表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/20

第五章 生き残り   第二部 正体

 川口は目が覚めたとき、倦怠感とまた朝が始まったのかという絶望感に襲われた。ところがいつもとは違う、冷え冷えとした空気と、埃っぽい臭いがここは家のベッドではないことを告げている。


 この感覚はそういえば、今日、二回目だと思い当たって、ゲームの記憶を紐解いた。確かに押しつぶされた瞬間、目をつぶった。


 現在の視界は暗闇一色で、床の冷たさとこっぴどくやられた顔や腹が痛んでいる。言うなれば、また死を逃れた。べっとりしたものが頭から背中まで染みついていて、トマトかスイカの生臭い臭いもしていた。


 かすかに光が漏れてきたとき、はじめて自分の手についているものに気づいた。剣山で切れた血に混じっているが、自分の血とは別の血糊が全身にこびりついている。死んだと思ったのは、自分だけでなく、これでは、はたから見ても死んだと思われただろう。


 それよりも気がかりなのは、何より死んでいないこと。いつもなら、幾らかその事実が辛い。死ぬことばかり夢見るくせに、実際に死ぬには色々な手順を踏まなければならなくて、それを考えるのも億劫で、結局手つかずのままはびこって。


 それが更に自己嫌悪になって襲うものだが、今は状況把握に努めた。僕はまだ生きていて、殺人ゲームから抜け出せているのか、いないのか。かすかな光は天井から四角い線になって漏れている。


 天井に扉がある。立ち上がろうとして、膝の打撲に気づいた。プレスされると同時に床が開いてここに落とされたらしい。


 近くに人の気配を感じた。姿は見えないが冷ややかな視線を感じる。監視カメラではない。息を潜めて身構えたが、一向に相手は姿を見せようとしない。ずっとこちらを窺っているのは間違いない。次第に暗闇に自分の全身も溶け込んでしまう錯覚に襲われる。


 思い切って話しかけてみようかと思った。虫かごに入れた昆虫をじっと観察するときは、みんな黙ったままのはずだ。そういう静かな視線を感じて、ほぼ確信が持てた。どんな相手なのか分からないが、こんな自分でも罵ることができるところを見せておこう。


「君って害虫だ。観てるんだろ」

 川口の呼びかけに応じたのは少年の声。聞き覚えはなかった。

「そこまで卑しい存在だとしても俺は生きていたいと思うよ。君みたいに死にたいなんて思ったことはないしね」


 僕を皮肉るように平然と語られた。

「僕は他人を殺すぐらいなら自ら死を選ぶ」


 かっこつけるつもりはなく、ただ本音を言っただけだが、犯人にはそれで十分伝わった。


「それは優しさのつもり? それとも寛大さ? 死ねないよ。その程度じゃ。それ消去法でしょ。この世に居られないから、他人と暮らせないから君達は居場所を変える。まあ死後なんてどうなるか分からないけどね」


 よく通る説得力のある声で、とても猟奇的な殺人者とは思えない好人物の印象を受けたから、自分が言い出したことなのに赤面しそうになる。だが、やっていることが間違っているのはそっちだ。口では幾らでも言える。


「恥ずかしくないの、みんな必死で生きようとしてる人を君は殺す。例えそれが死の恐怖のせいだとしても、君がもてあそんでいいはずがない。神にでもなったつもりなの?」

「まさか。そこまで思い上がってないよ」


「でも実際は、ただの愉快犯と言われて死刑になって終わりだ」

 決して学のない人間ではないはずだから、そのくらいのこと分かるだろうと思う。


「いいんだよ。無益なことに思えるけど有益だからさ」

「そんなの何も残らないよ」


 僕がこれほど必死に何かを訴えたのは随分久しい気がする。こんな奴と話すことになるなんて思いもよらなかった。不思議なのは、唐突な会話がお互いに理解し合えるということ。


