第七章 標零士(しめぎれいじ) 第三部 拘束
文化祭の季節になった。弁当箱に柿なんか入れられて、前から嫌いだって言っているのに嫌嫌、持っている。第一、文化祭に弁当は必要ないだろう。
それに、甚だしいが、俺の学校の文化祭ではない。悪七の学校の文化祭だ。食べ歩きしようと、鶏のからあげと、鶏の軟骨を食べて、持たされた弁当の中身は捨ててしまった。
悪七はどこにいるかと言えば、野外ステージ裏で、何やら大勢に囲まれて楽しそうに話し込んでいる。髪を白に染めているから誰か分からなかった。
目だって仕方ない上に悪七の人当たりのよさの実物をはじめて目の当たりにした気がして、とても近づけなかったから、一人黙々と口の中でからあげを転がす。
カムが不思議そうに俺の首に巻きついてきて、飲み込むときに喉につっかかった錯覚がする。俺は今別人を遠くで眺めている心持がする。それでいて、こっちに優しく目配せするもんだから、不安げに見えないように頭をかいて他人行儀に終止符を打つしかない。
メタセコヤの木陰に入りながらステージの鉄パイプがぎらぎら光るのを睨んでいた。
そういえば、俺の学校にもあるメタセコイヤだが、暇つぶしがてらに調べた花言葉が「楽しい思い出」で、それが学校の中庭に埋まっていることに嫌気が差したことを思い出したとたん、木陰から一人一歩踏み出して、太陽に晒された。ふと、ローズマリーの花言葉は何だろうかと思った。
悪七と線路、ローズマリー、あの場所だけがずっと鍵を握っている。だが、学生の演技前の円陣の掛け声に思考は途切れた。文化祭はすこぶる賑やかで、舞台の周りも各々が好き勝手話すのだが、それが互いに干渉しないのがいいと思った。
授業中の沈黙の中、各々が集中せず喋り散らす中、俺だけが無言のまま散漫になるのはあまり好きじゃない。俺の学校がおかしいだけかもしれないが。
てっきり悪七は吹奏楽部だと思い込んでいた。部活の話はしたことがなかった。
バンドのセッティングになった。ギタリストがまるで意味のない格好ばかりにギターをガンガン鳴らし、俺には突然演奏がはじまったかと思えたがそうではなく、まだ音のチェックだと観客席に自慢気な顔をする。
俺は絶えず睨みつけていると、とうとう悪七がステージに出てきた。まさか軽音楽をやるとは思わなかった。ギターと同じく無秩序な音を鳴らしているベースの横をさっそうと通り越しキーボードにつく。
中折れ帽をかぶってベストを羽織りいつもよりお洒落に見える。金髪黒ピアスのボーカルと申し合わせたように目を合わせてにこりと微笑む様はいつも通りでありながら異様だった。ここで悪七目当ての女ファンがステージに群がって俺の場所からは帽子しか見えなくなる。
前触れもなく激しい音楽が会場を割った。ボーカルのシャウト。それとはどこか不協和音のように響くピアノ。明らかなパンクロック。悪七が優雅に弾く光景ばかり想像していた俺は是非とも最前列で悪七を省みたいと思った。
ただ場所取りをするには遅すぎた。悪七の帽子だけが波のように左右に揺れときどき縦にも揺れるあたり渾身の力で指を鍵盤に叩きつけていると思う。その表情さえ見られたら何も言うことはないのに。
ボーカルが観客を煽ってサビでジャンプが始まりとうとうお祭り騒ぎだ。このときには俺は足でリズムを刻んでいた。
音楽性は悪くないのにあまり好きになれない連中だ。まだ黙々と指をさばくベースの男とは話せるかもしれない。曲はだんだん激しくなり俺は首のヘッドホンを頭にあてがった。
洋楽を聞き始める。悪七の帽子の動きに合わせて聞いてみるがテンポが合わない。仕方がないからゲームのボス戦のサントラでボリュームを上げた。もはや眼前に広がるお祭り騒ぎは俺を疎外するから仕方がない。
その後何曲かやってメンバー紹介が始まった。ボーカルもハイカラな名前を名乗る。悪七はというとアルビノとか紹介された。だから髪を染めてきたのか。
