第三章「近づけない距離」
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
第三章は、
大きな事件は起きませんが、
主人公の心が少しずつ揺れていくお話です。
誰も間違っていないのに、
少しずつ距離ができてしまう――
そんな感覚を、楽しんでもらえたら嬉しいです。
翌朝、学校は何事もなかったみたいに始まった。
教室の窓から差し込む光も、廊下を走る生徒の声も、昨日までと同じだ。
昨日、街の一角が戦場になったなんて、誰も知らないみたいに。
「よお」
席に着いたところで、前から声をかけられた。
「お前さ、佐伯桃子に告白したんだって?」
友人の菅沼太一だった。
いつもの軽い調子で、椅子を引き寄せてくる。
「……誰から聞いたんだよ」
「女子。情報早すぎだろ?」
笑いながら言う太一に、僕は曖昧に肩をすくめた。
「で? どうなんだよ」
「どうって……」
答えようとして、言葉に詰まる。
どう、とは何だ。
付き合ってるのか。
うまくいってるのか。
昨日のことを、どう思っているのか。
どれも、今の僕には答えられなかった。
「なんかあるだろ。例えばさ、
こういうところが気になったとか、
ここがイメージと違ったとかさ」
「……別に」
「そもそもお前、なんで佐伯に告白したんだよ」
「なんでって、ダメなのかよ?」
「先日あゆみちゃんと別れたばかりだろ?」
確かに、好きだったから告白したわけじゃない。
やけになったと見られても、仕方ない。
「まあ、いいけどさ」
返答に困っていると、太一は深追いせず、机に頬杖をついた。
「でもさ、気をつけろよ。佐伯ってさ、ちょっと変わってるだろ」
胸が、わずかに揺れた。
「変わってるって……」
「いや、悪い意味じゃなくてさ。
なんか、こう……掴めないっていうか」
その言い方に、反論はできなかった。
昨日までなら、何とも思わなかったはずだ。
でも今は、その言葉が妙に現実味を帯びて聞こえる。
そのとき、教室のドアが開いた。
「おはよー」
聞き慣れた、明るい声。
桃子だった。
いつも通りの調子で席に向かってくる。
昨日、怪物の前に立っていた人と、同一人物だとはどうしても思えなかった。
僕の前を通り過ぎるとき、桃子は足を止めた。
太一も無言で見上げる。
「裕太くん」
「……あ、うん」
「昨日は、楽しかったね」
一瞬、返事に迷った。
「……うん」
「それと」
桃子は、少しだけ声を落とした。
「巻き込んじゃって、ごめんね」
その言い方は、軽くも重くもなかった。
謝罪というより、事実を伝えるみたいな口調だった。
「大丈夫だった?」
「あ、うん……」
本当は、全然大丈夫じゃなかった。
あのとき、頭の上を飛んでいった車が、もし当たっていたら……。
でも、どう答えればいいのか分からなかった。
「そっか」
桃子は、それ以上踏み込まなかった。
「ねぇ、無理……してない?」
急に、少し覗き込むように顔を向ける。
「……してない、と思う」
「それならいいんだけど」
そう言って、いつもの笑顔を見せる。
その笑顔に救われた気もしたし、
同時に、少し距離を感じた。
桃子は、自分の席に戻っていった。
太一が、低い声で言う。
「な?」
何が、とは聞かなかった。
ホームルームが始まり、
担任が雑談まじりに話し出す。
「そういえば、昨日の駅前の爆発事故な」
先生が教室のテレビをオンにすると、
ちょうどそのニュースが流れている。
教室が、少しざわついた。
「ガス爆発らしいけどさ」
「えー、怪物いたって話じゃなかった?」
「SNSで見たわ、それ」
「どうせAI加工でしょ」
「今どき何でも作れるしな」
軽い笑い声が上がる。
テレビには、昨日と同じニュース映像。
壊れた建物、立ち入り禁止のテープ、専門家のコメント。
怪物も、ヒーローも、どこにも映っていない。
僕は、机の下で拳を握った。
確かに、あそこにいた。
見た。
聞いた。
感じた。
でも、それはもう、なかったことになっている。
怪物もヒーローも、そして僕も、確かにそこにいたんだ。
ちらりと桃子の方を見る。
無表情で、テレビ画面を見つめていた。
休み時間、廊下で声をかけられた。
「あ、裕太」
振り向くと、元カノのあゆみが立っていた。
前より少しだけ、大人びた表情をしている気がした。
「久しぶり」
「……久しぶり」
少しだけ、間が空く。
お互い、何を話せばいいのか分からないまま。
「昨日のニュース、見た?」
やっぱり、その話題かと思った。
「うん」
「怖いよね。最近、物騒で」
心配しているというより、
世間話みたいな口調だった。
「駅前でしょ? 人、結構いたはずだよね」
「……そうだね」
「怪我人いなかったのは、よかったけど」
あゆみはそう言って、少しだけ息をついた。
「でもさ」
一拍おいて、続ける。
「やっぱ、普通が一番だと思うんだよね」
胸の奥が、わずかに反応した。
「普通?」
「うん。平和で、何も起きなくて、
毎日同じ時間に学校来て、帰って」
それは、
昨日までの僕にとっては、当たり前の風景だった。
「変なことに巻き込まれるの、嫌じゃない?」
否定できなかった。
昨日の光景が、脳裏をよぎる。