 しかし、彼は自殺志願者ではない。彼は死を望んでいないし、生も望んでいない。自分自身でさえ、チェスの駒として扱っている人間なのかもしれない。じゃあそのチェスをつまむ指は彼のどこにあるのだろうか。


「じゃあ、俺からも聞くけど、君は何を残したの?」

 何かを残して消え入ることができることこそ最高だろう。でも、僕にはまだその大切な何かは見つからない。ふと思い浮かんだのは――。

「あの人」


 善見ひいら。誰かを守りたいとか考えたことはないが、僕の濁った声がはじめて自信を持って響いた瞬間だった。この少年には疎ましい雑音に聞こえたかもしれない。光に反射してナイフが一歩、近づいてきた。


「顔ぐらい見せてから殺したら」


 ナイフの光が絶えて、近づいて来た少年の腕が天井の光に当たる。そして首から顔に順に光が映る。そして知っている顔が見えた。

「まさか、そんな。君だったなんて」


 声を変えられるのか。はたまた顔だって本物かどうか怪しい。とても穏やかな表情を浮かべて、少し物憂げに見えるその道化っぷりときたら言葉に詰まるほどだ。


 少年のナイフが喉元に当てられる。すぐにはかき切ろうとしない。何を待つ必要がある。不毛な会話を期待しているのだろうか。こんな奴には唾だって吐きかけるべきなのだろうけど、そういう気力はない。


 ただ少し、自分の寿命が早まったことに残念賞をあげたい。頬を熱い涙が伝う。こんなにも熱いとは思わなかった。


「君は通らなかった? 自分の居場所が地獄だと認めた時、人は死にたくなるよ。こんなゲームをはじめようと思うきっかけがあったときに」


 親にだってこんな台詞は言えるものじゃない。ましてこんな奴に。暗闇が匿名性を増して、擬似的に掲示板上を彷彿させた。ネット上での生活がこんなところにまでシフトして、お互いに何も知らないからこそ話せてしまうこともある。


「俺はそんな自問自答しないよ。客観的に見ると世界は世界だから。大地は俺が滅んだ後も存在し続ける。


 コンクリートで舗装して高層ビルが建ち並び、サラリーマンが通勤する風景が未来に失われたとしても。移り変わるのも世界だよ。だから居場所なんて固執するものじゃない」


 小難しい奴だと思ったが、本当によく話を理解してくれる。いつしか、喉元にある恐怖も薄れ、こういう形でなければもっとじっくり話し合いたいと思った。


「それじゃあ君の主観から見た世界は?」

 それには答えることなく、ナイフが喉に突きたてられる。喉を滑って裂いていく。脈が聞こえる。たくさん零れ落ちる。


 噴き出すことはなく、だらだらとだらしなく服を伝う。ボダンやベルトの部分でせき止められる。それが溢れる――なんて一連のことを観察して、自分の身に起きているだるい浮遊感が、やんわりと死ぬのか、なんて考えさせた。


 過去の後悔や優しい友達のことを一人ずつ思い起こそうとしたときには融通のきかない身体が前に倒れる。犯人の服にもべっとりとペンキよろしく血がついた。


 少年は抱きとめるでもなく、もたれかかる僕を鬱陶しそうに眺めて僕の髪を引っつかむ。視界が霞んで表情はもう窺えない。


 穴の開いた喉から漏れる自分の息が、隙間風の音を出す。不思議なことに鮮烈な痛みとともに眼前に思い描いたのは、善見ひいら。こいつの魔の手が善見ひいらにも届く――。そう思うと、僕はここで死ぬことを少し残念に思う。









「朝月君いる?」

 二人の息づかいが離れてしまった気がした。右に目を凝らしても、左に目を凝らしても、広がるのは闇ばかり。


 朝月の声が数メートル先で聞こえた。近寄ろうとしたら、自分の足音とは別の足音がする。

「輪千さん?」


 私の呼びかけには答えないが、すぐ近くに気配を感じた。

「あの気配がする」


 輪千の言う気配とはミカエリのことだとすぐに分かったのは、部屋の温度が極端に下がったからだ。灯りがあれば吐く息が白くなっているのが見えると思う。誰かの後ずさる足が、床をざらざらと磨る。真冬並みの温度だから床に霜が立っているのかもしれない。