出番が終わっても帰ってこなかったのは、後ろで何やら叫んでいるから、打ち上げムードになっているのかもしれない。全く俺のことなんて眼中にない。
それから十五分はぼーっとしていただろうか。露店で買ったからあげが冷めてしまったころで悪七が三人の友達と連れ立ってやってきた。特に紹介するでもなく、リョウお待たせと呼ばれた。見事に脱色されてしまった髪が、別人になりすぎて近づくほどに違和感がある。
「みんな驚いたって言うけど、またしばらくしたら戻すよ。俺は、代理だったから」
なんだかほっとした気分になる。
「これからみんなでお昼を買ってくるけど」
つまりいっしょに来ないかということだが、俺はあいまいな返事のまま後退してしまった。悪七も分かっていて、三人と行ってしまった。
腰を上げて服についたアリをはらって、ぶらぶら歩いた。校舎内でも何か催し物をやっているが、中に入る気分になれない。第一、一人でぶらついていることが目立つ気がして嫌気が差す。
悪七のバンドのボーカルが慌てて走っている。辺りをしきりに見回して苛ついて携帯を取り出す。
「お前どこにいんだよ。さっきから何回かけたと思ってんだ」
電話の相手が悪七であることを想定してみて俺は笑った。あいつには結局みんな手を焼くだろう。しかし電話の相手は悪七ではない。
「悪七が連れてかれた。早く来い。あぁ? 警察だ。ありゃ覆面パトカーだ。とにかく裏門に来い」言うなり駆けて行った。途中何人か捕まえ同じ言い回しでもって激怒する。
耳を疑った俺は同時に頭からしばらく追いやっていた醜悪な問題に触れ生きた心地がしなかった。うなじを毛虫が這う嫌悪感を抱いた。足がすくみながらも小走りにボーカルの後を追った。
悪七の白い髪が太陽を反射して眩しい。帽子は少しも動じず前を向いて不動だ。両脇に背広の男と私服の男を引き連れて、逮捕現場というよりは悪七が二人を引き連れている。
裏門から出て灰色の車に乗るところで初めて手元が見えた。誰かの上着を手に巻かれている。その下は恐らく手錠だろう。いや、それなら普通顔も隠さないか?
俺の数歩先を行くボーカルが悪七の乗り込んだ車に走りより窓を拳で叩く。その連れは車の進行を妨げようとフロントガラスに石を投げ、一人は道路に寝そべり道を塞ぐ。
裏門から文化祭にやってきた人はこの騒ぎに目を丸くする。居合わせた先生と守衛に羽交い締めにされたボーカルの必死の形相と裏腹に寧ろ清々しいほどの悪七の笑みが見事なコントラストだ。俺は何とか悪七と視線を合わせようと凝視するがあえて悪七は俺を見ようとしない。
口元が僅に心配ないよと動いた。それはボーカルの金髪モヒカン男にやんわりと告げた。
「悪七ー悪七ー!」
ボーカルは興奮して服が脱げかけている。これほどの信望を勝ち得た悪七が満たされない事実が虚しい。またボーカルが俺だったらと重ねてみて尚更胸が痛んだ。
カムなら警察官二人ぐらいの意識なんて容易く狩れるだろう。だが悪七は俺の助けもボーカルの過激な救出劇も望んでいない。静と動どちらも望んでいない。カムが俺の足を伝って熱いアスファルトの上に滑り降りた。
影になってアスファルト上を伸びていく。
「カム待て、駄目だ。絶対駄目だ」
カムが狙ったのはボーカルだ。ボーカルの足元で止まり。ヒラメ状態から身体を楕円形に戻す。守衛と共にボーカルが説教されながら連れていかれなければ危なかった。
俺は厳しくカムを叱って肩に連れ戻した。耳元でカムがどろどろの口でウソツキと呟いた。
文化祭どころでなくなった俺は家に帰って馬鹿みたいに寝た。どこまでも眠りほうけた。悪い夢を見た気がして起きてみたがまた寝てやった。今度はふわふわした夢でカラオケで馬鹿騒ぎした夢を見た。ここ何年か行ってないと思って目が覚めた。
