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コバルト短編小説新人賞投稿作品

朧に染まりし春の夜は

作者: 結川さや

 はらはらと、桜の花びらが舞っている。一面の菜の花畑に寝転び、落ちてくる淡紅色の花弁を数えていた少女は、はっと身を起こした。年の頃にして十四、五歳といった、まだ幼さの残る顔に満面の笑みが広がる。藍の小袖姿の青年が、こちらに歩いてくるのを見つけたのだ。

新右衛門しんえもん様! しん様っ! おはようございます!」

 全力で駆けていき、思い切り飛びつこうとしたところで、草履の鼻緒がぶちりと切れた。

「きゃうっ!」

 顔から地面に倒れこんだ彼女を、青年――新右衛門は無造作に見下ろした。襟足の伸びた長めの髪と端正な面差しは、優しげな雰囲気を漂わせている。が、女と見紛うほど美しいそこには何の表情も浮かんでおらず、倒れている少女より抱え持つ籠のほうが大事そうだ。

「なんや、お前か。あいかわらずどんくさいなあ」

 滑らかな低音は耳に心地よくしっとりと響くのに、言葉には優しさも気遣いも感じられない。無関心そのものの新右衛門とは対照的に、少女は二つに結わえた髪をぶんぶん揺らし、唇を尖らした。

「んもう、新様ってば冷たいっ! お前じゃなくって、おぼろです! そう呼んで下さいって何度も言ってるのに……」

 そう、出会ってから今までの三月みつき、口が酸っぱくなるほどに頼んでも、新右衛門は少女をその名で呼ぶことはなかった。『お前』ならばまだ良いほうで、つれなく無視されることも多々ある。

「そんな風流な名前、子供には似合わん」

 一言で切り捨て、新右衛門は倒れて顔だけ上げている少女――朧のそばを通り過ぎようとする。今日こそは離すまいと、朧もその足首をがっちり掴んだ。

「おいこら、何のつもりや」

 切れ長の瞳に冷たく睨みつけられ、一瞬びくっとする。が、朧は決意と共に両手に力を込めた。ほとんどしがみつくような格好だ。

「行かせませんっ! 新様が今日こそあたしを朧と呼んで下さるまでは、絶対に! 何が何でも離さな――」

「おお、今日もお熱いこったなぁ、お二人さん」

 新たな声が乱入し、二人は自然と後方を振り返る。菜の花畑の向こう側、集落のほうから、ぼさぼさ頭の男が歩いてきていた。簡素な装いでもどこか品のある、優美な雰囲気の新右衛門と違い、背中に掛けた袈裟けさも鼠色の小袖もよれよれだ。手には、使い込んだ風情の尺八を持っている。

「おはようさん、『新様』。朧ちゃんは、今日も朝から元気で可愛いねえ」

 わざとらしく朧の呼び方を真似てみせ、男はにっこり笑った。人のよさげな、それでいて何を考えているのかわからない笑顔だ。

「ありがとうございますっ、又兵衛またべえさん! もう聞いて下さいよお、新様ってば、朧に全然優しくしてくれなくて……」

「うんうん、ひどいよねえ。でもまるきりの冷血漢じゃないんだよ? 前にも狸だか狐だか手厚く助けてやってたし。動物よりも人間と仲良くしてほしいんだけどねえ、まったく。ってことで、こんなに可愛い朧ちゃんをさっさと嫁にしてしまいなさい」

