38 ≪楓と紅葉の結婚式前夜の話≫
慣れないベッドに紅葉は座り、楓の帰りを待つ。
楓はシャワーを浴び終え、脱衣所で髪を乾かしていた。
家と違ってベッドと脱衣所の距離が近い、そのせいか、そのおかげか、ドライヤーの些細な音さえも紅葉に届く。
「ただいまー」
「お帰りなさい……」
「おぉ、可愛いパジャマ」
「今日の為にと、買ってきたんです」
少し空いたカーテンからネオンが輝く街を、星のない綺麗な夜空が見える。
電車が一両、二両と通り過ぎる音が、遠くの方から微かに聞こえてくる。
「あっ、これ食べようよ。お土産系のものらしいんだけど、ゆかりにも買って帰ろうかなーって思ってたけど、やっぱ紅葉とも食べたいじゃん?」
テーブルの上に並べられる六個入りの紅葉饅頭。
楓の中でなにかのブームが到来しているのか、紅葉と名の付くものはどんなものであれ大抵買って、家の中に飾るか、食べていた。
「紅葉?」
ずっと黙って、顔を赤くしたまま固まる紅葉の方を揺らし、声を掛ける。
三度目か、四度目で、ようやく紅葉は正気を取り戻し返事をする。
「あっ、ごめんなさい。意識がどこかへ行っていました」
「大丈夫?」
「その、明日の事を考えたら……つい」
「あぁ、なるほど」
それなら仕方がないか、と楓もすぐに納得する。
何せ明日は、誰しもが、もしかすると楓と紅葉だけが待ち望んでいた人生の中にある一大イベントの一つである「結婚式」の日、だからだ。
「今から緊張してる様じゃ、明日まで持たないよ?」
「そんな事言わないでください。もっと大変になっちゃいます」
「紅葉顔真っ赤で面白い」
「恥ずかしんです! 楓とホテルに来るのも、同じベッドで寝るのも、明日結婚式なのも、全部全部恥ずかしくて、もう心臓が持たないんです!」
「分かったから、ほらこれでも食べて落ち着いて」
紅葉は楓にもらったモミジ饅頭を食べながら言う。
「楓は、ドキドキとかしないんですか?」
「ドキドキって?」
「明日の結婚式に対してです……緊張する―とかドキドキするーみたいな、そういうの」
「あるかもしれないけど……ほら、私って本番タイプじゃん?」
「本番タイプ?」
「なんていうのかな。本番が始まるまでは全然ドキドキも緊張もしないし、平気なんだけど、いざ本番が始まると人一倍ドキドキするって言うか」
「あぁ確かに、楓はそういうタイプですね」
「でしょ? だから、私のドキドキは明日にならないと見れないかなー」
楓もモミジ饅頭を食べる。
そして少し、昔の事を思いだしたりする。
二人が出会った日の事、二人が本当に出会っていた日の事、まだ紅葉が花菱猫だった頃の全てを、ぼんやりとその頭に浮かべる。
「アイドル時代の紅葉かー」
「なんです? 今もわたしはアイドルですよ」
「そうだけど、あの初々しいアイドルじゃないじゃん?」
「楓のおかげで初々しさ、みたいなものは全てどこかへ消えましたね」
「可愛かったんだけどなーあの頃の紅葉」
「今はどうです?」
「あの頃以上に可愛いに決まってるじゃん」
「ふふ、ありがとうございます」
未だに楓に言われる可愛いは慣れない。
恥ずかしいし、ちょっとこそばゆい、胸に響く、凄く優しい言葉。
なのにまだ、慣れない。
紅葉は楓よりも先に歯を磨く、楓はその間窓の外に広がる世界を見つめていた。
そこに何か特別なものがある訳じゃない、それが特別なものではなく、当たり前の景色だから愛おしい。
こんな当たり前の世界に、今こうして紅葉と生きているということが楓にとっては実感のない、だけど確かな現実で、そこにこれ以上ない幸せがあったのだから。
「楓」
「ん?」
「終わりましたよ」
「あぁ、ありがとう」
不思議、だった様な、案外そうでもない様な。
あの日出会って、恋をしていたのなら、きっとわたしはどんな方法を使ってでも最後には徒花楓の側にいたんじゃないか、って今だから思える。
