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第五章 生き残り   第一部 線路

 川口は自殺掲示板の流れそのものを話してくれた。自分でも情けなくなってきたのかうなだれている。こんなこと聞き出したのはやはりまずかったかな。


「不毛な会話ばかりしてる掲示板なんて見なければいいんだけど。一度書き込んだらその先、誰がどういう書き込みをしてるのか気になってつい見ちゃうんだ。


 だから僕らが集うのはひとえに悲しみのためばかりじゃない。傷の舐めあいでもないし、傷つけ合いかもしれない。でもいつか誰か救ってくれるんじゃないかとか。いつか、自分と同じ境遇の人が同情してくれるんじゃないかとか思ったりする。


 実際は煽る人も多いけど。私も同じ経験ありますって言われたいんだ。君だけに教えてあげる」


 川口は私にだけ見えるようにメモを見せてくれた。特に朝月レンには見られたくないみたいだった。今日、自殺するために書くつもりだった遺書の切れ端だった。


 手荷物は全て犯人に没収されているのに、ふたばのスマホや、川口のメモはわざと持たしたままにしているところも、意図的だと思った。


 死ぬ前に今から死にますと添えて書き込むつもりだったとか。人前で話すのは恥ずかしいことなのに掲示板の上だと平気で書き込めるのだそうだ。匿名だからこそ書けるのであって声には到底出せない。


 私に教えてくれたということはそれだけ葛藤の後に伝えたい言葉だったんだろう。見せてくれた後も顔を真っ赤にして情けなさそうにうなだれて後悔している。


 川口の恐る恐る見つめていた目が、辛そうに歪む。自嘲気味にはにかんだところで、朝月が様子を見に来た。

「終わったかな? こっちも助けてよ。ヤマ君と話すと疲れるよ。意外に政治にも詳しくて驚いたけど」


 私と川口だけで話す環境を作ってくれたことはありがたかった。朝月もいいところがある。

「そうでもあらへんで。全部ネット上やったら早く分かるってだけや」


「君は俺が天皇暗殺考えてるってこと気にしてないみたいだね?」

「そんなん、別にうちは何とも思うてへんで」


「本当にそうかな。君だって、象徴的なものをぶち壊すことに興味がないわけじゃないんでしょ。口には出さないだけで」


 突然、声を潜めた朝月に見ていた私も悪寒を感じた。面と向って言われたヤマは一歩後ずさったほどだ。しばらく見つめ合う二人、ヤマは唇をわななかせて呟くのが精一杯だった。

「あんさん、ほんまの目的はそれやないやろ」


 どういう意味だろう。朝月は答えない。

「そうとも言えるね。象徴を一つ消し去るってことをやってみたいとは思うけど、それで日本が混乱しようが、どうだっていいよ。それより気になるのはそういうつまらないことを実際実行に移せるのかってこと。


 日本で海外ほどテロが起きないのは何故かってこと。俺がそのきっかけを起こせる人間になれるかどうか。でも、しばらくは安心してよ。俺達はここでこうして捕まってるし、俺は無差別に襲ったりしない」


 あまりに危険な発言にぞっとした、思わず距離を離したくなるほどだが、朝月自らが数歩先を歩き始めた。足取りもどこか軽やかだった。


 迷路が開けたのは単なる偶然ではない気がする。トラップはあれからどこにもなかった。

「何ここ」


 天井の低い倉庫のような部屋。赤い部屋。床からは炎が太陽のプロミネンスのごとく、ぐるりとよじって吹き上がる。青い炎が混じっているからガスが燃えているのだろうが、火そのものが生き物のように動くところを見ると、これも一部はミカエリが一役買っているのかもしれない。


 向こう側に渡るには、二本の平均台があるのみ。例えるなら線路。枕木こそないが、二本ある鉄鋼は線路そのものだった。


「きよったで火の海や! 熱っ。ほんまに作りよったで、実写化したらこうなるんか。まだましなゲームや思うで。そら、靴底は焦げてまうぐらい熱いやろうけど、落ち着いていけばクリアできんで。これはふるいにかけとるんやろうな。