 そのもつれた足がぴたりと止まったのは、氷を踏み潰した音がしたからだ。私の足元もいつ滑ってもおかしくない状態になった。目視できないが、つま先に力を入れただけで、靴がきゅっと鳴ったから、凍った湖の上のようになっているのは間違いない。


 しばらく何の音もしない。朝月に呼びかけようとしたとき彼の口から意外にも落ち着き払った声が聞こえた。


「俺が怖いのはお前じゃない」

朝月がごく至近距離で誰かと話している。その相手の少年の声に聞き覚えはない。言い放つには優しすぎるくらいの声だ。


「それぐらい分かるよ。別に俺は君を脅すつもりはないからね」

 あやふやな記憶しかないが狩集リョウの声ではなさそうだ。第三者の登場だが、そのどこか不適な声は穏やかさと裏腹に危険をはらんでいる。


「ねぇ。君は今、このゲームの狩られる側にいるけれど、狩る側に来ない?」


 そんな囁き声も冷えた空間には十分はっきりと響いた。朝月は身動きが取れない状態にでもなっているのか、ときどき氷が軋む音を立てる。


「まさか勧誘されるとは思ってなかったな。だって君が今ここに出て来たってことは、俺のこと殺すつもりだよね」

 朝月の声が少し震えたのは静かな怒りのせいだ。


「君は俺とはよく似てるから、もしかしたらと思ってね。その言い方だと不満そうだね」


「殺人鬼と一緒にしてもらうなんて酷い話だよ。俺は確かに掲示板で大法螺を吹いたよ。天皇暗殺なんて実行に移す気はない。テロが起こるかどうかっていうことも正直どうでもいいんだ。俺は考えてみただけだよ。考えるのは自由だけど、君みたいに実行するのは違う」


 沈黙の駆け引きとでもいうのか二人の声がふと途切れた。否定された犯人はまるで気にも止めず、生徒に諭す先生のように考察する。


「その境界線が君との大きな違いかもしれないね。今分かったよ。天皇どころか猫も殺せない臆病者がゲーム内では探偵役かな。人は誰でも矛盾した二面性を持つけど結局は君も匿名性に守られて悪意をさらけ出したかったってことかな」


「何で猫のこと」

「公園の野良猫を狙ったんでしょ。頭の中ちょっと覗いちゃった」

 友達のような口調で言葉が転がる。朝月が黙りこくるのも無理はない。ミカエリの力でそんなこともできるなんて私も今知った。


 朝月の震えが完全に収まって声が沈んだのは、少年を厳しく批判するためだ。

「君は酔ってるんでしょ。どうやって俺のこと調べたのか知らない。ゲームの構造も知らないけど、君は自分がこれだけのことをしてるってことに酔ってるよ」


「酔う、ね。そうなれたらいいんだけど、そうなるには形から入らないといけないね。例えば」


 何かを押しつけられたように息を飲んで朝月が押し黙る。おそらくナイフを押し当てられたのかもしれない。

「こうして君に選択肢を与えるとか。生か死か。どっちを選ぶ? 俺は君の命乞いをするところが見たいから待ってあげるよ」


 朝月がそれに応じないのはすぐに察したが、二人とも声を噛み殺して笑っているのかと思う。この瞬間、私にできることはないだろうか。そう思って一歩踏み出したが、足元の氷が割れる音で、刺すような少年の視線を感じた。足元にじわりと冷気が寄って来る。

