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告白の重さ〜王太子に選ばれた代償〜

作者: 肺魚
掲載日:2026/04/03

少しほろ苦い恋のお話です。

 秋の日の放課後だった。

 生徒会室の中にいるのは、書記の私と王太子で生徒会長のアウグストゥル殿下。二人とも、本来ならば今日やらなくても良いような、書類の整理や先の締め切りの仕事を手慰みにやっていた。

 少なくとも私は、この時間が少しでも長くなるようにという名残惜しさから、何度も確認した生徒会の引き継ぎ書類をまたチェックしていた。作業をしながらも意識は、自然と窓際の席に座るアウグストゥル様に向かってしまう。

「そろそろ、こうして君と居残って生徒会の仕事をするのも、残り少なくなってきたね」

 アウグストゥル様が、手元の書類から目線を上げて、不意にそう言った。生徒会室には私とアウグストゥル様の他に人はいない。きっと、残り時間が少ないからと、他のみんなには気を遣わせてしまったのだと思う。

「用事があるので今日は先に上がります」

「これはお二人でやってください」

 ここ最近は、こう言われることが何度もあった。自分の気持ちがバレているという恥ずかしさと、同時に少しでも思い出を作らせてくれようとする彼らの気遣いへの感謝を、その度に感じた。

「この一年、アウグストゥル様とご一緒できて、本当に光栄でした。一生の思い出になります」

 私は、心を込めてそう答えた。目線が絡む。視線に、声に、どろりとした熱のようなものを帯びる。

 理性ではこんな感情を表に出しては駄目だとわかっているのに、自分ではどうしようもなかった。そして、気のせいでないのならば、アウグストゥル様の美しい碧眼も私と同じように潤み、声にも熱があった。

 王太子であるアウグストゥル様には、幼い頃からの婚約者がいらっしゃる。だから、私たちはお互いの気持ちを確かめ合ったことは一度もない。けれど、時折どうしようもなく漏れ出すものが確かにあって、その熱は私の理性を簡単に溶かしてしまいそうになるのだった。

「卒業したらもう、子爵令嬢の私では、このようにお話もできなくなりますね……寂しく、なります……」

 つい、本心がこぼれ落ちる。アウグストゥル様が小さく息を呑んだのが見えた。——いけない。こんなこと、言っても困らせるだけだとわかっているのに。思わず目を伏せる。

 室内に、これまで二人でいた時に感じたことのない、重苦しい沈黙が横たわった。本当に、あと少ししか一緒に過ごせないのに、なんで私はあんなことを口にしてしまったのだろう。ぐるぐると後悔する頭で、次に何を言えばいつもの優しい時間に戻れるのかを必死に考える。

「——カリア」

 沈黙を破るように、これまで聞いた覚えのない、硬い声がした。直後にガタリと椅子が動く音がする。足音が、近付く。

 私は、驚いて顔を上げた。いつも柔和なアウグストゥル様が、見たことがないほど真剣な表情をして、すぐ目の前に立っていた。

 窓からの光で、あの方の見事な金髪が、まるで王冠のようにキラキラと光っている。

「これまで散々悩んで、何度も諦めようとしたが、これ以上自分を偽ることはできない……。カリア、私は君を愛している」

「なっ……!」

 私は驚きのあまり絶句した。

「何をおっしゃっているのですか! そんな……! 私は子爵家の娘で……それに、アウグストゥル様には子供の頃からの婚約者様がいらっしゃるではありませんか!」

 悲鳴のように飛び出す私の言葉に、アウグストゥル様は痛みを堪えるような表情を浮かべた。それでも、熱い視線だけは変わることなく私を、私だけを見つめ続ける。

「カリア、カリア……そんなことは私はもう充分に考えた。それでも、私は君を選びたいと思った。選ぶと、決めた。君をどうしても手放したくないんだ。……君も、私と同じ気持ちだと感じていたのだが、間違えているかい? 君は私のことが好きではない?」

 手を、掬い取るように取られた。初めて意識して触れられる手が、伝わる暖かさが、胸をドキドキと高鳴らせた。

「ずるいです、そんな訊き方……私は、私だってずっとアウグストゥル様のことを愛していました……でも、許されないことだって、ずっとそう思って黙っていたのに……」

 アウグストゥル様の瞳と同じように、私の瞳も熱っぽく潤んでいる。涙がじんわりと浮かんできた。駄目なのに、嬉しくて、苦しくて。

「良かった……。どうか君も、私を選んでくれないか。何があっても君を愛し続けると、この場で誓わせてほしい」

 とろけるような甘い微笑みに、懇願に、腰が抜けてしまいそうになる。婚約者の方への罪悪感はあるけれど、愛するお方に愛されていたと知った喜びが、胸に溢れて止まらない。

「私も……選びます。アウグストゥル様。元々、例えもう二度とお会いすることがなくても、私は一生この想いを胸に生きていくつもりでした」

「知ってはいたが、君は本当に強いな……。私は君と二度と会えない関係になるなんて、とても耐えられそうにない。こんな弱い私だが、どうかこの手を取って欲しい。——抱きしめても?」

