第8話 概念の書き換え
「……酷い有様ね」
中央広場に足を踏み入れた瞬間、私は顔をしかめた。
そこはもう、現実の風景ではなかった。
重力がバグを起こし、石畳やベンチが宙に浮いている。
空気中を紫色の稲妻が這い回り、耳障りなノイズが空間を削り取っていた。
広場の中心には、儀式用の巨大な水晶『賢者の石』が鎮座している。
今はドス黒く明滅し、心臓の鼓動のような音を立てていた。
ドクン、ドクン。
収縮するたびに、周囲の空間にヒビが入る。
「くっ……! まだか、救援はまだなのか!」
水晶のすぐそばで、金色の光が必死に輝いていた。
王太子エドワード殿下だ。
彼は剣を地面に突き立て、その魔力で半球状のシールドを展開している。
その背後には、数百人の生徒たちが身を寄せ合って震えていた。
「殿下!」
アレクが叫ぶ。
殿下が顔を上げ、私たちを見て目を見開いた。
「アレク! それにクロエか! よくぞ入れたな!」
「感動の再会は後です。状況分析を!」
私は殿下の隣に滑り込み、シールドの強度を確認した。
薄い。あと数分も保たない。
殿下の顔色は蒼白で、魔力切れ(マナ・ダウン)寸前だ。
それでも逃げずに生徒を守り続けていたのか。
非効率だが、王族としては正しい振る舞いだ。
「が、学院長はどうしたのですか! 制御コードを持っているはずでしょう!」
私が問うと、殿下は苦虫を噛み潰したような顔で、広場の隅を顎でしゃくった。
「あそこだ。……使い物にならん」
視線を向ける。
そこには、腰を抜かしてへたり込む老人の姿があった。
ガレイン学院長だ。
手には金貨が詰まったカバンを抱きしめている。
「ひ、ひぃぃ……わしのせいじゃない……これはクロエの呪いじゃ……わしは悪くない……」
ブツブツと譫言を繰り返している。
自分の作り出した「失敗」に飲み込まれ、完全に思考停止していた。
生徒たちが、蔑みの眼差しで彼を見ている。
権威の失墜。
これ以上の断罪はないだろう。
「……役に立ちませんね。想定内ですが」
私は水晶に向き直った。
解析開始。
ゴーグル越しに見える術式は、醜悪なほど肥大化していた。
『魔力を集めろ』という命令だけが無限に繰り返され、出口が設定されていない。
ダムが決壊する寸前だ。
「クロエ、どうする? 斬ればいいか?」
アレクが剣を構える。
私は首を横に振った。
「ダメです。物理攻撃を加えれば、刺激で即座に臨界点を超えます。王都ごと消し飛びますよ」
「じゃあ、解呪コードを打ち込むか?」
「間に合いません。今のこのエネルギー量は、国家予算十年分の魔力に匹敵します。私の魔力で書き換えようとしても、インクが足りずに弾かれます」
詰み(チェックメイト)だ。
普通なら。
水晶が激しく収縮した。
キィィィィン!
高周波音が鼓膜を突き破りそうになる。
「きゃあぁぁぁ!」
「もうだめだぁ!」
生徒たちが悲鳴を上げる。
殿下のシールドにヒビが入る。
終わりの時が来たのだ。
エネルギー保存の法則。
一度生まれたエネルギーは、消滅しない。
ただ形を変えるだけ。
形を変える?
