29 ≪ゴボウみたいだな、お前≫
「なんでいるの」
「お前こそ……こっちに帰ってくる用事なんて」
そう言いながら一歩、一歩近づて来る兄に、思わず楓は大きな声で言ってしまう。
「それ以上近づいたら殺すよ」
それはただの大きな声ではなく、震えた、恐怖のある声だった。
「あぁ、ごめん……」
昔よりも痩せたな、とそんな印象を持ちながら、楓は兄から目を逸らし、俯いて、心臓が強く、早く、脈打つのに耐えていた。
「まだ、俺の事は……恨んでるのか」
「当たり前じゃない」
「まだ……許してはくれないだろうか」
「死んでも許さないし、生きてても許さない」
「俺はあの時……あの時俺は……俺だって、大変で」
「大変だったら、実の妹にあんな事していいんだ? へぇ、いい度胸してるね」
許せない。
許せる要素が何一つとしてない。
「お前は……今、何してんだ」
「水やってる」
「は?」
「て言ったらどうする?」
「いや……俺のせい……なんだろうなって」
「お前のせい? 自意識過剰だね」
「だって、俺のせいだろ……俺のせいで、男遊びが好きになったとか……」
「世界がお前を中心に回ってるとでも思ってるの? ほんと昔からバカだよね。お前は」
私の心にある怒りの感情も、反吐が出そうになるお前のその声も、お前のその姉に似た顔面も、全部全部腹立たしい。
「もういい? 私の人生の時間は有限なの。お前みたいに無駄な事に費やしたくないの」
「あぁ……そうか」
落ちぶれたな、とそんな印象を楓は兄に持つ。
盗品だったが、昔は似合いもしないのに高いブランドの服やカバン、アクセサリーなんかをもっていたのに今や白いTシャツ一枚にジーンズを履いているだけ。
その服ですら、穴が開いていたり、汚れが染みついていたりと、とても綺麗とは言えなかった。
「可愛くなったな……でも」
「――は?」
「いや、その……」
「なに、まだ私達に欲情してんの? キモいんだけど」
「いやそうじゃなくて……ただ、褒めたくて」
あいつの声はずっと震えていて、目もずっと泳いでいて。
正直言って楓は拍子抜けし、逆に自分に自信を持てる。
私の事を馬鹿にして、弄んでいた奴がここまで落ちぶれたか、と。
「二度と会いたくないから……じゃ」
「なんでここに来たんだよ……俺に会いたくないなら」
そして兄は意味不明な主張を続ける。
「過去に縋りに来ただけ。そろそろ私も未来を生きたくなったから」
「俺に会いたかった訳じゃ……ないんだな」
「自意識過剰なのは変わらないね」
「いや……そういう訳じゃなくて」
昔は、俺が世界の中心。
俺がこの世界を支配している。
女は全員俺の物、みたいな性格してたのに、こんなにおどおどして怯えて。
「なんか馬鹿みたいだな」
そんな姿を見せられてしまったら、バカみたいじゃん。
私がお前の事をずっと覚えていたのも、あの日々を嘆いていたのも、全部バカみたいじゃん。
なんで、お前に会っても私はこんなに堂々としていられるの?
あぁもう、わけわかんない。
「あぁ……あとは……その……」
堂々と、とは違う。
「彼氏とか……できたか」
きっと数カ月前の私じゃ、こんな風になっていなかった。
こんな風にできなかったと思う。
「俺のツレにいい男がいてな……そいつにお前の写真見せたら結構好みだって言ってたからさ、その……」
今の私にはどうしてか、自信がある。
私が、私に、じゃない。
「一回そいつと会って、遊んでやってくれねぇか……俺も世話になってる奴だし」
彼女のおかげで、私が、なんとなく自信が持てる。
私の事を信じてくれた、信じて、今も足掻いている彼女のおかげで。
「彼氏はいらない。けど、これからの長い人生、一緒に生きていく事になりそうな人ならいるかもね」
「あぁ、そうか……」
「もういい?」
怖くない。
恐怖などない。
あるはずもない。
だってその過去には、君が「徒花紅葉」がいたのだから。
「あぁ……うん」
君が信じてくれた、私を信じる。
だから、こいつは怖くもなんともない。
大きく息を吸って、楓は歩き始める。
そして男の横を通り過ぎようとした時。
「まって」
と、手を掴まれてしまい。
思わず楓は反射的に強くその手を振り払い、男の顔を叩く。
「触んな!」
同時に、そんな怒号が鳴り響く。
「ごめん……」
紅葉、ごめん。
信じるし、自信はもつけど、やっぱこいつに触れるのだけは無理。
鳥肌が立つし、こいつに触られるだけで昔の事を思い出してしまう。
「次触ったら本気で殺すから、いい?」
「あぁ、じゃあ……その」
そして楓は、初めて男の目を見る。
焦点の合っていない、狂ったその目を。
「タバコ買いたいから……金、貸してほしんだけど」
そんな言葉を聞いた瞬間。
楓の中にあった確かな恐怖と、確かな憎悪は、呆れと嘲笑に変わる。
ここまで落ちたか、とそう思う。
「臓器売るなりなんでもしてそれくらい自分で稼げよ。クズが」
そう言って、逃げるみたいに少し速足になりながら楓はその場を後にする。
恐怖や憎悪が多少軽くなったとは言え、昔あった事を思い出すのに変わりはない。
これ以上思い出したくはないし、これ以上あの男の纏う気持ち悪い空を吸っていたくなかった。
「なんだよ……可愛くねぇな……俺の妹の癖に」
大きなキャリーケースが地面を叩く音が町に響く。
楓の心臓は少し焦り、恐怖や憎悪とは違ったトラウマを抱えたまま、近くにある公園に足を踏み入れる。
そこで、楓は申し訳なく思いながらも公衆トイレで一度吐いた。
その程度でスッキリする事なんて全くなく、楓はコンビニで歯ブラシと水を買い、また公園に戻ると歯を磨き、水で一度口をゆすぐ。
それを何度も何度も繰り返す。
やっと楓の心が落ち着くと、楓は海岸線沿いを歩き始める。
どこまでも続きそうな海岸線沿いを歩いていると、漣の音がよく聞こえる。
時々小さな子供が、夏でもないのに砂浜で楽しそうに笑って遊んでいた。
「楓?」
そんな様子を微笑ましく思いながら見ていると、後ろから聞き慣れた声がした。
楓がすぐに振り返ると、そこには自転車を押しながら歩いていたであろう制服姿のゆかりがいた。
「ゆかり、今日学校だったの?」
「いや……え? 帰ってきたの?」
「まさか。寄り道だよ」
「あぁ、なんだ……そっか」
困惑しながら、だけどどこか嬉しそうなゆかりがそこにいた。
「どうしたの? ていうか、あの子は?」
「あぁ、まぁ色々あってね」
「いろいろ……」
もしかして傷心旅行なの?
だとしたら今の楓にあの子はいない……なら。
「ねぇ、楓」
ちょっとだけ、勇気を出したら。
「久しぶりに家にこない?」
昔みたいに、楓の側にいられるかな。
夜乃月です。
カクヨムに投稿していた作品を、こちらにも投稿しはじめました。
こちらは時系列整理版、としてカクヨムの方で閑話扱いとなっていたエピソードも本編中に含めて投稿いたします。(カクヨム版は完結済)
【カクヨム版URL↓】
https://kakuyomu.jp/works/16817330650740228152/episodes/16817330650888180821




