16 ≪紅葉が楓の母親に挨拶に行く話≫
窓から見えるのは海、町の景観を汚すような大きな病院が建てられているのは大きな山の中。
電車を降りて、バスに乗り換え30分ほど揺られた先の少し不便な場所にそれはある。
そしてそこは、楓ににとって、そして母親にとっても……。
「お母さん。元気?」
一つのシミも許さない、白い壁と天井に包まれた密室。
そこにベッドが一つ、花のない花瓶が一つ、音のないテレビも一つ。
「あぁ、お母さんお花好きじゃないでしょう? だからほら、これ……お母さんが好きなお饅頭買ってきたの」
返事はない。
「お母さん」
それでも楓は言う。
「会ってほしい人がいるの。お母さんに」
窓の外に広がる海を眺めて、今何を思うのだろう。
「私の彼女……なんだけどさ」
こんな町に閉じ込められて、何を思っているのだろう。
「貴方……今、何歳だっけ」
母親が、言葉を発する。
冷たく、感情のない、空っぽな言葉を。
「十八」
「もうそんなに大きくなったのね……お母さん知らなかったわ」
「あぁ……ぜんぜん、会えてないからね」
「相手の子は……いくつなの?」
「十五歳だよ……」
「あらそう……ふふ、お父さんと同じなのねぇ、それにお兄ちゃんともそっくりねぇ」
母親は海を眺めていた目を、楓に向ける。
紅葉はまだ、母親には見えないカーテンの後ろに椅子を置いて座ったまま。
「お父さんと私はね、私が中学生の時に付き合い始めたのよ。お兄ちゃんもそう……みんな年の離れた小さな女の子の事が好きになるのねぇ……」
「そう……なんだ」
「私達、みんな家族なのねぇ……よかったわ、貴方も私の子で」
嬉しくない家族のつながりを、母は笑みを浮かべて祝福する。
しかし心からの笑みも祝福も、そこにはほんとうになにもなかった。
「会ってくれる?」
「いいわ……会ってあげる」
「ありがとう」
「それで、お兄ちゃんの好みか、お父さんの好みか、決めてあげる」
「あぁ、そう……」
「貴方、お父さんにもお兄ちゃんにも似ていないから……ふふ、楽しみねぇ」
「あぁ、そうだね……」
楓は母親の不気味な言葉を、嫌な言葉を静かに飲み込み、深く息をする。
本来綺麗でずっと吸っていたいはずの森の空気を汚いと感じながら、それでもなおその空気を吸う。
「紅葉? 来て」
カーテンの向こうから紅葉が静かに歩いてくる。
そして楓の隣に立つと深く頭を下げ言う。
「花菱猫と言います……今は、徒花紅葉という名前で楓さんとお付き合いしています」
「紅葉……そう、かわいい子を見つけたのね。楓」
「ありがとう……」
「いいんじゃないの……でも、幸せにはなれるのかしらね」
母親はそんな事を言うと、また窓の外にある海を眺めはじめる。
今日は気持ちのいい晴天で、海には太陽の輝きが映る。
「私達は幸せになれない……欲しかったものは全部なくなっていく……不幸に堕ちて、暗闇の中で生き続けるの……幸せになりたいと思いながら、毎日毎日不幸に堕ちていくのよ」
「そうかもしれないね……」
「でも、幸せを求めているのね……貴方は、まだ」
「そうだね……紅葉と幸せでいたいって、思ってる」
母親はまた海を眺めるのをやめ、楓の顔を、そして紅葉の顔を見て微笑む。
「紅葉ちゃん? は、いいの? 楓で」
そんな野暮な質問に対する紅葉の答えは一つだけだった。
「楓さんじゃなきゃ嫌なんです」
そんな回答に母親は笑う。
「若いっていいわね……どんな恋でも盲目になれる……」
「ですね、盲目になってしまうほど熱い恋ができます」
母親はまた、海の外を眺めはじめる。
そしてため息をついて、楓に言う。
「ところで、楓?」
「はい」
「私は、いつになったらここから出られるのかしら」
「あぁ……それは……」
「病院のベットで日々を過ごし、あの日々を過ごした町を眺めて……ねぇ、これほど酷い事が他にあるかしら?」
「ごめんなさい……それは、私が決めている事ではないので……」
「そう……」
母親はため息をついて、遠い空を眺める。
「ねぇ、また会いに来てくれる?」
「それはもちろん」
母親は楓に渡された饅頭を一つ、口に入れる。
少し硬いその饅頭は母親にとって。
「少し、味が変わったわね……こんなところにいる間に、色々なものが変わっていくわね」
もう懐かしいものではなくなっており、ゆっくりと饅頭を飲み込みながら、母親はまた海を眺めはじめる。
「海は、嫌いですか?」
「嫌いよ。見たくもないわ」
「分かりました……話はしてみます。病院を変えられないかどうか」
「えぇ……お願い」
楓はそんな様子を見て、静かに「またね」とそう言って紅葉の手を握り、窓の外を眺める母親に背を向け、病室を出る。
母親は「またね」とは言わず、ただ海を眺めるだけだった。
「元気そうでよかった」
病室を出た楓は、待合室にある椅子に座ってそんな言葉を吐く。
「元気そう……でしたか?」
「人と話せるだけで、十分元気だよ」
「そうなんですね」
「紅葉みたいな知らない人と話せるならなおさらね」
紅葉は近くにある自動販売機まで小走りで行き、
ホットコーヒーを買って帰ってくる。
「とにかくお疲れ様でした。楓さんのお母さんには嫌われていなかったみたいで、よかったです」
「だね、私の母親が嫌わなくてよかった」
「次はあれですよね」
「その、私が言うのもなんだけど。ほんとに大丈夫?」
「わたしは大丈夫です。楓さんがそこに行きたいというのなら、わたしは黙ってついていきます」
楓は缶コーヒーを飲み干し、その缶を捨て二人は病院を出る。
二人が目指すのは山の上にある、楓が行けずにいた場所。
徒花楓の姉が眠る場所へと、歩いていく。
その時、楓の心臓はどうしても冷静ではいられなかった。
夜乃月です。
カクヨムに投稿していた作品を、こちらにも投稿しはじめました。
こちらは時系列整理版、としてカクヨムの方で閑話扱いとなっていたエピソードも本編中に含めて投稿いたします。(カクヨム版は完結済)
【カクヨム版URL↓】
https://kakuyomu.jp/works/16817330650740228152/episodes/16817330651372512657




