第一章 手馴れた手なずけ
骨つきのフライドチキンをコンビニで、無性に買おうと思い立ったのは夜風の肌寒さのせいではない。俺の背にはのっぴきならない忌々しいものがしがみついているからだ。
ぶっきらぼうに店員にフライドチキンを注文する。金を払うなり包みから取り出してかぶりつく。肩にいる黒い影が俺の腕まで滑り降りる。影が脇腹をさすったりして、しつこくねだったとき、昨日風呂に入る前に自分の姿を鏡で見たときのことを思い出した。
俺ときたら削り取られたように腹はやせ細り、内臓が本当に入っているのか疑わしかった。ついでに目も覗きこんだときには見慣れてはいるのに、どんよりくぐもった光沢のない漆黒の瞳に出会う。
俺のことを何からなにまで知っているくせに。
不快にさせられた腹いせにフライドチキンを骨までしゃぶっていると、白い街灯に照らされて鳥肌から一本生え残っている鳥の毛が見えてむしゃくしゃした。
毛を摘もうとしても油でべとべとになった手はたった一本の毛も上手く抜くことができない。癇癪を起こしそうになる。まとわりつく影が鋭い切っ先でフライドチキンをえぐった。別に満足というわけでもなかった。当然だった。何かにつけて余分なものは排除したい衝動に駆られていた。これはよくあることだ。
例えばこんなことがあった。塵とりがいっぱいだったらゴミ箱に捨てる。俺の場合それがゴミでない場合でも起こった。
その不思議な衝動は、あるときは部室で買いだめにされた新品の鉛筆なんかを、見るに見かねてゴミ箱に投げ込んだ。それが突発的な無意識でやったことなので、すぐにゴミ箱から拾い出せばいいことだったのに、そのときはそのまますぐにゴミ袋をとじて証拠隠滅まで図った。
あのときよりも状況は最悪だった。肩にぶつかった赤の他人を手当たりしだいに殴りたい衝動と言うのがそれに近いが、決して殴りはしなかった。
俺の肩の影は全身真っ黒で、水に濡れたような、ぶよぶよして、黒い目玉が随分離れたウーパールーパーといったいでたちで、とても男のペットとしてはどうにもおさまりきらない可愛さときている。もっとこいつが野獣じみていたら、出会い頭の人間を次々に殴っていただろうに。
人々には一切姿が見えないこの黒い生き物は、生き物と呼べるかも曖昧だが、カムと名づけている。というのも、こいつは、ちょっとやばい代物で、俺の飼っていた猫のカムパネルラを殺した張本人だからな。
カムがまだちゃんと開きもしないどろどろの口を開けて俺の腕を狂おしそうに舐め回した。
「昨日喰ったばっかだろう」
独り言のように聞こえるだけなので、小声で話しかけた。カムは子供のような手で、指は針のように尖っていてその指で幾度となく俺の腕にひっかくようなそぶりを見せる。
それでも、俺が無視し続けると、首まで這い上がって、うなじを何度も短い尾でなでつけた。忌々しいくも、狂おしい、ぞっとする感覚がもうやみつきになっていた。こうなると立ち止まるか、家に帰るかして人前から消え去って、この快感を自分一人のものにしたくなる。人前にいると青ざめてしまって困る。
遠回りしようか。そう思い立って脇道へそれると、隣のクラスの男子が酔って騒いでいるのが目に入った。俺の嫌っている一人だった。そう、いつかは消してやりたいと思ってやまない男だ。彼女と酔ったままゲーセンに入ろうとしている。
何とかして彼女から引き剥がしてやりたい衝動に駆られた。いじめられたからやり返すような単純な感情からじゃない。衝動ってのは、結局つまらないいさかいが積み重なって、糸が切れる瞬間のことを言うのだと思う。
すでにカムが動いた。肩からそっと離れ、ふわふわと彼女の肩まで飛んでいく。彼女の肩にその手が触れた瞬間、彼女はぎょっとして全身が凍るような感覚を覚えたことだろう。そして、悲鳴を上げて逃げ帰った。
「おい、カム。姿を見せたな」
ときどきこういう間抜けなまねをしてみせるのがカムの欠点だ。俺がイラつくと思ってわざとやっているに違いなかった。
