27 ≪紅葉が楓を呼び捨てにしたい話≫
その日の夜、わたしは少し楓さんの様子を気にしては、何でもない様に頑張って振舞っていました。
何せこの夏を超え、次のクリスマスの日を迎えれば、もうすぐ付き合って三年。
それはまだまだ先の話できっとそんな事を深く気にしているのはわたしだけ、そう分かっていても、気になってしまう。
「紅葉」
と。
「ユリ」
と。
そう、呼んでくれていたのはずっと楓さんだった。
なのにわたしはずっと。
「楓さん」
なんてそんな呼び方を続けている。
もう、三年。
まだ、三年。
だけど……。
お風呂上がりの楓の横に、温かいココアを二つ持ってちょこんと紅葉は座る。
楓の髪はまだ完璧には渇いておらず、それでもこのソファーに座ってしまうのは、それだけこのソファーを気に入っている証拠だった。
「かっ……」
いつもの様に名前を呼べばいいだけ、少しそこに変化を加えるだけでいいのに。
なのに。
「かっ……かっ……」
「か?」
「……髪、乾かしますよ」
「……? うん、ありがとう」
「いえ……」
ドライヤーとバスタオルで髪を乾かしながら、あまり楓が色々な音を聞けないのをいいことに、改めて紅葉は覚悟を決める。
ただ名前を呼べばいいだけ「さん」をなくせばいいだけだと、自分に強く言い聞かせる。
「あの……」
「ありがと、いつもより髪早く乾いたかもね」
「いえ、それならいいんですけど……」
紅葉はもう一度、楓の隣に座る。
そして、ノートパソコンを開き仕事関係のメールを処理し始めた楓の隣でココアを一口飲むとまた、紅葉は言う。
「かっ」
「か?」
「あぁ、えっと……かっ」
「ん?」
「かっ……んぴろばくたーって知ってますか……」
「あぁなんだっけそれ。食中毒の菌だっけ、それがどうしたの? 学校で習ったの?」
「あぁ、はい……知ってるかなぁと」
「それ知らなかったなぁ、後で調べていい?」
「あぁ、大丈夫です……」
違う違う。
こんな事が聞きたいんじゃない、こんな事がしたいんじゃない、名前を、名前を呼ばないと。
覚悟を決める為に、次こそはとそう意気込むために、紅葉はもう一度ココアを飲む。
楓も同じように隣にあるココアを飲みながら、仕事関係のメールに返信をする。
「か」
「うん」
「かぁ……」
「え?」
「か……か……」
「か?」
「か……か……カリフォルニアって街があるんです……」
「あぁ、えっと。アメリカの州だっけ? カリフォルニア。てかなに? 今日すごい色々教えてくれるね、紅葉。学校で習ったの?」
「まぁ、そのそんなところです……」
「そっかぁ、毎日賢くなるなぁ紅葉は」
そう言いながら数度紅葉の頭を撫でると、楓はまた作業に戻ってしまう。
ただ紅葉が初めて知った事や、学校で習った事、最近覚えた事を、教えてくれているんだと納得して、楓は仕事に戻る。
「か!」
今度こそは、と紅葉はもう一度。
「おぉ、今度は元気な『か』だね」
「えっと、その……かっ……か……かぁ……」
今日の紅葉、ちょっと変。
顔も赤いし、ずっとカラスの鳴き真似みたいなことしてるし、あんまりちゃんと考えて話してる様にも思えないし。
「まさか」
と、そんな様子を見て楓はすぐに危機感を持つ。
「紅葉、ちょっとおでこ貸して」
そう言うと、紅葉は「いいよ」とも「はい」とも言っていないのに、勝手に前髪をかき上げて、紅葉の冷たいおでこに自分の冷たいおでこを楓は当てる。
「よかった。熱はないみたいで……」
「ん……んん……」
「紅葉?」
紅葉はこれまでにないくらい顔を赤くしながら、目を瞑る。
いきなりなんてそんなの、なんて思いながら必死になって覚悟を決めようとする。
「おーい? 熱なかったよ? 紅葉?」
「え」
「熱、大丈夫だったみたいだけど……今日ずっと顔赤いね、大丈夫?」
「大丈夫……大丈夫ですよ!」
「なら……いんだけど」
「ただ、その……顔が」
「え?」
「顔が、近いです……」
今にもキスができるほど誓距離にある楓の顔に紅葉はもう、理性が持たず、好きという感情が溢れ出して壊れてしまいそうで、それ以前にももう、恥ずかしくて恥ずかしくて仕方がなかった。
「あぁ、ごめん。嫌だったね」
「嫌、とかじゃなくて……」
「ん?」
「その……」
正直に言って、楓さんに促してもらえれば正直にわたしは言えるのでしょうか。
恥ずかしくなくなって、突然、当たり前かの様に、その名前で呼べるのでしょうか。
「もう、三年ですね」
「あぁ、もうそんなに経つ?」
「忘れちゃちゃってたんですか?」
「違う違う。あっという間だったなぁって、この三年」
「ですね。目を瞑って、次の瞬間にはもう今日になっていた様な気もします」
「これからの人生も一瞬なんだろうなぁ」
「だからこそ、大切にしたいですよね。この時間を、全部」
「だね……」
大切にしたい。
だからこそ、その名前で呼ぶ時間が、二人の人生の中で一分でも一時間でも多く欲しい。
だから、だから、わたしは。
「かえ……で」
「え?」
だから、わたしは呼ぶ。
「楓」
君の名前を、わたしの声で。
「楓、って呼んでもいいですか?」
応えてほしい、わたしの声に。
「楓……って! ね?」
怖い、名前を呼ぶだけなのに、すごく怖い。
なんでだろう。
なんでかな。
「紅葉」
泣きそうな目をして、名前を呼ぶ紅葉を楓はすぐに抱きしめる。
そして、楓は頭を撫で、優しく囁く。
「嬉しい。紅葉にそう呼んでもらえて。この名前で生きてきた甲斐があるよ」
「呼ばせてください。この名前で……楓さんの側に、もっともっといたいです」
初めてわたしは名前を呼んだ。
楓の名前を、彼女みたいに彼女らしくよんでみる。
それであなたが嬉しいのなら、それでわたしがこんなにも幸せなら、もっと早くにこうしておけばよかった。
「楓」
まだ、呼び慣れないな。この名前。
「楓!」
でも、ずっと読んでいたいこの名前を。
貴方の顔を見ながら、貴方の事を感じながら、貴方との幸せを分かち合いながら、この名前を、あの日誓った永遠に従って、呼び続けていたいな。
夜乃月です。
カクヨムに投稿していた作品を、こちらにも投稿しはじめました。
こちらは時系列整理版、としてカクヨムの方で閑話扱いとなっていたエピソードも本編中に含めて投稿いたします。(カクヨム版は完結済)
【カクヨム版URL↓】
https://kakuyomu.jp/works/16817330650740228152/episodes/16817330651547226278