まだ夕陽が沈んだばかりの時刻で部屋の前に夕飯が置かれる音がした。手近にあったテレビのリモコンをドアに投げつけた。何の返事もない。足音もさせず親は去ったと見える。
何もすることがないので宿題と予習をする。悪七のことはできるだけ考えないようにした。逮捕イコール有罪ではない。まだ取り調べやら拘置所に移す手続きがあるだけだろう。
悪七が取り調べで余計なことを言うはずがない。寧ろ警察をからかっているかもしれないと想像してみて俺は忍び笑いを漏らした。そのうち爆笑する。あいつならやりかねない。ただ一つ心配なのはいつ帰ってくるかだ。
悪七が帰って来ない気がした。普通の心理かもしれないが悪七の場合消えるときは文字通りこの世から消えてしまいそうで怖い。このことに思い当たった俺はシャーペンを置いた。一日ぐらい宿題を放棄しても問題はない。
警察署の前を彷徨った。明らかに不審者なので思い直して裏路地に入った。黒い服ばかり着てきたが顔は隠していないし暑苦しい上に動悸が激しい。悪七を救うならさっき連行されるときにやればよかったんだ。あのときなら敵は二人だった。
今じゃ正面から入ったって通してもらえないし、だからってカムを差し向けたところで何人を狩らないといけない?
部屋さえ特定できれば鍵を外すことだけならできるかもしれないが。そこまで考えたがそれも到底不可能なことのように思えて通りへ引き返した。そのとき、誰かの足音が聞こえた気がした。立ち止まると、止まった。もしかして尾行か?
悪七についていたとばかり思っていた尾行が俺にもついているのか。今こうして悪七が捕まったっていうのに、俺は自分の安全のことを全く考えていなかった。振り切ったら逆に怪しまれるから、知らないふりを通した方がいいか。
カムなら相手の顔ぐらい見られるのではないかと思い当たって、半歩振り返った。人影もないところに、電灯がアスファルトを照らしているだけだった。
「ミカエリを使うんならやめときや。俺にも憑いてんねんからな」
蛍光灯の光を反射して光る筋が何本も降り注ぐ。雨が降ってきた。男の姿はどこにも見当たらないが、俺はこれからずぶ濡れになるだろうことを予感する余裕があった。そして、相手は警察でないことも確かだ。こいつが今まで着いていた尾行だろう。
ただ、音沙汰がなかったことと、悪七が側にいたことで俺は安心しきっていた。だが、不思議と怖さはない。俺達だけが特別とは最初から思っていない。
「ずっと俺達をつけてきてただろう。何で今頃出てくるんだ。もっと早くに出てきてもよかったんじゃないか?」
「その理由はあんさんも分かるんちゃうんか? 俺は悪七だけを追ってんやない。あんさんと話したかってんからな。悪七が逮捕された今が、喋るチャンスや」
どこかで聞いたような声だが誰だったか。少年は空から降ってきた。着地は寸分も揺らがず、体操選手よりもしなやかだったが、運動靴が全てを吸収したとしても骨折しないのは、おかしい。
「お前誰だよ」
俺は不快感も露に、カムを腕まで滑り下ろさせた。にんまり笑ったカムはいつでも噛みつける体勢に入る。
「あんさんに助言しに来たんや。俺は標零士や」
輪千の兄、そして悪七の友達。脱線事故で死んだはずじゃ。それに声は間違いなくヤマだ。ヤマの正体は悪七で悪七は今捕っているのに、どういうことだ。
零士は浅黒い肌で、野球部ともサッカー部ともつかぬ顔をした高校生だった。
俺の驚いた顔を見て零士と名乗る少年はおかしいとでもいいようにげらげら笑う。
「なんや、ライのやつ、あんさんには知らせてへんかってんな。あんさんらが、殺したゲームの被害者の血でうちは生まれ変わってん。うちが零士本人かはうちも分からんねんけどな」
「待て待て、一体どういうことだ」
「つまりこういうこっちゃ。悪七はミカエリで人を生き返らせた。まあ、うちの骨は墓穴から掘り返されるわ、皮膚はないわ、で肉片や血やらはあんさんらの殺したの犠牲者の血からちゅうことやな。