「よ……阿呆かお前は。年が違いすぎるやろが」

「お? 赤くなってる~! さすが紺屋こんや、着る物だけじゃなくて顔も上手に染めるねえ」

 紺屋――染物を業とする者を指す呼称でからかう又兵衛を、新右衛門は疎ましげに睨む。

「うるさい、不良虚無僧こむそうが。頭の被りもんはどうしたんや。さっさと仕事せえ仕事」

「『天蓋』って立派な名の付いた深編笠ちゃんなら寺に置いてきたけど。だーって、あれ前見難いしさ、鬱陶しいから」

 目前で繰り広げられるいつものやりとりに、朧は思わず声を出して笑ってしまう。その隙に手を離してしまい、新右衛門はむっとした顔のまま背を向けてしまった。

「あ、新様っ? どこ行くんですかぁ!」

「仕事場に決まっとるやろ。お前とちごて、道草食うとる暇あらへん」

「ふうん、わざわざ遠回りして朧ちゃんの顔見に来てるのかと思った」

「――これ摘んどっただけや!」

 籠の中のよもぎを証明するように見せつけてから、新右衛門はそんな自分の仕草に照れたようにまた顔を背けた。

その場に座り込んだ状態の朧は、ぷう、と頬を膨らませ恨みがましく二人を見上げる。

「新様ってもしかして……又兵衛さんのことが好きなんですか?」

「……はぁ!?」

「だって、朧には冷たいのに、又兵衛さんの前では赤くなったり青くなったりして楽しそうなんですもん」

 常日頃気になっていたことを思い切って訊ねたのに、新右衛門はこれ以上ないほど妙な顔で絶句している。ぷはは、と又兵衛がさも可笑しげに吹き出した。

「そっかぁ、そう取るか。朧ちゃんは本当に稀に見る天然さんだねぇ。そこが愛しいとこなんだけど……ああ惜しい惜しい。僧侶になんてなるんじゃなかった」

「おい」

 睨む新右衛門に、又兵衛はにやにやと笑いながら続けた。

「知ってるか? 新右衛門。虚無僧は半僧半俗。半分は俗っぽくていいってことなんだぞ。お前がぐずぐずしてたら、この又兵衛さんが代わりにあんなことやこんなことしちまうぞ~? くはは、想像したら涎出てきたぜ」

「黙れこの変態虚無僧!」

「あ~また二人で仲良しさんになってる……やっぱり朧は仲間外れなんだ」

「せやからお前はなんでそう捉え――ああもうええ! 俺は忙しいんや」

「あ、新様っ! 待ってくださいよお」

「ん? その不良で変態な虚無僧と純粋で天然な朧ちゃんを二人にしちゃっていいわけ?」

 楽しそうな又兵衛の問いかけに、立ち去りかけていた新右衛門の肩がぴくりと動く。振り向くなり、朧のほうに顎をしゃくった。

「新様?」

「……それの手当てするだけや。終わったらすぐ追い出す」

 それ、と言われたのが、すりむいた膝のことらしいと立ち上がってから気づいた。

粗末な木綿の小袖の裾がめくれ上がって、わずかに血が滲んでいる。

「……はいっ! 今行きますっ!」

 ようやく状況を理解した朧は、顔を輝かせて新右衛門に続いた。速度を緩めることなく歩く長身の背中。それでも、朧がまたも躓きそうになると、止まって待ってくれていた。

(やっぱり新様は優しいんだ)

 じーん、と温かくなる胸を押さえて感極まっていると、置いていかれそうになるのだが。なぜだか笑いをかみ殺しながら二人を見送っていた又兵衛が、ふいに大声で叫んだ。

「桜が綺麗だなあ、新右衛門!」

「はぁ?」

「人間恋やで! 辛い思い出は忘れてもええけど、恋する気持ちだけは忘れたらあかんのやで~!」

 いきなり飛び出た又兵衛の奇妙な京言葉に新右衛門は頬をひきつらせ、また前を向く。その瞳がほんの少しだけ翳っている。朧が初めて出会った夜と同じ、辛そうな瞳だった。


 新右衛門の仕事場――山の中にひっそりと建つ小屋からは、ぐつぐつと煮詰められた染料の匂いがしていた。

「あ、そっか蓬! これで染めるんだ。たくさん摘んできましたね~新様! 言ってくれたらお手伝いしたのに!」

「自分の膝の面倒さえよう見ん奴に、手伝ってもらう勇気はない」

「新様ってばひどいですう」

 うらめしそうにまたも唇を尖らせる朧だが、当の新右衛門は聞く耳持たず、籠に入っていた蓬を新たな鍋に移していた。

「……生葉なまは染めや。敷物とか手拭いとか、細々とやっとるだけやけどな」

 しばらく無言で作業をしてから、新右衛門はぽつりと言う。放っておかれるようでいて、こうしてちゃんと相手もしてくれる。冷たくされ続けても、朧がめげない理由でもあった。

(優しい新様……大好き)

 伝えたい言葉は喉の奥で詰まり、出てはくれない。独特の草木の匂いが立ち込める空間で、立ち働く新右衛門。大人しくそばで腰掛けて待っていたら、無言で血止めの軟膏を持ってきて、膝に塗ってくれる。冷たい軟膏と温かい新右衛門の指の感触、そして間近で俯く、整った顔。全てが朧をどぎまぎさせ、沈黙は広がるばかり。

(思い出すなあ、あの夜のこと)