「動いたら駄目だよ。君は知ってるよね。ミカエリのこと」


「あんた何よ! 電気つけなさいよ」

 ずっと我慢していただけに怒鳴ってしまった。輪千が口を挟む。


「や、やめた方がいいよ。暗闇でも分かるわ。気配が尋常じゃないわ。あんなの化け物よ」


「化け物ね。よく覚えとくよ」

 気に入ったみたいな調子で、含み笑いが漏れた。ところがその笑いの中に朝月の笑みも混じっていた。


「君って、おかしいね。君は何がきっかけで復讐掲示板なんて見たのさ。俺を見つけるなんて相当いかれてるよ。自分でもそう思わない? 君なら今、自分がいかに馬鹿げたことをしているか分かるはずだよ」


 朝月の話すことに察しがついていたらしく自嘲気味な笑いが漏れた。


「確かに復讐掲示板なんて、故意に検索しないとたどり着けないね。でも案外、悪意ってのは転がっているものだからね。たまたま目に入るってこともある。君だって不満があるから書き込んだんでしょ。実行に移さないなんてもったいないと思うよ。現に君はテロができる日本人を探してる」


「書き込みなんて戯言だよ。あんなのに本気で書き込んだら馬鹿だよ」


「その礎が大切なんじゃないかな。そもそも復讐掲示板に書き込みするぐらいだから。書いて煽ったり、炎上させたり、本当はみんな自分の意見を表明してるつもりがいつの間にか反論を待ってるんだ。荒らすことに意味を見つけるんだよ。


 君は荒らす代わりに天皇暗殺を唱えた。何人かは食いつく話題でしょ。俺が真っ先に君をここに連れてきたけど。実行には移さないけど不満があるよね? 社会に対してあるよね? 天皇暗殺以外にも選択肢があるわけだし、君もこだわりはない。


 こんなゲームでも内心興味はあるんでしょ。何で認めないの? 捕まるのが嫌ってことないよね? 実行にこそ意義があるよ」


「それは踏み越えたらいけない。君にもそれぐらいのこと分かるはずだけど」


「それは誰が決めた倫理? そういうルールが嫌だから掲示板に不満をぶつけるんじゃないのかな。君の方が矛盾するよ。口先だけってことだよ。実行に移せない理由でもあるの? 資金不足? 人手不足?」


「君の方こそ。君がそこまでしないといけない理由は何? 捕まってもいいってことは自分のことはどうだっていいってことだよね」


「違うよ。俺は自分のことで精一杯だし自分がかわいいときもあるよ。だから逮捕されるっていう悲劇に見舞われるのも、見る分にはおもしろいでしょ」


 自分のことを第三者の視点で見る。そんなことってあるのだろうか。


「俺が思うのは、まず境界線なんてないってこと。ルールもない。警察だって結局社会のルール上で優待された組織でしかない。そんなもの俺には関係ないから。


 それに被害者に恨まれたってそれも関係ない。恨まれようが、逮捕されようが、構わないっていったら? 社会は必死で俺を裁きたがるだろうね。でもそれだって無意味さ。規範も、法律や裁きも人が決めたものだから。


 この世界ってのは人が存在しなければそもそも何もないんだから。君だって分かってるくせに。本当に俺みたいなのが出て来たから君は怖いんだよ。だから俺を否定する。テロじゃないけどね。俺を認めなよ。一緒に狩ることができないなら、今ここで殺してあげる」


 返事はなかった。水の滴る音がする。

「フー灯りを!」


 電気をつけるなんてフーにできるか知らない。これ以上、悲鳴を聞いたり、血を見るのは嫌だった。部屋が白々しく照らされたときに、私の右肩ががくんとはずれ、血も噴出した。


 打撲と切創。フーは丸い身体にべっとりとついた血を見てにんまりと笑う。いつの間にか歯が生え揃っている。今はそんなことを気にしている場合ではない。朝月のうめき声。


 朝月にまとわりついていた氷が花咲くように散る。あえぐ右腕。指先は宙をかく。もつれる足にのせて、前屈みに鋭い刃物でひと掻きされた喉を押さえる。たぎる血はとめどなく指の間から並々と溢れる。泳いだ瞳と出会う。