彼女が逃げ帰ったことで、面食らった男は彼女の後を追い、一瞬俺に目を止めて、「狩集?」と俺の名字を口にしたが、確認している暇はないとばかりに目を反らした。このわずか一秒たらずの視線は、激しい憎悪をかき出させた。このまま行かせない。俺を無視することなんて学校だけで十分だ。
カムが、足を捉える。正確には影を踏んだのだ。カムに影を踏まれた人間はその場から動けない。そして、触れられた人間は寒気を催し、精神が蝕まれていく。そうだカム。
そいつを廃人に変えろ。今日は特に怒りを込めてそう念じた。
カムの鋭い指は男の喉に食い込んで、カムのつぶらな瞳は煌々と輝いて見える。男は口をぽっかり開けて、呻き始めた。
今日の悪夢は極上の味だろう。わずか一瞬で人を廃人に変える力は想像を絶する。道端で声を張り上げ、頭を抱えて喘いでは、カムのいる首の後ろ辺りを自分の指でかきむしったときは最高傑作だった。
行き交う人々は近くのパチンコ屋の音でまだ誰も気づかない。男のちょうど向かいに歩いてきた男性が異変に気づいたが、おぞましい光景を目にした男性も寒気を催した。そして、ついにもがき苦しむときは終わり、紙くずや、広告のチラシのゴミの上にどうっと倒れ込んだときには何人か悲鳴を上げた。
救急車を呼ぼうとする女性の脇をすり抜け、待ち合わせ場所の公園に向った。
「リョウ遅かったね」
悪七ライと会うのは一週間ぶりで、まだ数ヶ月のつきあいだ。俺と同い年で別の高校に通っている。細身で、俺より五センチほど背が高く、血行のいいふっくらした頬に大きな目がいかにも好青年で、透き通る茶色の瞳にやわらかい物腰は人当たりのよさがいいだけでなく、女性に好かれそうだ。
「本当だ。五分も遅れたな」
軽くわびると、悪七は遅れた理由が何であるか悟って口元をほころばせた。
「また狩ったんだね」
俺達の間では人を廃人に変える行為を「狩り」と呼んでいる。名づけたのは悪七で、もっぱら悪七にとって俺の行為は無差別殺傷事件とさして変わらないそうだ。だけど、俺の狩りは復讐だということをどうやっても上手く説明ができずにいた。
「俺だって、そんなつもりはなかったんだ。むしゃくしゃしてて。でもいつもの苛々した感じと違うんだ。別に言い訳したいんじゃない。俺だって抑えが足りなかったのは自覚してる」
悪七は俺の肩でなまけもののようにぶら下がっているカムを見やって、妖艶な笑みを投げかけた。悪七だけには腹が膨らんで眠たそうなカムの姿が見えている。
「もちろん。俺も怒ってるわけじゃないよ。ただ、同じ学校の生徒が二人正気を失って精神病院行きになってるし、手を抜いても、泡は噴いちゃうし、一番ましな人でも一ヶ月は寝込んでる。そろそろ警察も動くんじゃないかな。もっぱら警察はいじめ問題で介入してくるだろうけど」
俺はそんなことちっとも気にしなかった。何故って、俺は暴力を振るったわけじゃない。精神的苦痛に対して精神攻撃で迎え撃っただけなのだ。
「いじめはねぇよ。他の奴らと合わないから誰とも口を聞いてやらなかっただけだ」
「そうは言っても、先生はリョウのこと気にしてると思うよ。だっていつも学校で一人なんでしょ?」
全く、悪七は俺と違う学校だというのに、まるで見てきたようにものを言う。俺の学校は普通の高校で、悪七の通っている学校は医療系で特進コースだ。
「そういう憐れみが一番むかつくって言ったよな」
冗談半分に睨むと、悪七は無邪気に笑って謝った。
「ま、これから気をつければいいよ。問題は、俺たち以外にミカエリの存在に気づいている人間がいないかってこと」
ミカエリも悪七がネーミングした、カムのような一般の人の目に見えない生き物のことだ。俺もカムの正体を知らない。まず生き物ですらない。食べはするのに排便はないし、息をしてるのも聞いたことがない。心臓の鼓動も皆無で、温もりもない。
カムにあるのは目と、どろどろの口と爪、尻尾、冷気。さながら悪魔の容姿だ。だいたいカムは自分で歩くということをしない。カムは這うか、伸びるかして遠くのものを取る。伸びるっていうのは文字通りで、カムの身体が水だと考えればいい。