 初めて出会ったのは、昨年の冬。淡く優しい月光に照らされた雪原で、新右衛門は自分を助けてくれた。あの時も、こうして手当てをしてもらったっけ。

 思い出に浸り、うっとりとしていた朧は、突然額を小突かれて我に返った。

「終わったから、とっとと帰りや」

「いっ、いやです、新様のお手伝いを――」

「あかん。どんくさい子供にできることなんか何もない。はよう帰れ」

「……子供じゃないもん!」

 突然声を荒げた朧を、新右衛門が驚いたように見つめる。彼は、二十を数えたばかりの青年にふさわしい風貌をしている。

「里でも、このくらいでお嫁に行ってる女の子はいっぱいいるでしょう? それに朧は本当に――」

「たとえそうやとしても、俺にとったら子供や。お前は……子供にしか見えへん」

 気を取り直したように言う新右衛門。ぐっと唇を噛んで、朧はまた向けられた背中に飛びついた。そのまま、ぎゅうと力を込めて両腕を絡める。

「じゃあ、どうしたら大人に見えるの? いつになったら新様は、あたしを受け止めてくれるの……?」

一瞬だけこわばっていた背中から力を抜き、新右衛門が振り向いた。必死の抱擁は、大きな両手で簡単に解かれてしまう。

「まがりなりにも嫁入り前の娘が、こんなことするもんやない。里のやつらに見られたら、どんな噂が立つか……」

「噂になったっていい! だって朧は――」

 懸命に背伸びをして訴えようとした顔は、それでも新右衛門の胸の辺りまでしか届かない。悔しくて悔しくて、朧の目に涙が込み上げた。

「新様が好き……こんなに好きなのに」

「おい――」

 困ったような顔で、新右衛門が背をかがめる。頬を伝い始めた朧の涙を拭うべきかそうせざるべきか、持ち上がった指は逡巡しているように見えた。

「どうして、名前も呼んでくれないの? 新様なんか……新様なんか、大嫌いですっ!」

 飛び出していった朧を、新右衛門は追わなかった。木戸の隙間から、林の入り口に人影が待っているのが見えたのだ。

「言うてることが矛盾しとるで……あの阿呆娘」

 ふっと苦笑し、漏らされた彼の呟きは、走る朧にはもう聞こえなかったのだった。


 涙をいっぱいにためて駆けてきた朧を、人影――老齢の尼僧が抱きとめた。白い頭巾の下から、優しげな表情で朧を見つめる。

「また新右衛門はんに泣かされたんか? あんたも懲りへん子やなぁ」

「比丘尼様……」

 よしよし、と頭を撫でられ、朧は泣き崩れた。守るように背中を押されながら、とぼとぼと帰途に着く。帰るのは小さな尼寺、月尚寺げっしょうじだ。

「はあ、新右衛門はんはあんたを子供やて?」

「そうなんです~そうとしか見えないって。だから相手にしてくれないんです~!」

「そりゃしゃあないなぁ。わたしにもあんたは子供にしか見えへんし」

「そんな……比丘尼様ぁ」

 この里へ来てから、母とも祖母とも慕う比丘尼にまで言われてしまい、朧はむくれた。

「まあまあ、可愛らしい顔がだいなしやで? せやけど、一つだけあんたには見えんで、わたしには見えること教えたろ」

「……何ですか?」

「新右衛門はんがこの山里へ来たんは、もう二年くらい前やったかなぁ。あの通りの美男子やし、京の町一番の紺屋さんの出や、言うて、そりゃあこの辺のおなごは皆大騒ぎしたもんや。それでもあのひと、嬉しそうな顔の一つも見せんでなぁ。愛想はないわ、露骨に避けるわ……しまいには人嫌いや言うて皆があきらめてしもたんや」

「そうなんだ……」

「そんなおひとが近頃は少し――いや、かなり変わりはった。朧、あんたが来てからやとわたしは思うで?」

「ほ、本当に?」

 比丘尼はにっこりとして頷く。身寄りのない朧を招きいれてくれた時と同じ、温かな笑みだった。

「そうそう。だから、この又兵衛さんが一肌脱いであげましょう。どーんと任せておきなさいって!」

「またあんたは……尼寺に男子禁制や言うてるのに」

 呆れ顔の比丘尼に舌を出し、開けた障子の隙間から又兵衛が笑った。

「時に朧ちゃん、『桜娘』って知ってるかい?」

 瞳を瞬かせた朧の前で、比丘尼と又兵衛は意味ありげに視線を合わせたのだった。

          *

 遠く、祭囃子が聞こえている。

 新右衛門は余分な染料をすすぐ手を止め、川から上がってきた。そろそろ夕七つ(午後三時~五時の間)、馴染みの尼僧からの特別な頼まれ物を届けに行く頃合だった。

 月尚寺へ向かう緩やかな上り坂には、既に里の若い男女や子供たちの姿がちらほらと見える。今日は里の春祭り――桜月夜さくらづきよの晩。年に一度、この小さな山里が盛り上がる夜なのだ。