 両手を握られたまま問われて、おずおずと頷く。そっと、優しく抱きしめられて、全身でアウグストゥル様の体温を知る。

 子供の頃に母親に抱きしめられた熱とは明らかに違う、男の人の高い体温。厚い胸板。少し早い鼓動。私の胸も、ドキドキと激しく鳴っている。このまま、二人の身体が離れられないように癒着してしまえばいいのに——そんな愚かなことを願ってしまう。このままこの熱に溺れてしまいたい。

 こんな幸せがあるなんて、ついほんの数分前には思ってもみなかった。知らなかった自分には、もう二度と戻れない。それでもいいと思ってしまう自分がいた。

「ありがとう、カリア。愛しているよ」

 微笑んだアウグストゥル様が、名残惜しむように、そっと身を離す。離れたくはなかった。でも、もう時間も遅いし、ここはいつ誰が入ってくるかわからない学園内だ。名残惜しく思いながら、アウグストゥル様の腕の中から抜け出した。

 秋の気配が色濃くなってきたせいか、離れた瞬間、肌寒さに少し震える。

「ああ、すっかり体が冷えてしまったね。もうとっくに日も暮れている。今日はもう帰ろうか。馬車乗り場まで送っていこう」

「はい、ありがとうございます」

 二人で出していた書類を片付けて、生徒会室の鍵を閉める。馬車乗り場までの道のりはいつもと同じなのに、今日はふわふわと雲の上を歩いているようだった。

 馬車に乗り込む前に、放課後遅くまで待たせてしまったことを御者に軽く詫びる。アウグストゥル様の手を借りて、馬車に乗り込むと、扉を閉める直前に一瞬手を強く握られた。

「カリア、今日はずっと伝えたかったことを言えて良かった。それでは、また」

「私こそ、まだ夢のようです。それでは、また明日」

 私の挨拶に少し困ったように微笑んで、アウグストゥル様は馬車の扉を閉めた。馬車が出てからしばらく、見送ってくれているのが見えて、私は手を振りたい気持ちを懸命に堪えた。

 アウグストゥル様は私を選ぶと言ってくれたけれど、今はまだ、二人の関係が変わったことを知られてはいけない。両親にも、まだ話すわけにはいかない。

 帰り道、アウグストゥル様の隣に立つために、私はできることならなんでもやろうと心に決めた。

 アウグストゥル様の婚約者、クインティーナ・オーレンシア様は、侯爵令嬢だ。成績は中の上くらいで、この聖王国グローレンシアの高位貴族らしい、銀髪に紫色の瞳を持っている。

 アウグストゥル様の金髪碧眼は、北の帝国から嫁いできた、現在の王妃様であるお母君の色だ。古い家系ほど、銀髪と紫色の瞳に高貴さを見出す。私のブルネットに青灰色の瞳は、いかにも新興の下位貴族らしい見た目ということになる。

 オーレンシア侯爵家は、王家に並ぶほど歴史の古い家系であることが、婚約の決め手となったと、社交界では言われているらしい。

 自分の家の爵位と歴史の浅さ、そして下位貴族と一目でわかる見た目に、不安を覚える。しかし自慢ではないが、学業は学年一の成績を入学時からずっと保っている。生まれつき決まっている魔力も、高位貴族ほどではないが、それなりに多いほうだと言われている。

 爵位こそ低いが、王妃になるのに相応しい教養も、マナーも、勉強も、どれだけ辛くても全力でやろうと思った。




 翌日。昨日の出来事が夢ではなくて本当にあったことなのか、何度も何度も記憶を反芻し、その度に喜びと不安、そして罪悪感に襲われて、少し寝不足で迎えた朝。

 私はいつも通り、自室で目覚め、侍女の持ってきたお湯で顔を洗い、化粧水だけの手入れをし、胸元まである髪をいつものようにハーフアップの形に結ってもらうと、制服に着替えて食堂へ向かった。

 食堂では、珍しく父がまだ食事中で、今日は特別に丁寧に礼をした。私が将来王太子妃になるのよって言ったら、お父様ったら腰を抜かしてしまうのではないかしら。澄ました淑女の顔で、そんなことを考える。食事中もいつもよりマナーを意識しながら、でも時間がかかりすぎないように気をつけた。

 足捌きに注意を払いながら馬車を降り、教室まで歩く。クインティーナ様は、いつもどんなふうに振る舞っていたかしら。クインティーナ様は一歳下で下の学年のため、校内ではたまに遠くから拝見する程度で、面識がない。

 昨日まで、諦めるしかない恋だったから、クインティーナ様のことは考えたことがなかった。改めて、一度お詫びに伺わなくてはならなくなるだろう。アウグストゥル様が付き添ってくださると心強いのだけれど。

 そんなことを考えていると、教室に着いた。成績優秀者だけを集めた、少人数制の特別クラスだ。

 いつもよりも少し遅い時間に着いた教室は、すでにほとんどの席が埋まっていたが、アウグストゥル様の席は空いていた。どうしたのか少し心配だが、前にも公務で突然休まれることはあった。周囲のクラスメイトに挨拶をし、自分の席に座る。

