アコースティック・ギターの空
日曜日。よく晴れた日の昼下がりだ。本当は、今日は1日ダラダラと寝て潰す予定だったが、「午後から友達が遊びに来るの!」と妹に家を追い出されてしまった。俺が家にいたところで、どうせリビングなんて出ていかず部屋で寝てるだけなんだから、勝手にさせて欲しいものだ。
しかし、妹のことだ。口では「お兄ちゃんと友達を会わせたくないの!」なんて寂しいことを言っているが、大方、俺の部屋にある小型テレビと据え置きゲーム機で遊びたいだけだろう。俺の部屋で遊びたい上に、俺のゲームを使いたいのだから、俺が邪魔なのは当然である。……どちらにせよ、冷たい妹だ。
まあ、その想定の上である程度部屋は片付けたし、見られて困るようなものはカモフラージュした上に隠してある。母親にも、今のところ見つかった形跡はない。
問題は、午後から夕方までのこの時間をどう過ごすか、ということだ。
財布と携帯しか持ち出していないので、特に何もすることがない。しかし、財布と携帯を持っているのでなんでも出来る、ともいえる。
漫画喫茶にでも行って時間を潰すか、と時計を見る。
目的の漫画喫茶は隣町にあり、大抵はバスを使っていく。バスが来るまでにはもう少し時間がかかりそうだった。のんびりとバス停へ歩きながら、今日の空を眺めた。
ムラなく青く透き通った空は、とても爽やかだった。半円に広がったいっぱいの空は大きいのに、俺の目の中に溶け込んでいくように感じた。しかし残念なことに、俺はこんな色の空は全くもって好きではない。
バス停で、今日読むつもりの漫画の評価を調べていると、時間はあっという間に過ぎ、大きなエンジン音をたてて俺の前にバスが停車した。
日曜日の昼だと言うのに乗客は少なく、小学生くらいの男の子が1人座っているだけだった。
窓側に腰を下ろすと、漫画の評価画面の続きを開いた。
「ね、おじさん!」
ギョッとした。
いつの間にか、反対側の席に座っていたはずの男の子が俺の隣にいる。俺の隣で、背筋を伸ばして、手は太ももにちゃんと握りしめて置いて座っていた。
俺は、何も言えず、そんな男の子の様子を見た。
初対面の、明らかに自分より年上に対して「ね、おじさん」は、流石に失礼じゃなかろうか。いくら小学生だからって。
子供というやつは俺の心を抉ることしかしないというわけだ。
俺には冷たい妹のことを再び思い出して、ため息をつく。嫌いな青空をまたチラリと見た。
「おじさんってば!」
「俺、おじさんって年じゃねえと思うんだけど」
男の子は、キョトンとした顔で「おじさんじゃん」という。
確かに昔から実年齢より上に見られることは多かった。
家族と居酒屋に入ったら俺の前に酒を置かれたりしたし、ファミレスでハンバーグプレートを頼んだら席を間違えたと思われ店員さんが引っ込んだこともあった。
映画館では入念に学生証を確認されたし、夜の高校から出てきたら警察に呼び止められたことすらある。あの時は制服まで着てたはずなんだぜ、俺。
「高校生だっつの、俺は」
流石に「おじさん」とまで言われたのは初めてだったが、俺は別に気にしていない。
子供は持っている語彙が少ないためけっこう大げさに表現するものだし、大人の顔を区別するのも難しい。自分より年上は皆おじさんだと認識していてもおかしくはないだろう。
「なんだ、高校生? やっぱりおじさんじゃん」
「……」
「それでね、おじさん。ちょっとお願いがあるんです」
初対面の俺に、いきなり頼み事か。よほど切羽詰まった事情なのだろうか。それにしては、喋るトーンもどことなくのんびりで、能天気に見えるが。
「実は、俺、このバスに乗ったはいいけど、金がなくて降りられないんだ」
「……」
その言葉を聞いてから数秒、知らずうちに息を止めていたらしく、バスが信号で停車した瞬間に我に返った俺は慌てて息を吐き、次に吸った。
男の子、改めクソガキは、俺の目をじっと見つめてくる。残念ながら俺には、その目が真実を語っているのか嘘でからかっているのか見抜くことは出来ない。
