるのがリンゴの『赤い』っていう、あの『赤』です。赤い色を赤いと感じる、その感じ、質感のことをクオリアって言うんです」
博士はふむふむと頷いた。
「ポストの赤でもいいのかね」
「ええ、なんでも。別に赤だけじゃなくて、色や形、音、臭い、あらゆるものを感じた、その感じの感触というか、感じた質をクオリアというのです。そもそもクオリアはラテン語で質という意味のqualitasという言葉を語源にしたものです。日本語では感覚質と言うそうです」
博士はなんとなくわかると相槌を打った。助手はさらに続けた。
「で、そのクオリアを語る上で問題になるのが、ゾンビ問題なんです」
助手の言葉に博士は首を捻る。
「ゾンビというと、ホラー映画に出てくるようなあれかね。死体が歩くような」
「哲学ではそういったホラー映画のゾンビと区別するために、ゾンビ問題で扱うゾンビを哲学的ゾンビと言うことにしています。哲学的ゾンビは普通の人間と物理的に区別がつきません。会話もできます。哲学的ゾンビは、人間とそっくりなんです。肌を切れば血もでます。風邪もひきます。ただ、主観的な意識をもっていないことだけが人間と違う点です。そんな哲学的ゾンビの存在を仮定することから話は始まります」
なんだか難しそうな話だねと言って博士はお茶をおかわりした。
「ゾンビ論法はデイヴィッド・チャーマーズという哲学者が唱えたクオリアの説明に出てくる思考実験の一部です。四節からなるので、ひとつづついきますよ」
助手の言葉を聞き逃さないよう、博士は身構えた。
「一節目はこうです。『物理主義によれば、意識を含む私たちの世界に存在するものはすべからく物理的なものである』」
「物理主義とはなんだね」
博士はとりあえず、気になった言葉を指摘した。
「物理主義とはあらゆる物事、たとえば心や意味といったものも物理的であるという考え方です。つまるところ一節目は物理主義自体の説明です」
「なるほど」
博士は素直に頷いた。普段教える立場がいまは逆転していた。
「続いて二節目です。『したがって、物理主義が真の場合、物理的事実がすべて現実世界のものと同じである論理上可能世界は、私たちの現実世界に存在するものすべてを含んでいるはずである。特に、意識的な経験もそのような可能世界に存在することになる』」
急に難しくなったので、博士は目を瞑った。助手の言葉を反芻する。
「要約しますと、『物理的に同じである理論上の世界であれば、意識もその理論上の世界に存在する。それはあくまで物理主義が正しければ』ってことです」
「さすが哲学者だ。こういう面倒な話こそ哲学者の領域だな」
話がややこしくなりそうな予感に、博士は思わずこぼした。
「博士、数学でも面倒で複雑な思考実験はたくさんありますよ」
助手の突込みにも博士はめげなかった。
「私は工学博士だ。数学は数学屋にまかせればいい」
なおも反論しようとする助手を制して、博士は続きをせっついた。助手もしぶしぶ続けた。
「三節目はこうです。『我々は哲学的ゾンビが住む意識の無い世界を想像することができる。これは事実だ。哲学的ゾンビが住む世界とは、我々の世界と物理的に判別不能な世界のことだ。そんな世界は理論上可能である』。つづいて四節目も続けます。『したがって、物理主義は偽である』」
以上ですといって助手は口を閉じた。博士を見つめたまま次の言葉を待っている。沈黙に耐えられず、博士は口を開いた。
「うーん、ちょっと待ってくれ。つまりどういうことだ」
「つまり、物理主義では意識的な経験やクオリアを説明できないだろうという主張です」
助手の説明にも、博士は納得できない様子だった。
「真偽関係がおかしい気もするが、そんなことを考えるのすら面倒な話だ。で、この話のどこに悩む要素があるのかね。それだけ説明できるのなら理解しているんじゃないのかね。私はさっぱりだが」
投げやりな態度の博士に、助手はイライラしている様子だった。
「私は物理主義でもクオリアを説明できると思うんですよ。でも、ゾンビ問題を言い負かすことができないんです。それで眠れぬ夜を過ごしているんです。博士ももうちょっと考えてくださいよ。これじゃ物理主義の敗北です。私は万物は物理の名のもとに説明できると信じているのです。でもゾンビ問題を解決できないんです!」
「偉い哲学者がそう言ってるなら仕方ないんじゃない」
博士はばっさり切り捨てた。
「博士、あなたはそれでも工学博士ですか。物理主義の権威じゃないんですか」
助手はまくしたてた。
「いやいや、工学博士は哲学者じゃないよ。そういうのは専門家にまかせればいいじゃないか」
博士の態度に、助手は失望の色を隠そうともしなかった。
「私は博士が明快な反論をしてくれることを期待します!」
そう言われてもと、博士は困り顔をした。しかし、助手はかなり憤った様子で博士を睨んでいる。まずい、このまま臍を曲げられては、このあとの作業に支障が出かねない。博士はなにかこの助手に言わねばと知恵を絞った。
「よし、じゃあこういうのはどうだ。確か二節目は物理主義が真の場合という前提だったよね」
博士の言葉に助手は頷いた。
「しかし、物理主義が真でも偽でも二節目が成り立つとすれば、三節目の論証でも四節目が成り立たなくなる。これでどうだ」
博士は得意げに言った。
「ん、なるほど、いえ、えーと、ちょっと待ってくださいよ」
「いやいや、その考察は是非とも家に帰って自宅のベッドでゆっくりとやるべきだよ。落ち着いて考えたほうがいいからね。それより、そろそろ作業に戻ろうじゃないか。今日中にロケットエンジンの出力をあと15パーセントは上げたいんだ。さあ、我々は我々の分野で思考を巡らそうではないか」
博士は強引に話を切り上げると急いでティーセットを片付けた。そして、いまだ腕を組んで頭を捻っている助手の肩を押して休憩室から追い出した。助手が作業場へ戻って行くのを確認してから、博士はこっそりと同僚へメールした。内容はこういうものだった。
『君が作ってくれた作業補助用アンドロイドはとても優秀だよ。だたちょっと、思索意欲を下げることはできないかな。彼は少しばかり、哲学的なんだ』