 それが白目をむき、身体がつられて倒れ掛かる。その拍子にひいらのズボンにも噴出した血がかかった。受け止めたら腕の中で朝月の首がぬるりと滑る。


「ああ、だめ」

 喉から空気が漏れる。朝月はもう意識もなく、血が後から後から溢れてくる。喉元に手を押し当てたところで、せき止めることはできない。ところが不思議とパニックにはならなかった。


 背筋が寒くなることはあったが、それは今、目の前で人が死にかけているという事実のせいだけではなく、それよりも自分に残された選択肢とそれを選ぼうとしている自分の恐ろしさに対してのものだった。フーを使えば助けられるかもしれない。


 だけど、フーは必ず見返りを求める。それはきっと私の命。私はみず知らずの人を救うために自己を犠牲にすることができるだろうか。これまで数多くのボランティア活動をしてきた。


 だけど、それだって自分にできる範囲内でのことだ。虚しい煩悶はわずか数分となかったにもかかわらず、朝月の血が命を留めておける時間を過ぎるには十分すぎた。


 温もりが冷えていく。辺りの白々しい蛍光灯が、鮮血をよりいっそう際立たせた。私にはできなかった。自己犠牲なんてできるほど強くなかった。そんな勇気なかった。


 これまでやってきたどんなことも私の本当の良心じゃない。私なんて所詮、ただのリーダーかぶれだった。何もかも偽善だった。私は人を救えないし、何かを施す資格もない。


 側に残る輪千が、口を開いたのは「ごめんね」というそっけないものだった。

「え?」


 頬をとめどなく涙が伝っていて、耳鳴り程度にしか聞き取れなかった。何が悲しいのかもう分からない。自分の無力さとか、自分の卑劣さに腹が立って、どうしていいか分からない。

「私は何もできないから」


 消え入った声に呼応するように響く足音。朝月ばかりに気を取られていたが、数メートル先に犯人らしき少年が佇んでいる。

「あなたは」


 死んだはずのヤマだった。返り血を浴びていること以外はついさっきまで、ゲーム話に花が咲いたという顔をしている。


「そんな驚くことやあらへんで。だって考えてみいや。うちの死体は見てへんわけやろ。もうこんな話し方する必要もあらへんか」


 そういって、ヤマとは思えない、誰にでも親しく写る、好青年の笑みを浮かべた。知的でどこか名門の高校生といった――少なくとも今まで知っていたヤマではない。

「誰なの。狩集リョウの友達?」


「そうだよ。悪七ライ。よろしくっていっても、意味はないんだけど」


 ヤマの顔からは想像もつかない人づき合いのよさそうな声。先ほどから朝月と話していた声だ。もしかして顔も偽物なのか。そう思った瞬間、そのトリックを暴いてくれた。


 といってもごく簡単なマスクだった。そこから覗いた精悍な顔は警察の息子とか、エリート学生とかそういった正の部類の印象を与えた。笑顔さえ見せれば無垢にも見えるかもしれない。唯一気になるのは唇が薄いことぐらいか。


「俺はこのヤマっていう人の記憶と、姿を盗んだ。ミカエリの力でどこまで他者になりきれるか試した。といっても、ミカエリに血を払うのは嫌だから、このヤマっていう人は俺自身の手で顔をぐしゃぐしゃにして殺したけどね。