 昼休みになったら、図書室で王家のことを少し調べよう。私はアウグストゥル様のことをずっとお慕いしてきたが、あの方とどうこうなんて恐れ多いことは考えたこともなかったため、王家のことはほとんど知らないのだ。

 午前中の授業をやや上の空で受けた後、昼休み。いつもはクラスで少ししかいない女生徒たちで一緒に食堂へ行くのだが、今日は調べ物があると断って、簡単に持ってきたもので素早く済ませる。手早く食べられるように、サンドイッチを少しだけ、料理人に用意してもらった。

 早々に食べ終わって図書室へ行く。子爵家である我が家にはあまりたくさんは本がないので、勉強のためにも、趣味の読書のためにもこの三年間たくさん通った場所だ。けれども、今日の私はこれまで読んできたのとは全く違う棚の前に立った。

 この聖王国グローレンシアの王家の歴史や、王家についての記述がありそうな本を数冊、手に持てるだけ持って、隅のほうの目立たない席へ行く。

 グローレンシアの歴史についての本を流し読む。今からおおよそ六百年前、勇者と呼ばれた男性が王に、聖女と呼ばれた女性が王妃となって、国を覆う特別な結界を作り上げたことから、この国の歴史は始まる。

 これは、小さな子供向けの絵本にもなっているので、国民はほぼ誰でも知っている。結界は、魔物や他国の軍勢などの害意の高い生物、疫病などが国内に入るのを阻む、他国には見られない特殊なもので、その結界があることから、聖王国と名乗っているという。

 結界の維持は現在まで代々の王族が引き継いでおり、王家では多くの子を産む王妃が尊ばれたとあった。過去には、子沢山と評判の子爵家から、高位貴族へ養子に入れてまで、王妃として嫁いだ者の記録があるという。

「子爵家から、王妃が出たことあるんだ……」

 私でも、やれるかもしれない。

 思わず、口から安堵の声が出て、慌てて周囲を伺う。幸い、小さな独り言は周りに聞かれていなかったようだ。

 こんなことを考えていると、間違っても他人に知られるわけにはいかない。本来ならば、とても不敬な考えだからだ。

 外交や社交、高位貴族のマナーや勉強。必要とされることは色々あるだろうけれど、こういう歴史の王家なら、子を成すことも大切な役目だ。

 家族は両親と結婚して出て行った姉が二人と弟。家系的には子沢山というほどではないが、少ないわけでもない。身体は、昔から風邪をひいても一晩寝れば治る健康体。ちゃんと調べたことはないけれど、もしもアウグストゥル様と結ばれて——いずれ、その血を引いた子供を産むことができたら、いったいどれほどの喜びだろう。

 そんなに簡単な問題ではないと冷静に考える冷めた部分もありながら、それでもそんな幸福な未来を夢見て、胸がいっぱいになる。

 他にも何冊かの本を流し読んで、内容にそう変わりはないと知る。今ここですぐに調べられるのはこれだけだとわかった頃、昼休みがそろそろ終わる時間になっていた。

 慌てて教室に戻り、まだ空っぽのアウグストゥル様の席を見る。明日こそ、お会いできると良いのだけれど。

 午後の授業も、どこか現実離れした、ふわふわとした気持ちのまま受ける。いつものように問いを解くように当てられて、一瞬慌てたが、すぐに教科書を読んで無事に答えることができた。

 これからは、今まで以上に成績を落とさないように——学年一位の座を譲らず済むように気をつけなければ。私は、アウグストゥル様の隣に立つことが許されるよう、優秀さを世界に見せ続けなくてはならない。例え、これまでずっと首位を争ってきたあの方にだって、負けてはいられない。わずかな不安を振り切るように、改めてそう決意する。




 放課後、いつものように生徒会室前に来た時、少し異変を感じた。室内で、常には聞かない荒れた口調で言い合う声がする。声はどことなく聞き慣れたものなのに、調子だけがいつもと違う。

 一瞬、扉を開けるのに躊躇したが、アウグストゥル様がいなくても生徒会の仕事はきちんとやらなければならないと思い、思い切って扉を開けた。

 瞬間、中にいた生徒会の仲間たちから、鋭い視線が突き刺さるのを感じた。

「——お疲れ様です。何か、ありましたか?」

 怯みそうになりながらも挨拶をし、入室する。扉を閉めると、途端に大袈裟なため息が聞こえた。

「まったく、こんなことになるとわかっていたら、二人きりにする協力なんてするんじゃなかった!」

 副会長のエリアス様が、忌々しげにそう吐き捨てた。思わず肩がビクリと震える。

 こんなふうに声を荒げられたことは今まで一度もなかった。アウグストゥル様の将来の側近候補で私よりも爵位がかなり上の方だが、生徒会に入った直後から気さくで、ずっと優しく親切にしてくれていたのに。

