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第六章 終息    第一部 失敗

「ただいま」

 家に帰った時に使うべきこの言葉は、今しがた大量殺人を行ってきた悪七の声で聞くと、違和感がないから恐ろしい。血まみれのシャツに、ナイフ一本だけ持って、近所を散歩してきたような顔だから。といってもこいつは無駄な散歩はしない。


 モニターの向こうの静寂がこちら側まで伝わってくる。みんな死んだのに平気で見ている俺は何なんだろう。


 俺が難しい顔をしていたからだろう、悪七は俺が怒っていると感じたのか、それともただ気分が悪くなっているとでも思われたのか「ごめんね」と呟いた。


 火照った様子でどうっと隣の椅子に腰掛けて同じくモニターを覗き見た。


 二階に設けた机と椅子。ゲームの監視用の小型テレビも一つある。悪七はナイフをティッシュで拭って、机に置いた。手袋をしていないから指紋もついているだろう。

「指紋は? 拭かなくていいのか?」


 悪七は一仕事終えて疲れたというより、美味しくいただきましたという愉快な表情でため息をついた。頬についた血も気づいているのに拭こうとしなかった。手はティッシュで拭いて、几帳面に折りたたんだかと思うと、それを床にばらまいた。


「一緒だよ。これが初めてじゃないから。ルミノール反応だって出るだろうし。死体は、狐のあいつが溶かしてくれてる。ナイフは肌身離さず持ってる。捕まるときでも離さないと思うよ」


 俺は戦慄を禁じえなかった。明らかに過去にも誰かを殺めているという事実と、警察を怖れていない大胆さに加え、最後まで抵抗するという決意には狂気じみたところがあった。


「ミカエリは上級クラスまで育つと、一つ一つの指示に対していちいち何かを求めたりしなくなるから、結構簡単だったでしょ? 俺は中にいて普通にプレイしてきた。リョウはモニターを見ながら、カムに命令するだけ」


 悪七に目だった外傷がないのも何となく分かった気がした。ミカエリの成長過程がどうなっているのかもっと聞いてみようと思ったら、悪七は俺の後ろの棚を指差した。


「さっき持ってきただろ?」

「ああ。そうだった」


 レモンケーキを持ってきたことを、俺はゲームに夢中ですっかり忘れていた。夜食に持っていくということだったが、まさか人を殺した後に喉を通るものだろうかとあのときは半信半疑だった。


 レモンケーキの存在すら忘れていたほどだ。悪七はずっとそれが食べたくて仕方がなかったというように早速フォークを生地に斜めに下ろした。俺は興奮冷めぬまま腰掛けている。


 ときどきカムも興奮気味に笑った。カムは元々笑った顔をしているが、今はそれが目が輝いているせいか、悪七に共感している顔で笑みをたたえている。


「服。着替えないのか?」

 白いシャツは赤がよく染み渡っている。胸からへそ辺りまで血まみれだ。

「質問が多いよ。俺の好きにさせてよ」


 自ら手を下してさぞ満足という顔ではないし、本人だって着替えたいのではないだろうか。いや、俺がいるから着替えられないと思うのは気のせいだろうか。女々しいとまでは言わないが悪七は憂鬱そうな顔をするので俺のことを鬱陶しく思っているに違いなかった。

「装置は解体して、裏の海に捨てようと思ってる。それぐらい手伝えるよね?」


 俺は少しむっと怒りを顔に出して見せた。悪七は無表情で俺を見返してきたが、そこに不満はないと見えてレモンケーキを食べる手を休めなかった。突然、まじめに話すのが馬鹿らしくなった調子で微笑んだ。


「リョウはそうやって怒るんだ」

「何だよ。言いたいことがあるならはっきり言えよ」

「いや、ちょっと思い出し笑いだよ」


 十分知っているはずであろう死体の数々に目を走らせて、興味のないそっけない声で言う。

「俺はいつもこの光景を見てるよ」

「何でお前は平気なんだよ」

「平穏の方が俺には毒だよ」


 確かに日常には刺激が必要だが、俺にはミカエリで十分だ。悪七は生まれたときからミカエリといっしょにいるのが普通だから。それが普通になってしまったが故に何かに不足を感じているのか。


 いや、それだけじゃないだろう。平穏というからには、そこにはもっと反義語的な不穏という何かが必要ということだ。俺が深刻な顔をしているのを知ってか知らずか、やんわりと励まされた。


