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シェラハザード~不幸を呼ぶ女と呼ばれた私が、ガチで本物の不幸な女神だった件~

作者: 氷澄乖理
掲載日:2026/07/06

 ――遠い昔。

 世界には二人の神が(おわ)した。


 世界創造の男神サンガイアー。

 生命進化の女神ママリス。


 サンガイアーは大地を作り、空を作り、海を作り、世界を作った。

 ママリスは獣を作り、鳥を作り、魚を作り、人を作った。


 サンガイアーは世界を見守り、ママリスは生き物を慈しんだ。

 いつまでも続くかと思われた、神々に見守られた穏やかな日々は、ある日、突然に終わりを告げた……夫婦喧嘩である。




 原因はサンガイアーが外の世界へ出掛けたこと。

 彼が不在の間、暇を持て余したママリスは、共有財産(ふうふちょきん)に手を出した。

 背徳感は彼女を大いに満足させた。


 帰って来たサンガイアーは、ママリスを窘めた。

 ママリスはサンガイアーが居なかったから、自分が管理して当然だと開き直った。

 サンガイアーは返却を求めた。

 ママリスは返却を断った。

 …後はお決まりの夫婦喧嘩である。




 ママリスは共有財産を使って手に入れた力で、生き物を狂暴化させ、魔物を生み出し、死体を起き上がらせた。

 その軍勢を以て、サンガイアーを尻に敷こうと目論んだ。

 サンガイアーは異世界帰りの御土産、ロボット軍団を以て対抗した。


 夫婦喧嘩は、世界中を巻き込んだ。

 海は荒れ、空は暗雲に覆われ、広大だった大地は幾つもの大陸に割れていった。


 中々決着が着かないことに業を煮やしたママリスは、小指に大量の力を込め、切り札となる小神を生み出した。

 自分が弱くなっては元も子も無いので、特に普段使わない光の力を込めた。

 小神エロイン。

 彼は大きな力を以て生まれた。

 ママリスの力も多少は衰えたが、勝敗は喫したも同然。

 ママリスは勝利を確信した。

 サンガイアーは敗北を確信した。

 …しかし現実は非情である。

 エロインはママリスを裏切ってサンガイアーに就いた。


 一気に戦力は逆転した。

 ママリスが死ぬと、狂暴化していた生き物は穏やかな心を取り戻し、魔物も力を失い、死体は大地に還った。

 サンガイアーは悲しみに暮れて世界を後にした。




 残された世界で、ママリスの遺体から九柱の神々が生まれた。

 空の神、エアミスリード

 海の神、アックア

 森の神、モフガオ

 月の神、ウサコ

 風の神、ゼピュロス

 火の神、ヒーロー

 死の神、ディス

 邪の神、サルーミン

 夜の神、シェラハザード


 光の神エロインを含む十柱の神々は世界を見守った。

 獣は森を駆け、鳥は空を飛び、魚は海を泳ぎ、人は街を作った。

 獣は群れを作り、鳥は風に歌い、魚は大海原を謳歌し、人々は愛を語る、そんな平和も長くは続かなかった……兄弟喧嘩である。




 天邪鬼なサルーミンは、平和が詰まらなかった。

 死を慰めるディスは、平和で寿命が延びると暇だった。

 静かに夜を包むシェラハザードは、恋愛脳が耳障りだった。


 ママリスの性格を色濃く受け継いだ彼らは、世界を大いに乱した。

 サルーミンは魔物を活性化させ、ディスは死体を起き上がらせ、シェラハザードは恋愛脳を狂わせた。


 エロインはそれを止めようとした。

 モフガオとヒーローは血気盛んに参加して兄弟喧嘩を楽しみ、ウサコは切れてレーザーを乱射し、ゼピュロスは気ままに風を吹き、蚊帳の外のアックアは地団太を踏んで大嵐を起こし、エアミスリードは空気を読んで黙っていた。


 嘗ての夫婦喧嘩を彷彿とさせた兄弟喧嘩も、長くは続かなかった。

 ゼピュロスとエアミスリードが駆り出されて、戦力の拮抗は崩れ、ディスとシェラハザードが降参した。


 サルーミンは最後まで抵抗を続けた(あそびたがった)