「まさか、殿下が本当に君を選ぶとはね」

 庶務のマティアス様が頭を振りながら、信じられないといった視線で私を見つめた。いつも明るくて陽気な方だったのに、今は不穏な気配を感じる。

「——な、なぜ、皆様がそのことを」

 咄嗟に呻くように出てきたのは、その言葉だった。——なぜ? まだ二人だけの秘密のはずなのに。

「君を選んだアウグストゥル様は、王太子から外されたよ。王位を継ぐのは、クインティーナ様との結婚が条件だったのに」

 会計のセドリック様が、自棄になったような笑みで口元を歪めながら、そう吐き捨てる。

「——え……」

ぎくりと立ちすくむ。いったい何を言われたのかわからなかった。言葉の意味は、遅れて脳に届く。

「待って、待ってください……! アウグストゥル様が、王太子から外された……?」

王太子を外されたということは、アウグストゥル様は王にはなれなくなったということ? あんなにご公務も王太子教育も、そして生徒会長としての仕事だって、全力で努めていた方が、王になれない……?

想像もしていなかった恐ろしい言葉に、血の気が一気に引いた。足元が崩れるような感覚に、思わず震える。

「殿下が君を選んだからだよ。昨晩のうちに国王陛下に廃太子を申し出られて、承認されたそうだ……。これでアウグストゥル殿下が王になる道は閉ざされた! あの方が王になると信じて仕えてきた、僕たちの未来も閉ざされた!」

「だから僕は、あんまり二人っきりにさせないほうがいいって止めたのに、マティアス様が初恋の相手と思い出くらい作れないとアウグストゥル様が可哀想だって言うから!」

「なっ、エリアス様だって反対しなかったじゃないか! 全部俺のせいかよ!」

 ふたたび、言い合いが始まった。いつもの皆様とはまるで違う、荒れた様子と、紡がれた言葉の数々に打ちのめされる。

 私を選んだから、アウグストゥル様は王になれないの? 私では、あの方を王にしてあげられないの?

 気がついたら、生徒会室を飛び出していた。淑女らしからぬ足取りで、馬車乗り場に向かう。周りの人たちが全員、私を責めるように見ている気がして、恐ろしさに足が震えた。愛した人に愛されるということは、こんなに罪深いことだったのだろうか。

 馬車乗り場にたどり着いたものの、普段より時間が早かったため、家の馬車はいつもの場所にいなかった。係の職員に家名を告げて、御者が馬車を回してくれるのを狂い出しそうな気持ちで待つ。王太子交代の事実は、どこまで広がっているのだろうか? ザワザワとした周囲の声が、やけに気になった。

 ——クインティーナ様なら。

 そうだ。クインティーナ様なら、なぜ私では駄目なのかを知っているはず。一度そう頭に思い浮かぶと、今すぐ訪ねたいと思う気持ちが、どうにも止められなくなった。




「カリア・ドミネリアと申します。本日は、突然訪ねましたことを、心よりお詫び申し上げます」

 馬車の行き先を変えてクインティーナ様の屋敷に着き、出てきた執事に取次を頼むまでは夢中だったが、いざお会いするという時になって急に身分差や、婚約を不意にした事実を思い出して、足が震えるのを止められなかった。

 入室と同時に深くカーテシーをする。こんな高位貴族の令嬢と会う機会があるとは思わず、今更ながらもっと練習しておけば良かったと後悔した。

「クインティーナ・オーレンシアです。どうか、お顔をお上げになって」

 歳下とは思えない、凛と涼やかな声で呼び掛けられるが、どんな顔をすれば良いのかわからなくて、下げた頭をなかなか上げられない。

「カリアさん、とお呼びしてもよろしいかしら? 私のことは、クインティーナとお呼びになって」

「カリアと、そうお呼びください。クインティーナ様」

 ゆるゆると上体を起こし、もう一度軽く礼をする。名を呼ぶ許可を得られたが、これは本来ならば元々交流がなければ許されないことだ。

「まずはお掛けになって。訊きたいことがあるのでしょう?」

 全てを見通したような口調でそう言われ、ぎこちなく対面へ着座する。流れるような所作で、お仕着せを着た侍女が、私たちの前に茶器と高価なスミレの砂糖漬けの乗った小皿を置いた。続けて、子爵家の我が家では滅多に見ることのない、雪のように白いサラサラとしたお砂糖が入った砂糖壺が置かれて、生きている世界が違うのだと気後れしてしまう。

「下がって良いわ」

 給仕が終わると、クインティーナ様が軽く手を振る。侍女は黙ったまま、静かに退室した。完全に二人きりだ。

「震えていらっしゃるの? 緊張されているのかしら? 先に、温かい紅茶をお飲みになられてはいかが? それから、ゆっくりお話いたしましょう」

「……ありがとう、ございます」

 震える手で、音を鳴らさないように注意をしながらカップを持ち上げる。わずかに芳しい花の香りがする、飲んだこともないような高級な茶葉だった。温かいものが喉を通って、お腹に落ちる感覚。思わず、ほっと息をついた。

