第七章 標零士(しめぎれいじ) 第一部 姉と零士
プールの授業をさぼりはじめて三日目。もしも悪七の学校にプールの授業があったら悪七はどうしているんだろうか。子供の頃から背中に傷があるとしたら辛かっただろうな。腕の傷を隠すのに必死な俺でこの状態だ。単位を落とすこと間違いなし。
ときどきクラスの視線がうざいときがあった。そんなときはカムで脅かすぐらいにした。間違っても精神は犯さない。ゲームの事件の進展もないし、あれから珍しく悪七の暗示にもかからず、狩りはしていない。
こうも平和が続くのは俺にとっても久々で安心して据え置きゲームの電源を毎日入れられる。明日からは夏休み、くだらないけど授業より、ましだから多少楽しみだ。
だから、悪七からメールをもらった時にはやっと動くかと思った。遅すぎるぐらいだ。悪七は意図的に次の事件を起こす期間を計っている。
メールは、《輪千の兄について》とだけ書かれていた。つまりはあのゲームはまだ完成されていなかったということだ。
「そろそろ話せよ」
俺の求める解答が得られるのは今しかないと確信した。潮時だぞと睨んだからにはもう悪七も、もったいつけないだろう。
悪七は輪千の兄の標零士と小学校から付き合いがある同級生だった。零士は稀に見るミカエリが見える人物だったが、零士自身はミカエリを持っていなかった。
小学校の頃は幽霊でも見るような蒼白な顔をしてミカエリのいる悪七を避けてきたが、次第に好奇心には勝てずに話すようになって、気づいたら友達になっていたらしい。悪七の方でも零士に興味があったのは、零士が悪七の姉と仲がよかったからだという。つまり三人仲良く遊んでいた仲だった。
悪七の姉は三つ年上だが、亡くなったらしい。
「何だかリョウに電話するのって久しぶりな気がするよ」
悪七の声は心なしか少し震えている気がしたが、すぐにくすっと笑った。リョウって何座? とかくだらないことを聞く。星占いのつもりか知らないが、そんなくだらないものを信じているとはとても思えない。
「昔、これと同じことを聞いてきた人がいてね」
「それが零士か」
悪七は躊躇う様子もなく頷いた。ただ親子連れを眺めて思いを馳せるその心境は計り知れない。
「社交性があるから双子座に見えるって言われたんだよ。でも俺二月生まれだから」
星占いなんて俺にはちっとも分からないし悪七の誕生日を聞いたところで何座かもすぐには分からない。思うにこれも全て零士とのやり取りの内なのだろう。或いは零士との会話を俺と話すことで再現しようとしているのかもしれない。
一方の零士は山羊座で山羊座は『人生に向き合うという性格』があるらしい。これら全ては零士からの受け売りだという。零士は星に詳しかったとか。
「夜にはよく天体観測をしたんだ。プラネタリウムも行った。中学に入ってからだけど。それまでは図鑑で我慢してたね。鉱石図鑑とかクラゲ図鑑とか。
フローライトやラピスラズリを探しに近所の公園に行ったり、キロネックスっていう猛毒のクラゲが透明で綺麗だからっていう理由で水族館に探しに行ったり、面白かったんだよ」
悪七の話ぶりは零士は印象として留められていて血が通っていない。零士は光であり人でない。時間が長期に渡って止まり続けると思い出は悲しい思い出から崇拝に近い神聖なものに昇華され現在という時間軸さえぶれさせるみたいだ。
「そろそろ零士の季節なんだよ。ペルセウス座流星群が見えるから。流星群が肉眼で見えなければいいのに」
悪七は星を見ると心が安らがないかのように言う。俺に話すのは少なくとも流星群の影響もあるのかもしれない。だが、それ以上センチメンタルな話は御免こうむるといった冷たい口調になって、隣のベンチに腰掛けた。足元に毛虫が落ちていたのが気に入らないらしい。
「零士から何もかもが狂ってきたんだ。零士って一人の人間から問題は派生していく。結論から言うと俺は誰も憎まずに大勢の人間を殺したんだ」
「テレビでやってるよ。六月二十二日。脱線事故。ニュースとちがうところもあってね。あとで話すよ」
事故のことは、調べておいた。事故の原因じゃやはり、システムトラブル。ペルセウス座流星群が訪れる一ヶ月前に零士は二年前の事故でこの世を去っている。
「姉のことで、こじれたんだよ。姉はね。本当につまらない死に方をしたよ」