 そこで、エロインは兄弟に協力を求めた。

 ()柱の神々は力を込めて、()個の封印石を生み出し、その力を以てサルーミンを封印した。




 ディスは冥府で死者の管理に専念し、シェラハザードは力を失い姿を消した。

 モフガオとヒーローは闘争を求めて外の世界に旅立ち、ウサコは月を目指して旅立ち、ゼピュロスは風に吹かれて異世界に召喚され、アックアは海の底で割れ目に吸い込まれ、エアミスリードは空気を読んで姿を消した。

 そして世界は平和になった。




 ――昔話である。


 サンガイアーが作り出した世界、サンガイアス。

 ママリスより生まれた神々、ママコンが姿を消した世界で、今、新たな物語が始まる…。











 * * *



「――うちで働きたいだって?」


 パブの女将が胡乱な視線と声で、目の前の旅の女に言った。


「…はい」


 女は幸の薄そうな声で答えた。


 女の名はリリシェラ。

 サンガイアスでは珍しい漆黒の髪に、白いリボンを混ぜて編み込んでいる、見目麗しい若い女。


 黒は悪と不幸の象徴。

 白は正義と幸運の象徴。

 縁起が悪いとされる漆黒の髪を、白いリボンの差し色で誤魔化している。


「うちは甘く無いよ」


 女将は冷たく突き放した。

 縁起の悪い黒髪の女とは言え、一方的に当たれば彼女の評判に傷が付く。


「いやお前、この子は…」


 女将の夫がリリシェラに気付いた。


「なんだい? お前さんの浮気相手かい?」


 女将の目が細められる。


「いや、その……何でも無い」


 夫は何か言い掛けたが、妻を説得できる自信が無く言い淀んだ。

 女将は怪訝そうな目で彼を見た後、客の目に気付いた。

 昼間とは言え、休憩中の職人や、酔っ払いの姿がある。


「いいだろう。でもヘマをやったら直ぐに追い出すからね」


 女将は世間体を気にして、リリシェラの仮採用を認めた。


「…ありがとう」


 リリシェラは言葉少なに、感謝を示した。

 女将は肩を竦めた。

 リリシェラはエプロンを受け取り、仕事の説明を受けて、パブのウェイトレスになった…。




「――そんな馬鹿な…」


 女将は驚愕した。

 リリシェラの仕事は完璧だった。

 表情こそ乏しく、動作も緩慢なものの、その動きには全く無駄が無く、客が増えても注文ミスも配達ミスも無く、通路が埋まっても華麗に客を避けて料理を運んだ。


「一体何者なんだい…」


 女将が呆然と呟く。


「やっぱり知らなかったのか」


 夫が溜め息を吐いた。

 女将が振り返ると、彼は偉そうに教えた。


「彼女が伝説の黒髪のウェイトレスだよ」


 女将も聞いたことはあった。

 このウロウロ地方に、何百年も昔から伝わる、伝説のウェイトレス。

 けれど、その最後の目撃証言は十年以上も前のこと。

 当時はまだ、結婚前のうら若き乙女だった女将は、既にパブで働いていた夫と違って、リリシェラを見たことが無かった。


「…本当に同じ姿なんだな」


 その夫にしても、当時の記憶と変わらない姿に驚いていた。


「?」


 当のリリシェラは彼に見覚えが無く、不思議そうに彼を見返すのだった…。



 * * *



 深夜。

 夜が更けると店は閉まり、リリシェラは賄いと物置のような部屋を与えられた。


 部屋の中には、町の大工が作った、古惚けたベッドと机と椅子が一組あるだけ。

 パブの旦那は、以前も使った部屋だと言っていた。

 小さく弱い蝋燭の光が、狭い部屋を照らす。

 その蝋燭は彼女の働きに対する、女将の正当な評価だった。


「…やっぱり」


 今日の分の日記を書き終えたリリシェラは、遡って読み進め、あるページを見て呟いた。

 そこには、パブの旦那の名前が書かれていたが、彼女の記憶には無い。


「…やっぱり覚えていない」


 リリシェラはもう一度呟き、日記から顔を上げた。

 彼女は記憶が無い。

 と言っても、全ての記憶が無い訳では無く、ある時期より昔のことを覚えていないだけ。

 それだけなら若者でも当たり前のことだが、彼女の場合、常に(・・)十年より前の記憶が無い。


 彼女がそれを疑い始めたのは十年以上も前のこと。