「クソガキ、1ついいことを教えてやる」俺は、携帯をポケットにしまい、クソガキに向き直った。そして続ける。
「人に物を頼む時は、相手を快い気分にさせることが鉄則だ。間違っても、相手を『おじさん』なんて言い方はしてはいけない。もしそれで相手が不快になったら、頼みを聞いてくれるわけがないからだ。……いや、俺自身は全然気にしてないんだけどな」
クソガキのこれからの人生のために、1つ大切なことを教えた。うん、人生の先輩としていいことをしたと思う。
「まあそういうわけで、俺はお前に金を貸さない。いや、別に俺が『おじさん』って言われたことを不快に思ってるわけじゃない。そんなに器は小さくない。ただ、こういうことは教訓を得なければ覚えられねえからな」
俺は一方的にそう言うと、シッシッと手でクソガキを追い払った。
ポケットから携帯を取り出し、続きの画面を開く。
「そこをなんとか!これ以上寝たフリで金がないのを誤魔化すのは無理なんだ!なんでか知らないけど、今日はやけに人が少ないし、俺、大事な用があるし、おじさん以外に頼める人がいないんだ……」
急に早口になり、クソガキはまくしたてた。
「……話くらいは聞いてやるよ。俺に金を出させてみやがれ」
クソガキは、パアッと顔を明るくした。そして、背中に背負った鞄から貯金箱を取り出す。
「ここに、一万円と千二百円が入ってるんだ」
真剣な顔で、俺に貯金箱を突き出してきた。それを手に持つとずっしりとした重みを感じたが、これが貯金箱そのものの重さなのか、小銭の重さなのかは分からなかった。
「一万もあるんじゃねえか。バスなんて余裕だよ」
「違うんだ。俺、今からこのお金を全部使って、ギターを買いに行くんだよ。二年くらい前に見かけた中古の楽器屋に、一万千二百円のアコギが置いてあって、それで、頑張って貯めたんだ」
でも、とクソガキは言った。
「俺、バスに乗るのにはお金がいること忘れてたんだ。それで、今、ギターのお金しか持ってなくて」
そういえば、隣町には楽器店もあった。俺は行ったことはないが、ギター好きの父が、かなり昔に「なかなかいいセンスの店だったぜ」と言っていたのを思い出す。
「自分の小遣いなのか? それ全部」
「うん。お年玉はいつも母さんに預けちゃうんだ。だから、貯めるのに二年かかってさ。今日、やっと買えると思って」
少し思うところがあり、俺は考え込んだ。気になるのは、金を貯めるのに長い時間をかけているということだ。「ギターを買う」と決めてから2年というのは、少しばかり、そう、少しだけ、長すぎるだろう。
中古とはいえギターが一万円程度なら、大抵は買われてしまう。
「仕方ねえな。バス代くらい出してやる」
俺は言い、「その代わり、二つ条件がある」と続けた。
クソガキ改めドジガキは「うん!」と笑顔になった。リュックサックに貯金箱をしまい、じっと次の言葉を待つ。ちょっと犬っぽいな、と思いながら、俺は人差し指を立てた。
「一つ目。ギターを買いに行くのには俺も着いていく。どうせ暇だし、金を出したからには見届ける義務があるだろ」
ドジガキは虚をつかれたように一瞬黙ったが、すぐに「そんなことかよ」という顔をして頷いた。
「二つ目。俺は『お兄さん』だ。別に気にしてるわけじゃないけどな」
俺は初めてドジガキに向けて笑顔を見せた。大人の余裕ってやつだ。
ドジガキは、「ありがとう! 若くて背が高くてイケメンなお兄さん!」と調子のいいことを言う。
「過度なお世辞は逆効果だ」と教訓を追加してやろうかと迷ったが、ドジガキの頭に耳が、尻からしっぽが見えているような気がして、なんとなくやめた。急に従順に懐いたのが面白かったのだ。
楽器店の近くで無事にバスを降り、俺達は楽器店へと歩き出した。
二年だ。二年、必死に小遣いを貯めたんだろう。遊びたい盛りの小学生が、お菓子やジュースを我慢して、二年も。中古のギターを一本のために、だ。
もし、店頭に目当てのギターが無かったら、どれほど落ち込むことだろう。
貯金箱いっぱいにつめた一万千二百円をどんな気持ちで見つめるのだろう。