とても落ち着いた口調で、事実を淡々と言い添えるだけだが、なぜか冷笑している。
「心配しないで。嘘はもう言わないよ。俺だってたまには穏やかでいたい」
姉の話がはじまった。長いストレートヘアーで、彼女に憑くミカエリも同じく女性の姿をしていたという。幼い頃の悪七は泣き虫で(とてもじゃないが信じられない)よく姉に面倒を見てもらったという。
少しだけ笑った悪七は、自分が無邪気にまだ感情をコントロールできない頃のことだと言う。つまり、昔は純真無垢でしかも感情豊かだったと。
「だけどさ、姉って言っても姉っていう機能を慕ってるんだよ。別に姉さん以外の人が姉だとしても俺は姉を慕うはずだから」
どこまでも思い出は記録だった。語るというよりは説明で、俺の食べているチキンもゴムみたいな食感になった気がする。
悪七の姉が自殺したのは、悪七が中学のとき。平日の昼下がりだそうだ。川に飛び込んだとか。死体は見つからなかった。ミカエリは一家を守っていたが、それは主に外的要因に対してであって、姉は守らなかった。
ミカエリが自殺を阻止するのは、その宿木が代償をまだ払っていないときだけだという。姉は自分の私利私欲のためにミカエリを使わなかった。
まるで善見ひいらだ。その頃には既にミカエリが家ではなく悪七に憑きはじめだ。そのせいで、家を守ることも少なくなった。
悪七は、何も知らず学校から帰宅して、姉の帰りが遅いことではじめて、一番のミカエリ「エス」と探しに出かけた。母親が警察に電話をしたのは真夜中だった。
「悪い予感はしたけど。結局ミカエリも役に立たないときは立たないんだ。見つけられなかった」ここにきて悪七は、ため息をついた。「あのときは日に日に不安が確信に変わって自分じゃなくなるみたいに泣いたよ」
悪七が声を上げて泣くなんて想像し難いけれど、湿った声がいつもと違う。感情という旋律を悪七がその日に失った。ミカエリをもってしても救えなかったという事実が悪七に迫ったのだ。
「俺が許せなかったのは、姉が自らいなくなったってこと。俺一人を置いて。そうまでして誰かを好きになるなんて許せなかったな」
姉はミカエリを持たない一般人を好きになったという。悪七の家はミカエリ憑き同士でないと結婚できない。
「お前の家族って、そんなに厳しいタイプか?」
「母さんはギャルみたいなものだけど。問題は父の方でね。俺にそっくりだけど。柔和な顔して中身は厳格だったり、悪知恵だってあるし何考えているか分からない人だからね。そういうルールにはうるさかったな。怒鳴らないけど無言で伝えてくるよ」
「親父さんって、医者を目指すのをやめるって言ったときに殴ろうとしたんだっけ」
「その話、信じてたの?」
「ま、まさか」
信じていたに決まっている。家庭の話をしたがらないにしても、嘘に徹底している。
「父さんはめったに怒らないよ。腕っ節も強くないしね」
とってつけたような言い方だ。悪七は続けた。そもそも悪七にも誰かを恨むということがあった。姉の好いた相手は標零士だった。悪七はそれが許せなかった。
誰かを恨んで憎んで殺してやろうと思ったが、その相手がかけがえのない親友で、行き場のない憤りを感じた。
それからすっと潮の引くような侘しい怒りに見舞われたという。どこに息を潜めたのか分からない怒りは全身を毎日這いずっては、ときどき思い出したように街ではち切れそうになるという感覚はまるで俺とそっくりだ。
「感情ってのは一夜にして消えることはないんだ。破壊は侵食に似てるよ。爆発で吹き飛べばいいのに、人ってのはそういう風には壊れないんだね。ま、俺は壊れたつもりはないよ。
ただ、あの時ばっかりはね。今だから言えるけど。夜風の鋭さが違って見えたり、行き交う人が物質でしかなかったり。俺は誰を責めればいい。零士だけど、零士は俺の窓で、扉だ。
零士を介さなかったら俺はずっとミカエリに囲まれた生活だ。はっきり言うよ。何もない世界だ。全て消し去ればいい。そう思ったよ。最初はこうも考えた。姉が死ぬ原因になった零士を殺す」
姉が死に零士もショックを受けていたが、どちらかというと零士が気を使って姉の話題を避けるようになった。零士が姉のことをどこまで好いていたか悪七も分かっていないと言う。
