シェラハザード~不幸を呼ぶ女と呼ばれた私が、ガチで本物の不幸な女神だった件~
――遠い昔。
世界には二人の神が坐した。
世界創造の男神サンガイアー。
生命進化の女神ママリス。
サンガイアーは大地を作り、空を作り、海を作り、世界を作った。
ママリスは獣を作り、鳥を作り、魚を作り、人を作った。
サンガイアーは世界を見守り、ママリスは生き物を慈しんだ。
いつまでも続くかと思われた、神々に見守られた穏やかな日々は、ある日、突然に終わりを告げた……夫婦喧嘩である。
原因はサンガイアーが外の世界へ出掛けたこと。
彼が不在の間、暇を持て余したママリスは、共有財産に手を出した。
背徳感は彼女を大いに満足させた。
帰って来たサンガイアーは、ママリスを窘めた。
ママリスはサンガイアーが居なかったから、自分が管理して当然だと開き直った。
サンガイアーは返却を求めた。
ママリスは返却を断った。
…後はお決まりの夫婦喧嘩である。
ママリスは共有財産を使って手に入れた力で、生き物を狂暴化させ、魔物を生み出し、死体を起き上がらせた。
その軍勢を以て、サンガイアーを尻に敷こうと目論んだ。
サンガイアーは異世界帰りの御土産、ロボット軍団を以て対抗した。
夫婦喧嘩は、世界中を巻き込んだ。
海は荒れ、空は暗雲に覆われ、広大だった大地は幾つもの大陸に割れていった。
中々決着が着かないことに業を煮やしたママリスは、小指に大量の力を込め、切り札となる小神を生み出した。
自分が弱くなっては元も子も無いので、特に普段使わない光の力を込めた。
小神エロイン。
彼は大きな力を以て生まれた。
ママリスの力も多少は衰えたが、勝敗は喫したも同然。
ママリスは勝利を確信した。
サンガイアーは敗北を確信した。
…しかし現実は非情である。
エロインはママリスを裏切ってサンガイアーに就いた。
一気に戦力は逆転した。
ママリスが死ぬと、狂暴化していた生き物は穏やかな心を取り戻し、魔物も力を失い、死体は大地に還った。
サンガイアーは悲しみに暮れて世界を後にした。
残された世界で、ママリスの遺体から九柱の神々が生まれた。
空の神、エアミスリード
海の神、アックア
森の神、モフガオ
月の神、ウサコ
風の神、ゼピュロス
火の神、ヒーロー
死の神、ディス
邪の神、サルーミン
夜の神、シェラハザード
光の神エロインを含む十柱の神々は世界を見守った。
獣は森を駆け、鳥は空を飛び、魚は海を泳ぎ、人は街を作った。
獣は群れを作り、鳥は風に歌い、魚は大海原を謳歌し、人々は愛を語る、そんな平和も長くは続かなかった……兄弟喧嘩である。
天邪鬼なサルーミンは、平和が詰まらなかった。
死を慰めるディスは、平和で寿命が延びると暇だった。
静かに夜を包むシェラハザードは、恋愛脳が耳障りだった。
ママリスの性格を色濃く受け継いだ彼らは、世界を大いに乱した。
サルーミンは魔物を活性化させ、ディスは死体を起き上がらせ、シェラハザードは恋愛脳を狂わせた。
エロインはそれを止めようとした。
モフガオとヒーローは血気盛んに参加して兄弟喧嘩を楽しみ、ウサコは切れてレーザーを乱射し、ゼピュロスは気ままに風を吹き、蚊帳の外のアックアは地団太を踏んで大嵐を起こし、エアミスリードは空気を読んで黙っていた。
嘗ての夫婦喧嘩を彷彿とさせた兄弟喧嘩も、長くは続かなかった。
ゼピュロスとエアミスリードが駆り出されて、戦力の拮抗は崩れ、ディスとシェラハザードが降参した。
サルーミンは最後まで抵抗を続けた。
そこで、エロインは兄弟に協力を求めた。
九柱の神々は力を込めて、十個の封印石を生み出し、その力を以てサルーミンを封印した。
ディスは冥府で死者の管理に専念し、シェラハザードは力を失い姿を消した。