(俺には関係ないことやけどな)

 ふう、とため息を一つ吐くと、新右衛門は持参した布包みを見やった。

「おうおう、やっと来たか新右衛門。待ちくたびれたぞ。先方さんがお待ちかねだ。早く早く!」

 いきなり背中を押され、坂を駆け上がるように上らされる。抗議しようとした時には境内に足を踏み入れていた。常に気安く立ち入っては怒られている不届き者の又兵衛はさておき、今夜に限っては宴のため皆に解放されている。

「おい、なんや勝手に――比丘尼様は? 届けるだけやのに、何でこんな裏まで……」

 半ば強制的に連行された先は本堂の裏、僧侶たちの宿坊だった。今日は、祭の準備に使われている。からりと開けられた障子の向こうに見えた人影に、新右衛門は息を呑んだ。

「……お、前」

 かろうじて、声はいつもの呼び名を紡いだ。危うく、ずっと以前から懇願されている名を口の端に載せるところだった。それほどにその相手――朧は、暮れゆく夕日を受け、印象を変えて見えたのだ。

「新右衛門はん、例の品を」

「あ……は、はい」

 比丘尼に穏やかに促され、新右衛門は包みを開け、用意してきたものを手渡した。

桜の花びらが刺繍された、淡い桜色の打掛うちかけだ。濃い桜色の小袖姿で待っていた朧の肩にはおらせ、比丘尼が手際よく着付けていく。普段二つ結びにしていただけの髪もきちんと後ろに結い上げられ、揃いの桜色をした元結もとゆいで留められている。そのせいなのかどうか、いきなり大人っぽくなったように見えたのだ。

「新様」

 鈴の鳴るような声で呼ばれ、我に返る。小首を傾げ、微笑んだ朧の頭上で、桜模様のかんざしが可愛らしく揺れていた。まるで桜の精か化身とでも表されるべき装いは全て、桜月夜の晩のため。祭の主役を務める娘――『桜娘』にだけあつらえられたものだった。

「あたし、新様のために舞いますから――見ていてくださいね」

 朧がやわらかく微笑む。薄く染まった頬は、着物の色を映したかのような色だった。

(なんで……また、俺の前に現れるんや?)

 新右衛門の脳裏に、可憐な娘の舞姿が蘇る。同じ衣装の、容姿の異なる娘の笑顔――それは、二年前に失った初恋の面影だ。

『絶対に忘れへん。うちの心はいつまでも、新右衛門はんのもんや』

 そう涙ながらに言い残し、京から江戸に下向し、大奥入りした恋人。もはや思い出すまいと誓い、心の奥底に封じ込めたはずの記憶は、容姿も性格もまるで違う不思議な少女によって再び蘇りつつあった。彼女の無邪気さがそうさせるのか、笑顔で慕われるこそばゆさが似通っていたからなのか――当の新右衛門本人にもわからない、心境の変化だった。二度と心を乱さぬよう、苦しまなくても済むように、町の紺屋を辞めてこんな山深い里で隠者のような生活をしているにも関わらず、である。

(いや……他でもないあいつの田舎に来てしもた時点で、あきらめきれてへんかったんかもしれん)

 懐胎の兆しが見られるとかなんとか、風の噂で聞いたというのに――。

「綺麗でっしゃろ、新右衛門はん」

 しわがれた穏やかな声に、新右衛門は瞬きをした。固まったまま、目を奪われていたのだ。里の皆がぐるりと取り囲んだ舞台に上った、愛らしい少女の姿に。

「比丘尼様……」

 複雑な思いがこもった新右衛門の声音に、老いた尼僧は微笑する。

「もう、ええかげん許してあげてもええんとちゃいますか?」

「許す?」

「あんたは自分のことをずうっと責めとる。好きおうた娘を守りきれんかった、ゆうことが心にひっかかっとるんやな。けど――想い続けるんと、囚われ続けるんとは別の話や。あんたが今、惹かれとるんは誰なんか……もうそろそろ答えが出とるんやないかと、わたしは思いますけどな」