私の脳内で、シナプスがスパークした。
「……そうだ。消さなくていい」
私はアレクの腕を掴んだ。
「アレク。あなたの出番です」
「俺の?」
「この膨大なエネルギーを、私の魔力だけで制御するのは無理です。桁が違いすぎる。……でも、もっと巨大な『流れ』を作って、そこに合流させてしまえば?」
私は空を指差した。
紫色の結界に覆われた、閉塞した空。
「アレク。あなたの全魔力を、この水晶にぶつけなさい」
「はぁ!? 誘爆させる気か!」
「いいえ。あなたの魔力で、この暴走エネルギーを『上空』へ押し上げるのです。推進剤として利用します」
私は懐から、数本のチョークを同時に取り出した。
指の間に挟み、空中に数式を描き始める。
通常のマナ書き換えではない。
もっと根本的な、現象の定義変更。
「対象:過剰魔力塊。
属性定義:破壊的衝撃波から、拡散的光熱波へ変更。
ベクトル:垂直上昇。
拡散半径:高度五千メートルにて最大化」
「おい、クロエ。それってまさか……」
アレクが私の意図に気づき、呆れたように笑う。
「……花火にする気か?」
「ええ。今日は『聖祭』でしょう? フィナーレには特大の花火が必要不可欠です」
私は彼を見上げた。
真剣な眼差しで。
「ただし、条件があります。あなたの魔力が尽きるまで、注ぎ続けてもらう必要があります。途中で出力が落ちれば、押し負けて私たちが吹き飛びます。……死ぬかもしれません」
これは賭けだ。
アレクの肉体が保つかどうかの、危険な賭け。
アレクは、私の瞳を覗き込んだ。
そこには恐怖も、迷いもない。
あるのは、私への絶対的な信頼だけ。
「……いいぜ」
彼はニヤリと笑った。
「君との心中なら悪くない。それに、俺はずっと悩んでたんだ。このあり余る魔力を、どう使えばいいのかってな」
アレクは水晶の前に立った。
剣を地面に突き刺す。
それは避雷針であり、起爆装置だ。
「クロエ、合図を!」
「術式展開! 接続!」
私が叫ぶと同時に、空中に描いた光の数式が、水晶とアレクを包み込んだ。
「うおおおおおおおおおおッ!!」
アレクが咆哮する。
彼の体から、視界を埋め尽くすほどの赤い魔力が噴出した。
それは水晶のドス黒い魔力と衝突し、拮抗し――そして、ねじ伏せていく。
「くっ、重い……ッ!」
アレクの膝が折れそうになる。
鼻から血が垂れる。
血管が浮き上がり、筋肉が悲鳴を上げている。
「頑張って! もう少し! ベクトルが上を向き始めました!」
私は彼の背中に手を当て、微細なコントロールを行う。
荒れ狂う二つの大河を、一本の細い管に通すような作業。
私の脳も焼き切れそうだ。
熱い。痛い。
でも、楽しい。
こんな大規模な実験、二度とできない。
「殿下! 結界の上部を解除してください! 一瞬でいい!」
私は叫んだ。
呆然としていた殿下が、ハッとして杖を掲げた。
「わ、わかった! 王権発動! 天蓋よ、開け!」
殿下の援護で、頭上の結界に小さな穴が開く。
排出口だ。
「今です! アレク、全部吐き出しなさい!」
「持ってけぇぇぇぇぇぇッ!!」
アレクが剣を振り上げる。
その瞬間。
カッ!!!!
音が消えた。
視界が白一色に染まる。
地面にあった水晶と、アレクの魔力が混ざり合い、一本の巨大な光の柱となって空へ逆流した。
凄まじい風圧。
でも、熱くない。
破壊のエネルギーはすべて、推進力へと変換されている。
光の柱は結界の穴を通り抜け、遥か上空へ。
雲を突き抜け、成層圏近くまで到達する。
そして。
ドォォォォォォン……!
腹に響く重低音と共に、空が弾けた。
七色。
いいえ、もっと複雑な、数千色の光の粒子。
赤、青、緑、金、銀。
学院に渦巻いていた汚い澱が、私の書いた数式によって、美しい光の雨へと変わって降り注ぐ。
「……きれい」
誰かが呟いた。
恐怖に震えていた生徒たちが、空を見上げている。
絶望の紫色はもうない。
あるのは、王都の夜空を埋め尽くす、見たこともないほど巨大で、美しい花火。
結界が、光の粒子に触れてガラス細工のように崩れ落ちていく。
風が吹き抜ける。
澄んだ、正常な夜風だ。
「はっ、……ははっ……」
アレクが膝から崩れ落ちた。
私は慌てて彼を支える。
体は熱いが、脈はしっかりしている。
魔力欠乏で気絶しているだけだ。
「よくやりました。……百点満点です」
私は彼の汗ばんだ額を、袖で拭った。
私自身も、もう指一本動かせないほど疲弊している。
そのまま、彼に寄りかかるようにして座り込んだ。
「……信じられん」
殿下がふらふらと歩み寄ってきた。
空と、私たちを交互に見ている。
その表情は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「あれだけの暴走を、祝砲に変えるなど……。これが、貴様の言う『失敗の管理』か」
「ええ。失敗も、使いようによっては人を笑顔にできます」
私は空を指差した。
光の雨が、王都の人々の上にも降り注いでいるだろう。
きっと街中が、この「奇跡」を見上げて歓声を上げているはずだ。
「殿下。約束通り、被害はゼロです。……修理費以外は」
私がニッと笑うと、殿下は呆れたように、そして穏やかに笑い返した。
「ああ。請求書を見るのが怖いな」
遠くから、救助隊のサイレンが聞こえてくる。
私の意識も、心地よい疲労感と共に薄れていった。
隣で眠るアレクの心音だけが、トクトクと頼もしく響いていた。