「大丈夫。リョウの好きなゲームと同じさ」


「お前と違って俺は執行達が憎くて憎くてたまらない。奴らにやられた俺が許せない。ゲーム感覚で見てたと思うか? 俺は奴らの中に巣くう嘲笑が許せない。俺の中の手の震えるようなどす黒い怒りは奴等を放っておけない」


 言葉にしてみると怒涛のごとく溢れ出た。俺はずっと不快にモニターを眺めていたが、それは悪七の残虐さに目を見張ったからではなかった。裁かれた執行を見て、なお、許せないでいた。


「分かるか。俺はな、誰かじゃなく奴らを消したいんだ。かつてのことでやり返したんだ。正当防衛じゃないことぐらい分かってる。だけど見てて、吐き気がしてたんだ。奴ら平気な顔で息しやがって」


「分かってるよ。彼はもう死んだ」

 ああそうだ。だけどもの足りなかった。虚しいっていうのじゃない。よく刑事ドラマでは犯人はうな垂れて復讐の虚しさを知るみたいだけど、全然物足りない。俺は本当どうしてこうなってしまったんだろう。狂ってる。


 ただ、無関係なひいらや他の人のことはさすがに困った。しかし今回のゲームで明らかに変わった人間がいるのも事実だ。川口はゲームで変わった。執行みたいな連中は野放しにしていられないが、同時に川口のようにいい方向に転じてくれる人もいる。それが同時に見られるゲームこそ至高だ。


「不満みたいだね。嫌ならリョウが俺を殺してくれる?」

「意味分かんねぇ」

 どこからが本心か分からない。


「一度取り出したナイフはね。相手に刺すしかないんだ。刺さらなかったらその切っ先はどこに向うと思う? 自分に刺すしかなくなるだろ。痛みや感情や根源も全部、元から断つしかない。ここまで来たら、リョウだって引き返せないでしょ?」


「人がいい意味で変るゲームができたらいいのにな」


 自分で口にするときれいごとのように聞こえる。俺にはもう執行をこれ以上殺せない。人は二度殺せない。俺の抱える問題を悪七なら簡単に解いて目の前に展開してくれるんじゃないかと思って期待した。


「そう?」

 あっけない言葉に俺は苛々してきた。

「じゃあ、いじめっこばかり集めるの? だとしたらリョウも醜悪でそいつらより低レベルに成り下がるよ」


「けど悪七だって何か見つけたいからゲームをしてるんだろ。俺は見つけた。人は変われるってことを。こんな俺が言うのもなんだけど、人を導けるようなゲームにしていきたい」

 一瞬悪七の目が光るがすぐに諦観を宿した。


「確かに俺のやってることは無意味だけど、その醜悪さが俺を無価値だと教えてくれる。俺はゲームを通して他人なんて見てないんだよ。これは俺のゲームだ」

 真摯な態度に言葉をなくしてしまったが俺の意見は変わらない。


「なあ悪七、殺せない人間がいるはずだろ。例えばお前のお袋さんはどうだ?」しばらく沈黙が続いた。すぐ答えられるはずだろう? まさか殺せるのか。


 俺はすぐさま問い詰める。

「自分だけ生きてたらいいのか? 違うだろ。ターゲットは選ぶべきだ」

 今度はすぐに頷いた。


「救われるべき命ね。参加者はリョウが選んでいいよ」

「俺がかよ」


 面食らったが、悪七に訳の分からない人を選ばれるよりはいいかと思った。任されたことの重大さにあれこれ思案しはじめた。ふと悪七が思い詰めた面持ちでいたので、ほかのことを考えているなとすぐに分かった。


「俺は他人よりは優れてるっていう意味では価値はある。だけど、優れたことを活かす気がないから無価値かもしれない」


 さっきの「自分だけ生きてたらいいのか」に続く答えだろうか。

「お前っていつもちょっと傲慢なくせに自殺志願者みたいな言い方するな。だとしたらお前も今のゲームで殺される側の人間だぞ」


「俺は自分の殺し方は考えたことはないよ。殺され方はあるけどね」

 意外だった。死に方は俺だって何回か考えたことはある。だが、そんなこと考えたって次第に疲れてきて、具体的な方法を考えれば考えるほど困難が立ちはだかる。まして殺され方なんて想像したことがない。