 トラップには個人を狙ってやってんのと、全員通らなあかん関門を用意しよって、脱落者が出んのを待ってんや」


「誰かが死ぬってことかな。今回は手紙もないし」

 朝月が平気な顔をして渡って行った。靴底の焦げる臭い。煙が上がるが次の一歩を踏み出して、靴底が焦げてなくなる前に向こう岸に駆け足で到着する。


「川口君、おいでよ。たいてい死ぬのは、一番最後に躊躇う人だからさ。二番目なら怖くないよ。みんなついてる」


 半ば不吉な暗示とも取れた。川口がおずおずと私達を見回した。誰も行けとは言わない。かといって誰も止めない。順番が誰かの運命を分けるとは思えないし、人一人しか通れない鉄鋼の上で力になれるわけでもない。


 奇妙なのは、何故二つ鉄鋼があるのかということ。お互いに横に並んで行くわけにもいかない。それこそバランスを失って隣の人にぶつかったが最後、二人とも火の海に消えることになる。


 川口は青ざめたまま鉄鋼に軽く足をかけた。数秒待って、靴底を見る。まだ焦げてないことに安堵し深呼吸した。


「先に進めばいいんや。怖い思うんわ、下見るからや。見たらあかんで。ここはみんな通るんやから必ず攻略できるっちゅーことや。まあ、難易度高いんかもしれんけどな」


 川口がおずおずと渡り出す。靴底から渋ったように煙がじわじわ上がる。熱風でさらさらの髪が上に舞い上がる。ほとんど泣いているような呻き声を上げながら半分渡りきる。


 最後は駆け足で、靴底が半分焦げ落ちた。向こう岸では朝月が手を伸ばして川口を受け止めた。ヤマも滝の汗をかきながら恐る恐る渡っていく。


「これはどっち乗ってもええんかいな。それか、他に意味があるんかもな。温度はどっちも同じみたいやけど」

 ヤマはぐらぐらしていた。一番危なっかしいが、口だけは達者で、目に汗が入っても気にせず分析を続けた。


「とにかく下は見んこっちゃ。そんでから、横でわざとらしく上がってる炎なんかは見るなっちゅーことや。全部相手の策略や。今時こんな映画みたいなゲームなんていくらでもあんねんで。そういうゲームは画面にいきなり出て来るQTEコマンドを入れる反射神経がいるんや」


 ヤマも無事に渡り終えた。よく考えると私達、女子を置いていくなんて薄情だと思った。もしかしたら私、女に見られていないのかも。


「先に行って。私が見てる」

 輪千は首を振った。

「私は行けない」

「どうして?」


「ここは通れないの」

 輪千も私も汗だくだったが、輪千の汗は悪寒も伴って、凍りついた冷たさも持ち合わせている。

「ここを通らないと。じゃ一緒に通ろう。横を一緒に渡るから」


 手を差し伸べると、輪千は、しぶしぶ手を握り返した。その手は汗でべっとりとしている。

「ほんとダメなの。ここはまるで――」

 輪千は明らかに見えない何かを見据えて怯えている。自分の内から、無理やり引き出そうとする何かが、この現場にはあるようだ。

「早く行かないと。どんどん熱くなってるよ」


 下から吹き上がる熱風が勢いを増していく。

「線路はダメなの! 電車はもう無理なの!」

 二本の鉄骨が、線路に見えるなんて考えもしなかった。もしかして、これは分かる人には分かるなにかの暗示なのか。

「とにかく行こう」


 私は一歩乗り上げる。先に進むしかないんだから、輪千を何とか奮い立たせないと。輪千の腕を引っ張り上げてもう一方の鉄鋼に上がらせる。既に靴底はホットプレートにつけたような温もりを感じた。輪千は腕を引っ込めたい気持ちを抑えて足を一歩踏み出すが、小刻みに震えている。


「お願い。こんなのは二度と見たくない」

 何の話かさっぱり分からないが、輪千の怯えようは異常だった。まさかこれは輪千を狙ったトラップだったのか。

「がんばって、ゆっくり行こう。足が熱くなっても、さっきヤマ君が行ったペースで歩けばなんとかなるから」


 とは言っても足を一歩踏み出すのがこんなに大変だとは思わなかった。輪千と手を繋ぐことでバランスが取りづらい。離した方が安全だ。一言離すよと言って離れてからは、自分の綱渡りに夢中なピエロで、周りは見ていられない。