 言葉は心に染み入り、新右衛門の胸を突く。いつのまにか祭囃子は止み、聞こえ始めたのは深遠で美しい尺八の音色。どっしりとした桜の大樹――月尚寺のご神木は満開を迎えていた。丸い舞台にはらはらと花びらが降り積もり、まるで美しい花筵はなむしろが敷き詰められたようだった。

桜吹雪の中、朧がゆったりと舞っている。右手には作り物の桜の枝――花の間に結び付けられた鈴から、しゃらんしゃらんと小さく高い音がする。

 桜娘、と呼ばれる舞の演目は、昔からこの里に語り継がれる伝承に由来を持つものだ。

 好きあう若い男女が戦で引き裂かれ、男が帰った時にはもう女は死んでいる。嘆き哀しむ男を憐れんだ桜の大樹が、彼のために季節はずれの花を咲かせた――というのが表向きに伝わる話。だがもう一つ、桜の精が男に報われぬ恋をしていた、という結末もある。切なく優しい桜の精の想いを踊りにしたのが、この舞だった。かつて、恋した娘が舞って見せてくれたもの――。

『新様』『新右衛門はん』

 ふわりと打掛の裾が膨らみ、揺れ動くたびに聞こえる、二つの呼び声。どちらが大きいのか、どちらが近いのか、わからぬままに新右衛門の胸は苦しく、高鳴っていく。自分が染め上げた桜色の打掛が、そのまま娘の恋心を伝えてくるようにさえ感じた。純粋でまっすぐな、深い想い。新右衛門がいくら拒絶しようとしても、それは固い心の扉を開き、彼の中のこごりを優しくほぐそうとするかのようだった。

「もう、やめてくれ……!」

 両の耳を押さえ、突然叫んだ新右衛門の声に、尺八の音色は止まった。舞をやめた朧が、驚いた顔で見つめてくる。

 駆け出し、逃げて逃げて――たどり着いたのは一面の菜の花畑。いつしか月が昇り、周囲を静かに照らしていた。

(俺は、もうあんな苦しい思いはしたくない。愛しい娘の手を離す、心裂かれるあの痛みは二度と――)

 うまくやってきたはずだった。誰とも深く関わらず、山にこもって、ただ染物とだけ対峙する日々。大きな仕事はできずとも、元々地道に働くほうが性に合っていた。だから撥ね付け、まるで関心のないふりをし続けてきたのに。

 いつのまに、あんなに切ない顔をするようになったんだろう。常と異なる、女としての顔を見せられて、自分がこれほどに動揺するなんて、と新右衛門は重いため息を吐いた。その刹那だった。

「大変や、新右衛門っ! あの子が、朧ちゃんが……!」

 自分を捜していたらしい里の若い衆が、血相を変えて叫んだ。その名と只事ではない様子に、今まで迷いに止まっていた新右衛門の足は動き、駆け出していたのだった。


「朧ちゃんなら、もういないよ」

 勢い込んで戻った新右衛門が問いただす前に、又兵衛は指差した。舞台中央に落ちた、桜色の打掛を指し示して。

「あの子は――桜の精だったんだ。お前への報われない想いに耐えかねて、皆の前で忽然と消えちまった。花が全て散れば、儚くなる命だったんだ」

「そんなまさか、嘘……やろ」

「嘘やない」

 又兵衛は、時折思い出したように話す京言葉できっぱりと言う。それは、彼の本心を表している時に限られたもので――。新右衛門はがっくりと膝を突き、主人のいなくなった打掛を握り締めた。

 朧――あの娘が里にやってきたのは、冬の終わり。寒さに耐えてきた木々に、新芽が顔を出す頃だった。まるで新右衛門の心の冬を追い出し、暖かな春を運んできたかのように朧はいつも微笑み、自分をまっすぐに慕い続けた。

 比丘尼の遠縁で、一時だけ預かっているのだという話を信じていた。だから、すぐに自分の前から去っていくに違いない、と。なのに――。

「堪忍え、新右衛門はん。あの子の正体は、話さへん約束やったんや。あんたがもう少しだけはよう、気持ちを決めてくれとったら、あの子は想いが実って人間になれたかもしれんのに……」

 もう全ては遅い、終わったことや。そう深く嘆いた比丘尼の前で、新右衛門は呆然としていた。ゆっくりと首を左右に振り、自分の両手を見下ろす。食い入るように、睨みつける。

(俺は、また失うんか。意気地のないばっかりに、芽生えた想いにも蓋をして――ほんまはあの手を取りたかった。名前も、呼びたかったんや……!)