 クインティーナ様は、急かすこともせず、泰然と座って私を見つめている。その静かな視線には驚くほど敵意や軽蔑といった、負の感情が一切乗っていなくて、逆に私はまた落ち着かない気持ちになった。

「あの……アウグストゥル様——殿下が、王太子から外れたと、生徒会でそう聞きました」

「そうね。昨晩、我が家にも殿下が直々に訪ねてきて、婚約を解消することと、王太子から降りることを許してほしいと詫びておりました。可哀想なくらい、恐縮していたわ。長年婚約者として接していたけれど、あんなに情熱的な殿下は初めて見ましたのよ。恋というものは、すごいのですね」

 どこか感心したように、クインティーナ様が言う。どこにも、婚約を解消された恨みや憎しみのようなものは感じられない。そのことに励まされるように、生徒会室で話を聞いた時から頭を支配していた疑問が口からこぼれた。

「わ、私を選んだせいで王太子を外されたと、そう聞きました! 私では、どうあってもアウグストゥル様を王にはして差し上げられないのですか?」

 令嬢らしい言い回しも何もできていない、直球の、失礼とも言える不躾な質問を、しかしクインティーナ様は笑いも怒りもしなかった。ただ、小さく小首をかしげる。

「王太子殿下……いえ、アウグストゥル殿下は、あなたを王妃にするとはさすがに言わなかったはずです。そうではなくて?」

 責める様子ではなく、本当に不思議に思っているような言い方だった。

「でも、アウグストゥル様は私を選んでくれました。——過去には、子爵家から嫁いだ王妃もいたと、歴史書には載っていました。私は身分こそ低いですが、あの方のために……国のために必要ならば、どれだけでも努力するつもりです。外国語も、外交も、政務も。それでも駄目だったのですか?」

 いまだにアウグストゥル様が王太子でなくなったという事実が受け止めきれずに、みっともなくも食い下がる。感情が高まって、うっすらと目に涙が浮かんできた。でも、泣いては駄目だ。私には、泣く権利はない。

「……誤解があるようですわね」

 クインティーナ様は、そう言って小さくため息をつかれた。そうして、居住まいを正すように背筋を伸ばす。小さな身体なのに、先ほどまでは感じられなかった不思議な威厳があった。

「ええ、学園一の才媛と名高いあなたならば、努力すれば私よりも王妃に相応しい実力を身につけるでしょう。世が世なら、あなたが王妃になり、アウグストゥル殿下が王になる未来もあったことでしょう。——ですが、それでもあなたは王妃にはなれないのです」

 託宣のようにキッパリと言い切られて、息を呑む。

「王国の特殊な結界のことはご存知?」

「はい、結界が国を守っているのは絵本で小さな頃にも読みましたし、先ほど歴史書でも詳しく読みました。現在も、王族の方々が維持していらっしゃるということも、それで知りました」

 私が昼休みに読んだ王国の歴史書を思い出しながらそう言うと、クインティーナ様は小さく頷かれた。あの時は、まだ王妃になる未来を信じられていたのに、まさかこんなことになるなんて。

「そこまでご存知ならば、こう言えばわかるかしら? 高位貴族の間では、暗黙の了解なのだけれど……。王家の魔力は結界維持のための特別なもの。その王家の血が薄まってしまった今は、私が王妃になることこそが、生まれながらに定められた宿命なのです」

「血筋が、大事だということですか?」

 やはり下位貴族の自分だから、アウグストゥル様を王太子でいさせてあげられなかったのだと、血が引く。

「そうね、せめてあなたが少しでも王家の血を引く傍流だったのなら、話は違ったのかしら。——いえ、それでも駄目ね。先代、先先代と、外交のためとはいえ、二代続けて他の国から王妃を迎えた今この時となっては、代々王家の血の保管庫と呼ばれた我がオーレンシア家以外から、王妃を迎えることはできないでしょう」

 クインティーナ様がゆっくり、優雅な手つきでカップを持ち上げられた。一口、紅茶を飲んで静かにソーサーに置く。王家に相応しい、優美な仕草だった。

「歴史書をよく調べればわかる、公然の秘密なのだけれど、我がオーレンシア家は、二代、三代おきに王女殿下が降嫁されるか、王子殿下が婿入りなされるの。そして、ある程度の頻度で、当家から王妃を輩出しておりますの。全て、特殊な結界を維持する王家の血を薄めないための、決まり事のようなものですわ」

「そんな……王家の人間であることよりも優先される血筋があるなんて……」

「ねえ、勘違いなさらないでね。あなただから駄目だったのではないの。私でなければならなかった。それだけなのよ。どうかご自分をこれ以上責めないで。悪いのは、説明をきちんとしなかったアウグストゥル殿下なのだから」

 意図せず小さく震える私に気がついたのだろう。いっそう優しい、まるで歳下の子供を慰めるような口調で、クインティーナ様が微笑む。

「王太子殿下には王になるか、ならないかを選ぶ余地がありました。そして、殿下は王位ではなくあなたを選びました。——けれど私には、生まれながらに選ぶ権利が与えられませんでした」