質量の分だけカムは針のように細く長く伸びることも可能だった。ミカエリという名前の由来は文字通りカムが見返りを求めるからだ。だが、このときはまだ、何故悪七がミカエリと名づけたのかをちゃんと理解していなかったのかもしれない。
カムは半年前に拾った。一方悪七のそれは物心がついたときには側にいた。背中にぴったりと貼りつき、尖った耳がちらちら見えた。悪七はまずミカエリに名前をつけるようなことはしなかった。十七年も共に暮らしているというのに。
「こいつ」とか「これ」とか、相棒でもなくペットという仲ですらない。完全な主従関係にあった。悪七はミカエリが求めたものに対して何も払わなかった。
それ以前に悪七もミカエリに何も望まなかった。よって、ミカエリはいつも飢えていた。恐ろしいことに悪七のミカエリは十数年の歳月の間、何も食べずにいるらしい。一方俺はどうかというと――。
腕に痛みが走る時間だった。カムが俺の左腕に鋭い爪を立てて、まだかさぶたにもなっていない、ぐじゅぐじゅの傷口を更に深くえぐった。もう十八本目の傷になる。そこからまだ、はっきりと形が整わない、だらだら垂れる口を詰まった排水溝のような音を立てて開き、血をすすりはじめる。
ちょっと顔をしかめてしまったので、悪七は興味深そうに尋ねた。
「リョウに俺のこれをあげたいよ」
「よせよ。カムで手一杯だ。お前こそ断食はいつ解いてやるんだよ」
悪七のミカエリは悪七の肩に乗るのも遠慮気味で、そろそろと小さな手を震わせながらやっとのことで肩に上り詰めた。リスを思わせる姿で、もし太陽でも浴びたら吸血鬼のように焼け死んでしまうのではないだろうかと思う白い胴体。
身体は痩せ細っているが、尾は太り、尾に全部栄養がいったような不恰好さ。器量のいい悪七の家来としては物足りないことを本人も自覚しているいでたちだ。いつも喘いでいて直視するのも躊躇われるほど哀れな姿だった。
もし毛があるのだとしたら全部抜け落ちてしまったに違いない。触らせてもらったことがあるが、手触りはカムと同じく泡石鹸に手を突っ込んだようなものだった。
「できるだけこいつに頼りたくないからね」
悪七に小馬鹿にされているような気がして心外だった。悪七が俺より頭のいい学校に通っていることを知っているし、もっと悪七と仲良くなりたかったからなお更だ。何よりミカエリのことで悪七が声をかけてくれなかったらカムをどうしたらいいか検討もつかなかった。
「でもゲームはするんだろ? 今週中には。いい加減、そいつの能力教えてくれよ」
悪七のミカエリのことは何も知らない。断食を解くときこそそいつの能力を使うときだ。俺はまずそれが知りたくてうずうずしている。悪七の考えるゲームとやらを実行に移すまで全てはお預けなのだ。俺も引き下がれない。自分の犯罪性など今まで気にしたこともないが、さすがに悪七の考えにただならぬ気配を感じているからだ。
「つまらないことだよ。本当に。それよりリョウはむやみに狩らないでって言ったのに」
「問題ないだろ。誰も見えないし」
「ゲームの参加者をこれから狩れるんだから。楽しみはとっとかないと」
悪七の一杯食わせるような微笑が気に食わなかった。だけど、悪七のミカエリの本領見たさにゲームをすることは決定事項だ。それに温厚な悪七が何をするのか気になる。
「そっちも明日からテストだろ? 勉強しなくていいのか?」
「ここに来るまでに暗唱しながら来たから。いくらでもどうにでもなるよ」
俺は羨ましく思い苦笑して別れた。俺も明日からテストだけど勉強は昨日やってほったらかしたままだった。
朝からからっと晴れていた。一限目のテストは思いのほかはかどって、無事に終わった。次のテストの勉強より昨日の男の様子が知りたくなって、隣の教室まで覗きに行ったが、いなかった。
黙って覗いているとテストのできがどうだったかといったクラスの会話といっしょに彼の噂が聞こえた。何でもテスト中にぼーっとしていて先生に怒られたが返事もできず、意識も朦朧としていて帰宅させられたみたいだった。こんなことは一度もなかったことだと誰もが驚いていたし、例の正気を突然失う病気だと冗談半分に笑われていた。