ミカエリに払う代償は、命やっちゅーのに、あいつ、他人殺して捧げよったんやわ。それか、ほかに精神面で払う方向で持って行ったか。なんにしろ俺は生まれたらあかんねんけど、なんせ、あいつと、特に巻き込まれてるあんさんの暴走を止めなあかんのとちゃうか思うとゆっくり寝てられへんわ」
がみがみ怒鳴られて、昔のお袋を思い出した。同時に、ぞわぞわと、心のどこかでヤバイという叫びが上がっている。早くこいつを何とかしないといけない。でも、謎が多すぎる。
「お前何でヤマの声なんだよ」
俺の突拍子もない質問に零士は苦笑したが、嫌味はなかった。ヤマよりも好感の持てる気さくな感じがあった。
「ヤマ? あんさん、それはうちのハンドルネームや。別にそれはかまわへんねんけど。真似したんわ、ライの方やろう」
悪七はゲームで最初にシーソーで顔を潰した死体からヤマのキャラ作りをしたと言っていたが、声と喋り方は零士から取ったということか。
俺は零士と話しているのかヤマと話しているのか分からなくなってきた。それ以上に、この唐突に現われた零士を危険視した。
「ゲームのことも全部知ってるのか?」
俺の声は率直さとは裏腹に震えた。零士は目を細めて、見下したように語気を強めた。
「あれをゲーム言うか?」
髪が逆立った。背筋を汗が流れてはじめて震えが来た。
カムが俺の腕にまとわりつく。今に飛び出そうとしているのは俺の心臓の方なのに、カムはやる気満々で、俺が的確に指示できないのをよしとしてにんわり笑っている。
「ま、後で色々知ったんや。俺は零士であって零士やあらへんし、それでも妹の真奈美がおったからな。顔だけは見とかんと。って思ったらおらんやないか。
真奈美の日記見つけて、俺を生き返らせるゲームのこと書かれててん。ミカエリ使ってどこにおるんか調べたら、殺人ゲームが終わった後やったわ。でも、現場は行ったから知ってんで」
いくら隠蔽してもミカエリを持っている人間が調べようと思えば調べられるんだ。じゃあ、今回悪七が逮捕されたのももしかしたら、こいつのせいかもしれない。
「まあ、そんなに驚かしてもしゃあないし、もっと驚くんは最後に置いといて、まず質問でも受け付けよか?」
そのときはじめて俺は激しい怒りに駆られた。何で悪七はこんなやつと親友だったんだろうと初対面なのに嫌悪した。
「そんな目で見るな」
零士の目は決して冷ややかではない。意志の目だ。俺は自分の意志を持っていない。憎悪に振り回され飲み込まれ、ただそれでもいいと思い続けている。
こいつの力強い眼光といえば俺が求める強さでありながら許せない。俺はいかにして射られる射程から外れたものかと睨みつけた。ただ、零士は俺のことを哀れとも馬鹿にするでもない不思議そうな目で見ていた。
「まあ、うちのことはあんさんもおいおい分かるわ。あんさん、悪七の親友なんやろ?」
ここぞとばかりににんまり笑う唇が俺を嘲笑した。俺が悪七から何も聞き出せていないことを知っている。
「ライが人殺しになったんわ、あんさんのせいでもあるやろ」
「お前、俺が悪七を止めるべきだったって言いたいのか。あいつは、あいつのやりたいようにやる。俺もそうだ」
俺は責任逃れをしたいわけじゃなく単純に俺達は自分のやりたいことをやるべきだと思った。悪七を止めることは誰にもできないという観念はどこか頭の隅にあることはあった。零士はまだ悪七のことを親友面して考えていることが腹立たしい。
「せやせや、忠告しに来てんで、ライに巻き込まれてんのは、もしかしたらあんさんなんかもしれへん思うてな」
「俺は好きで悪七のゲームに参加してる」
「ほんまにそうなんか? だってライのやつ、ゲーマーに成りすましたみたいやないか。うちは大阪弁やけどゲーマーやないで、もしかしてゲーマーのモデルってあんさんかもしれへんやん。