 どこか絵本を読むような他人事の調子で、クインティーナ様は信じられないほど残酷な事実を口にされた。

 私は、どれだけの強さがあればそんなに重たい現実を受け止められるのか、そうして生きてこられるのか、クインティーナ様に対する畏敬の念を抱かずにいられなかった。そして、同じ重みをずっと背負って生きてきたはずの、アウグストゥル様のことを思った。

「ご納得されたかしら? こうして知らない人に話すのは初めてのことだから、うまく説明できたのなら良いのだけれど」

 照れたように笑われるクインティーナ様は、先ほどまでの威厳が嘘のような少女めいた様子で、小さく微笑む。王家の色を受け継ぐ紫水晶のような誠実な瞳が、私を優しく見つめた。

「はい……こんなに突然でしたのに、大切な秘密を明かしてくださって、本当にありがとうございました。そして、婚約者様であったクインティーナ様を差し置き、心のままに動いたことでアウグストゥル様との婚約を解消する原因を作りましたこと……心よりお詫び申し上げます」

 動揺を隠すように深く呼吸してから席を立ち、改めて深く謝罪する。

「義務として受け入れてきた婚約だけれど、私とアウグストゥル殿下の間には信頼こそあれ、ついぞ恋情は生まれませんでした。あまりに小さな歳から婚約を結ぶというのも、家族のような関係になってしまって、少し考えものですね」

 少しおどけたようなクインティーナ様の態度も、言葉もお優しかったけれど、やはり私では駄目だったのだという事実に、まだ狼狽えてしまう。アウグストゥル様は、あんなに王になるために励まれていたのに。

「こんなことを言って良いのかわからないけれど、私、あなたとアウグストゥル殿下が恋を選んだこと、少し羨ましくも、眩しくも思っていますの。——ねえ、どうかお幸せになってくださいね」

 部屋から出る直前、励ますようにクインティーナ様が小声で伝えてくる。私はグシャグシャになった気持ちのまま、ふたたび頭を下げてから退出した。

 急な訪問にも関わらず取り次いでくれた執事に礼を言って、玄関前で待っていた馬車に乗り込む。座席に着いた途端、これまでの緊張が解けて、自然と背中を深く預けた。

 不意に、涙がポロリと零れ落ちた。私が——私があの時、深く考えずにアウグストゥル様の告白を受け入れてしまったせいで、あの方は王になることができなくなってしまった。昨日の告白の重さを、初めて思い知らされた。王族の方が、婚約を解消されるという事実の重さ。血筋の重さ。

 見慣れた通りを馬車が走る。このまま進めば、いつもの帰宅の道になる。けれど、私は今すぐにでも、アウグストゥル様に会ってお詫びしなければと思った。私を、王位を捨てることを選ばせてしまったことを。

 御者に王宮に向かうように告げる。御者は今まで一度も言ったことのない要求に、さすがに一瞬驚いた顔をしたが、私の涙で濡れた顔を見て何かを納得したように頷いた。

 王宮へ向けて、馬車がふたたび動き始める。すでに外は夕暮れ時を迎えて、街の街灯に魔法の火が灯り始める。家族の顔が一瞬頭に浮かんだが、これまでも生徒会でもっと遅くなることもあった。それより、今はアウグストゥル様だ。愛したことは後悔していないが、王位を捨てる決断をさせてしまったことをお詫びしなければ、とてもこのまま家に帰る気持ちになれない。

 涙が止まったのを確認して、私は鞄の中から化粧ポーチを取り出した。濡れた頬と目元をハンカチでよく押さえてから、化粧水を付け、薄く白粉をはたく。口元に顔色がよく見えるような紅をそっと塗り、少しでも涙の跡を隠し、王宮を訪ねるに相応しいよう、精一杯の身支度を整えた。



 王宮に到着した時には、すでに陽はほぼ沈んでいた。アウグストゥル様と学園以外で二人きりで会ったことは一度もない。

 王宮には、一度だけ生徒会の仲間たちと訪ねて来たことがあったけれど、同じ手順で会えるのかわからなかった。それでも、他に方法が思いつかない。

 裏門に付けてもらった馬車から降り、衛兵が立つ横にある、窓口を訪ねる。王宮に用のある者は、ここで受付を済ませてから訪ね先と、自分の名前と家名、爵位を専用の帳面に記入してから入る決まりがある。

 正式な手続きを得た賓客や家臣たちは表門から王宮に上がるけれど、出入りの商人、個人的な来客などは皆、この裏門から入る。騎士や女官、文官などの王宮に勤める者たちの門は、また別にあるという話だった。

 緊張しながら、アウグストゥル様のお名前を書いて、その横に自分の名と家名、親の爵位を記入する。ここで追い返されたら、もうどうしようもない。諦めて帰るしかない。

「それでは、この奥の部屋で、手荷物の検査と身体検査を受けてください」

 係の男性は、特に何も咎めることはなく、事務的に言った。ここまでは、前回生徒会の人たちと訪ねた時と同じだ。私は係の男性にお辞儀をして、奥の部屋へ向かった。

 奥の少し広いがらんとした部屋では、男性と女性の職員がそれぞれ数人ずつ待機していて、商人の持ち込む品や、訪ねて来た者たちの手荷物を確認することになっていた。すぐに待機していた女性職員が、武器の類を持っていないか服の上からそっと体のラインを撫でるように触れて確認し、他の職員が鞄の中身を確認する。これも、前回と変わらない手順だ。