友達にもそんな希薄に扱われてなんてつまらない男だろう。でも、全て俺がやったという密かな喜びを感じた。きっと死人の目をしていつもと同じ行動をするが、そこに感情はなく、鬱状態になっていても身体は普段どおりの行動を取るという恐ろしい魔術が作用して登校してきたはずだ。
さすがにテストまでは持ちこたえられなかったかと、俺はほくそ笑みながらまんざら退屈でもないさ、といった顔を作って立ち去った。二限目のテストはどんな顔をして下校したのかという考えでいっぱいで、ろくに見直しもせずに提出したのであまりよくないできだったかもしれない。
テストはたった二限だけだったので昼にはもう家路についた。いつも通る桜の並木道は夏に近づいて青々と茂っている。道路の真ん中でのんきな毛虫が這っていたから危うく踏みつけるところだ。カムがどろどろの口という亀裂をもぐもぐ見え隠れさして、腕にへばりついている。
こいつに体重という概念がないからいいものの、あったら毎日邪魔だろうな。俺は独り言が奇妙に聞こえないように注意しながら話しかけた。
「昨日喰ったばっかだろう」
すると初めてカムが何ごとかを話した気がした。一瞬、空耳かと思ったが、カムはもう一度黒い目を輝かせて言い放った。
「おなか」
「お腹がすいたのか。早いな」
正直こんな会話が成り立つ日が来るとは思っていなかった。カムは成長しない生き物だと思っていた。いわば幽霊といっしょだ。
今度は口の周りのぶよぶよの皮膚が垂れてきて上手く声にならなかったが、カムは明らかに成長している。そして日に日に食欲も増していた。少なからず危惧していたことだがミカエリは必ず俺に求めている。
まだ何も狩っていないのに血をやるわけにはいかない。俺はまたむしょうに苛々してきた。悪七の言うとおり今は行動しないことが大事な時期だ。甘い菓子を食べると余計に苛々するというとおり、最初は甘い狩りもあとには苛々が募ってくる。
今日は誰も狩らない。そう決めた。ただ悪七のすすめるとおりにするというだけじゃなく、俺にはその無闇というのが気に食わなかったからだ。俺はちゃんと標的を選んでいる。それが悪七にも分かってもらえたらいいのだが。
つまらない考えはもうやめにして、閉まりかけた踏み切りに小走りで駆け出したとき、小さないざこざが見えた。
踏み切りには間に合わず遮断機が完全に下りてしまった。その踏切内で四人の男が一人を囲むようにして凄んでいた。胸を突かれてバランスを崩すもそいつは全く動じていない。
その態度が相手の怒りを買い、とうとう殴られた。踏み切りを渡りきったときにそいつの顔を見て唖然とした。悪七だ。本人は殴られたことにも疎いような、どこか取り澄ました顔のままじっと線路に横たわっている。電車の音が近づいてきた。
男達は去りかけたが、悪七が人を小ばかにしたような嘲笑を放ち、何事か口にした。頭に血が上った一人が線路に残って悪七をまた殴るが、悪七は何もせず相変わらず呻きすらせずに微笑を浮かべる。仲間達が電車に戦いてずらかる中、二人は線路で絡み合ったままだ。
「何やってんだよ」
悪七が反撃に出ないことにとうとう俺は我慢できなくなった。電車が何度か唸る。電車がブレーキをかけるかというとき、俺はカムをけしかけた。
といっても俺はとっさの判断で、カムに何ができるか知れない。それが分かってか、悪七はさっと男の拳をかわして線路から飛びのいた。カムは取り残された男に実体化して体当たりして弾き飛ばし、間一髪男を救った。
カムが実体化して触れられるということに驚いたが、何よりも後味の悪い結末、男に触れて廃人にして男だけが電車にひかれるということを想像していたので、何より安堵した。そんなことになっていたら俺は今頃生きた心地がしないに違いない。
男はカムの姿を一瞬だが認めたらしく腰を抜かして奇声を上げて逃げ帰った。俺は急いで悪七を連れて、人気のない場所へと急いだ。カムの姿が他の人間にも見られたと思ったからだ。