いや、もっと悪う言うたらあんさんに、罪をなすりつけるためにゲーマーのふりしたんかもしれへんやろ」
今までそのことに思い当たらなかったのは、悪七のことを信用しきっていたというより自分の身の安全の位置がカムによって確保されていたからだろう。
俺は警察や事件発覚を恐れている反面、その怖れそのものをカムの存在によってうやむやにしていた。そこへ思い当たったことよりも、厚かましくなってきた零士に何か言い返したい気持ちの方が勝った。
「お前こそどうなんだよ。警察署の前で俺を見つけたってことは、悪七が捕まってることも知ってるってこどだろ。お前が警察に悪七を売ったんだな」
「いや、うちは何も話してへんわ。驚かしたろ思うてたことやけど、まあこれが悪七が捕まった原因やわ。うちの妹、輪千真奈美の死体やけどな、ちゃんと処理しきれてなかったで。
溶けてた指が出てきたんや。何やトラブルでもあったんか? ミカエリに死体の処理任してたんやろどうせ。それともミカエリがわざと処理しきらんと、残しとったんかもしれへんな」
輪千の話題にきて、零士の毒舌は一層増した。妹が死んで悲しいといった感情はもはや通り越し、俺と同じ目をしていた。鏡を突き合わされた。
ただ、零士の瞳には明らかな輝きが認められた。これから、俺達はこいつのために裁かれるのかもしれない。零士は喜びこそしないが、俺達を止めることに義務を見出している。
再び生き返った人間がどんな心情でこの世を歩き回るのか知らないが、何かしら強い意志を持つように思う。
「お前は俺達を破滅させたい。そうだろ」
俺が怒り心頭に罵ると、とうとう土砂降りになった。
「あんさん、破滅を怖れてんのか?」
「違うな、間違ってた」
俺は自問自答する。怒りってのは他の感情より特殊で、ずっと染まっていたくなる色をしている。このままでいて何が悪い。怒りが枯渇しそうになると飢えさえも怒りに変える。
矛先は執行がいない今でも執行と同じ人種に向いている。唯一の指針は悪七だけだ。悪七と比べたくなるのは決まって沈黙の時間だ。悪七は怒りを通り越して悟ったのかもしれない。
この世界の虚しさを。だとしたら俺の未来は悪七だ。悪七から教わらないといけない。俺に何が足りないのかという愚問には答えてくれないだろう。どうすれば悪七になれるのか。
復讐に全身全霊を捧げてミカエリに命を払っていくことはもしかしたら人類が一度は皆望んだことがあるはずだ。悪魔が魂を差し出せと言えば自分の努力で成し遂げることができるはずの簡単なことだって悪魔の力を借りてみたくなるだろう?
俺達は実際にそれができる数少ない人間だ。
それを弱い人間だからとか幸薄いとか言わせない。悪七だって俺と同類だから世界から切り離された感覚は察しているはずなんだ。人の不幸を願いながら生きて何が悪い。
どん底で這って何が悪い。上を目指さないで何が悪い。死んだまま生きて何が悪い。救いなんていらない。ずっと誰かを呪っていたい。憎んでいたい。殺し続けたい。そして早く誰か殺してくれ。
そこまできて、俺は思考を止め、考えすぎだと思った。これでは川口流みたいなものだと思った。
「俺はずっとこのままでいたい。何も変わらずにいることが俺の目的で、破滅が憎悪の結果だとは思わない。憎悪は、どこまでいっても憎悪だ。
それで俺は身を滅ぼしたとしても、やっぱり憎悪があるだけだと思う。俺はそれでも満足だ。それ以上目障りなことを言うと、喰うぞ」
カムは舌をちろちろと蛇のようにくゆらし、丸い瞳がきらりと光る。雨はゲリラ豪雨のごとく激しく降りつけTシャツは絞れるぐらいに濡れている。雨の鬱陶しさにも増して零士を排除したい気持ちは先を行った。
カムが零士の足元に影を伸ばしたのは必然のことだ。全身で針になって零士を貫くかに思えた。突然甲高いオートチューンを使ったような声がカムの前に立ちはだかる。