モフガオとヒーローは闘争を求めて外の世界に旅立ち、ウサコは月を目指して旅立ち、ゼピュロスは風に吹かれて異世界に召喚され、アックアは海の底で割れ目に吸い込まれ、エアミスリードは空気を読んで姿を消した。
そして世界は平和になった。
――昔話である。
サンガイアーが作り出した世界、サンガイアス。
ママリスより生まれた神々、ママコンが姿を消した世界で、今、新たな物語が始まる…。
* * *
「――うちで働きたいだって?」
パブの女将が胡乱な視線と声で、目の前の旅の女に言った。
「…はい」
女は幸の薄そうな声で答えた。
女の名はリリシェラ。
サンガイアスでは珍しい漆黒の髪に、白いリボンを混ぜて編み込んでいる、見目麗しい若い女。
黒は悪と不幸の象徴。
白は正義と幸運の象徴。
縁起が悪いとされる漆黒の髪を、白いリボンの差し色で誤魔化している。
「うちは甘く無いよ」
女将は冷たく突き放した。
縁起の悪い黒髪の女とは言え、一方的に当たれば彼女の評判に傷が付く。
「いやお前、この子は…」
女将の夫がリリシェラに気付いた。
「なんだい? お前さんの浮気相手かい?」
女将の目が細められる。
「いや、その……何でも無い」
夫は何か言い掛けたが、妻を説得できる自信が無く言い淀んだ。
女将は怪訝そうな目で彼を見た後、客の目に気付いた。
昼間とは言え、休憩中の職人や、酔っ払いの姿がある。
「いいだろう。でもヘマをやったら直ぐに追い出すからね」
女将は世間体を気にして、リリシェラの仮採用を認めた。
「…ありがとう」
リリシェラは言葉少なに、感謝を示した。
女将は肩を竦めた。
リリシェラはエプロンを受け取り、仕事の説明を受けて、パブのウェイトレスになった…。
「――そんな馬鹿な…」
女将は驚愕した。
リリシェラの仕事は完璧だった。
表情こそ乏しく、動作も緩慢なものの、その動きには全く無駄が無く、客が増えても注文ミスも配達ミスも無く、通路が埋まっても華麗に客を避けて料理を運んだ。
「一体何者なんだい…」
女将が呆然と呟く。
「やっぱり知らなかったのか」
夫が溜め息を吐いた。
女将が振り返ると、彼は偉そうに教えた。
「彼女が伝説の黒髪のウェイトレスだよ」
女将も聞いたことはあった。
このウロウロ地方に、何百年も昔から伝わる、伝説のウェイトレス。
けれど、その最後の目撃証言は十年以上も前のこと。
当時はまだ、結婚前のうら若き乙女だった女将は、既にパブで働いていた夫と違って、リリシェラを見たことが無かった。
「…本当に同じ姿なんだな」
その夫にしても、当時の記憶と変わらない姿に驚いていた。
「?」
当のリリシェラは彼に見覚えが無く、不思議そうに彼を見返すのだった…。
* * *
深夜。
夜が更けると店は閉まり、リリシェラは賄いと物置のような部屋を与えられた。
部屋の中には、町の大工が作った、古惚けたベッドと机と椅子が一組あるだけ。
パブの旦那は、以前も使った部屋だと言っていた。
小さく弱い蝋燭の光が、狭い部屋を照らす。
その蝋燭は彼女の働きに対する、女将の正当な評価だった。
「…やっぱり」
今日の分の日記を書き終えたリリシェラは、遡って読み進め、あるページを見て呟いた。
そこには、パブの旦那の名前が書かれていたが、彼女の記憶には無い。
「…やっぱり覚えていない」
リリシェラはもう一度呟き、日記から顔を上げた。
彼女は記憶が無い。
と言っても、全ての記憶が無い訳では無く、ある時期より昔のことを覚えていないだけ。
それだけなら若者でも当たり前のことだが、彼女の場合、常に十年より前の記憶が無い。
彼女がそれを疑い始めたのは十年以上も前のこと。
それまでも、身に覚えのない相手から、馴れ馴れしく話し掛けられることはあった。
最初は、また自分を襲った男の一人かと思った。
女一人旅を続ける不吉な黒髪の彼女にとって、見知らぬ男に襲われることは珍しくなく、一々顔を覚えてもいない。