「死ぬとこだぞ。何でミカエリを使わないんだ」
悪七は涼しい顔で歩き出した。
「自分で自分を追い詰めてみたかったんだよ。この(、、)場所(、、)でね」
どういう意味だろう。あの場所、つまり踏み切りに何かあるのか? 悪七は、踏切の先の植え込みを眺めているが、そこにはローズマリーが植わっているだけだ。
「リョウがもう帰って来る時間だと思ってね」
飲み込めないでいると、悪七は口元を拭いながら口元を吊り上げた。
「俺は馬鹿な真似がしたくなるんだ。こっちからけしかけて、わざと殴らせたのさ」
こんな手の込んだことまでして、どういうつもりだ。俺がカムを使って助けるのも分かっていたのか。
「試したんだよ。ゲームをやる前に、やめるなんて言われたら困るから」
「そんなこと言うわけがないだろ? 信用してなかったのか?」
「そうじゃないよ。ただ、リョウはやっぱり本当は手を汚すってことができないんじゃないかと思ってね」
「ってことは、やっぱりお前が考えてるゲームって誰かを殺すってことか?」
呆然としていると悪七はいつもの微笑を浮かべて俺にそっと囁いた。
「悪かったよ。別に狩ってくれてもいいから。証拠は残らないんだし。そう、俺達二人ならね」
俺達二人ならという言葉が耳について残った。悪七が危険なことをやらかすのは確実だ。そして、その証拠を隠滅する方法も考えてあるのだと。頭がぐらぐらする思いがして呼び止めた。
「これから昼飯行かないか? もう少しぐらい詳しく聞かせてくれてもいいだろ?」
軽い返事で承諾されて、内心むかついた。悪七は肝心なことは何も言わない。近くのファーストフード店でチキンナゲットだけを注文してさっそく、がっついた。そうすれば残念な凹んだ腹に腹筋がつくような気がした。
窓際の席に陣取って悪七は、通りを行き交う人を眺めて俺とは視線を合わさない。昼食らしい昼食も取る気はないらしい。こうなると俺から切り出すしかない。
「ゲームの参加者はお前が集める。そこまではいい。で、俺は必要なときにだけ動けばいいって言ってたけど、俺がする役目は何だ。狩りなら自分で獲物を選ぶって言ったよな」
アイスティーにミルクを入れ、悪七は感情を表に出さず声を潜めた。
「じゃあ聞くけど。狩りって何? 他人の人格を消すこと?」
「カムが付帯するのは『狂気』だ。触れたら最後ってだけだ」
俺が忌々しく説明していても悪七の含み笑いが、余計にことを荒立てる。
「確かに特定の人間には俺は良心なんてものがないかもしれないけど、そんなの誰だって一回くらいは考えたことあるだろ」
「それが積み重なると、味が分からなくなってくるよ。結局は特定の人間もそうじゃない赤の他人だって区別がつかなくなる」
声を荒げかねなかったが、すぐ近くの後ろの席に同い年ぐらいの女が一人で席についたので、声を押し殺した。悪七はアイスティーに手をつけず脇へのけた。
「リョウのしてることは殺人よりも醜悪なんじゃないかな? ある意味で死よりもつらい仕打ちだと俺は思うけど」
だから何だって言うんだ。俺はそれだけのことをされたんだから。
「お前が言いたいのは、俺に手を汚せってことかよ」
吐き捨てるように言い放つと、悪七はまんざらでもない顔をして、ほのめかした。
「ま、結局はそういうことになるかな。これがどこまで犯罪性があるか俺には分からないんだ」
いや、十分すぎるぐらいあるだろう。悪七の頭の中は一体どうなっているんだ。
「法律なんて人間が考えたルールだからね。俺が生まれたときにはすでに法律があった。俺が原始時代に生きていたら法律はないわけだから。ま、所詮、心は裁けないよ」
「そういう問題じゃないだろ」
俺は戦きながら、こういう冗談を言う奴だったか? と幻滅しかかっていたその矢先、後ろの席の女が席を立った。背に白い影が見えた気がした。慌てて目で追うと、彼女の肩には紛れもなく、俺達と同じようなミカエリが居座っていた。