零士の中から亡霊のようにすっと現われたのは人ではない人型の何かだ。身体は人であるが、真っ白のワンピースを着ていて素足のままで、顔は光を放っている。眩しくてかろうじて唇があることぐらいしか特徴が分からない。
人ではないが、唇から発せられる奇怪な歌がカムの針をぶよぶよに歪める。
俺も耳を塞いだ。人が出せる声ではない耳を切り裂く音。結局カムは伸びきらず折れ曲がって、ぽんと転がり戻って、俺の足元にべちゃっと水溜まりに塗り広がった。ヒラメのような身体にされたカムは離れた二つの目をぱちくりさせる。
光が収束していき、露になった白いワンピースの少女の顔は、零士のミカエリは、輪千真奈美の姿をしていた。メガネを外して、黒い艶やかな髪でいささか、こんなに美人だったかと疑うが、透き通る瞳が顔の所定の位置に来るには周期がある。
顔はパズルのピースのようにばらばらで流動的に変動しているからだ。顔のパーツが正面でそろったときに、輪千真奈美と分かるのだが、その顔もプロジェクションマッピングしたみたいに火や電車や線路が映ってすぐに表情は見えなくなる。この光景は輪千が目に焼きつけた光景だ。
ミカエリが人型であることに驚きはない。だがどうして輪千真奈美なのだろう。
俺が言葉を失っていると、零士が苦笑して、鼻をさすった。
「ライが俺を生き返らせてんから、俺やってできるわ。でも、見てみ。真奈美には魂なんてあらへん。これがミカエリや。
あんさんやって、いつか痛い目見るで。こんなもんに頼っとったら。特にライは俺の忠告なんて聞きよらへんからなぁ」
ミカエリは輪千を生き返らせることを、自らが輪千に変身することと取り違えたのか。それともわざとなのか。顔に映る脱線事故の光景は輪千にも代償を要求しているようにも見える。
いずれにせよ、これだけで代償はすまないだろう。俺は悪七が零士を生き返らせたことを偉業のごとく捕らえた。例え、零士が敵だとしても。俺は思わずほくそ笑んだ。
悪七のことを知り尽くしている零士でさえ、悪七の存在価値の大きさを認めていない。まるで俺達のことを愚者だと思っているのが甚だしい。
カムは足を生やし元のウーパールーパーに戻った。トカゲになって、尻尾も二つに割れる。
「容赦しないぞ」
輪千真奈美の姿を八つ裂きにされても文句ないはずだ。ミカエリは零士に輪千の姿が傷つくのを代償として見せるだけだ。
カムは突然糸のように細く、ばらばらに広がり、輪千に絡みついた。さながら竜巻を絵に描いたようだ。糸の一本一本は針金のように鋭く、ミキサーにかけられ粉々になるのは請け合いだ。
輪千は全く動じる様子もなくただ、白い顔を更に煌々と光らせた。唇が、難しい英語の発音をするように歯茎を見せて歪む。空気が縮むような耳障りの悪い、こするような機械音が響く。
人の口からとても発せられるはずがない音だ。気持ち悪い音に俺は耳を塞ぐが、塞いだところで鼓膜そのものがどこまでも振動して頭が痛い。カムの糸がまたもや超音波にでも当たったように波打ってばらばらと螺旋状から解けていく。
触れさえすれば意識だって奪えるのに、俺は獲物が思うとおりに動かないことに腹を立てた。おまけに頭も痛くなってきて吐き気も催してきた。
「カム。好きなようにやれ」
俺はナイフを袖から取り出し、包帯の上から傷口をえぐった。これでカムには前払いで代償を払った。後は好き勝手暴れろ。
カムは糸のまま俺の腕に巻きついてきて赤々と光って、血をまとっていく。球体になり、ウニ状の棘になる。俺はそれを素手でつかんで投げた。もちろん手に刺さって吹き出た血も全てカムのものだ。
輪千は一息吸う。口から上が、またパズルのように回転しはじめた。上ずったまま、甲高い悲鳴のような金属音を出す。カムが見えない衝撃波とぶつかり、こっちに飛んできた。