 それに俺にとって醜い男に変装するなんていう、羞恥を掻き立てる変装ほど、ミカエリは喜んで手を貸してくれる」


 あのシーソーの死体が本物のヤマだったのか。私は輪千をつかんで逃げ出そうとしたが、輪千は立ち止まって動かない。

「だからごめんって言ったでしょ。私は手出しできないから」


 そんな、まさか。輪千真奈美もこのゲームの裏切り者なのだろうか。

 悪七ライがおどけた調子で告げる。

「二人いたって別にいいでしょ? 手紙には、いるって書いただけで、何人いるかなんて書いてないんだから」


 輪千は、私の手を振り払う。だけど、そこに敵意はなかった。名残惜しさまで滲ませた目で哀れむような声で言った。


「私は何もできないの。今回のゲームでも何もしなかった。信じてもらえないかもしれないけど、行動を共にしただけで、自分でも自分の身を守りきれる確信はなかった」


「じゃあ何で」

 輪千は俯いてそれには答えず悪七という少年の後ろに回る。悪七に道を譲る形になった。


「フェアじゃないってわけでもなかったでしょ。君にはミカエリがいたんだし」

「だけど、あなたのミカエリは複数いたじゃない」


「でも身体は一つだからね。払えるものにも限度はあるよ。ミカエリは仕掛けの一つにすぎないし。俺はこのゲーム。ゲームっていう言い方も本当は嫌いなんだけど、どうしても役作りのためにはゲーマーらしくしないといけなくて。まあ、楽しめたらそれでいいかなって」


 そこで微笑むのだが、何故か寂しげに広がる口元に、楽しみの欠片も見出せない。悪七は一歩歩み出ると、こんなくだらない話なんてやめようというように軽くかぶりをふった。


「感情のない殺人鬼って言われたらそれまでで、そういうレッテルを貼られて終わりだけど、もちろんそう言われるだろうけど。まあ問題は俺をどう社会が扱おうと関係なくて、これから俺と君の間に起こることにかかってるけど」


 どことなく独り言が多い気がするのは、ヤマと唯一似ている点かもしれないが、ヤマと違って演技をしていない時の方がおかしな発言が多い気がする。


「朝月にはがっかりしたよ。ああいうのを一人、味方につけてみたいって思ったからこのゲームにつれて来たんだ」


「朝月君は、確かにちょっと危険だったけど、それでも私達を必死で守ってくれた。あなたとは似てない。あなたがこんなゲームをはじめたのは何故」


 私が知りたいのはそれだけだ。ゲームと銘打っているからにはそれなりの意図があるはずだから。何で無意味に人が死ななくてはいけなかったのか。


「理由ね。それが分かれば大人しく死ぬ? そんなわけないよね。理由なんてないと言えば最近の流行りみたいだし参加者はわりと無作為に選んでるけど」


 考えるそぶりからふと我に返って自己と他者の立ち位置に今しがた気づいたように私に親しげな笑みを向ける。


 その笑みは自然であり作り笑いであり天使か悪魔の陰謀と紙一重で、漏れた吐息は今から起こる幸福な時間を満喫してやろうという屈託のない願望そのものだった。次に放たれたもの静かな言葉がこの少年の決定的な欠落を浮き彫りにした。


「人を生き返らせるためには何人の犠牲者が必要だと思う?」


「生き返らせる?」

 ミカエリに払う代償のことを言っているのだとしたら大きな過ちだ。

「そうだよ。俺は惜しい人を脱線事故で殺してしまったから生き返らせるんだ。そのためにミカエリを使う。そのためには何人殺したらいいかってこと」


 なぞなぞでもするように問いかけられた。そんなこと、できっこない。命の数合わせなんて。

「あなたにも憑いてるのなら、何でもっといいことに使わないの?」


 悪七は眉をひそめた。たった今自分のしてきた行いが偽善と気づいたお前に善を語る資格があるのかと、冷ややかな笑みを投げかけてくる。


「君は友達かペットみたいに側にいるけど君だってそいつの危険性を知ってる。つまり何か悪いことに使ったことがあるはずなんだ」

「違う。私はフーに悪いことはさせない。偽善だったことは今日初めて気づいたけどそれでも人を救いたかった。だけどあなたは・・・・・・」


「悪を知った上で悪をなすって感じかな。君は自分の中を直視できる? 俺はできるよ。ねえ君は? 人は悪を意識するとみんな生きていられないはずなんだ。なのにみんな生きている。それが可能なのは直視しないからだよ。俺は直視してる。そして、それと共存してる」