 それまでも、身に覚えのない相手から、馴れ馴れしく話し掛けられることはあった。

 最初は、また自分を襲った男の一人かと思った。

 女一人旅を続ける不吉な黒髪の彼女にとって、見知らぬ男に襲われることは珍しくなく、一々顔を覚えてもいない。

 しかし、その男は違った。


『またうちの店で働いてほしい』


 話を聞いて疑問を覚えた彼女は、日記を付け始めた。

 十年以上ともなると、思い出せないことを、代わり映えの無い日常で確かめることは難しい。

 彼女は定期的に町を巡ることにして、その結果が今日判明した。


 ギイッ


 リリシェラは天井を仰ぎ見た。

 古惚けた椅子が、彼女の軽い体重すら耐え切れないと悲鳴を上げる。

 天井には、珍しい花のような染みがあった。

 しかし、日記にも描かれているそれを、彼女は覚えていない。


「…丁度十年」


 一日のズレも無かった。

 丁度十年前の記憶が無い。


 考えてみれば、可笑しな話だった。

 身寄りの無い女が、何故、一人で旅を続けていられるのか。


 不吉な黒髪の旅の女。

 誰かが庇っても、同じ土地に長くは居られない。

 見目麗しくても、権力者に見初められることも無い。


 男に襲われたことも、獣に襲われたことも、数え切れないほどある。

 しかし、その後で何があったのかは記憶が曖昧で、未だ無事に旅を続けている。

 今までは、それを疑問に感じることすら無かった…。


 ぶるっ


 リリシェラは得も知れぬ恐怖に身を震わせ、自分の肩を抱いて眠った…。



 * * *



 そんなある日、一つの城塞が魔物に因って陥落した。

 人々は口々に邪神の復活を噂し、その噂はやがて、ウロウロの町にも伝わって来た。


 邪神は悪の象徴。

 そのイメージは言わずとしれた黒。

 町の人々は、黒髪のリリシェラを不吉の前兆と忌避した。

 パブの女将や旦那は庇ったが、店の客足は落ち、居た堪れなくなった彼女は、人目を避けるように町を出た。


 町を出ても、彼女には行く当てが無かった。

 今の世の中、どこの町へ行っても、同じことの繰り返し。


 彼女はやがて、死に場所を求めるようになった。

 しかし、獣に襲われても、男に襲われても、魔物に襲われても、海に沈んでも、飢えに倒れても、気付くと彼女は誰も居ない地で生きていた。


 そして彼女は…。




「…ここが《夜の神》の神殿…」


 《夜の神》の神殿へ行き着いた。

 嘗て世界を混沌に陥れた、邪悪なる神の一柱。

 その力なら、或いは自分を終わらせてくれると信じて。

 例え伝承のように狂わされたとしても、得も知れぬ恐怖に怯える日々から解放されると信じて。

 本当は死の神の神殿の方が良かったが、そちらは噂すら耳にしなかったので、彼女は旅の中で噂に聞いた、《夜の神》の隠れ神殿へとやって来た。


 神殿は大都市の地下、広大な下水路の奥深くにあった。

 石造りの壁は古く、少なくとも数百年以上の歳月を感じさせる。

 下水に住む獣や魔物たちも神殿に畏れを為し、決して近付こうとはしない。


 ゴクリッ


 リリシェラは口の中に溜まった唾を飲み込むと、意を決して神殿に入った。




 神殿の中は、仄かな明かりと静寂に包まれていた。

 生き物の気配がまるで無く、ネズミやコウモリ、虫の姿すら無い。

 リリシェラは一瞬、自分が死の神の神殿へ迷い込んでしまったのかと思った。


 また、神殿は地下とは思えないほど広かった。

 無論、大都市の大神殿に比べるべくも無いが、等間隔に並んだ柱と魔物の像しか無い空間は、彼女に実際以上に広く感じさせた。


「――誰だ?」


 神殿の奥から男の声が聞こえた。

 リリシェラが目を凝らすと、見覚えの無い神官衣を着た男が居た。

 そこで彼女は初めて、壁沿いに並ぶ蝋燭に火が灯っていることに気付いた。


「ここは《夜の神》の神殿。稀人の来るべき場所では無い。帰るが良い」


 尊大だが高慢では無い、諭すように朗々と語られる言葉。

 それは彼が本物の神官であることを如実に物語っていた。


「私は…」


 リリシェラは言葉に詰まった。