「あっぶね」
カムは避けなかった。そこまでまだ知能がついてないのか、それともなるようにしかならないのか、俺の脇腹をかすめて裏路地の壁にのめり込んだ。蜂の巣のような痕をつけて、ごろんとハリネズミのように落ちる。
いたって本人はけろっとして舌をちろちろ出したが、俺は苛々してカムの針が収まったら、踏みつけてやろうかと思った。
「あんさん、今ので分からへんか? そいつは攻撃に特化してもうて、あんさんのこと守らへんやろ。ミカエリっちゅうんは、そんなもんや」
「ああ。俺のことは守らないかもな。でもとにかくお前と輪千を消せればそれでいいんだよ」
本当は消すなんてもったいないことはしたくない。俺はカムに精神を喰わせてやりたいんだ。人が本性を失くして徘徊する姿が見たいんだ。
カムは水のカーテンとなって覆いかぶさった。
「無駄やって」零士がそっけなく言う。カムのカーテの真ん中に破裂音と、穴が空く。輪千の顔は激しく回転し、唇しか見る影もない。俺がそれを目視した瞬間、鈍い衝撃で俺は後方に吹き飛んだ。ライブハウスで最前列でベースの重低音を食らった衝撃の何十倍も重かった。
不思議と痛みよりもひっくり返ったときに見えた雨雲の合間の漆黒の夜空が綺麗だった。
湿った瞼を開くと雨はまだ続いていた。口の端にアスファルトから跳ねた砂がついていて、つばを吐いた。一瞬意識が飛びかけた。
カムは俺の背中の上で、でろんと垂れ下がってのん気に首を傾げている。憎々しげにカムを見上げると、ぶよぶよの腕で俺の頭を撫でようとするのでその腕を払った。っといっても、カムの腕は霧になって触れられない。足を踏み鳴らして立ち上がる。
カムは足を滑り降りて、水溜りに混じって零士の影を踏む。呼吸で肩がわずかに動くことさえ許さない金縛りに、さすがの零士も驚いた顔を見せる。ミカエリの影は踏めないが、零士の動きを止めた。だが、これも輪千の奇声で台無しだ。
あっちの攻撃は、形のない分、目に見えない。カムは素早く輪を描いてナメクジの姿で飛びのく。カムはそう、やわな攻撃じゃ消滅しない。どこが弱点か知らないが、急所は伸びたり縮んだりして自分でずらして外せる。
黒い帯状になって輪千の動き回る頭をすっぽり覆う。やはりというべきか、輪千の意識を奪うことはできないが、視界は奪った。ただ、むやみやたらに金属の悲鳴を上げられてはこっちの耳もおかしくなる。
だが、零士は俺を殺す気はないらしい。俺だったら耳から血が出るまで大音響を響かせてやるのに、それをしない。
カムは尻尾を伸ばして零士の首に巻きつけた。が、それを歌声が真っ二つに切り裂く。
カムの二本あるうちの一本の尻尾が落ちる。帯も歌の衝撃波で、びりびりに破れ、カムは仕方なく輪千から離れ、散った。尻尾のところに寄せ集まって、トカゲの姿をとる。
「あんさん、なかなかしつこいな」
「お前だって、本気じゃないんだろ。うっとおしい」
俺はゲーマーだから勝ち負けをはっきりとつけたい性分だから、じれったいのは我慢できない。カムの質量を増やすしかない。血だ。とにかく血だ。ナイフを腕に突き立てる。
見かねたかのような困った顔をした零士が、嫌々怒鳴った。
「真奈美。終わらせんで」
輪千の顔の回転はフルスピードでミラーボールのように激しく光る。輪千の口からまさかレーザー並みの切れ味が飛んでくるとは予想外だった。
戦慄と痛みは同時に稲妻として走った。口から泡の混じった鮮血がほとばしる。視野が黒澄んで、危うく零士を見失うところだが、意識はどくどくと流れる血に集中して何とか落とさなかった。血と意識さえ最後まで握っていれば全てはカムが片づけてくれる。
流れ出た血を無駄になどするものか。全てカムが舌で掃いてはぺろりと喉に送り込む。カムが比例してむくんでいく。