 生きるか死ぬか。サーカスでも命綱なしではやらないだろうな。輪千が遅れているのが視界の隅に入るが、がんばってと言うしかない。がんばって。がんばって。虚しく響く自分の言葉。


 学校でもこれほど無愛想に誰かを応援したことはない。自分の言葉の無責任さに泣けてくるが、額から零れた汗が目に入って余計なことを考える暇はなくなってきた。


 靴底がじゅっという音を立てたので慌てて右足を踏み出す。今度は右足が焦げ臭い。最後は飛ぶようにして向こう側に辿りついた。


「君ならできると思ったよ」

 朝月が手を伸ばして私を受け止める。輪千が気がかりになってすぐ振り返る。まだ二メートル離れている。靴に炎が燃え移っている。

「早く!」


 輪千にはメガネがずれ落ちかけているのも気にしている余裕がない。滝のような汗は耳から顎へと垂れ下がり、べとべとになった前髪が視界をさらに悪くしている。

「何で、私ばっかり!」涙と汗が交じり合ってぐしょぐしょの顔でこっちに吠えた。

「いいから足だけ動かして」


 手を振りながら落ちかけた足を踏み出す。足の指が見えた。靴は既に穴が開いて火傷をしているに違いない。

「こんなとこで死んだらばかみたいじゃない!」


 語尾を強めて私は叫んだ。輪千ははっとした表情で、身体のバランスをとった。また一歩踏み出す。最後は飛んだ。でもだめだ。届かない。手を伸ばす。つかむ。想像以上の重さ。


 男子達がここぞとばかり一致団結してずり落ちた輪千をつかむ。輪千の両足が燃え上がる。

「上げて! 早く上げて!」


 私は必死に叫んだ。輪千の悲鳴と共鳴して絶望的な声に変わる。引き上げた。輪千のスカートまで燃えている。全員で叩いた。私は自分の手に一瞬火がかかるのもひるまず叩いた。そのかいあって十秒足らずで消し止められた。無事だ。


 足が焼けただれているが、輪千は強く、泣くことをしなかった。それどころか、怒りに満ちた目で訴えた。


「誰なの。何で脱線事故の再現なんてするの?」

 朝月は無言で手っ取り早く輪千の足の状態を見て、男子らで袖をちぎって包帯代わりに巻いてやった。

「君は脱線事故に合ったの?」川口が興味深げに聞いた。


「そう。何で思い出させるような真似なんかするの。何で兄さんは死んだのに、私だけ生きてるのよ」

「それって、ニュースでやってる、もう二年になるあの脱線事故?」


 そういえばこの前テレビでやってたっけ。まさかあの脱線事故の被害者? 被害者はざっと百人にも昇る脱線事故だ。テレビが風化させないように何度も放送する。


「じゃあ犯人はんは、輪千はんを狙ったってわけやな。こりゃ余計分からん。今までは俺らを戒めるようなゲームや思とったけど、事故の被害者を殺そうやなんて。こんなシナリオないわ。何か個人的な恨みでもあるんか」


「死ぬような思いなら二年前にしたのに、何で狙われないといけないのよ」

 悲痛な声でまるで私達が悪いみたいに睨む。

「犯人は死に興味があるんだよ。憶測だけどね」


 自嘲気味に笑う朝月は、輪千をしげしげと眺めて深いため息をついた。


「それとも他に君に何かあるのかな。君だけが特別? でも思うにゲームの主役は別にいるんだよね」と言って何故か私の方を見る。でも、気のせいかと小声で零してそっぽを向いた。一人で思案してなんななのだろう。


 輪千がよろめいて立つ。支えてあげた。輪千は弱音も吐かず、肩を貸りていることにさえ抵抗して自力で歩く。焼けただれた足の裏は見ていても痛々しいし、歩く度に呻く。


 輪千は犯人にとって特別だろう。わざわざ輪千の記憶を呼び覚ますまねをしたのが証拠だ。


「お願い教えて、共通点なんてないならないでいいの。だけどみんなのことが分からないと犯人がどうしてあんな罠を仕掛けたのか分からないの。じゃないと、また同じような罠があるかもしれないでしょ」