あの日、もしわたしが楓に出会わずに知らない男の人について行って、それで嫌な思いをしたとしても、きっとわたしは心のどこかで楓さんを求めていたに違いない。
顔も名前もまだ知らない、楓さんの事をずっと。
「ん……恥ずかしい……ほんとうに、ただただ恥ずかしい……」
ベッドの上に寝転がって枕に顔を埋めながら紅葉は悶える。
悶え続けて少しした頃、自分の左手薬指にある指輪を見て思いだす。
――もう、わたしは楓さんの側を離れなくていんだ。
そして。
――明日、わたしは楓さんの彼女じゃなくなるんだ。
と、言う事を。
「紅葉ーって、もう眠たい?」
「まだ起きてます」
布団に顔をベッドの上に寝転がって、天井ではなく楓の顔を紅葉は眺める。
「同じ布団で良い?」
「ダメって、そんな事言うと思ってるです?」
「思ってない」
「えぇ、わたしもそんな事を言うつもりはありません」
二人は同じ布団に入る。
慣れないベッドと布団を、快眠ができる慣れたものに変える為に、紅葉はいつもの様に楓に抱き着く、楓はそんな紅葉の頭を撫でながら。
「ねぇ、ちょっと顔見せて」
そう言いながら楓は起き上がる。
紅葉はそんな楓の言葉を聞いて、だんだんと眠ろうとしていた脳を、楓の為に動かそうと、必死になった時だった。
「ん」
眠気で目を瞑っていた紅葉に、楓はそっとキスをする。
途端に紅葉は目を覚まし、眠いっていたはずの脳は問答無用で叩き起こされる。
「楓さん! 急にキスなんて!」
「ごめんごめん。でも、最後にしたかったの」
「最後……?」
最後、という言葉が紅葉の脳に引っかかるが、すぐにそれはプラスな意味での「最後」だと、楓から否定される。
「そう、最後。私の彼女の紅葉とするキスはこれで最後……次するキスは私のお嫁さんになった紅葉とのキス、でしょう?」
そんな事を平然を言って楓は「もう寝よう」と、平然とそう言って布団に入る。
だけど、紅葉はそんな気にもなれず。
むしろ酷く目が覚めてしまって。
「ズルいです……楓さん、こういう時ばっかりカッコイイ事するんですから」
ついつい普段キスをした時と同じ様に楓を「さん」付けで呼びながら、抱きしめる。
「明日は、わたしに付き合ってもらいますからね。楓」
「ん? いいよーどこか行きたいの?」
「ナイショです。強いて言うなら、楓はすぐにわたしをその気にさせるので、やっぱり心配です」
「えーなにそれ」
「なんでもです。あっ、結婚した後に浮気とかしたら許しませんからね」
少し紅葉もムキになる、いつも楓が誘ってくる。
そんないつもを変えたくなる、
「する訳ないでしょ? 何回私が紅葉の事好きって言ったか、数えてなかったの?」
「数えてはないですけど。でも、気持ちは伝わってます……」
「ならよかった」
「また明日、楓……おやすみなさい」
「うん、また明日。紅葉」
街の喧騒が、静かな部屋に響く。
楓の静かな吐息と、紅葉の優しい吐息が混ざり合って、明日を誘う。
太陽はまた昇る、二人の大好きな夜を終わらせて、二人に永遠の祝福が訪れる明日を連れて来る。
「大好き……ですよ……」
そんな紅葉の寝言も。
「ずっと側に……いるよ……」
なんていう楓の寝言も、全てがこの夜に置いて行かれ、明日の朝にはまた二人は新しい感覚と感情を知り、そして二人は伝えあう。
今、自分自身が感じるものすべてを、最愛の君に伝えあう。
夜乃月です。
カクヨムに投稿していた作品を、こちらにも投稿しはじめました。
こちらは時系列整理版、としてカクヨムの方で閑話扱いとなっていたエピソードも本編中に含めて投稿いたします。(カクヨム版は完結済)
【カクヨム版URL↓】
https://kakuyomu.jp/works/16817330650740228152