 覚悟はして来たが、誰かが居るとは夢にも思わなかったのだ。


「迷い人か」


 神官は小さく溜め息を吐くと、懐から小さな袋を一つ取り出した。

 袋には魔物が嫌う臭いの元が入っている。


「これを持って行くと良い。一刻ほどは魔物が寄って来な…!」


 神官は小さな袋を手渡そうとリリシェラに近付いて、その顔を見た瞬間、言葉を失った。


「まさか、貴女様は…?」

「?」


 ポサッ


 動揺した神官の手から、小さな袋が落ちる。

 それはとても小さな音だったが、静寂に満ちた神殿では思いの他大きく響き、彼はその音を耳にして我に返った。


「ここにはどういった要件で参られたのですか?」


 急に下手に出た神官に、リリシェラは小首を傾げた。

 彼女も心細かったのだろう。

 ここまで来て隠す意味も無かった彼女は、素直に神官へ来訪の理由を告げた。


「私には記憶がありません…」


 十年前から消えていく記憶。

 いつからともなく続けている旅。

 不幸を呼ぶと人々から疎まれ、八つ当たりされる日々。

 どんなに苦しくても、終わることの出来ない命…。

 彼女は《夜の神》の寵愛に依って、得体の知れない自分自身から解放されることを望んで、この神殿に来たことを告げた。


 黙って話を聞いていた神官は、彼女の話が終わると口を開いた。


「貴女様が望むなら、その指輪を外しなさい」


 神官がリリシェラの左手を指差した。

 彼女の左手の薬指には、燻んで碌に価値の無い、ダイアモンドの指輪が嵌っている。


「指輪…?」


 彼女は指輪を見た。

 彼女自身、意識しなければ忘れてしまう指輪。

 何故か外そうと思ったことも無く、外した記憶も、誰かがそれを求めた記憶も無い。


「その指輪を外せれば、貴女様は力と記憶を取り戻すことでしょう」


 神官の言葉にリリシェラは訝しんだ。

 彼女は只死なないだけの、不幸を呼ぶ女。

 学がある訳でも、腕力に優れている訳でも無い。

 記憶は兎も角、力と言われても意味が分からなかった。

 けれど…。


「私は自分を知りたい…」


 彼女には失うものは無かった。


 スッ…


 彼女が意を決して指輪に手を掛けると、指輪はあっさりと抜けた。


 ブワッ


 ――その途端、彼女の全身(・・)から闇が溢れ出した。

 夜空のように深い、負荷い、不可い……どこまでも全てを飲み込んでしまいそうな深淵の黒。


 闇は中空で人の姿を形作った。

 リリシェラとは似て非なる姿。

 それは一言で言うならば、絶世の美女。


 夜空のような黒髪は、薄暗闇にあって尚深く。

 切れ長の光無き瞳と、()を感じさせない真っ白な肌は、それでもその美貌を損なうことは無い。

 女性を強く感じさせる肢体は、直ぐに清楚で緩やかな衣(ネグリジェ)に包まれ、美の化身は神殿に降り立った。


「おお…」


 神官は我知らず、涙を流して跪いた。

 それは人々の口から絶えて等しい、彼の信仰する《夜の女神》――


「シェラハザード様…」


 シェラハザードは彼を見なかった。

 光無き瞳でリリシェラを見下ろすと、その手を振り翳した。

 手の平に闇が集まって行く。

 それは人の使う魔術よりも根源的な、神々の力。

 薄暗い神殿よりも更に深い、彼女自身の如き闇。


 リリシェラは状況を理解できなかった。

 それでも、望みが叶うことだけは理解し、長く感じていなかった安らかな気持ちで、《夜の女神》を見上げた。

 神でも英雄でも無い、只の女に過ぎない彼女に、本物の女神に抗う術などありはしない。

 《夜の女神》は手を振り下ろそうとして――


 ――神殿は光に包まれた。


 《夜の女神》の黒では無い。

 太陽の如き白でも無い。

 それを例えるならば、蒼天の青。

 どこまでも突き抜ける青空が、そのまま輝いたかのような青白い光。


 その青白い光はリリシェラから溢れた。

 光はやがて、彼女の頭上で人の姿となった。

 リリシェラとは似て非なる姿。

 それは一言で言うならば、絶世の美女。


 蒼天のような青白い髪は、薄暗闇にあって尚眩しく。

 穏やかな光満ちる瞳と、透けるような瑞々しい肌は、造形以上に若々しさを主張する。

