第一章 55 本の毒
体調が回復し、問題なく学校には行けそうではあったが折角なのでもう一日休むことにした。
学校へ欠席の連絡をして、紗希が作り置きしていた煮込みうどんを火にかける。
時間が経っているのもあり、うどんは柔くなっていたものの、その分味がよく染み込んでいて、とても美味しい。
ズルズルと麺を啜りながら食欲も十分戻ったことを実感していると、紗希がリビングに顔を出した。
「だいぶ良くなったようね」
「お陰様でな」
うどんを平らげ、シンクに食器を置く。
「ところで、学校に行く準備が終わってないみたいだけど」
「風邪っていうのは治りかけが肝心だからな。もう一日お休みを頂きました」
「…………そう」
釈然としない様子で冷蔵庫の中身を確認している。
「夕飯、軽いものがいいかしら?」
「いや、肉で頼む。病んだ肉体が血に飢えているようだからな」
「それだけ食欲あるって、やっぱり治ってるんじゃないの」
冷蔵庫を閉めながら献立を考えているようで、簡単にステーキでも焼こうかしらねと言った。
「それならいっそのこと焼肉でもいいんじゃないか?」
「切るだけだから簡単だけど……まぁ考えておくわ」
紗希は思案に耽りながら、そのまま学校へと向かった。
俺は降って湧いた休日に、紗希が貸してくれた積読でも崩していくかと自室に戻り、棚から厚めの本を引っ張り出して繙く。
作品はトルストイの復活。
貴族である主人公が、遊び相手の女を妊娠させてしまい、手切れ金を渡して何ら罪悪感を抱かずに女を捨てる。
その女は娼婦まで身を落としてしまい、それどころが因果の巡りで殺人事件にまで関わってしまう。
被告人として裁判にかけられる女。
偶然陪審員として参加した主人公は、捨てた女が明らかな手違いで哀れにも徒刑に処されてしまったことを目撃した時、初めて罪の意識に目覚めた。
本来、軽い罪で終わるはずの女を救う為に奔走する主人公は、最終的に全てを捨てて一生を女に捧げようと決心する……
本を読み終えて、復活という言葉を口の中で転がした。
俺は同情した。
何に同情したのか。
それは宿命によって人生が決まっているということ。
環境、教育、先天的な特性。
全てが産まれた瞬間から定められている。
人は自由意志で人生を決定していると思い込みたい生き物だけれど、その実、自然によって命令された人生を歩んでいるに過ぎない。
あらゆるしがらみから解放され、彼岸に到達することは不可能なのだ。
貴族の男が女を見て欲情し、まぐわい、孕ませ、紙切れと共に捨てる。
出自の悪い女が、男に遊ばれ、孕み、捨てられ、落ちぶれる。
これは善悪の話ではない。
そうなってしまう人間の哀しみがあるだけだ。
醜悪な行為も高貴な行為も、自然の命令に従った人間の轍であり、そこに可否はあらず、ただ運命に翻弄されて疲弊する人間の現実が鎮座しているだけなのだ。
この同情は全ての人間に捧げる同情で、だからこそ、それが憎い。
女を見たら欲情する己が憎い。
腹が減ったら飯を食べる己が憎い。
宿命によって形成された無意識の下で生きなければならない己が憎い。
全てが平等で、人と気安く接し、男も女もなく、ただ生きること、自由になること、それが可能になれば……
そんなユートピアを夢想したところに、大きな笑い声がした。
その笑い声は他ならぬ、自分自身から発せられている哄笑だった。
「フハハ。馬鹿らしい」
俺はやっぱり読書は疲れるなと首の骨を鳴らす。
ポキポキとクセになる音が鳴った。
コンビニに行ってコーラと昼飯を買い、気分転換だとノリノリなロックンロールを流す。
やはり音楽が一番いいと思ったのだった。