 あまり説得力がない気がした。輪千の青ざめた顔を見ていると当事者でないと分からない恐怖がそこにあったから。

 輪千は一呼吸置いて顔を埋めて答えた。


「兄が死んだの。(しめぎ)零士(れいじ)って今でもときどきニュースで言ってるでしょ。妹をかばって死んだって」


 名前は聞いたことないが、妹をかばったという美談は聞いたことがある。だが、そういう美談や悲劇も被害者が多かっただけに、それぞれがドキュメンタリー番組に組まれて、誰がどの人生を送ったかなんて分からない。


「兄と私は一緒に鉄材に下敷きになってた。何時間も一緒に励まし合った。救助は来ないし、近くで火の手も上がって、まだ取り残された人達が煙で咳き込む声が聞こえて。私達も咳き込んで」


 事故が大惨事になった不運な原因は、脱線後も電車がトンネルに突入し、トンネル内で転倒、火災を招いたことだ。死者の多くが、発生した火災の煙による窒息死だった。


「兄は足に鉄が刺さってた。焦った兄は鉄を無理やり取ったの。足の方を無理やり引き抜いたっていうか。それで私の上に折り重なってた鉄材を順番に取り除いて。私はやっと出られたけど、その頃には兄の足は血まみれで。


 引き抜くべきじゃなかったんだわ。動脈をやられてたの。そのときは必死だったけど、私を助け出すだけで精一杯で、もう立ち眩みで倒れて。煙も激しくなる一方で」


「君がお兄さんを助けることはできなかったの?」

 川口は好奇心に駆られたような声で言う。


「無理よ。私はすぐレスキュー隊につれられたから。兄の方は助けてくれなかったわ。煙が充満して、一人しか通れない隙間しかなかったから、私を抱えると再び戻るなんて言って、戻る時間なんてなかった。煙が酷くなると誰も手をつけられなくなって」


 まざまざとつい最近のニュースを思い出した。上空のヘリの映像。トンネルから排ガスのように吐き出される黒煙。取り囲む消防車と救急車。覆われたブルーシート。


 輪千はそこで話を切ってからは一人で黙々と歩き続けた。突きあたりに扉があって、他に道はなかった。ここで最後の扉であってほしい。


 次の部屋が開けたとき、出し抜けに川口が吹き飛んだ。私達も押されて将棋倒しになった。川口を殴り飛ばしたのは他でもない執行だった。床に倒れたところを今度は髪をつかんで床に叩きつける。何やら、シャブがどうとか、注射器をよこせとか喚いている。

「やめて」


 必死に腕をつかんだが簡単にふりほどかれた。執行は馬乗りになって執拗に川口を殴る。鼻血とつばを吐いて川口の意識が飛ぶと懐をまさぐり出した。川口の注射器を探してるんだ。麻薬常習犯だったのか。腕にうっすらと針の後が見えた。


「注射器ならこっち」朝月がちらつかせる。いつの間に注射器を手に入れたんだろう。川口から盗んだのか。執拗が恍惚とした目を向けると、朝月は注射器を投げた。執拗が追うより早く後ろからヤマが押し倒す。ヤマが執行を殴る間、川口がしがみつく。

 