しかし、その男は違った。
『またうちの店で働いてほしい』
話を聞いて疑問を覚えた彼女は、日記を付け始めた。
十年以上ともなると、思い出せないことを、代わり映えの無い日常で確かめることは難しい。
彼女は定期的に町を巡ることにして、その結果が今日判明した。
ギイッ
リリシェラは天井を仰ぎ見た。
古惚けた椅子が、彼女の軽い体重すら耐え切れないと悲鳴を上げる。
天井には、珍しい花のような染みがあった。
しかし、日記にも描かれているそれを、彼女は覚えていない。
「…丁度十年」
一日のズレも無かった。
丁度十年前の記憶が無い。
考えてみれば、可笑しな話だった。
身寄りの無い女が、何故、一人で旅を続けていられるのか。
不吉な黒髪の旅の女。
誰かが庇っても、同じ土地に長くは居られない。
見目麗しくても、権力者に見初められることも無い。
男に襲われたことも、獣に襲われたことも、数え切れないほどある。
しかし、その後で何があったのかは記憶が曖昧で、未だ無事に旅を続けている。
今までは、それを疑問に感じることすら無かった…。
ぶるっ
リリシェラは得も知れぬ恐怖に身を震わせ、自分の肩を抱いて眠った…。
* * *
そんなある日、一つの城塞が魔物に因って陥落した。
人々は口々に邪神の復活を噂し、その噂はやがて、ウロウロの町にも伝わって来た。
邪神は悪の象徴。
そのイメージは言わずとしれた黒。
町の人々は、黒髪のリリシェラを不吉の前兆と忌避した。
パブの女将や旦那は庇ったが、店の客足は落ち、居た堪れなくなった彼女は、人目を避けるように町を出た。
町を出ても、彼女には行く当てが無かった。
今の世の中、どこの町へ行っても、同じことの繰り返し。
彼女はやがて、死に場所を求めるようになった。
しかし、獣に襲われても、男に襲われても、魔物に襲われても、海に沈んでも、飢えに倒れても、気付くと彼女は誰も居ない地で生きていた。
そして彼女は…。
「…ここが《夜の神》の神殿…」
《夜の神》の神殿へ行き着いた。
嘗て世界を混沌に陥れた、邪悪なる神の一柱。
その力なら、或いは自分を終わらせてくれると信じて。
例え伝承のように狂わされたとしても、得も知れぬ恐怖に怯える日々から解放されると信じて。
本当は死の神の神殿の方が良かったが、そちらは噂すら耳にしなかったので、彼女は旅の中で噂に聞いた、《夜の神》の隠れ神殿へとやって来た。
神殿は大都市の地下、広大な下水路の奥深くにあった。
石造りの壁は古く、少なくとも数百年以上の歳月を感じさせる。
下水に住む獣や魔物たちも神殿に畏れを為し、決して近付こうとはしない。
ゴクリッ
リリシェラは口の中に溜まった唾を飲み込むと、意を決して神殿に入った。
神殿の中は、仄かな明かりと静寂に包まれていた。
生き物の気配がまるで無く、ネズミやコウモリ、虫の姿すら無い。
リリシェラは一瞬、自分が死の神の神殿へ迷い込んでしまったのかと思った。
また、神殿は地下とは思えないほど広かった。
無論、大都市の大神殿に比べるべくも無いが、等間隔に並んだ柱と魔物の像しか無い空間は、彼女に実際以上に広く感じさせた。
「――誰だ?」
神殿の奥から男の声が聞こえた。
リリシェラが目を凝らすと、見覚えの無い神官衣を着た男が居た。
そこで彼女は初めて、壁沿いに並ぶ蝋燭に火が灯っていることに気付いた。
「ここは《夜の神》の神殿。稀人の来るべき場所では無い。帰るが良い」
尊大だが高慢では無い、諭すように朗々と語られる言葉。
それは彼が本物の神官であることを如実に物語っていた。
「私は…」
リリシェラは言葉に詰まった。
覚悟はして来たが、誰かが居るとは夢にも思わなかったのだ。
「迷い人か」
神官は小さく溜め息を吐くと、懐から小さな袋を一つ取り出した。
袋には魔物が嫌う臭いの元が入っている。