 大きな大きな桜の樹。静寂と月光にだけ包まれているその大樹の根元に伏せ、新右衛門はいつまでも唇を噛んでいた。


 時は巡り、季節は移り行く。桜が散り躑躅つつじが咲いて、それの枯れる頃には紫陽花が盛りを迎えた。江戸へ行ったかつての恋人――将軍のご側室急逝の報せが届いたのも、その頃だった。急な病によるもので、手の施しようがなかったという。

 心に開いた穴は深くなり、ひしひしと自身の無力さを噛み締めた。けれど、新右衛門は気づいていたのだ。遠い思い出の娘より、本当は誰を想い始めていたのかを――。

 そしてまた、花の季節がやってきた。

 幾月も作業小屋にこもりきりでいた新右衛門が出てきたのは、ぼんやり月のかすんだ晩だった。

「ああ……今年も咲いたんやな」

 誰もいない月尚寺の境内、変わらずそこにあるご神木の前に佇み、新右衛門は微笑んだ。その手に持っていたのは、裾を淡く、上に行くごとにその桜色を濃くしていく、世にも美しい打掛だった。

 おそらくは、今までに誰も見たことのない絞り染め――これこそ、新右衛門の考案した手法。あの少女を想いながら、何度も何度も失敗して、ようやく染め上げたものだったのだ。

「月が綺麗や。そうやろ? ……朧」

 淡く優しい月と同じ、その名前。初めて口に出し、ふわりと桜の幹に打掛をまとわせてやる。同じ桜色の布紐でくくりつけ、見上げた新右衛門の視界に、はらはらと花びらが舞った。

 やわらかな春の風に頬を撫でられ、新右衛門は顔をゆがめる。こんなことぐらいしか、もう自分にしてやれることはない。自分の一番の技術で、贈り物をするぐらいしか――。空しさに新右衛門が俯いた、その刹那だった。コン、と甲高い声が聞こえ、振り向く。

「お前……もしかしてあの時のやつか? 久しぶりや――元気やったんやな」

 こちらにおそるおそる寄ってきたのは、ふわふわした毛並みの小狐。昨年の冬、猟師の罠で深手を負ったところを助けてやったことを思い出した。丸い目で自分を見上げ、鼻をすりつけてくる様子がなんだか似ている、と思った。

こんな風にいつまでも少女の面影を追っていることに苦笑して、新右衛門は樹に巻きつけていた布紐を解いた。胸に込み上げる苦しさと懐かしさを、せめてほんの小さな愛らしい動物に癒してもらおうとでもするかのように。朧月夜を想像して染めた打掛を、小狐に被せてやった。そうして、こちらを見上げる小さな頭を撫でようと――その瞬間。

「新右衛門様……新様……っ!」

 いきなりのことに、身動きはおろか声さえも出なかった。目前で小狐が――追い求めていた少女の姿に変わり、胸に飛び込んできたのだから。

「はい、めでたしめでたし、と。いやあ、これも俺様のおかげだな。なあ? お袋――いや、元祖『桜娘』さん、なんつって」

 障子の内側で笑った又兵衛に比丘尼が並ぶ。人の姿となった、桜の大樹の化身が。比丘尼はにんまりと笑い、答えた。

「狐も桜も、恋の力で人にもなれる、言うことやな」

事の真相を新右衛門が知るのはまだ少し先――今の彼に見えるのは、突然戻ってきた愛しい少女、朧の姿だけだった。

「やっと名前、呼んでくれた……あたし、もう離しませんからね、新様!」

 力いっぱい抱きつかれ、放心していた新右衛門は苦笑した。次の瞬間、彼も精一杯その華奢な体を抱き返す。打掛と同じ桜色に染まった少女の頬を、そっと包み込んで。

「京の町一番ともうたわれる紺屋新右衛門を騙すやなんて、百年早いで。この礼は、たっぷりさせてもらうからな」

「はい、新様――いくらでも!」

 見つめ合い、同時に笑った二人は、そうっと唇を合わせる。朧に染まりし春の夜は、静かに更け行く――。

          *

 ――時は寛文、場所は京都。紺屋新右衛門が考案した絞り染めの新手法は、朧染めと名付けられた。その影にこんな恋物語があったのかどうかは、伝えられていない――。

             (了)


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― 新着の感想 ―
[一言] いつも某つぶやき場でお世話になってます すごく素敵なお話でした! 朧ちゃん健気でかわいいし、新右衛門の京言葉、素敵です。又兵衛さんともやりとりも笑えます! 気になった点は、朧が姿を消した…
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