第一章 35 心のカケラ
Google Mapを確認しながら自転車を漕ぐこと20分。
春乃に教えてもらった住所へ到着するとそこには3階建てでレンガ造りの大きい戸建が一棟あった。
白いサッシの窓に弁柄色の外壁、悠々と佇む邸宅は、見るからに金持ちですと自己紹介してくれているようであった。
格子状の門扉の隣にあるインターホンを押すと、春乃が玄関から出てくる。
「七海くんおはようー」
「おはよう。春乃の家、めちゃめちゃすごいね」
「……ありがとう。でも一人でいるとこの家広すぎてちょっと寂しいんだー」
苦笑いを浮かべながら自転車はここに置いてねーという春乃の誘導に従って、家にお邪魔させてもらう。
外観もさることながら内装もかなり凝っていて、アンティークの家具にダークブラウンのフローリング、吹き抜けの天井からランプが吊り下がっていて、暖色の小さい灯りが程よい陰影を表していた。
「ご両親は仕事?」
「うん、いつもいないから気にせずくつろいでねー」
春乃の自室は3階とのことで階段を上がっていく。
ふと、確かに凄い家ではあるが、まるでモデルルームに見学をしに来たような、本当にここに住んでいるのか疑わしいほどに生活感がない印象を受けたのだった。
春乃の部屋はやはり広々としており、内観に合った調度品に彩られ、デスクトップと俺が貸したベースが近代的で少し浮いていた。
「お茶持ってくるね」
勧められた透かし彫りの椅子に座り、部屋をぐるりと見渡す。
元々備え付けで用意されていたかのような家具を除き、春乃の私物はラックに収められたCDとポータブルスピーカーくらいのようだった。
しかし、うちに来た時に興味を示したDALIのスタンド型スピーカーなんてすぐに買えそうなものなのだが。
やはり同じ趣味を持つもの同士、春乃も物欲が薄いのかなとぼんやり考えていたところに、ティーカップセットをお盆に乗せて、春乃が戻ってきた。
「すごい高級そうなカップだな」
「わたしも詳しくは知らないけどねー」
ティーポットを傾けて紅茶を注いでくれる。
俺はティーカップの取手を優しくつまんで紅茶を飲んだ。
「ヤバい、めっちゃ美味いんだけど。ナニコレ高級茶葉?」
「あ、うん、ありがとうー…‥茶葉はスーパーで買ったリプトンのパックだよー」
「……っぱリプトンって最強だわ」
高いものが美味いのではない。美味いものが美味いのだ。
春乃はくすくす笑いながら紅茶を自分のカップにも注ぐ。
「でもさ、こんだけ金持ちならスタンド型のいいスピーカーくらい親御さんに買ってもらえんの?」
俺の言葉にしばし沈黙する春乃。
紅茶の水面をじっと見つめている。
「あー親御さん、割と厳しい感じなん?」
「……んー厳しいというよりは、私の存在を無視してる、かな」
「無視してる?」
「うん。お父さんもお母さんも仕事が忙しくて、全然帰ってこないんだー」
「……でも忙しいだけで無視ってことにはならないでしょ」
「ううん。二人ともそれぞれ自分のことに忙しくてわたしなんか眼中にないんだよ……いや忙しいわけじゃないか……正確には自分のことだけしか考えてないの」
春乃が、初めて強い感情を露わにしている。
それは動的な表象ではなく、諦念による暗い炎に身を焼かれた者の嗚咽。
「あの人達はわたしの口座にお金を振り込んで、これで暮らせと言ってくるんだ。お金くらい帰ってきて渡してくれればいいのに。いくらお願いしても家には寄り付かないで、人に迷惑をかけるなと命令だけを残して。ずっと、ずっと一人だった……」
堰を切ったように言葉が零れる春乃をみて、俺はなるほどなと思った。
「わたし家出したことがあるんだー」
「家出?」
強い意志を込めた瞳で俺を見る。
「うん。この幽霊屋敷のような暗い家から飛び出したかったんだ」
「へぇ。どこに行ったの?」
「あてはなかったんだけど、電車に乗って終点まで行って。そしたらまた電車を乗り継いでずっとずっと先まで行ったの」
「ケツが痛くなりそうな旅だな」
「……ふふ、本当にお尻が痛くなってたよー」
春乃は少しクールダウンして、ほっと息をついた。
「終電で乗り継ぐ電車がなくなって。全然知らない町に降りて、街灯も殆どない真っ暗な道をウロウロして、近くにあったベンチに座って。結局逃げ出しても一人でいることは変わりなかったけど、心のどこかでお父さんとお母さんが探しに来てくれるんじゃないかって思ってたんだ」
春乃は自嘲しながら足を伸ばして、両手を組んだ。
視線は手元に落ちている。
「それから一週間くらい電車の旅を続けたんだけど、結局通報されちゃって。補導された後…………迎えにきたお父さんにどこに行こうが勝手だか手を煩わせるなって言われて……さすがにおかしくて笑っちゃたよー」
「心配……してなかったんだな」
「そうだねー。それからほんとうに色々なことがどうでもよくなった時に、たまたま聞いたカムカムがわたしに寄り添ってくれた気がして。そこから音楽にどっぷり浸かったんだよー」
春乃は立ち上がり、ベースを持った。
「でも、そのおかげでこーして七海くんと仲良くなれたと思ったら、あの家出も、もしかしたら意味があったのかもしれないと思えるようになったんだー」
「そうか」
俺は同情と共に、春乃と一緒に死んでみるのもいいかもしれないと思った。