「これを持って行くと良い。一刻ほどは魔物が寄って来な…!」
神官は小さな袋を手渡そうとリリシェラに近付いて、その顔を見た瞬間、言葉を失った。
「まさか、貴女様は…?」
「?」
ポサッ
動揺した神官の手から、小さな袋が落ちる。
それはとても小さな音だったが、静寂に満ちた神殿では思いの他大きく響き、彼はその音を耳にして我に返った。
「ここにはどういった要件で参られたのですか?」
急に下手に出た神官に、リリシェラは小首を傾げた。
彼女も心細かったのだろう。
ここまで来て隠す意味も無かった彼女は、素直に神官へ来訪の理由を告げた。
「私には記憶がありません…」
十年前から消えていく記憶。
いつからともなく続けている旅。
不幸を呼ぶと人々から疎まれ、八つ当たりされる日々。
どんなに苦しくても、終わることの出来ない命…。
彼女は《夜の神》の寵愛に依って、得体の知れない自分自身から解放されることを望んで、この神殿に来たことを告げた。
黙って話を聞いていた神官は、彼女の話が終わると口を開いた。
「貴女様が望むなら、その指輪を外しなさい」
神官がリリシェラの左手を指差した。
彼女の左手の薬指には、燻んで碌に価値の無い、ダイアモンドの指輪が嵌っている。
「指輪…?」
彼女は指輪を見た。
彼女自身、意識しなければ忘れてしまう指輪。
何故か外そうと思ったことも無く、外した記憶も、誰かがそれを求めた記憶も無い。
「その指輪を外せれば、貴女様は力と記憶を取り戻すことでしょう」
神官の言葉にリリシェラは訝しんだ。
彼女は只死なないだけの、不幸を呼ぶ女。
学がある訳でも、腕力に優れている訳でも無い。
記憶は兎も角、力と言われても意味が分からなかった。
けれど…。
「私は自分を知りたい…」
彼女には失うものは無かった。
スッ…
彼女が意を決して指輪に手を掛けると、指輪はあっさりと抜けた。
ブワッ
――その途端、彼女の全身から闇が溢れ出した。
夜空のように深い、負荷い、不可い……どこまでも全てを飲み込んでしまいそうな深淵の黒。
闇は中空で人の姿を形作った。
リリシェラとは似て非なる姿。
それは一言で言うならば、絶世の美女。
夜空のような黒髪は、薄暗闇にあって尚深く。
切れ長の光無き瞳と、命を感じさせない真っ白な肌は、それでもその美貌を損なうことは無い。
女性を強く感じさせる肢体は、直ぐに清楚で緩やかな衣に包まれ、美の化身は神殿に降り立った。
「おお…」
神官は我知らず、涙を流して跪いた。
それは人々の口から絶えて等しい、彼の信仰する《夜の女神》――
「シェラハザード様…」
シェラハザードは彼を見なかった。
光無き瞳でリリシェラを見下ろすと、その手を振り翳した。
手の平に闇が集まって行く。
それは人の使う魔術よりも根源的な、神々の力。
薄暗い神殿よりも更に深い、彼女自身の如き闇。
リリシェラは状況を理解できなかった。
それでも、望みが叶うことだけは理解し、長く感じていなかった安らかな気持ちで、《夜の女神》を見上げた。
神でも英雄でも無い、只の女に過ぎない彼女に、本物の女神に抗う術などありはしない。
《夜の女神》は手を振り下ろそうとして――
――神殿は光に包まれた。
《夜の女神》の黒では無い。
太陽の如き白でも無い。
それを例えるならば、蒼天の青。
どこまでも突き抜ける青空が、そのまま輝いたかのような青白い光。
その青白い光はリリシェラから溢れた。
光はやがて、彼女の頭上で人の姿となった。
リリシェラとは似て非なる姿。
それは一言で言うならば、絶世の美女。
蒼天のような青白い髪は、薄暗闇にあって尚眩しく。
穏やかな光満ちる瞳と、透けるような瑞々しい肌は、造形以上に若々しさを主張する。
女性を強く感じさせる肢体は、直ぐに身体に合った装いに包まれ、美の化身はその背中に青白い翼を広げて神殿に降り立った。