 執行も負けずヤマを殴り返して川口を蹴り飛ばした。床に転がった注射器を取るなり肩で息をしながら叫んだ。

「もっと早く気づけばよかったぜ。こんな手紙なんか見せられなくてもよ」


 手には紙切れが握りつぶされている。犯人からの手紙か。汗だくになってぜえぜえ言いながら、嬉しそうに注射する。

「本当にドラッグかどうかなんて分からないんだ。ドラッグだったとしても身体を壊すのは君だよ」朝月は呆れ顔で言った。


 ドラッグの効果か分からない。執行の憤りは増して、川口にどろどろと濁った目を向け、ポケットから取り出したナイフを突き出す。


「最初、お前みたいなクズが俺を名指しで呼んだよな。てめーみたいなやつが何でこのゲームに選ばれてるのか分かんねぇな。俺が参加させられた意味は分かったぞ。


 ここは俺が好きに暴れていい空間だってな。生きる意志のねーやつが、真っ先に死ぬべきだって思うぜ」


 そう言うなり、かなりて手ひどくやられていた川口を鷲づかみにして引き立てていく。

「てめーから逝かしてやるよ。ちょうどここに処刑台がある。俺は一人連れて行けばここから出してもらえるんだ」


 自分の目を疑った。あながち執行は嘘はついてない。大きなプレス機をほうふつさせる四角く真っ黒な石。釣鐘より大きい。


 チェーンで吊り下げられていて、赤いボタンを押せば巻かれて張り詰めているチェーンがジャラジャラ音を立てて重厚な石を落とす仕組み。


 その石が落ちる真下には、人一人が石の下に立てるだけのスペースを残して、周りを剣山が囲んでいる。そこにあっけなく投げ入れられた川口は、ただ、愕然としている。


 隙間なく剣に囲まれている。何度か無謀にも手を伸ばしたり身体をねじ込んだようで、血まみれの身体が見え隠れする。ときどき嗚咽にも似た声を出して痛みを訴える。


「川口君を出しなさいよ」

 私のことは鬱陶しいハエ程度にしか見られていない。

「うるせぇ。俺は一人殺せばここから出られるんだ! お前がスイッチを押せ」


 自分の手は汚さないんだ。なんて汚いやつ。そこまでしてここから出たいのか。みんな出たいのは一緒なのに、誰かを犠牲にして出るなんてできない。


「そんなんやらせたらあかんわ。どうせやらすんなら、うちがやる」

 執行がヤマに向けたナイフを扇みたいに煽って挑発する。

「誰だっていい。早く押しやがれ!」


 ヤマはひるまずに私の傍に来て、そっと呟いた。ほとんど声になっていない震えた消え入る声。確かに口元はごめんやで。と動いた。

「だめだよ。川口君がどうなるか」


「せやけど、このままやったらあんさんが押すはめになる。どっちみちこいつは自分で押すやろな」


 執行は何度も怒鳴る。耳の奥で脈がじんじんと速くなるのが分かる。ああ、フーどうしよう。フーなんとかして執行を止めて。フーは首を傾げた。何で言うことを聞いてくれないの?

「人ヲ救ウニハ、ソレナリノ代償ヲ」


 フーが喋った。何が必要なの。この際何だっていい。何でもあげるからこの状況を何とかして。心の中の叫びはフーに届いた。だけど、フーも私の心に訴えかけてくる。

「命ニハ命ヲ」


 私は一瞬、息を吐いて凍りついていた。フーは何でも私に協力的だと思っていた。血さえあげれば何とかなると思っていた。今までは小さな願いだったから? 


 私は瞬時に、自分の命と川口の命とを計ってしまった。重さの天秤にかけてしまった。それは必然的に。私は彼をどうしても救いたいと切に願うことができるだろうか。私はみんな仲良くここを出ることに必死だった。だけど、それと誰かを救うことは別だった。


 私の思考が濃厚に漂っているわずか数秒の間に、ことは進行していた。ヤマがボタンを押した。噛み締めるように、目はどこまでも伏せて、猫背になって川口にただただ謝って土下座せんばかりで、ついには泣き崩れて。執行が歓声を上げる。


 スローモーションにさえ見えた石の落下。思った以上の振動。トラックが道路を横断したときに感じる揺れに似ている。音はもっと大きかった。血肉がここまで飛び散って、頭からかぶった。石が重すぎたせいなのか、骨が砕けた音はなかった。


 川口が死に、同時にヤマもいなくなった。恐るべきことに、ボタンを押した人間の足元もすっぽりと穴が開いた。落とし穴。ヤマの叫び声は悲鳴ではなく人を殺してしまったことに対しての悲痛な泣き声だった。


「やったぜ。一気に二人。しかしこりゃ危なかったな、自分で押してたら俺が落ちてた」

「最低よ!」


 叫び声はほとんどかすれた。驚きで涙が出る余裕もない。手の振るえも止まらない。さっきまでそこにいた人が一度に二人も死んでしまうなんて。私の自己犠牲で救えたかもしれない。迷っている間に二人は死んでしまった。