「気にしないで」


 そんなこと言われたら余計に気になる。悪七はポットで紅茶を入れ始めた。俺はさっきからチキンばかり食べていた。皿には十本の骨が残るだけだ。何か飲むか聞かれたけど、紅茶しか持ってきていない。


 ここだってどうせ全部片づけないといけない。証拠隠滅を図るくせに、こうして俺達には監視室がある。ここだってすぐ離れた方がいいだろう。本来なら。


「川口が言ってたこと。お前の『主観』から見た世界はどうなってるんだ」


 常に穏やかな悪七だが、紅茶を飲んでいるときこそ本当らしく穏やかに見えるので嘘も少ないと思う。その代わりこの時間ははぐらかすのも上手い。


「率直だね。何故殺したとか、そんなくだらないこと聞かれるよりましだけど」


 何故殺したのかという言葉は悪七にとっては愚問でしかない。俺もそれくらいわきまえている。そんな質問ばかりするひいらは駄目だ。


 殺される瞬間は、悪七の演技が少し趣向に懲りすぎてとても見ていられないシーンだったが、ひいらも質問を変えればよかったんだ。俺達に「何故」とか聞いたらいけないんだ。だって、俺達が何に憎悪を抱いているかから説明しないといけなくなる。それだけで半日は潰れる。


 俺が意地悪くほくそ笑むと悪七も緊張が取れてちょっと疲れているのか、目を閉じて息を吐き出して素直に応じた。

「まさか、警察より先に取り調べたいわけ?」


 そのジョークがまたつぼにはまって、俺は笑い出してしまった。

「もう観念しろよ。これだけのものを見せられたら俺だってアドレナリン全開だぜ」


 人の死、それもリアルタイムだ。どれが悪七か最後まで分からなかったこっちの身にもなってみろ。冷や冷やしてたんだぞ。


 だが、ここはぐっとこらえた。言いたいことを全部言ってしまったら、悪七の解答は決して得られない。


 ゲーム内でこそヤマなんていうお調子者を演じたからあれだけ話したが、あんなに口達者な悪七はもう二度と見られないし、本当はヤマなんてやりたくない役柄だっただろうから、雰囲気を落ち着けないと。ここで、俺は飲みたくもない紅茶にはじめて手をつけた。熱くて舌を火傷した。


「警察にも捕まる気はないから。彼らが何を教えてくれる? 生と死についてなんかこれっぽっちも知らないんだ。身元を調べたり犯人を調べたり動機を調べたりするだけ。熱血警官とかいたとしても、それって同情だよ。


 同じ人生を歩める訳がないんだから。それから裁判になって、精神鑑定もあって、そこでも俺はただのモノにすぎない。俺っていう個を調べるわけじゃないんだ。


 心理学とかに当てはめていくだけで、やっぱり俺の半分も分からない。俺自身が分からない俺の成分を誰が分かる? どういう歩みでこういう人間になるのかってことが肝心なんだよ」


「ああ、俺も捕まる気はないけどな。そうなったら、カムで全員狂わせてやる」


 俺もどこまでが冗談か本気か分からなくなってきた。この忌まわしい殺害現場で飲み食いしてる時点で俺達はミカエリの虜なのだから。


 ふと、悪七は呆然としていることに気づいた。俺のことなんて見ていない。電気も一つしかない薄暗い部屋でモニターだけが青白く光っている。安物のティーカップに安物の紅茶。


 悪七はこの部屋そのものにも醜悪さを感じている。それが殺人の代償なのか、ミカエリに払う方の代償なのか分からないが。


「俺一人が消えたところで――」

 悪七はそう言いかけて口をつぐんだ。俺は黙って耳を傾けた。悪七の紅茶は冷めかけている。


「世界はどうってことなく回り続けて存在し続ける。それが辛くて俺には死ぬっていう選択肢はない」


 傲慢な言葉だと思った。それはつまり何か残してから消えたいということと同じだと気づいた。悪七なら何だって残すことができるのに何を悲観しているのか。


「俺一人の為に世界が滅んだら面白いのにね。ゲームみたいな話だけど」


 『一人が死んで世界が救われる』だったら、感動的な映画になりそうだが、その逆か。『一人のために世界を道連れに』か。無差別とは行かないが、俺にもその感情はある。悪七なら朝月の探していたテロリストになれるだろう。