なんとなく、このドジガキを1人で店に向かわせるのが不安で「俺も連れて行け」なんて言ってしまった。俺がいたから何が出来るというわけでもないのに。
ドジガキはるんるんと俺の隣を歩く。軽やかでたまにスキップやジャンプが混じったその歩みは、この青空によく似合う明るさで、猫背で足をするようにして歩く俺の歩き方とは真逆だった。
いち早く店の前に立ったドジガキは、小さく眉を潜めた。アコースティックギターは、外から見える場所には置かれていなかった。
おそらく、ドジガキが二年前に見た位置にも、もうなかったのだろう。
俺は、「ああやっぱり」という気持ちで、歩幅を変えることなく歩いた。
俺が追いつくのを待って、ドジガキは神妙な顔をしながら店に入った。
レジにも人はおらず、客の少なさを伺わせた。
ギターが並んだコーナーに入り、順番にギターを確認していく。ゆっくりと、バス停に停車する直前のバスのように慎重にひとつずつ、ギターをじっと見つめては次へと、歩いていく。
掲げられた値札は、おおよそ全て三万円を超えていて、俺は我知らずうちに財布の中身を確認していた。かろうじて五千円、あるくらいだろうか。
「お兄さん、……ないや、あのギター」
ドジガキは、顔色を変えなかった。バスの中で俺に「金を貸してくれ」と言った時のような、これでもかと眉を下げた悲しい顔をすればいいのに。
ピクリとも眉を動かさず、淡々と、「なかった」と繰り返した。さっきまで見えていた犬のような耳としっぽは引っ込んでいて、ガラス越しに見る青空は少しくすんでいた。
「そうか」
俺は、それだけ答えて、そっと回れ右をした。
小さな楽器店を出ると、ドジガキは「次は、三万円と二千二百円だ。俺、頑張るよ」と弱々しい声を出す。
「……ドジガキ、お前、今から暇か?」
「う、うん。ギターを弾く予定がなくなっちゃったからね」
「よし、ちょっと付き合え」
俺は、ドジガキの手を引いて、バス停に並び直した。
バスを待つ間に、俺は携帯を取り出し、電話をかけた。
父、とか書かれたその文字をタップするのは随分久しぶりのことだった。
三コール目で「もしもし」父の声が聞こえた。少し掠れている。また昼間から酒でも飲んでいるんじゃないだろうな、と思いながら、「もしもし、俺だけど」と言う。
「あのさ、……今から、そっちに行っていいかな」
父は驚いたようだった。俺からそんな電話がくることなど想像すらしていなかったに違いない。
「もちろん、構わないが……」
「ギターをさ、取りに行きたいんだ。俺のギター。……まだ、とってあるかな」
「あるよ。とってあるとも。ああ、おいで、すぐにでもおいで」
父は、噛み締めるように、そう言った。
ありがとう、と電話を切ったあと、ドジガキがぽかんと口を開けて俺を見ていた。
「お兄さん、ギター持ってんのっ?」
「まあ、一応な」
すげえ!とドジガキは飛び跳ねる。間もなくやってきた電車に乗り込んだあと、ドジガキは足をぶらぶらと落ち着きなく揺らした。今度のバスには少数ではあるが他の客がいたので、「やめろドジガキ」とたしなめる。
「次で降りるぞ」と言いながら降車ボタンを押すと、ドジガキはリュックから貯金箱を取り出した。
「今度は、俺、ちゃんとバス代払えちゃうんだぜ」と寂しそうに横目で俺を見た。
それを見た俺は思わずドジガキの貯金箱を奪い取った。リュックサックにしまい込んだ上で、ビッとチャックを閉める。
ちょうど目的の駅に着いたので、さっさと二人分の料金を支払うと、呆然としているドジガキを放り出すようにしてバスから降ろした。
「三万円、貯めるんだろ。一円も無駄にすんじゃねえよ、バカ」
クソガキ、改めバカガキは、俯いて、リュックサックの紐を握りしめた。
「……分かった。払われてやるには、一つ条件があるぜ」
てっきり俺の大人な対応に感動しているのかと思いきや、ニヤリとしてそんな生意気なことを言う。先程の俺の真似をして人差し指まで立てて、だ。
「俺は『ガキ』じゃない。来年からはもう中学生なんだ」
俺は、ふっと笑った。「小学生ならやっぱりガキじゃねえか」