飛んできた車。
逃げ場のない恐怖。
「……嫌だよ」
思っていたより、素直な声が出た。
「でしょ?」
あゆみは、安心したみたいに小さく笑った。
「だからさ」
少しだけ、声を落とす。
「価値観って、やっぱ大事だと思うんだよね」
その言葉に、肩が強張る。
「合う人の方が、楽だし」
「無理しなくていいし」
どれも、覚えのある言葉だった。
「裕太ってさ」
あゆみは、僕の顔をまっすぐ見た。
「相手に合わせちゃうタイプでしょ」
「……」
「私と付き合ってたときも、そうだった」
責める口調じゃない。
事実を確認するみたいな言い方。
「嫌なことあっても、
自分が我慢すればいいって顔してた」
反論しようとして、言葉が出なかった。
図星だったから。
「だから思ったんだ」
あゆみは、少し困ったように笑う。
「合わない人と一緒にいるのって、
優しさでも何でもないんじゃないかって」
胸の奥の何かが、欠けた気がした。
「無理して続けるのって、
結局、どっちもしんどくなるし」
それは、
僕が振られたときに聞いた言葉と、よく似ていた。
「だからさ」
「合わないって思ったら、
早めに離れるのも、悪いことじゃないと思う」
あゆみは、穏やかにそう言った。
悪意はなかった。
正論だった。
だからこそ、何も言えなかった。
「……そっか」
絞り出すように答える。
「うん」
あゆみは頷いて、少し距離を取った。
「裕太、いい人だから」
「無理しない方がいいよ」
その言葉が、なぜか一番、胸に残った。
あゆみは軽く手を振って、廊下の向こうへ歩いていった。
僕は、その場から動けなかった。
――価値観が違う。
その言葉が、
今度は「自分を守る言葉」として、
頭の中に浮かんでいた。
昨日までは、
桃子の言葉に救われた気がしていたのに。
でも今は、
同じ言葉が、
逃げ道みたいに見えてしまう。
「ねぇ、昨日のこと、まだ引きずってる?」
放課後、校舎を出たところで、桃子が言った。
「……少し」
「そっか」
それだけで、理由は聞かなかった。
「無理に、合わせてくれなくてもいいよ」
淡々とした口調だった。
「普通の人なら、ああいうの見たら混乱するし」
“普通の人”。
その言葉に、胸がわずかに反応する。
「怖かったでしょ」
同情でも、慰めでもない。
事実確認みたいな言い方。
「だからさ」
桃子は、少しだけ言葉を選んでから続けた。
「私のこと、よく分からなくなったなら、
距離置いてもいいよ」
「……え?」
「嫌われた、とかじゃなくて」
目を逸らさず、まっすぐこちらを見る。
「考える時間が必要なだけでしょ?」
その言い方は、
“理解している人”のそれだった。
「私、そういうの慣れてるから」
何に、とは言わなかった。
「無理して付き合う方が、後でしんどくなるよ」
元カノと、よく似た言葉。
でも、声の温度はまったく違った。
「ちゃんと話したくなったら、言って」
「その時は、聞くから」
それだけ言って、桃子は歩き出した。
「じゃあ、またね」
軽く手を振る。
その背中を見送りながら、僕は動けなかった。
優しさだった。
正しさだった。
そして――
今の僕には、
それが一番、しんどかった。
家に帰って、夕飯までの時間、テレビをつけた。
特に観たい番組があったわけじゃない。
ただ、音が欲しかっただけだ。
ニュース番組の途中で、画面の端に小さなテロップが流れる。
『本日夕方、隣県で発生した爆発事故について――』
思わず、リモコンを握り直した。
画面に映るのは、昨日とよく似た映像。
壊れた建物、立ち入り禁止のテープ。
原因は不明。
怪我人なし。
「……また?」
アナウンサーは、淡々と読み上げている。
専門家のコメント。
安全宣言。
過度な憶測は控えるように、という注意。
でも、胸の奥がざわついた。
昨日は、偶然だった。
そう思いたかった。
スマホを手に取って、少し迷ってから、桃子にメッセージを送った。
『今日、大丈夫?』
送信したあとで、
何を聞きたかったのか、分からなくなった。
しばらくして、返事が来る。
『うん、大丈夫だよ』
それだけだった。
いつもの桃子の文面。
短くて、あっさりしていて、余計な感情がない。
でも、その「大丈夫」が、
僕の知っている意味と、違う気がした。
もう一度、スマホの画面を見る。
打ちかけて、やめた文章が残っていた。
『気をつけて』
それを送る勇気は、なかった。
もし、また何か起きたら。
そのとき、
僕はどうするんだろう。
価値観が違うと言って、
距離を取るのか。
それとも――
考えないようにして、
スマホの画面を伏せた。
次は、
選ばされる気がした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
第三章では、
元カノ・あゆみと、桃子の言葉が
とてもよく似ているのに、
まったく違う方向を向いている、という構図を意識しています。
どちらも正しく、どちらも優しい。
だからこそ、主人公は迷い、
そして次の章で、少しだけ間違えます。
次は、裕太が「選ばされる」章です。
その選択が、どんな結果を招くのか――
続きを読んでいただけたら嬉しいです。