「その割りに小さな地獄絵だったな」


 つい皮肉ってしまう俺の悪い癖。悪七が完璧なだけに、俺は少し妬んでいる。


「地獄は創るものだよ。状況と感情が今地獄だと感じさせる。だから何も考えずに何も感じなければいい。川口もそれができたら掲示板で無駄口を叩かなくて良かったのに」


 それは強さだろうか。怒りの感情をコントロールできずにいる俺には分からない。

「そういえば何でゲームに紛れ込んだんだ? これからも近くでゲームを見たいならモニターで十分だろ」


「別に近くで見たいから紛れ込んでるんじゃないよ。俺はミカエリに代償を払うためにあそこにいるんだ。血を払わずにすますためさ」


「そうそう、それが聞きたかったんだ、ずっと。何でお前無傷なんだよ」


「それは簡単だよ。ミカエリにはそれぞれ好みがあるから。だいたい血とか、具体的に肉体を傷つけることを求めてくるけど、精神的なものを求めてくるミカエリもいるんだよ。だから、精神的苦痛に置き換えることもできるんだよ」


 そんなテクニックがあったのか。確かにあんな場所にいたら極度の緊張で精神的に結構くるだろうな。

「俺の場合、ミカエリに払うのは『自分の手を汚す』ってことと、醜悪なふるまいを自らに科す」ってこと。あと、ナイフじゃないとだめなんだよ」


 それが悪七にとっての精神的な苦痛なのか。今日はよく話してくれたなと称賛したくなる。

「じゃあ死体を消滅するためにはナイフで刺殺しないといけないんだな?」


「そう。だから現場に俺が行かないといけないんだよね。ミカエリが殺したら俺は血や、ほかのこと、ヤマみたいな馬鹿な格好をしないといけない。羞恥心とかで払うのさ」


 じゃああのラストのひいらとのキスは悪七も恥じていたわけだ。こんな醜い姿でこんなこともしないといけないという。


 テレビを見終わったようなお茶の間の空気の気の抜けた声で微笑みを返されたとき、もう一人の仲間が帰ってきた。輪千真奈美だ。

「お疲れ様。こっちはリョウ」


 初対面の俺は軽く挨拶した。輪千にはそんな紹介は耳に入っていない。どこか落ち着かない様子で、目には涙を浮かべている。俺達は直感で輪千を善見ひいらと同類と見なした。輪千にもゲームで変化があったのだ。上ずった第一声がもう決別を表していた。


「あなたはやっぱりただの人殺しだった。私のお兄ちゃんを殺したときもそうだったの?」


 輪千の兄は脱線事故で死んだんじゃなかったのか? 俺のことを何も知らないくせに蔑んだような目線が向けられた。まるであなたは悪七にすがっているろくでもない腰巾着だと言わんばかりだ。カムが俺の気持ちを読み取って肩から前に這い下りてきた。


「待てよ、カム。まだだめだ」

 もう少し堪えないと。理由も分からず精神を抜いてしまっては、悪七が変な関心を持つ。


「もっと過激なセリフを期待したよ。いいよ。言いたいことは言って。自分の言葉で」

 悪七はハミングのような声で問いかける。


「あなたは平和なんていらないとか、醜い連中はみんな死ねばいいとか色々言ってたけど、一番醜いのはあなたよ。この世に死んでいい人間はいない」


「はっきり言って君にもう価値はないよ。一緒にお兄さんを救うんじゃなかったの?」


 輪千の赤らんだ顔は、もう常軌を逸していた。肩で息をしていて立っているのも辛そうだ。


「元はと言えばあなたのせいで兄は死んだのよ! だからあなたが償いの気持ちで、兄を生き返らせるためにこんな生贄を必要としているのなら・・・・・・。


 私は絶望して言ってみただけ。あなただって御託並べてるけど、言ってみてるだけでしょ。あなたは自分のゲームに結論を出せてない。これ以上は無意味な虐殺といっしょよ」


「おい悪七。お前が脱線事故を引き起こして殺したってのか?」


 あの脱線事故の原因は確かシステム系統のトラブルが原因だった気がするが、いや、待てよ。あのとき置き石の目撃情報もあってその石を置いた少年っていうのも話題だったが、直接の原因とは考えられなくて、賠償は全て鉄道会社が行ったとか、そういうニュースだった気がするが。