 女性を強く感じさせる肢体は、直ぐに身体に合った装い(レオタード)に包まれ、美の化身はその背中に青白い翼を広げて神殿に降り立った。



 * * *



「エアミスリード様?!」


 神官は自分が思わず口にした言葉を信じていなかった。

 空の神エアミスリードは男神。

 その信仰や伝承は一時も途絶えておらず、彼の神の主神殿には、今尚、立派な――空気を読んだ真面目な顔の――男神の像が立っている。


 それならば、目の前の青髪の美の化身は何だと言うのか。

 その神々しさは、《夜の女神》に勝るとも劣らない。

 寧ろ客観的に見れば、陰気な《夜の女神》よりも神々しいとすら言えよう。


 神官は信仰する女神と同じ女性(リリシェラ)から現れたそれを悪し様に捉えることに抵抗を感じ、心の中で《天の女神》と呼ぶことにした。


 《夜の女神》は狙いを《天の女神》に変え、振り翳していた手を振り下ろした。

 闇の塊が《天の女神》を襲い、彼女はそれを掴みながら横に薙ぎ払った。

 弾き飛ばされた闇の塊は、神殿の壁にぶつかって、音も無く壁に大穴を開けた。


 ――それが戦いの合図となった。


 《天の女神》が稲妻を落とせば、《夜の女神》が漆黒の帳(ナイトカーテン)でそれを防ぐ。

 …神殿の床は、砕け散った。


 《夜の女神》が香油の津波を起こせば、《天の女神》が灼熱の炎でそれを蒸発させる。

 …リリシェラと神官が、油塗れ(ぬるぬる)になった。


 《天の女神》が蜃気楼の鏡で神殿を照らせば、《夜の女神》は幻の霧でそれを覆う。

 …その水滴で慌てて寝起きの顔を洗った。


 《夜の女神》が狂気を呼び起こす夜風を歌えば、《天の女神》は大きな翼で羽ばたいて音を掻き消す。

 …リリシェラのスカートが風に捲られた。


 《天の女神》が空気の密度を圧縮すれば、《夜の女神》は吹雪でそれを拡散させた。

 …加減を間違えて呼吸困難に陥った。


 《夜の女神》が永遠の安らぎ(ニート)に誘う闇を広げれば、《天の女神》は全てを見通す目でその行く末に抗った。

 …リリシェラと神官は寝かけたので小突いて起こした。


 それは正に神話の如き戦いだった。

 いつ終わるとも知れない一進一退の攻防は、しかし呆気ない最後を迎えた。




 《夜の女神》の二度目の香油の津波を、《天の女神》の灼熱の炎は蒸発させ切れなかった。

 彼女の力が尽きたのだ。

 彼女は香油の波に押し流されて壁に打ち付けられた。

 その姿は、最初に現れた時よりも希薄になっていた。


 《夜の女神》は、ここぞとばかりに、両手に力を集めた。

 彼女自身も希薄になるほどの力が、深い、負荷い、不可い闇となって凝縮され、《天の女神》に向かって放たれた。

 彼女は勝利を確信し、表情に乏しい顔の口角が僅かに上がる。

 リリシェラと神官も――油塗れの顔を拭きながら――決着を見届けようとした。


 ――その時。

 《天の女神》の身体が光り輝いた。

 身体全体では無く、左胸を中心に放たれた光は、白でも、黒でも、青でも、況してや虹色でも無かった。

 それは例えるなら、漆黒の空に青い河のように煌く、静かな星々の輝き。


 《夜の女神》が放った渾身の一撃は、その煌きに触れると霧散し、吸収された。

 《天の女神》が両手を翳すと、そこに小さな煌きが集まっていく。

 一粒一粒は小さな、夜空の星々のような光。

 それは次第に集まって輝きを増し、太陽の輝きをも凌駕した。


 《夜の女神》は両手を前に翳した。

 その手に集まる闇は、先程とは比べるべく無く儚い。


 《天の女神》が放った太陽(フレア)は、《夜の女神》を包み込んだ…。




 地下の太陽が消え去った時、《夜の女神》はボロボロで今にも倒れそうだった。

 《天の女神》が彼女の下に歩いて行き、その身を優しく抱き締めると、彼女は初めて安らぎの表情を浮かべて……黒い霧となって霧散した。

 黒い霧は《天の女神》に吸収されていく。


 全ての闇が消え去ると、《天の女神》は今度はリリシェラの下へ向かった。

 リリシェラに恐怖は無かった。

 《天の女神》がリリシェラを抱き締めると、彼女も抱き返した。