* * *
「エアミスリード様?!」
神官は自分が思わず口にした言葉を信じていなかった。
空の神エアミスリードは男神。
その信仰や伝承は一時も途絶えておらず、彼の神の主神殿には、今尚、立派な――空気を読んだ真面目な顔の――男神の像が立っている。
それならば、目の前の青髪の美の化身は何だと言うのか。
その神々しさは、《夜の女神》に勝るとも劣らない。
寧ろ客観的に見れば、陰気な《夜の女神》よりも神々しいとすら言えよう。
神官は信仰する女神と同じ女性から現れたそれを悪し様に捉えることに抵抗を感じ、心の中で《天の女神》と呼ぶことにした。
《夜の女神》は狙いを《天の女神》に変え、振り翳していた手を振り下ろした。
闇の塊が《天の女神》を襲い、彼女はそれを掴みながら横に薙ぎ払った。
弾き飛ばされた闇の塊は、神殿の壁にぶつかって、音も無く壁に大穴を開けた。
――それが戦いの合図となった。
《天の女神》が稲妻を落とせば、《夜の女神》が漆黒の帳でそれを防ぐ。
…神殿の床は、砕け散った。
《夜の女神》が香油の津波を起こせば、《天の女神》が灼熱の炎でそれを蒸発させる。
…リリシェラと神官が、油塗れになった。
《天の女神》が蜃気楼の鏡で神殿を照らせば、《夜の女神》は幻の霧でそれを覆う。
…その水滴で慌てて寝起きの顔を洗った。
《夜の女神》が狂気を呼び起こす夜風を歌えば、《天の女神》は大きな翼で羽ばたいて音を掻き消す。
…リリシェラのスカートが風に捲られた。
《天の女神》が空気の密度を圧縮すれば、《夜の女神》は吹雪でそれを拡散させた。
…加減を間違えて呼吸困難に陥った。
《夜の女神》が永遠の安らぎに誘う闇を広げれば、《天の女神》は全てを見通す目でその行く末に抗った。
…リリシェラと神官は寝かけたので小突いて起こした。
それは正に神話の如き戦いだった。
いつ終わるとも知れない一進一退の攻防は、しかし呆気ない最後を迎えた。
《夜の女神》の二度目の香油の津波を、《天の女神》の灼熱の炎は蒸発させ切れなかった。
彼女の力が尽きたのだ。
彼女は香油の波に押し流されて壁に打ち付けられた。
その姿は、最初に現れた時よりも希薄になっていた。
《夜の女神》は、ここぞとばかりに、両手に力を集めた。
彼女自身も希薄になるほどの力が、深い、負荷い、不可い闇となって凝縮され、《天の女神》に向かって放たれた。
彼女は勝利を確信し、表情に乏しい顔の口角が僅かに上がる。
リリシェラと神官も――油塗れの顔を拭きながら――決着を見届けようとした。
――その時。
《天の女神》の身体が光り輝いた。
身体全体では無く、左胸を中心に放たれた光は、白でも、黒でも、青でも、況してや虹色でも無かった。
それは例えるなら、漆黒の空に青い河のように煌く、静かな星々の輝き。
《夜の女神》が放った渾身の一撃は、その煌きに触れると霧散し、吸収された。
《天の女神》が両手を翳すと、そこに小さな煌きが集まっていく。
一粒一粒は小さな、夜空の星々のような光。
それは次第に集まって輝きを増し、太陽の輝きをも凌駕した。
《夜の女神》は両手を前に翳した。
その手に集まる闇は、先程とは比べるべく無く儚い。
《天の女神》が放った太陽は、《夜の女神》を包み込んだ…。
地下の太陽が消え去った時、《夜の女神》はボロボロで今にも倒れそうだった。
《天の女神》が彼女の下に歩いて行き、その身を優しく抱き締めると、彼女は初めて安らぎの表情を浮かべて……黒い霧となって霧散した。
黒い霧は《天の女神》に吸収されていく。
全ての闇が消え去ると、《天の女神》は今度はリリシェラの下へ向かった。
リリシェラに恐怖は無かった。
《天の女神》がリリシェラを抱き締めると、彼女も抱き返した。
《天の女神》は青白い光となって、リリシェラに吸収されていった…。