 悪七は分かりきったことを質問するなとでも言うように冷ややかに輪千を見つめている。

「脱線事故は偶発的に起こったよ。ミカエリの気まぐれでね」


「あなたのせいって言ったじゃない」


 俺は固唾を飲んで悪七を見つめた。俺の視線を捕らえて、不適に笑った。答えはイエスだ。だが、俺は半ば信じられなかった。悪七がミカエリを制御できない事態が起こったことに対してだ。


「それで降りるの? 一つ言っとくけど警察には信用されないよ。俺達がこれだけの人数をどうやって誘拐したのかとか、証明できない。それに不思議なできごとを君も見てるけどその説明は化学でもつかない」


「そ、それは。でも私は感じてるわ。何か傍にいるって」

 俺は思わずにやけてしまった。輪千はミカエリの気配は感じても見えていないのだ。ずっと見えていない演技かと思ってた。これならこいつの始末は早く片づきそうだ。


「リョウはダメだよ。今日はこれからまだ一仕事ある。片づけだね」


 手は出すなってことか。悪七が裁く必要があるのなら喜んで譲ろう。ここで確実に人が死ぬことが分かってアドレナリンが全身を巡った。輪千は俺をまた足の先まで見下ろしたように見えた。そんな目で見るな。


「本当に残念だよ、輪千。ただ殺すのもつまらないね。君には最期まで見えないのも残念で仕方ないよ」

「一体、何がいるの」

「背中に憂鬱とか憎悪を棲まわせてるだけだよ」


 突然現れた悪七の狐のミカエリがそっと輪千の耳元で息を吹きかけた。悪寒がするのだろうか。それとも悪夢でも見ているのだろうか。輪千は身震いして辺りを見回した。だが、何もいない。そして、何か聞いたのか。驚いて声を張り上げる。

「何で知ってるの」


「ほかにも色々分かるよ。今調べてあげようか。そうか。君の生まれは千葉県なんだね。それに、ふられてる。あ、もっと興味深いのは、君は兄想いだけど、ときどきわずらわしく思ってた。だから事故の日も喧嘩してたんでしょ」


 輪千は戦きながらも部屋を飛び出し逃げ出した。そんな奴が俺をさっきまで見下していたと思うと我慢ならない。


「最期に教えてあげるよ。俺は君の兄、零士を生き返らせるつもりだけど。本当は生き返らして会話がしたいんだ。生前に決着がつかなかったからさ」


 もう耳をかさないつもりで輪千は走り続ける。俺は耳を疑った。悪七が標零士のことを親しげに呼んだ。直感で分かったことだが、悪七の欠けたパズルのピースは零士だ。


「だから、生き返らしても和解できるか分からない。そのときは、もう一度殺すから。君があの世で先に待っててあげて」


 狐のミカエリが輪千の足をひっかけた。前に激しく転倒する輪千。ビデオカメラが前方に滑って飛び出た。隠し撮りしていた。もしかしたらゲームに参加していたときから隠し持っていたのかもしれない。


 これを持ち帰ることを最優先したのか。俺も手をかそうかと思ったが、追いついた悪七が輪千の太ももに思い切りナイフを降ろす。


 つんざく叫び。悪七が輪千の喉笛にナイフをゆっくり運ぶ。が、輪千はどさくさに紛れて拳を突き上げる。悪七の頬を打つ乾いた音。思わず俺は身を乗り出した。


 大したことはない力だが悪七が女に殴られたという滑稽な現象。怒ったか? 気になって気が気じゃない。後ろ姿しか見えない。動きの止まっていた悪七を振り払い。足を引きずりもがいて逃げる輪千。


 悪七の無情な刃が今度は輪千のかかとをかすめる。それでも二歩前進する。今度はミカエリが輪千の行く手に先回りする。鋭い小指が輪千の額から左目、頬まで、ざっくり切り裂いた。


 悲鳴とともに柵にもたれかかる。悪七はミカエリに簡単に殺させるようなまねはしない。これからが本番だと言わんばかりに歩みを緩めて近づく。だが、そこで予想もしないできごとが起こった。


 悪七のミカエリが輪千の足にからみつくより先に、輪千の寄りかかっていた古びた柵が崩れた。輪千はそのまま一階まで落ちていった。


 悪七の顔が青ざめていた。輪千の情報を引き出しただけでなく、少々遊びが過ぎた。ミカエリが関わっているのだからとどめは悪七がナイフで刺さないといけない。だが、輪千は事故で絶命してしまった。