聞くに聞けなかったようだ。ミカエリで何かを覗き見るということもそのときは避けていた。
「ほんと、零士はお節介でね。最初は謝ってたくせに、俺の心配ばかりしてくれたよ。でも、それが煩わしく思えてきて。よく喧嘩した。ミカエリに頼るのはよくないとか言われたりもしたね」
二人の喧嘩は、ときに今の悪七からは想像できないほど激しい口論になった。姉が死んで数年が経ってなお、悪七は零士を殺そうという計画を練っていた。
ミカエリがいればそれも可能だった。俺はふと疑問に浮かんだことを聞いてみた。
「姉さんを生き返らせられないのか」
悪七が語気を強めた。
「姉を生き返らせないのは、それこそがミカエリが俺に求める苦痛そのものだからだよ。こればっかりはこれから先も変えられない」
皮肉というしかないが、悪七にとって一番大切なものこそ、ミカエリが求めている見返りなのだ。そうか、ミカエリが血、だけを欲しがらない理由はそこにある。
「本当に必要なものを手に入れたとき、ミカエリは代償に俺の命を取る。自己犠牲が美しいなんて馬鹿馬鹿しいよ」
「お前は自分の命が惜しいのか? 代わりに生き返るとしたらそれは奇跡だ。それだけじゃだめなのか」
悪七にこんなことを聞くのは無作法であり滑稽だった。だから悪七が拒む理由も何となく分かる気がした。悪七の自己犠牲の絵は神がかりで美的に思えて目頭が熱くなるほどの神々しさがある。それが限りなく善であるなら。
冷ややかな声で叱責されたのも無理はなかった。
「すれ違うよ、確実に。俺が死に姉、または零士が生き返ってもお互いに会って話す時間なんてないに決まってる」
期待していた言葉と違った。悪七はただ姉を生き返らせることに意味を見出していない。それだけで奇跡と認めずに何を望むのか。会ってなお、無言でお互いを認め合うだけでは足りないという。再会だけじゃ人は救えないのか。
「黄泉の国から甦る者と逝く者と、入れ替わるだけだからね。そのすれ違う瞬間、何があるのか分からないけど。それにね、姉を復活させることはできないんだ。
あのときはミカエリも上手く使えなかったし。もう十年前だから。時が経つときっと難しくなると思う。確信はないけれどね。俺は姉を救えなかった」
俺の怒りと悪七の怒りは似ていて、対象が非なるものだった。狩り続ける対象を失ったら俺はどうなるのだろうか。考えたこともなかった。
「俺は自分のためにしか生きられない。そう思うと零士だって自分の欲求に対して素直に行動したから正しいんだよ。
俺はもう姉がいなくて寂しくはないよ。誰もが幸せになれない世界が世界のあり方さ。だから幸せ者の零士に君の信じる明るい世界はないって分からせたいんだよ。
もう仮定の話はやめよう。話が脱線したね。零士は太陽だけど、いつの間にか俺が引きずる大切な思い出まで干渉してくるようになっていたよ。
姉に変わる幸せを見つけろとか、姉が俺にも進んで欲しいと天国から見てるとか、ありふれたことを言ってね。リョウは分かるよね。俺はこのままでいたい。何故なら誰も姉の代わりはつとまらないから」
こいつはやっぱり俺と同じだ。そして、更に高みにいる。その後の展開も何となく予想がついた。
悪七と零士の関係はどんどんこじれた。極めつけは俺のことが嫌いなら、いっそここで殺してよと悪七が言ったことだ。自暴自棄でありながら、零士を怒らせる一言だった。
そして零士にこのままですませられないという義務を芽生えさせてしまった。零士の執拗な励ましとも、罵りともつかない交流は続いては絶え、続いては絶えた。
なにせ中学のことだから、嫌でも顔を毎日のように突き合わす。悪七は金にものを言わせて転校するようなことはしない。
「ちょっとした侮辱のように感じたよ。同時にひどく虚しかったのは、このまま一つの交流が永遠に途絶えるということかな。突き放したんだよ」
一人の人間から切り離されることが世界から切り取られるように感じたのは生まれてはじめてだったという。
「零士の顔をずっと見つめているとね。その怒りの表情が呆れにも似た冷たい表情になったよ。結局、零士も敵だった」
とうとう声が凄んだのは、零士でさえ、行き交う無数の赤の他人に見え始めたことを自覚したときだ。いよいよ話は零士を死に誘う脱線事故へ及ぶ。
次回更新 2020年10月17日 13時