 誰だって人間である限り悪の部分はある。でも、それを故意に表に出そうとして何になるのだろう。

「あなたは間違ってる。だって、あなたは人を殺した」


「それは何を基準に間違ってるなんて簡単に言うの。基準なんて社会の規範とか、そういった他人の受け売りでしかない。自分って意志がない。


 生まれたときから周囲に散らばるルールに縛られてる。もちろんルールなしじゃ社会が壊れるから。でも壊れる壊れないって意識させるのも社会だから。結局はそういうものに捕らわれてる」


「だとしても、人としてはどうなの?」

 私が言いたかったのは痛みのことだ。心のことだ。この人はただ狂ったとかそういった類を演じようとしているのではないという危機感が私の声を張り上がらせる。


「俺の場合は醜く生きることを選んだんだ。ただ誤解がないように補足すると悪を直視することは罪を意識するってことと違うから」


 この人は悪意を振りかざす生き方を選んでしまったんだ。そこまでして生に固執する人は見たことがない。


 でもこの人の冷えきった目を見ていると口元は優しく微笑みかけているのに、何か欠けているといった感じで、とても必死には見えない。よく闘病生活の果てに自身の生き方を変える人がいるが、それは有限を学ぶからだ。


 だけど、この人は限りがあることを知りながら、他人の生の時間を早めてしまう。そして自分は白い仮面でも被った顔をしている。考えすぎだろうか。本質のことを語るときでさえ、「笑い」しかない。この殺人鬼は悲しみでさえ笑いですますのだろうか。仮面の下はきっと笑みなんてないはずだ。死人と同じなんだ。


「かわいそうな人」


 少しも驚いたそぶりは見せず心外だという非難の眼差しが返った。

「確かに幸せじゃないけどそれが不幸ってことにはならない。不幸に見られるのは間違いで、ここにあるのは静寂だけ。鼓動は何かに揺らめいてリズムを乱すことがないってこと」


 自分のことですら他人扱いをしている悪七は二重人格というわけではないが、一人の身体で二人分の意識が内在しているみたいだった。虚しい胸が痛み出して、次第に私の声は肩から震えた。

「あなたって心から笑ったことあるの?」


 呆れた顔で悪七は吐息を吐いたが、冗談は聞きたくないといった顔で、二歩ほど横に歩いた。


「誰でもあるよ。人間なんだからさ。もしかして、今のは作り笑いかって? 俺が微笑むのは君達の浅ましさに会釈してるからだよ。いい加減、愚問はやめたらどうかな。まあ、俺も喋りすぎたから、今度は黙って君の意見を聞こうか」


 人をどこまでも馬鹿にして、やっぱり愉快犯の域を出ない。こんなやつがミカエリなんて持っているからいけないんだ。


 フーに目くばせをした。フーでどうにかなるか分からないが相手は今無防備だ。といってもミカエリが見えないだけでどこかにいる。フーもさすがに警戒して、なかなか動かない。


「いつものあれよ」

 得意の吸引で、フーは大きく息を吸う。狙うはナイフだ。だが、ナイフより先に氷の針が山ほど飛んできた。


 フーはハリセンボンみたいになって、もちろんこっちも針だらけになった。あちこちから糸のように血が流れる。フーは血が出なかったが、割れなかったのが奇跡で、浮いているのがやっとというように丸い顔を歪めている。