「大丈夫か」

 大丈夫ではなさそうだ。これまで悪七が無傷でいられたことの方が不自然だが、どうしてもこれが異常なことだと思わずにはいられない。

「リョウは機械を片づけてよ。力仕事は嫌だから」


 自傷するところを見られたくないだろとすぐに分かったので、俺は部屋に引き返した。今回のゲームで悪七はかなり際どいことをしていたのだと今更気づいた。何人も殺したけど、結局自分のナイフで殺したのは三人だという。


 残りは装置で補っていた感じだ。ミカエリを無傷で利用できる最大の限度を自分でも推し量ろうとしていたのだろうが、最後の輪千が計算外だったのだ。


 俺は盗み見てしまった。悪七はその場でナイフを掌に何度も突き立てている。掌を貫通する度に悲鳴を堪えているのが見えて、さっさとその場から離れればよかった。決して声には出さないけれど、その場でうずくまっている。


 すぐに恐ろしいことが起こった。悪七の左手の指が五本ともスパンと切れて花火みたいに飛び散った。ミカエリの仕業だ。

「間に合わなかった」


 震える声でそれだけ言う。俺にできることといったら服をちぎって手に巻きつけたり、飛んで行った指を探しにいったりすることだ。悪七は唇を紫にしながら、それでも意識だけは失わなかった。意識が飛ぶことを怖れている。


 いっそ自分の指の顛末を知らない方が気が楽だろう。意識を飛ばさないようにミカエリが科したのかもしれない。


 すぐ救急車を呼ぶということを頭が過ぎったが、人殺しの俺達が呼べるはずがない。全くなんてことだ。それでも悪七には自分の仕事をするように言われた。


「後はミカエリとの駆け引きだから」

 俺は狐のミカエリに目を向けた。面のままだが、澄ました顔で突っ立った執事みたいだ。


 任せるなんてとても言える相手ではないが俺は部屋から包帯とガーゼを持ってきて、悪七の前に置いた。自分で手当てするのかミカエリがするのか知らないが、これ以上俺にはどうしようもない。悪七も早く俺が立ち去ってくれることを望んでいる。こんな姿は見られたくないと。


 ところが、ゲームの現場はすでにきれいに片づいていた。死体の処理は終わっていた。文字通り消されている。狐が、死体を溶かしていた指で触れることなく、あぶくがぐつぐつ煮たっていたのは、硫酸か何か。残ったのは、血糊だけだ。


 なるほど、ルミノール反応で一発で逮捕の可能性がある。ルミノール反応が出ても、誰がやったか分からなければそれでいい。果たしてそう上手くいくのか。


 工具や、仕掛けも半分ほどは消えていて、俺の出る幕はほとんどなく、指紋をふき取ったり、血の後を洗い流したりするぐらいだった。悪七のミカエリは悪七がいなくても自分の仕事をするというが、ここまでやるとは。


 悪七の指五本で済んだのが奇跡だ。いや、己で掌を貫かなかったら腕一本はなくなっていただろう。


 作業が終わって戻ると悪七の姿がなかった。部屋に電話が置いてある。こんなものは用意してなかった。

「お前が持ってきたのか」


 狐のミカエリは頷いた。救急車を呼べということか。何て悪魔的なやつなんだ。悪七が出血多量で死なれたら困るからだ。もしかして指だけを切断したのも、掌は神経が多く通っているから痛みが激しいからかもしれない。


「呼べばいいんだろ。悪七はどこに運んだんだよ」


 呼びたかったとは言えなかった。強制させられている気がしたから。

 悪七は建物の外の林の中の小屋で寝かされていた。近くに工具が落ちていて、それで指を落としたというシナリオがすでにできあがっていた。


「こんな時間に作業する奴はいないと思うけどな」


 貧血なのか、悪七は答えないし、もうシナリオだってどうでもいいのかもしれない。指はタオルに包んであるがもう目が当てられない状態に染まっている。切断された方の指はビニール袋に入れられて縫合されるのを待っている。救急車が来たのはそれから五分後だった。


 俺は生きた心地がしなかった。カムはずっと俺の左腕を舐めている。いつでも悪七の身代わりになれると教えている。


 だが、悪七は死なないだろう。そして俺だって逃げ出したい衝動に駆られていた。救急車は俺達を助けに来るんじゃない。事件が発覚してしまう。パトカーと同じだ。俺達はもう終わりかもしれない。


次回更新 2020年 10月15日 20時

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