でも、まあ、二年もかけて一本のギターを買おうとするあたり、ただのガキではない、と思う。
一人前の、とは言わないが、『ただのバカな男』くらいは言ってもいいだろう。
「いくぞ、バカヤロウ」
「うーん、そういうことじゃないんだけどなあ」
バカガキ、改めバカヤロウは、口では文句を言いつつもどこか楽しそうに俺に着いてきた。
「ここ、お兄さんが乗ってきたバス停と違うよね? こっちが家なの?」
「俺の家は、俺の乗ってきたバス停のところで正解だよ。こっちの家は、親父の家だ」
「家と、お父さんの家が違うの?」
「そうだ。二年前くらいに離婚してんだよ、うちの親」
「離婚……ふうん」
父の家の場所は知らされていたが、訪れたことはなかった。父に会うのすら、父が出ていったあの日以来だろうか。
「どうして、お兄さんのギター、お父さんの家にあるの。一緒に暮らしてないんでしょ」
「親父から貰ったやつなんだ。あのギターは。だから、親父に返そうとした。嫌いになったんだ。親父も、ギターも」
そして、今日のような透き通るような青空も。
『ギターはな、こういう馬鹿みたいに青い空の下で、誰もいない河原なんかで、馬鹿みたいにデカい声でこいつを歌わせるのが楽しいんだ』
父の言葉を思い出す。
『分かるでしょ? あの人は、いつも自分勝手なの。もう限界、もう無理、もう駄目……』と、酒を片手に俺に愚痴を零す母の姿も思い出す。
「親父も、ギターも、嫌いなんだ」
しばらく忘れかけていた父とギターのことが、いくつも頭によぎった。
初めてギターを触った日。
『それ、お前にやるよ』と俺にギターを渡す父の笑顔。
『親父に返すよ』とギターを渡したあの日。
『これはもうお前のギターなんだぞ。父さんのところにずっと置いておくから、弾きたくなったらいつでもおいで』と、そんなことを言う父の笑顔。
『いらねえよ。もう弾かねえって。嫌いなんだよ! ギターも親父も!』と叫んだあとの、『そうか』と寂しそうな顔。
バカヤロウが傍にいた手前、あんな電話をかけてしまったが、今更どんな顔をして会えばいいというのだろう。
そもそも、なんで律儀にとってあるんだ。弾かないって言っただろ、俺。あんな、酷い言い方しただろ、俺。
『友達に会って欲しくない』なんていう妹よりも、ずっと酷いこと言ったんだ、俺は。
バカヤロウは何も言わなかった。俺がぼんやりと昔のことを思い出しながら歩いていると、呆気なくその場所に着いてしまった。
「ここか……」
思ったよりも小さくて、思ったよりも古いアパートだった。
一階の二号室。俺の前の苗字と同じ表札がかかったその扉の前に立った。
「……」
なかなかインターホンに手が伸びない。隣でバカヤロウが俺と、インターホンを交互に見つめていた。
「俺、押そうか?」
バカヤロウが我慢できずに、インターホンに手を伸ばした。
俺は、ゆっくりと頷いた。
そうだ。ギターに用があるのは、俺じゃない。こいつのためにギターを取りに来たんだから。
ドアがゆっくりと開いて、父が顔を出した。
老けたな、と思った。
別段痩せたというわけでもないし、髪も整えられているし、ヒゲだって剃ってあるのに、急に老けたように見えた。
両親が揃っていたときは、二人一緒に歳を食っているように見えたのに、久しぶりに会った父は、母の何倍も歳をとったように、そんなふうに見えた。
「あの、久しぶり」
「……ああ、本当に、久しぶり」
父はそう言ってから、バカヤロウの存在に気付いたようだった。
「その子は?」
「ええと、友達の弟なんだ。ギターを弾いてみたいらしくて、それで」
バスの中でたまたま会った子供を連れ回しているとは言えず、適当なことを言った。
「それで取りに来たのか。俺にはもう会いたくなかったはずなのに。……お前らしいな」
チューニングは合わせてあるから、とギターを手渡された。
俺たちがここに着く前に用意しておいてくれたのだろう。
「ありがとう」
「ああ、……それじゃあ、体には気をつけるんだぞ」
絞り出したような掠れた声で、父は言った。
「親父も、あんま、飲みすぎんなよ」