 《天の女神》は青白い光となって、リリシェラに吸収されていった…。


「貴女様は一体…」


 唯一の部外者である神官は、片膝を付いて片手を胸に当てて恭しく、唯一の当事者に尋ねた。

 その視線の先に居る女リリシェラは、やはり幸の薄そうな顔で悲しそうに語り始めた。


「私は…」



 * * *



 ――遥か昔。

 サンガイアーはこの世界、サンガイアスを創り出した。

 ママリスはこの世界、全ての生命を生み出した。


 いつしかママリスは世界を欲し、両者は対立した。

 二柱の力は拮抗していた。

 二柱の争いで、世界は未曾有の危機に陥った。

 ママリスは状況を打開する切り札として、小指から光の神エロインを生み出した。

 エロインはママリスに残った最後の良心。

 エロインがサンガイアーに着いたことで、形勢は逆転。

 ママリスは死に、サンガイアーはこの世界を去った。


 残ったママリスの亡骸から九柱の神々が生まれた。

 神々は世界を再生し、再び平和な日々が訪れた。

 しかし、その平和も長くは続かなかった。


 ――千年前。

 悪しき三柱の神々が魔物を操り、神々の王エロインと人類に戦いを挑んだ。

 ディスとシェラハザードは神々の力に屈して降参した。

 最後まで抵抗を続けたサルーミンを封印すべく、エロインは十個の運命石を作り、人間の英雄カーライルに与えた。

 カーライルはサルーミンを封印したが帰らぬ人となった。

 この英雄譚は伝説として、今も尚、人々の間に語り継がれている…。




「人々の伝承に残っているのは、千年前の戦争からですね」


 夜の神の神官たる彼も、それ以前のことは余り知らない。


「はい。ですがこの話には前日譚が存在します」

「前日譚?」


 神官は訝しんだ。

 彼の信奉するシェラハザードが生まれる前に何があったと言うのか。

 リリシェラは話を再開した。




 ――数千、数万、或いはもっと昔。

 サンガイアーとママリスが生まれるより遥か昔。

 世界には別の文明が栄えていた。


 その文明は自ら生きる世界を壊し、そして自ら世界を作り直した。

 しかし、それほどの力を持った、彼らの作り出した世界にも寿命はある。

 永久不変のものなど、世の中には有り得ないのだ。


 そこで彼らは世界を修復する装置を生み出した。

 装置は普段は七十七の秘宝の姿で力を溜め、世界に寿命が近付くと目覚め、世界を修復してまた眠りに就く。

 そんなことを遥か昔から繰り返して来た。




 ――年前。

 サンガイアーとママリスは世界の修復に立ち会った。

 秘宝は一つ一つでも強大な力を持ち、それを巡る数々の悲劇を見て来た彼らは、秘宝の管理を決意した。


 彼らは秘宝を取り込み過ぎることが危険だと知っていた。

 そのため、僅か数個ずつを取り込んで、残りを共有財産として保管した。

 秘宝は僅か数個でも絶大な力を発揮し、サンガイアーは新たな世界を創り出し、ママリスは無数の生命を生み出した。


 彼らにも油断があったのだろう。

 サンガイアーは好奇心に負けて、ママリスを一人残して外の世界を見に行き、ママリスは現状に不満を抱いて、サンガイアーが留守の間に、更なる秘宝に手を出した。

 帰って来たサンガイアーが、ママリスを窘めたのも当然である。

 力に心を奪われたママリスが、サンガイアーに反論したのも当然である。

 彼らは最初から完全な神々では無く、秘宝の力に因って神になった者たちなのだから…。


 世界を巻き込んだ夫婦喧嘩は長く続いた。

 ママリスは切り札として、エロインを生み出した。

 無論、要らないもの(ゴミ)切り札(こども)を作る者など居るはずも無い。

 ママリスの全てを少しずつ受け継いだエロインは、正しくママリスの分身、ママリスの息子だった。

 だからこそ、彼はママリスを裏切ってサンガイアーに着いた。




 サンガイアーは愛するママリスの死を悲しんだ。

 その亡骸から生まれた九柱の息子や娘、エロインには愛情を持ったが、同時に、一緒に居るとママリスを思い出して辛かった。

 サンガイアーは息子たちに秘宝を分け与え、外の世界に姿を消した。