「貴女様は一体…」
唯一の部外者である神官は、片膝を付いて片手を胸に当てて恭しく、唯一の当事者に尋ねた。
その視線の先に居る女リリシェラは、やはり幸の薄そうな顔で悲しそうに語り始めた。
「私は…」
* * *
――遥か昔。
サンガイアーはこの世界、サンガイアスを創り出した。
ママリスはこの世界、全ての生命を生み出した。
いつしかママリスは世界を欲し、両者は対立した。
二柱の力は拮抗していた。
二柱の争いで、世界は未曾有の危機に陥った。
ママリスは状況を打開する切り札として、小指から光の神エロインを生み出した。
エロインはママリスに残った最後の良心。
エロインがサンガイアーに着いたことで、形勢は逆転。
ママリスは死に、サンガイアーはこの世界を去った。
残ったママリスの亡骸から九柱の神々が生まれた。
神々は世界を再生し、再び平和な日々が訪れた。
しかし、その平和も長くは続かなかった。
――千年前。
悪しき三柱の神々が魔物を操り、神々の王エロインと人類に戦いを挑んだ。
ディスとシェラハザードは神々の力に屈して降参した。
最後まで抵抗を続けたサルーミンを封印すべく、エロインは十個の運命石を作り、人間の英雄カーライルに与えた。
カーライルはサルーミンを封印したが帰らぬ人となった。
この英雄譚は伝説として、今も尚、人々の間に語り継がれている…。
「人々の伝承に残っているのは、千年前の戦争からですね」
夜の神の神官たる彼も、それ以前のことは余り知らない。
「はい。ですがこの話には前日譚が存在します」
「前日譚?」
神官は訝しんだ。
彼の信奉するシェラハザードが生まれる前に何があったと言うのか。
リリシェラは話を再開した。
――数千、数万、或いはもっと昔。
サンガイアーとママリスが生まれるより遥か昔。
世界には別の文明が栄えていた。
その文明は自ら生きる世界を壊し、そして自ら世界を作り直した。
しかし、それほどの力を持った、彼らの作り出した世界にも寿命はある。
永久不変のものなど、世の中には有り得ないのだ。
そこで彼らは世界を修復する装置を生み出した。
装置は普段は七十七の秘宝の姿で力を溜め、世界に寿命が近付くと目覚め、世界を修復してまた眠りに就く。
そんなことを遥か昔から繰り返して来た。
――年前。
サンガイアーとママリスは世界の修復に立ち会った。
秘宝は一つ一つでも強大な力を持ち、それを巡る数々の悲劇を見て来た彼らは、秘宝の管理を決意した。
彼らは秘宝を取り込み過ぎることが危険だと知っていた。
そのため、僅か数個ずつを取り込んで、残りを共有財産として保管した。
秘宝は僅か数個でも絶大な力を発揮し、サンガイアーは新たな世界を創り出し、ママリスは無数の生命を生み出した。
彼らにも油断があったのだろう。
サンガイアーは好奇心に負けて、ママリスを一人残して外の世界を見に行き、ママリスは現状に不満を抱いて、サンガイアーが留守の間に、更なる秘宝に手を出した。
帰って来たサンガイアーが、ママリスを窘めたのも当然である。
力に心を奪われたママリスが、サンガイアーに反論したのも当然である。
彼らは最初から完全な神々では無く、秘宝の力に因って神になった者たちなのだから…。
世界を巻き込んだ夫婦喧嘩は長く続いた。
ママリスは切り札として、エロインを生み出した。
無論、要らないもので切り札を作る者など居るはずも無い。
ママリスの全てを少しずつ受け継いだエロインは、正しくママリスの分身、ママリスの息子だった。
だからこそ、彼はママリスを裏切ってサンガイアーに着いた。
サンガイアーは愛するママリスの死を悲しんだ。
その亡骸から生まれた九柱の息子や娘、エロインには愛情を持ったが、同時に、一緒に居るとママリスを思い出して辛かった。
サンガイアーは息子たちに秘宝を分け与え、外の世界に姿を消した。