俺も、なんとかそれだけを返した。
そうして、バカヤロウを連れて踵を返す。
『まあ上がっていけよ』とか『最近どうなんだ』とか、そんな言葉が一切なかったのが、少しだけ寂しかった。
あんな酷いことを言ったのだから当たり前なのだが、そんな優しい言葉を期待してしまうことが間違いなのだが、それでも、なんだか少し寂しかった。
本当に少しだけだ。別に、そんなに気にしているわけじゃない。
「お兄さん、大丈夫?」
「何がだよ」
「泣かないでね」
「泣くわけねえだろ」
言いながら、俺の足はなんとなく、河原へ向かっていた。父がまだ俺の家に一緒に住んでいた頃は、よくこの河原に一緒に来ていたのだ。
俺が父の現在住んでいるアパートの場所を聞いただけで辿り着けたのは、この河原の近くだったからだ。
「弾いてみろよ。ギター、弾きたかったんだろ」
バカヤロウにギターを渡すと、バカヤロウは顔を輝かせた。「いいの!?」
「お前、本当にバカヤロウなんだな。そのために取りに行ったんだろ」
バカヤロウはいそいそとギターを取り出し、恐る恐る弦を弾いた。
ポロン、ポロン、と音のような、そうでないような、しかしやっぱり音のようなものが零れ落ちる。
「ヘッタクソだなぁ、お前!」
俺は大笑いしながら、「貸してみろ」とバカヤロウからギターを受け取る。
「もっと馬鹿みたいに弾いてみろよ。こうして」
適当な和音を組み合わせて、それっぽい音楽をジャカジャカと奏でる。
バカヤロウは「おおーっ」と声を上げた。
「お兄さん、スゲーじゃん!」
「まあ、お前よりはスゲーかな」
ジャジャン、と曲を終わらせて、ギターを返す。
バカヤロウは「これと、これは覚えてんだ」と自慢げに、俺の使った和音を二つ弾いた。
「やるじゃねえか。それだけ弾けたら上出来だよ」
俺はニヤリと笑って、「交互に弾いてみろ」と言う。
バカヤロウが一生懸命それを弾き始めたら、それを止めることなく、叫んだ。
「よし、もう手元なんて見るんじゃねえ。空を見ろ、空を! 馬鹿みてえに青いだろ!」
「馬鹿みたいに青い!」
「お前もそうやって弾け!」
「うん!」
和音が交互に繰り返されるだけの、曲ともいえぬ何かが、河原に響き渡った。
何度も何度も繰り返した和音がやがて終わり、バカヤロウはその場に寝転んだ。ケラケラと楽しそうに笑う。
今日一番の、青空に似合う光景だ。
全然関係ないのに、俺までゲラゲラと笑っていた。
「よし、今の曲が『青い空』だ」
「えっ! 俺、曲を弾いてたの?」
「曲を弾いたんじゃなくて、お前が弾いた音をたった今曲にしたんだ。もうこれは、お前だけの曲だぜ」
「ほんとかよ! やったあ!」
適当なことを言い合って、またゲラゲラと笑った。俺も倒れ込んで、腹を抱えて笑った。
勢いで、思わず携帯を開いてしまった。履歴の一番上にある『父』をタップする。今度は、一コール目で繋がった。
「なあ、親父」
俺は、青い空の空気をめいっぱい吸い込んで言った。
「今度、そっちに行っていいかな。普通に、遊びに行っても」
親父は、あ、と掠れた声を出し、一度大きく咳払いをした。
「いいとも。もちろん、おいで。いつでもおいで」
今度は自分でインターホンを押すから、と心の中で付け加える。
本当は、嫌いになんてなりたくないんだ。親父も、ギターも、馬鹿みたいに綺麗なこの青空も。
「それからさ──俺、やっぱり、嫌いじゃないよ。ギターも、たぶん、親父も」
返事を聞くのがなんだか怖くて、それから、少しだけ照れくさくて、俺はそれだけ言うと、電話を切った。隣でバカヤロウがニヤニヤしている。
「いいじゃん。お兄さんも」
「何がだよ」
バカヤロウの頭をぐりぐりと押し込み、「俺にも弾かせろ」とギターを奪い取る。
バカヤロウと同じ和音を繰り返しながら、「そういえば、お前、名前は?」と尋ねる。バカヤロウは「ヒロト!」と名乗った。
「いいか、ヒロト。こうやって、馬鹿みたいにデカい声で、こいつに歌わせるのが楽しいんだ」
バカヤロウ、改めヒロトは、「うん!」と元気よく応える。
ギターは空の曲を奏で続け、俺達はずっと笑っていた。