「俺は出るぞ! ここから出るぞ!」


 活気づいて走り出す執行。次の部屋に入るなり、鋭い音がした。壁中から飛び出した針に全身を貫かれ、蜂の巣になった。息が詰まるのも何度目だろう。充血した目から、もう涙は零れ落ちるのも鈍っている。


 当然の結果だと心の隅で思ったけど、それを心に長く留めて置くことは嫌だった。まだ川口とヤマのこと、それを見捨てざるを得ない自分とを交互に思考が行ったり来たりする。佇んでいたのは、心が折れたからではない。


 無性に悲しみとどうしようもないやるせなさに襲われた。輪千も息を潜めたまま泣いている。ただ一人、朝月は暗い顔して、行こうと言った。


 これ以上進んでも出口なんて本当にあるのかさえ分からない。これ以上人が死ぬのは嫌だった。嫌だ嫌だじゃ何もはじまらないけれど、何もはじまらなくてもいいと思ってしまう。


「行くってどこへ。そっちの部屋は針だらけじゃない」

「もう引っ込んでるよ。ほら」

 朝月は平然と蜂の巣になった執行の隣を闊歩する。床に塗り広がる血だまり。

「どうして、もうこの部屋は安全だと分かったの?」


「全員を通れないようにするとは思えないんだよ。この部屋は走ったらだめなのかもね」

 朝月はまだ血の噴き出し続けている執行の手からナイフを奪い取った。私は戦慄せずにはいられなかった。


「やっぱりあなたなの。このゲームの犯人は」

 朝月はため息まじりに首を振った。疲れた笑みをたたえる。

「違うよ。俺だってかなりきてるよ。次は俺が死ぬ番だろうから。何とか方法を探さないと」

「あなたが次?」輪千が聞く。


「ああ。ここまで残れたのが不思議なくらい。俺みたいな奴はさっさと消しとかないと後々面倒になると思う。誰だってそう思うさ。


 でもそうしなかったのは、犯人が俺に近い考えを持ってるのかなって。あくまで仮定だけど。誰がどう行動するのか見てる。それを参考に何をするのか知らないけど」


 朝月は執行の持ち物は手紙とナイフだけであることを確認する。手紙は、簡潔に注射器は川口が持っている。生贄を捧げることでここから出られると書かれていた。

 

 朝月が注視したのは、手紙よりナイフの方だった。ナイフの束の部分に不自然な溝があったからだ。刀身が収まるところに薄い穴。ナイフそのものより一周り小さいナイフかカミソリなら入るかもしれない。


「この意味分かる? ナイフは二枚歯だったんだよ」

 最初の部屋では確か、自殺しようと思った川口がこっそり注射器を抜き取って、その次に執行がナイフを取った。しかし今、執行の死体の側に二枚目の小さいナイフはない。


「この中の誰か。つまり、はじめから二枚歯であることを知っている裏切り者が、ナイフの中から小さいナイフを持ち出して、残った大きいナイフを置き、執行が大きい方のナイフを隠し持った。


 執行がナイフを隠し持つことをはじめから計算してたんだろうね。だから今も小さいナイフを誰かが持ってる」


「あなた、じゃないの?」輪千から予期しない攻め立てる言葉が出た。「私は途中で出会ったから、あなたたちが何をどこで手に入れたのかも知らない」


「俺も、途中からだよ。第一、ナイフは君に出会ったときには既に執行君に渡ってたんだから、裏切り者が抜き取ったのはもっとはじめの段階だと思うよ。残りは善見さん。君しかいないけど」


 朝月の見据える冷たい視線。だが、何がおかしいのか少し余裕のある表情を浮かべて訂正する。

「なんてね。やめよう仕方ない。時間の無駄だし。次の部屋で頼むから最後にしてもらわないと」


 朝月があっさりと歩き出したので私と輪千は睨み合うことになってしまった。まさか私が一番怪しいってこと? 私じゃない。そうすると朝月か、輪千が裏切り者? 信じたくないけど、ほかに誰も残っていない。

「駄目だ。真っ暗だ」


 体育館ぐらいはある広い空間。天井の高さもそれくらい。静けさだけが染みていく。三人並んでいたはずなのに、お互いの距離感がつかめなくなっていく。


次回更新 10月13日15時

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