 そうして身体検査と手荷物の確認が終わると、宮廷侍女が一人、部屋の入り口に立っていた。

「カリア・ドミネリア子爵令嬢。王宮内にご案内いたします。私について来てください」

「お願いいたします」

 軽く礼をして、後ろを着いていく。王宮の奥は、完全に王族たちの私的空間だ。前回は生徒会の皆で賑やかにお喋りをしながら通った通路を、今は静かに歩く。アウグストゥル様が住まわれる王太子宮まで来ると、前回にはなかったざわめきと、慌ただしい雰囲気があった。

「こちらでお待ちください」

 とある部屋の扉を開けて、侍女の方がこちらを振り返る。この人も、私のせいでアウグストゥル様が王太子ではなくなってしまったことを知っているのか——少なくとも、態度には何も表れていなかった。礼をして室内に入る。小さいけれど、気品に溢れる客間だった。

 ソファにそっと腰を下ろすと、すぐに他の侍女の方がやって来て、洗練された手つきで茶器を並べ始めた。話しかけるような余裕はなく、緊張したままそれを見つめる。白磁に蔓草の柄が入って金の縁のついた高級そうなカップに、静かに紅茶が注がれた。侍女の方は一礼すると、そのまま退室していき、私は客間に一人きりになる。

 室内はシンと、静まり返っているのに、部屋の外からは時おり慌ただしいざわめきや、人々が行き交う微かな足音が聞こえてくる。たくさんの人がいる気配に包まれているのに、恐ろしいほどに私は一人だった。

 どれだけ経っただろう。カップの中の紅茶からはとっくに温かな湯気が失われて、私はまんじりともせずただ待ち続けることしかできなかった。いつのまにか、祈るように組んだ指先が冷えて強張っていた。

 やっぱり、約束もなしに急に押しかけるなんて、迷惑だったのかもしれない。アウグストゥル様を王位から遠ざけた罪深い自分などが、来てはいけなかったのではないか。やはり、このまま会ってはもらえないのではないか。

 そんな罪悪感と後悔が、ぐるぐると脳裏を回る。何度も縋るような気持ちで視線を向けた扉は、いまだにシンとしたまま、私と世界を隔絶している。

 どれくらい、祈るような気持ちで扉を見つめていただろう。不意に、慌ただしい足音が一つ、近づいてきた。扉の前で立っていたらしい騎士に声がかかり——直後に、世界から私を隔てていた扉が、勢いよく開いた。

「カリア!」

 アウグストゥル様だった。いつもは整えられている、美しい黄金の髪が、少し乱れている。王族という尊き立場でありながら、まさかここまで走って来てくれたのか——肩で息をしていた。

「すまない、待っただろう? 昨夜から少し慌ただしく、侍従と執事の連携が乱れていたらしくて、君が来ていることを知るのが遅くなってしまった……。さあ、君にいったい何があったんだい?」

 息を整えながら、私の元へ一直線にやって来て、肩にそっと触れる。昨夜も感じた温かさが、じんわりと私の冷えて強張った身体を優しく溶かすようだった。

「アウグストゥル様……私、私……! 生徒会でアウグストゥル様が王太子から外されたとお聞きして、それで、クインティーナ様に全てをお聞きしたのです!」

 私は目に涙が滲むのを懸命に堪えながら、アウグストゥル様に告げた。罪深さに、身体が震える。こんな時だというのに、それでもあの方の美しい王冠のような金の髪に、視線が吸い寄せられてしまう。王冠を失ってもなお、キラキラと眩く光を弾く様は、私の意識を簡単に奪ってしまうのだ。

「私を選んだせいで、アウグストゥル様が王になれなくなったと知って……私、本当に申し訳なくて、自分が許せなくて……でも私、それでもあなたを愛したことだけはどうしても後悔できないの……」

 腕にそっと触れる。私からアウグストゥル様に手を伸ばしたのは、これが初めてだった。本当に私が触れても良いのか迷いながら伸ばした指先を、アウグストゥル様は上からそっと手を重ねて覆った。

 昨日知ったばかりの温かさが、私の震える身体を温めるように重なった手の甲から染み渡る。

「カリア、大切な君を驚かせてしまって本当にすまない。あの時、君を選ぶことが王位に関わると告げなかった卑怯な私を、どうか許してくれ。それを知れば、きっと君は私の立場を考え、怯んで逃げてしまう。そう思ったら、とても打ち明けられなかった……」

 苦悩に満ちた表情で、アウグストゥル様が囁く。こんなことを思ってはならないのに、初めて拝見する苦悩に満ちたお顔も好ましかった。

 私はこの方に恋をして、本当に馬鹿になってしまった。ずっと成績優秀で、学年の首位で、このままなら王宮で優秀な文官として勤める未来が約束されていたのに、今はそんなものよりただ、アウグストゥル様との未来が欲しい。