秘宝を七つずつ受け継いだ新しい神々は、その力で荒れ果てた世界を再生した。
しかし、一柱だけ現状に満足しない者が居た。
エロインである。
先の戦いの最大の功労者でありながら、何もしていない弟妹と同数の遺産しか遺されなかったことに、ママリスに最も近い彼は不満を抱いた。
エロインはサルーミン、ディス、シェラハザードを陰から唆して、他の弟妹と対立させた。
後に引けなくなったサルーミン一柱になると、エロインは嘯いた。
『サルーミンを殺すのは可哀想だから封印しよう』
弟妹はその提案に快く賛同した。
しかし、兄弟姉妹の力に決定的な差は無い。
エロインはサルーミンを封印するために必要と称して、弟妹に秘宝を一つずつ提供させた。
彼はその八つと自分の二つから十個の封印石を生み出した。
エロインは人間たちに神々の王を名乗り、神々が戦い続ければ世界が滅びると語った。
今更だったが、荒廃した世界の人々は神に縋るしか無かった。
そして人間の英雄カーライルが封印石を託され、その命と引き換えにサルーミンを封印した。
…これが伝説の真相である。
安眠を求めるシェラハザードに、エロインは安らぎを約束した。
彼の秘宝で作った封印石――ダイアモンドの指輪を鍵とし、彼女の力――秘宝の残り半数を以て、残りの力と記憶を封印することに因って…。
* * *
「エロイン…貴方は酷い方。安眠を約束しながら私を騙した…」
全てを語り終えたリリシェラハザードは、悲しげに呟いた。
彼女を殺そうとした《夜の女神》は、夜の神の秘宝の半分、封印を望んだ彼女自身の記憶と御業。
彼女を守ろうとした《天の女神》は、夜の神の秘宝の残り半分、世界の維持を担う大いなる古き力。
ダイアモンドの力も吸収した今の彼女には、嘗てのシェラハザードと同等の力がある。
――しかし、シェラハザードとしての記憶は取り戻したが、彼女自身の物でもあるその心臓は、今も尚、只静かに脈打つのみ――
「何故、天の女神が勝利したのですか?」
それまで黙って話を聞いていた神官は、先程の戦いの疑問を口にした。
「全ては必然です」
末妹だったシェラハザードは、ママリスの命の最期を以て生まれた。
そのため、最高の秘宝たる《天の女神》の心臓はシェラハザードに引き継がれ、《天の女神》はその力を以て《夜の女神》に打ち勝ったのだ。
シェラハザードが安眠を望む夜の神となったのも、世界の防衛機構たる《天の女神》の影響だった。
「まずはサル兄に会わないと。…でも何処に…?」
リリシェラハザードは俯いて独り言ちた。
当時封印されていた彼女は、サルーミンが封印されている地を知らない。
「フレイムファングの支配する火山へ行きなされ」
リリシェラハザードは顔を上げて、神官の顔を見た。
「彼の火山の地下深く、古の時代にヴァルハラと呼ばれた地に、死の神ディス様が坐します。彼の神ならば、何か知っているやも…」
この世界に残っている神は少ない。
封印されていたリリシェラハザード。
封印されているサルーミン。
死者を管理するディス。
そして全ての元凶……エロイン。
「ありがとう」
「シェラハザード様の行く末に、安らぎと安寧の世界が齎されんことを」
リリシェラハザードが礼を言うと、神官は恭しく頭を下げた。
それは仕える神に対しては、不適切とも言える言葉。
しかし、主人の望みが叶うことを願う、忠臣としては当然の言葉。
リリシェラハザードは神官に背を向けると、毅然とした足取りで、神殿の出口へと歩き出した。
そこにはもう、幸の薄そうな儚げな女の姿は無い。
そこにあるのは、長兄への復讐を心に誓った鬼妹の姿。
――復讐の鬼と化した女神の旅が、今、始ま
…らない。
「何故?!」
この物語が読み切りだからである。
記憶が戻っても、やっぱり不幸なリリシェラだった。