そのことに悪七も気づいて、目を見張った。話は聞かれなかっただろうかということより、ピンクの風船のような姿のミカエリに俺達は釘づけになっていた。最初に声をかけようと言い出したのは悪七だった。
彼女が出て行く前に何とか声をかける口実がないか、瞬時に判断した。俺は慌てて後を追い、食べ残しやトレーを片づけつつ、わざとぶつかった。謝ったときには、お互いに肩にいるものに気づいた。もちろん俺は今知ったような顔を繕ってみせた。
「あなたのそれ・・・・・・」
少女ははつらつとした同じ年ぐらいで金髪のポニーテールが腰まで届いている。目はほっそりして少しきついが、それが知的な感じをかもしだしている。化粧をうっすらしているがギャルではないし俺の敵対する学生でもない。
「こいつはカム」
彼女が遠慮気味におずおずとカムに触れた。案外大人しいタイプかもしれないと思った。少女の指先がずぶずぶとカムにのめり込む。一方の俺も彼女のミカエリに触れる許可を待った。
「あたしのとちょっと違うみたい。この子はフー。風船みたいでしょ」
突然彼女は打ち解けたように快活に話し出した。俺の手を取るが早いか、フーというミカエリに俺の腕を突っ込む。驚いたことに、フーは温もりがあった。温泉に浸かったような癒しが全身をくゆらした。これまで抱いてきた苦痛という歴史が瞬時に消し飛んだ気がした。いけない、このままでは快楽に呑まれて立ったまま眠り落ちそうだ。
彼女が俺の緩んだ顔を見てあははと笑った。恥ずかしくなって我に返って手を引き抜く。
自己紹介より先に互いのミカエリを紹介し合うなんて不思議だ。肝心の自己紹介はミカエリよりも手短だった。悪七のことも紹介しよう。
「あ、そうだ。俺の友達も紹介するよ。今そこに」
振り向いたら悪七の姿がどこにも見当たらなかった。どこに行ったんだろう。ぎこちなくなって頭をかいていると少女が時計をちらちら目に止めているのが見えた。
「今時間ってある?」
「ごめんなさい。これからキャサリンと勉強。ってキャサリン知らないよね。留学生なの。日本語の勉強見てあげるんだ。フーの通訳つきでね」
俺は唖然として、フーを見つめた。この風船型ミカエリは額に毛が一本のほかは、手も足もなく、目は眠ったように開いているのか分からない。第一印象からしてあまり利口ではなさそうなのだが。俺のカムだって「おなか」しかしゃべらないのだ。
「そんなことに使ってるのか?」
「使うって? この子はペットみたいなものだけど、一緒に働いてくれるの。あなたは今までどういう風にカムちゃんに接してきたの?」
ますますどぎまぎして、俺は腕の傷が見えないか気にして腕を後ろに回した。見たところ半そでTシャツにつなぎといった姿の少女には、傷痕がどこにも見当たらなかった。どういう使い方をしたらそうなるのだろう。もう一度時計に目を落とした彼女は早口に謝った。「もう行かないと」
「あのさ、今度でいいから。ミカエリのこともっと詳しく聞かせてくれよ」
ミカエリと言っても少女にはピンとこないのは当前だった。口を滑らせたことを後悔しながら慌てて言い足した。
「明日は? またこの店で」
「そうね。あたしもカムちゃんのこと知りたいし。じゃあ夕方四時は大丈夫?」
彼女は早足で店から出た。ミカエリの貼りついた後ろ姿を見送るのは変な感じだった。しばらく立ちつくしていて新たに入店してきた客に押されて我に返った。もう正午近くなっている。席に戻るとそこに悪七が優雅にアイスティーをすすっている姿が目についた。
「お前どこ行ってたんだよ」
「まさか怒ってるの?」
怒りっぽいことに輪をかけられた気がしてふてくされるのはやめて、大人しく座った。
「俺のことは知られたくないんだよ。ねえ、あの人、殺してみてよ」
いきなりとんでもないことを言い出すので怒鳴りたいところだったが、客で店内は込み合ってきて、もう顔がつくぐらい近寄ってひそひそと話さなければならなかった。
「本気で言ってんのか」
冗談ともつかない微笑が返ってくる。苦渋の味がしたが、果たして自分には行動に移せるのか。ミカエリがいなかったら、どういう形か知れないが俺は狩りをしただろうか?