「来ないの?」

 もっと楽しませてよという響きがあった。

 思い切って飛び出す。その瞬間、視界が冷気と閉ざされた。氷の壁だ。天井まで届く。厚さも水族館のアクリル板みたいになって、フーが半分氷づけになった。


「フー!」

 ミカエリが死ぬのか分からないが、フーは目を閉じて動かない。口にあたる部分は完全に氷に埋まっている。


「ミカエリはミカエリで殺せるんだ。まあ小型だから元々、寿命百年は厳しかったんじゃないかな」


 氷の壁が砕けた。フーも一緒に。血の変わりに白い砂みたいになってかき消えた。空気に溶けてしまった。あっけなかった。突然のことで涙も出ない。


 悪七がゆっくりと近づいてくる。距離はなくなった。私も逃げなかった。フーもいなくなった。私はフーのことをペットみたいに思ってたのかな。友達? 何だったんだろう。私はフーをものみたいに扱っていただけなのかも。


 悪七は私が涙目になっても、決して零れ落ちない雫に興味を持ってほころびそうになる口元から笑みを消した。それから何やら考えごとをして目を細める。どこまでもふざけている。


 これからどう料理しようかと思案する悪人面ならいくらでも罵倒してやるのに澄みきった空を写すかの瞳で、ものごとは全て儚いとでも言わんばかりの静かなため息でもって馬鹿にするから、私の怒りは今にも対象を失って爆発しそうだ。


「笑ってみなさいよ! できない? ちゃんと心ってのを使いなさいよ! 理屈ばっかで人は生きられないんだからね! あなたは寂しい殺人鬼よ! 醜く生きるのも結構だけどね。生きるなら最低限笑ったり泣いたりできる心を握っときなさい」


 悪七の蔑む視線が私を射抜いた。その刹那、今のはなかったことにしてねという、退屈そうな声を出した。


「汗臭い感情は嫌いなんだ。だから君みたいに訴えられると疲れるよ。でも、それは君が悪いんじゃないよ。君の考えは『普通』の考え方だし、『普通』の責め方だから。間違いじゃない」


 何なのこいつ。どこまでも馬鹿にして、悔しさでついに涙は落ちた。それもただ悔しかったからじゃない。この殺人鬼は馴れ馴れしくもそっと、肩に腕を回してきた。


「そうそう、まるで俺は無感情の殺人マシンみたいな話になってるけど、俺は感情を押し殺しはしないし感じないわけでもない。


 今こうして君を殺す瞬間なんかは快楽だしね。自分を理想の自分まで高めているときのカタルシスは何度舐めても甘美だよ」


 殺されるという感覚はあったがそこに恐怖は感じないつもりだった。全てが仕組まれている恋人同士みたいに抱きとめられた。


 振りほどこうとした瞬間背中に痛みが突き上がる。背中から突き刺されたナイフが熱く胸まで血潮を押し上げる。そっと唇に重なる味気ない唇。余計に息が苦しい。死の恐怖よりも、耐え難い羞恥を感じる。


 悪七の顔はヤマに戻っていた。彼のミカエリがそうさせたのかもしれない。その荒れた肌を見ていると、まだ残る軟らかい感触が急にざらざらしたものに変わった。


 こういうつまらない手法でもって人を辱しめるんだ。痛みとともに視界が霞むにつれ鳴りやまない自分の脈を呪った。目と鼻の先の男は世界でただ一人、自分一人しか愛していないくせに偽りの優しさを笑顔で振りまく。倒れかかっているのだから離してくれたらあっさり死ねるのに。


 お母さんやお父さんのことを考える余裕もない。血。私の血ばかり。ヤマの顔ばかり。無力の二文字が浮かんだら消えていった。断片的な考え。ふと春の遠足のことなんて浮かんだけれど、なかったことのように部屋の蛍光灯が私の顔を照らす。


 意外にも死にたどり着くまでの時間は長く心の隅で今か今かと身構えている。だから口から血を吐いたときだって苦しみを除けば当然の事象だった。だけど私は残った刹那叫び声を上げようとして動かない唇が嗚咽だけ上げる。


 重い瞼が最後に拾った残像。ヤマから悪七に戻り、君みたいなくだらない女とこの俺がかりそめの茶番を演じてやったという傲慢な笑み。悔しさも悲しみも絶望も瞼が落ちて深淵に沈んだ。


次回更新 2020年10月14日16時

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