「アウグストゥル様、本当に私を選んで良かったのですか? 後悔、されてはおりませんか?」

 熱のこもった青い瞳を見つめながら、囁くように尋ねる。どうか、もう一度私を選んで——そんな願いを込めて。アウグストゥル様は、そっと重ねた手を離して、そして私を強く抱きしめた。

「君と二度と会えない未来など、到底受け入れられない。——選ぶことすら許されなかったクインティーナには申し訳ないが、君を選んだことに後悔はない。愛している、カリア」

 ずっと我慢していた涙が、こぼれ落ちた。これはさっきまでの罪悪感ではなく、安堵の涙だった。誰が許してくれなくても、アウグストゥル様から本気で求められている——そう思うだけで、この先何があっても私は大丈夫だと、心の底から信じられた。

「アウグストゥル様、私も愛しております……心から、永遠に」

「カリア、ああカリア……。君を私も一生愛し続けると誓おう」

 抱き合ったまま、私たちは愛を誓い合った。叶わないと思っていた恋が成就した喜びに、私の身体は打ち震えた。罪深さは、変わらない。——それでも。




「今日は急に呼び出して悪かったね、クインティーナ」

 幼い頃から毎月訪れ続けた王宮の庭のガゼボで、しかし、今日出迎えたのは長年婚約者であったアウグストゥルではなく、新たに王太子となった弟王子のセルギアスだった。

「いいえ。必要なことですもの」

 クインティーナが椅子に近づくと、立ち上がったセルギアスが自然な動きで椅子を引き、座らせてくれる。

 控えていた侍女たちが一斉に慣れた様子で給仕を始めた。テーブルに並ぶのは、クインティーナが過去に好ましいと言った覚えのある菓子ばかりだ。

 セルギアスとお茶をした回数はそれほど多くなかったが、覚えていてくれたのだな、と、少し感心した。

「改めて、このたび立太子されましたこと、お喜び申し上げますわ」

「もっといつもみたいに親しく話してほしいな。これからは、私と新しく婚約を結ぶのだから」

「ふふ。私の勘が正しかったでしょう? セルギアス殿下」

 クインティーナが少し挑発的に微笑むと、セルギアスは苦笑を浮かべた。

「ああ、まさか本当に兄上が王位を捨ててまで、あの子爵令嬢を選ぶとはね……。今回のことは、本当にすまなかった、クインティーナ」

「アウグストゥル様は柔和で穏やかな方ですけれど、昔から一度決めたことはどんな障害があってもやり遂げるお方でしたもの。それに、私も少し反省しているの。私、子供の頃から義務で決まっていた婚約だったから、わざわざ恋をしようなんて考えたこともなかったわ。けれども、あの方はずっと恋をしたかったのね」

 見慣れた庭を眺めながら、クインティーナは夜遅くに謝罪に来たアウグストゥルと、青ざめた顔をして訪ねて来たカリアのことを思い出していた。どちらも首位を争うほど成績優秀で、理性的だと言われていたのに、恋に落ちるとあんなにも乱れてしまうものなのか。

 自分の知らない恋というものを、少し眩しくも、恐ろしくも思う。

「私たちは、もう選ぶ余地がないことがお揃いね。これから、うまく支え合っていけると良いのだけれど」

「これから、新しく二人の関係を積み上げよう。この国を、結界を守るための婚姻だけれど、信頼を積み重ねた先にはきっと愛情が生まれると——私は、そう信じている」

 セルギアスのすみれ色の瞳が、誠実な輝きでクインティーナを見つめた。自分に似た色の瞳と向かい合って、クインティーナは小さく微笑んだ。

「そうね。きっとそうなのだわ。私たちには、きっとそういう形が似合っている」

 周囲を見回すと、日頃から支えてくれている護衛騎士たちや、給仕の侍女たちの姿が目に入った。彼らは子供の頃からずっと、いずれ王妃となるクインティーナのことを見守ってくれていた。それは、婚約者がアウグストゥルからセルギアスに変わっても、変わることのない誓いのようなものだ。

「これから、改めてよろしくね。セルギアス殿下」

「こちらこそ、末長くよろしく頼むよ。——さあ、どの菓子を取ろうか。今日は特に君の好物ばかり揃えさせたのだから、じっくり堪能してほしい」

「あまり食べすぎると、怒られないかしら?」

「その時は二人で叱られよう」

 クインティーナとセルギアスは、にっこりと微笑み合った。まるで、今までも二人でそうしていたように、自然な笑顔だった。

 選べない二人の未来も、こうして確かに続いていく。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

今回のお話も、楽しんでいただけたら嬉しいです。

よろしければ、評価やブックマーク、感想などいただけると励みになります。

また、前作『夢を叶えた娘』も公開しております。

今回とは少し違った雰囲気のお話ですが、よろしければ作者ページからご覧ください。

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