「お前はどうなんだよ。できるのかよ」
どうはぐらかすのか見てやろうと意地悪く見守った。
「自分の手は汚したくないね」
肩透かしだった。さんざんほのめかして、何だよ。
「でも、溜め込んでおけるものとそうじゃないものってあるんでしょ? リョウの中じゃ」
意味深な言い方に悶々としていると悪七は軽く腕を組んで考えながら他人事のように呟いた。
「彼女、俺達の話聞いてたのかな。それが気がかりだよ。だからこんなこと言ってみたんだ。だって、俺達って露骨だから」
「明日、もう一回会う約束してるんだからそのとき探ってみる」
当然と思っているらしく悪七は何も答えなかった。
「通訳ね」
「ちゃんと聞いてたんだな。俺達の会話」
場所を移そうと悪七が言い出し俺達は店を出た。けれどこれといったあてもなく、彼女についてもそれ以上知りえようがない。悪七がスケッチをすると言い出したから俺はいつものように邪魔をせず悪七を眺めることにした。
医者になれるエリートコースをまっしぐらだというのに、実は美大を目指して予備校まで通っているのだ。一人暮らしをしているとはいえ親は急に進路を変えたことに反対しなかったのかと聞いたことがある。
父親は危うく殴りかかる寸前だったが、母親がこれまで塾ばかり押しつけた教育もいけなかったと、味方についてくれて何とか無事収まったと本人は言っている。だが、どこまで本当かも怪しい。
というのも悪七は何かと金を散財するくせがあった。俺が好きなファーストフード店だって悪七は俺とつき合うまでは入ったことがないらしい。
行きつけの店は俺からしたら毎日通うには高すぎる喫茶店だ。学費もばかにならないくらいかかっているのは当然だ。金持ちなのは本当らしいが、それでも家族についてはあまり語りたがらない。
公園に寄っていつものスケッチブックを取り出した悪七は薔薇を模写しはじめた。美大を目指すというだけのことはあって、技術は申し分なく達者だ。
しかし、技術ばかりが勝って何かが足りないように思えた。濃い鉛筆を使ったとしても絵に生気がなかった。ふんわりと優しいタッチではなく、埃でもかぶってるんじゃないかという極細の線だ。
悪七のミカエリが薔薇を描くのを邪魔するのが苦痛で仕方がないが、と言って空腹を訴えずにはいられないと、背中で震えていた。
「絶対に食べ物はあげないんだ。なぜって、こいつは必ず見返りを求めてるからね。俺の望みをいくらでも叶えてくれる存在だけど、俺の今の望みはこいつを苦しめることだから」
俺はそのとき、鳥肌が立った。こいつはとんでもない男だ。俺はカムに半ばむしばまれているっていうのに、こいつときたら逆にミカエリをむしばんでいるのだから。絵を描きながら言うような台詞ですらない。痺れに似た興奮が俺を包んだ。悪七が必要だと思った。
「俺達二人で協力しよう。ゲームだって何だってやる」
そう言い出すのが分かっていたという顔つきをするだろうと踏んでいただけにそっけない返事で落胆した。
「悪いけど今そういう気分じゃないんだ」
「俺は真剣に言ってるんだぞ。俺は認めたくない。何の意味も考えずへらへら笑って生きている連中が憎い」
「俺はリョウのそう言う憎しみをもう通り越したんだ。俺は毎日人を殺す夢を見る。夢の中で実際に殺した感覚まで味わってる。何度も繰り返しみるけど、その度に敗北で終わるんだ」
突拍子のないことに驚いて俺はぽかんとしていた。
「それってつまり」
「ああ、終わりってことさ。憎き運命を殺したけど、俺の手の内には動揺しかない。全てにけりはつかないってことを何度も味わってる」
「それっておかしい。だって、狩れば俺達を笑うやつはいなくなる。これからがはじまりだ」
「じゃ、自分の腕なんか喰わせてないで、自分の手を汚したらどう? そうすれば分かるさ」
散々、悪七のことを考えてきたのにここに来て裏切られた気分だ。だが、確信したことがある。やはり悪七と俺は同士で、同じように誰かを憎んだり、途方もない殺意に駆られて苦しんだことがあるということだ。俺達はもう一線を越えるぎりぎりのところまできている。そして、悪七は夢の中でそれを越えてしまっていた。