 秘宝を七つずつ受け継いだ新しい神々は、その力で荒れ果てた世界を再生した。

 しかし、一柱だけ現状に満足しない者が居た。

 エロインである。

 先の戦いの最大の功労者でありながら、何もしていない弟妹と同数の遺産(ひほう)しか遺されなかったことに、ママリスに最も近い彼は不満を抱いた。


 エロインはサルーミン、ディス、シェラハザードを陰から唆して、他の弟妹と対立させた。

 後に引けなくなったサルーミン一柱になると、エロインは嘯いた。


『サルーミンを殺すのは可哀想だから封印しよう』


 弟妹はその提案に快く賛同した。

 しかし、兄弟姉妹の力に決定的な差は無い。

 エロインはサルーミンを封印するために必要と称して、弟妹に秘宝を一つずつ提供させた。

 彼はその八つと自分の二つから十個の封印石を生み出した。


 エロインは人間たちに神々の王を名乗り、神々が戦い続ければ世界が滅びると語った。

 今更だったが、荒廃した世界の人々は神に縋るしか無かった。

 そして人間の英雄カーライルが封印石を託され、その命と引き換えにサルーミンを封印した。

 …これが伝説の真相である。




 安眠を求めるシェラハザードに、エロインは安らぎを約束した。

 彼の秘宝で作った封印石――ダイアモンドの指輪を鍵とし、彼女の力――秘宝の残り半数を以て、残りの力と記憶を封印することに因って…。



 * * *



「エロイン…貴方は酷い方。安眠を約束しながら私を騙した…」


 全てを語り終えたリリシェラハザードは、悲しげに呟いた。


 彼女を殺そうとした《夜の女神》は、夜の神の秘宝の半分、封印(あんみん)を望んだ彼女自身の記憶と御業。

 彼女を守ろうとした《天の女神》は、夜の神の秘宝の残り半分、世界の維持を担う大いなる古き力。

 ダイアモンドの力も吸収した今の彼女には、嘗てのシェラハザードと同等の力がある。


 ――しかし、シェラハザードとしての記憶は取り戻したが、彼女自身の物でもあるその心臓は、今も尚、只静かに脈打つのみ――


「何故、天の女神が勝利したのですか?」


 それまで黙って話を聞いていた神官は、先程の戦いの疑問を口にした。


「全ては必然です」


 末妹だったシェラハザードは、ママリスの命の最期を以て生まれた。

 そのため、最高の秘宝たる《天の女神》の心臓はシェラハザードに引き継がれ、《天の女神》はその力を以て《夜の女神(ニート)》に打ち勝ったのだ。

 シェラハザードが安眠を望む夜の神となったのも、世界の防衛機構たる《天の女神》の影響だった。


「まずはサル(にい)に会わないと。…でも何処に…?」


 リリシェラハザードは俯いて独り言ちた。

 当時封印されていた彼女は、サルーミンが封印されている地を知らない。


「フレイムファングの支配する火山へ行きなされ」


 リリシェラハザードは顔を上げて、神官の顔を見た。


「彼の火山の地下深く、古の時代にヴァルハラと呼ばれた地に、死の神ディス様が坐します。彼の神ならば、何か知っているやも…」


 この世界に残っている神は少ない。

 封印されていたリリシェラハザード。

 封印されているサルーミン。

 死者を管理するディス。

 そして全ての元凶……エロイン。


「ありがとう」

「シェラハザード様の行く末に、安らぎと安寧の世界が齎されんことを」


 リリシェラハザードが礼を言うと、神官は恭しく頭を下げた。

 それは仕える神に対しては、不適切とも言える言葉。

 しかし、主人の望みが叶うことを願う、忠臣としては当然の言葉。


 リリシェラハザードは神官に背を向けると、毅然とした足取りで、神殿の出口へと歩き出した。

 そこにはもう、幸の薄そうな儚げな女(リリシェラ)の姿は無い。

 そこにあるのは、長兄への復讐(おしおき)を心に誓った鬼妹(リリシェラハザード)の姿。




 ――復讐の鬼と化した女神の旅が、今、始ま











 …らない。




「何故?!」


 この物語が読み切りだからである。

 記憶が戻っても、やっぱり不幸なリリシェラだった。

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