薄汚れた中で芽生えた清涼
鏡の中の自分を何度も見返す、そんな事をしたのはいつ以来だっただろうか。
アダムは自分のこのせわしない所作を恥ずかしく思いながら、それでも、初めて異性と出掛けた時でさえもこんな気持のざわめきは無かったと自分に認めた。
すると、初めて感じているこの感覚がなんだか嬉しく感じるばかりである。
妖精は大概の事は対処できるからか、成長と共に感情が鈍る。
また、アダム当人で言えば、エンキアメル神族の姿形や能力がどんな種族からも好ましく受け止められるためか、あらゆる種族からの性的な誘惑も多い。
アダムは他者から持て囃されるという日常にこそ飽いてもいた。
「それが、女の子一人の為に何度も鏡を覗いているだなんて。今日は冬弦と海宇の顔合わせに立ち会うってだけだろうに」
口調はうんざりしたものであったが、それでもアダムは鏡に映った自分自身を見つめながら、海宇が自分を見てどんな顔をするかと考えていた。
「裸の方が喜びそうだな、あの子は」
保健室で自分の筋肉を見て目を丸くしていた海宇を思い出し、アダムは頬の奥がきゅっと痛くなった。
「情けないな。あの子の眼差しには性的なものが何一つなかっただろうに」
アダムは自分の痛くなった頬を片手で抑えながら、再び鏡に映る自分を見返す。
Tシャツにジャケットを羽織っただけの姿であるが、長身で体格の良い体つきに長めの髪を結ばずに流しているので、彼を十代だと見る者はいないであろう。
「これじゃ遊びなれた大学生か?俺を騎士と言ってくれたあの子は、こんな俺は気にいらないかな?」
しかし、アダムはハッとした様にして息を飲んだ。
その後すぐに落ち込んだような溜息だ。
頭までしっかりと下げ、両手で洗面台を掴んでいる姿は、気分が悪くて洗面台に寄りかかる人そのものである。
「どうしよう。俺が純朴でも何でも無いと知られたら――」
ドン、ドン。
洗面所のドアが叩かれた。
アダムはふうっと息を吹き出すと身を起こし、早足でドアへと歩いて行き、かなり乱暴な勢いでドアを開けた。
この洗面所は彼の部屋に付随したものだ。
彼の部屋に勝手に入った上に、彼の邪魔をしているノックだったからである。
「何だ?」
「あら。ご気分が悪いのかと思いましてよ」
乱暴に開いたドアに驚いたふりをして見せた女は、それは見事な赤みがかった金色の長い髪をしているが、着ている服はベージュ色の簡素なルームドレスだ。
しかしそれこそ男を誘うための計算づくの恰好にしかアダムには見えなかった。
ミニ丈の裾は惜しみなく長い脚を晒し、薄手の布地は男なら誰でも溜息を吐くだろう肉体を隠すどころか際立たせている。
けれどもアダムがその女性に惑わされる事は無い。
せっかくの清涼だった空気を汚された感覚の方が強かった。
彼の父親の愛人であるからアダムが彼女を厭うのではない。
父親の愛人に選ばれた事について彼は彼女が哀れだと思うくらいだ。
それは、現在三十二歳の彼女が上手く立ちまわることが出来たとしても、結婚できるどころか五年後には確実に捨てられるとアダムが知っているからである。
「大丈夫ですよ。すぐに出ます。ご心配おかけしました」
アダムを見上げた青い瞳はアダムが素晴らしいと称賛するように煌き、真っ赤な唇はアダムを食べてしまいたいという風に笑みを作った。
「うふ。いいのよ。若いのだもの。私こそ邪魔しちゃってごめんなさいね。あら、でも、私はいつだってあなたの悩みを解消してさしあげてよ?」
アダムは本気でウンザリとした。
彼女達はアダムの父に捨てられる前にと、息子であるアダムを攻略しようと誘惑して来るのが常である。
じゃあ、その鬱陶しいお前を殴らせてくれ。
アダムはいつものように心の中で父の愛人を罵倒した。
だが今日に限っては、数分前まで胸の中にあった綺麗な何かを汚された気持にもなったからか、本気で目の前の女性を叩き潰したくなった。
「ご親切にどうも、メラニー。でも全く不要ですよ。どうやら俺は年下の女の子に恋したみたいなんです。齧るならふわふわのマシュマロみたいな無垢な子の方が良いですね」
アダムを誘惑したくて堪らない彼の父の愛人は、美しい顔の笑みを崩しはしなかったが、醜い皺を目の下と両の口角に刻みつけた。
アダムは蠅を素手で潰してしまった後味の悪さばかりを感じ、その後今の出来事を振り払う勢いで洗面室を、彼の部屋こそ飛び出した。
そのまま彼は玄関に向かい、少々乱暴に玄関ドアを開けて外に出る。
そこで彼を受けとめる緑の洪水に出迎えられた。
玄関の先は緑ばかりの広い庭、彼の母が植えたままそのままの藪と化した世界が門扉まで続いている。
アダムは陽光の中で揺れる草木を眺め、自分の寿命を初めて考えた。
妖精の血を引く人間ばかりのこの世界では、平均寿命が百五十歳ぐらいとなっている。
妖精の血が濃ければ濃いほど、長寿となるのだ。
反対に人間の血が濃ければ濃いほど、人間の本来の寿命に近くなる。
「あの子は純粋な人間だ。寿命が違うどころか、彼女が老いたその時の俺は、きっとまだ若い外見のままだろうな。海宇も母みたいに自分が若く美しい時に命を終わらせようとするのだろうか」
アダムの父は、愛人が三十七歳になると捨てる。
アダムの母が迎えられなかった三十八歳の女を抱く気は無い、という誓いなのかとアダムは考えている。
妖精らしい頑なで他者には残酷きわまる誓い、だと。
「俺も父のようになるのかな」
アダムの口から虚しい問いが零れていた。
完全な人間を愛した半妖精の末路が、彼の父であるのだ。