そうだ一滴も無駄にするな。全て復讐に変えろ。カムは熊みたいに大きな身体になった。
背中から背びれともたてがみともとれない棘が生えている。つるつるの頭と相変わらずの顔で、スナメリみたいに愛嬌がありながら体格だけ猫背のゴジラだ。
また成長した。にんまり笑った歯茎からは人間の歯が覗いている。牙じゃなく人の歯が生え揃ったことで不気味さも増した。
「待ってリョウ」
血まみれの俺と、何食わぬ顔をしている零士の後ろから穏やかな声が投げかけられた。零士がわきに半歩寄る。雨水を散らした銀髪。ずぶ濡れで火照った俺達とは対照的に、涼しげな表情で微笑みかける。
「取り調べから抜け出してきたんだ。大丈夫。あれじゃ、証拠不十分で釈放されるのも時間の問題だよ」
アルビノ姿の悪七は見慣れないのと、安堵したので自分でえぐった左腕が雨に染みるのをやんわりと感じた。
「何でうちが来てんのが分かったんや。うちが来ーへんかったらしばらく捕まっとく気やってんやろ」
明らかに零士はうろたえていた。悪七のいないときに俺と会うことが目的だったようだ。
「零士を気取るのはやめて欲しいな」
侮蔑の態度で一歩歩み出た悪七に、零士はただ口を閉ざした。
「死んで混沌に落ちると魂なんて概念がなくなって大地とか自然とか色んなものと混ざるのかもしれないね。君も自覚があるんじゃない? 君は零士であって零士じゃない」
「こっちこそ零士やいうて、あんさんの友達でおるのは願い下げや。生前の記憶かて今はどうでもええねんからな。でもそれが何や。俺は好きなように生きてんねん。
前と変わったとか言われても分からんし、俺にとって生前のことなんて過去や。別人格になってたって別にええやんかってわけで」
確かにミカエリの所業によって生き返ったのなら、ミカエリの天秤はやや傾いているから、まともに生き返らなくても不思議はない。五体満足に蘇生できただけで奇跡であることに間違いはない。零士本人も与えられた生をどう生きるか課せられた――。
ただ生前と別人格かどうかの判断は生前を知る悪七にしか分からないことだろう。蘇生して、魂が異なるということがあるのか俺には分からない。零士は自分で自分のことを分かっていない節がありながら、その堂々たる存在感にヤマと同じコミックリリーフが健在だ。
そして、零士が敵対し零士であるのに零士ではないことも含めて悪七の受ける代償だ。
「うちは、あんさんの望むようにはなられへんわ。生前の記憶はあんねんけど、記憶のまんまに生きるつもりはないんよ。せやけど生前の零士がやろうとすることに、うちも賛成してんねん」
「俺を止めること? 義務じゃないでしょ」
零士は跳ね打つ雨にまつげを逆らわせて目を見開いた。威圧的に、核心をつく。
「ライが無差別に殺意を振りかざしてんのはうちを殺されへんからやろ」
悪七の瞳に一瞬かげりが見えた気がしたが、すぐに眉根を寄せて言い返した。
「俺が生かしてあげてるって分からない?」
「ちゃうな、あんさんはうちを今すぐに殺さんのは、うちが思い通りにならんからや。うちに何を期待してんや」
悪七はため息混じりに失望を込めて伝えた。どことなく微笑んだままだ。
「本質は変わってないのにまるで別人だね。再会じゃないな。まるで初対面だよ」
零士も話してもらちが明かないことが分かったのか、悪七から目をそらし、まだ顔面のパズルが回転している輪千を哀れむように見つめる。
「まあええわ。話したないんなら。あんさんには言ったで、言うことは」と、再度忠告するように俺を見る。悪七にはこれから何も言うことはないという態度で背を向けた。
俺達は後ろから襲うこともできたのだが、悪七が早々に、きびすを返した。もう眼中に零士のことはないといった様子だ。実際はどうだったか、雨音の中で俺には察しがつかない。悪七の濡れてしなびてしまった銀髪が目元を隠して何の表情も見えなかった。




