鳥影の歌
姉さまがお嫁に行かれたのは、三年前のことでした。お相手の方はたいそう年上で、姉さまより、わたしたちの父さまとお歳が近いようでした。その方は、父さまと同じ貿易のお仕事をなさっていて、そのご縁でお話が進んだのだと聞きました。
お嫁入りの際には、父さま母さまとともに姉さまをお相手のお宅までお見送りしました。お相手にはそのときに一度お会いしたきりで、お決まりのご挨拶くらいしかいたしませんでしたが、とても穏やかなお人柄に感じられました。この方ならきっと姉さまを幸せにしてくださるにちがいないと思ったのでした。
はじめのうちは、姉さまからよくお手紙が送られてきました。お庭に咲いたお花のこと、異国のお菓子を召し上がったこと。そのような日々のくらしのことなどがつづられておりました。
ご結婚をされたら、いままでの姉さまとは変わってしまうのではないかと心細く思っていたのですが、まったくそのようなご様子もなく、やはり姉さまは姉さまなのだわ、と心安く感じているのでありました。
けれども、ここのところお手紙が途絶えがちになりました。どうかなされたのと書き送りしても、お返事もありません。わたしは思い切って訪ねてみることにしたのです。
姉さまはとてもお歌がお上手でした。姉さまが歌うと、窓辺に小鳥たちが並んでいることもありました。きっとお仲間だと思ったのでしょう。それほどに美しいお声なのです。お会いしたらなにか歌っていただこうかしら、などと踊る心持ちで訪れたのでした。
けれども、お宅は家屋も庭もくたびれたように色を失い、おとないに応じて現れた姉さまは十も歳を取られたかに見えました。豊かだった髪は細くほつれ、目はくぼみ、頬や顎がとがったように見えます。とてもお歌をおねだりできるご様子ではありません。
「まあ。姉さま。いったいどうなされたの?」
姉さまはお答えにならず、さみしげに微笑んで
「どうぞお入りなさいな」
と背を向けました。
曇り空をまとったかのようにどんよりと重たい足取りで進む姉さまに従い、お部屋へと上がらせていただきました。
サンルームの籐椅子に腰を沈め、目の前の丸テーブルでお紅茶を淹れる姉さまの手元を見つめておりますと、くすりと笑い声が聞こえました。
「いやだわ。そんなにじっと見られたら零してしまいそう」
恥じらいがちに微笑むお顔は、思い出のままの姉さまでした。明るいところでよくよく見れば、特にお歳を取られたご様子もありません。窓の外も色とりどりの花が花壇を満たしていて、蝶や蜂が心地よさそうに飛び回っておりました。
さきほどはどうしてあのように色あせて見えてしまったのでしょう。案ずるあまり、心の目が不安を映し出してしまったのかもしれません。
「悦ちゃんたら、どうしたの? いきなり来るから驚いてしまったわ」
お紅茶を淹れ終わると、ひとつを私の前にカチャリと置いて、ご自分は向かいの籐椅子に腰かけられました。
「ごめんなさい、姉さま。近ごろはお手紙が滞りがちな気がして、具合でもよろしくないのかと思ったのよ」
「あら。それは心配をさせてしまったわね。いえね、どうってことはないの。いつまでも昔に思いを残していてはならないような気がして」
「思いを残してはいけませんの?」
「だって、わたしはあの家を出た身ですもの」
「それでも姉さまはずっとわたしの姉さまだわ。それとも、こんなふうに来たりしたらご迷惑かしら? 叱られてしまう?」
「うちの人は叱ったりしないわ。お仕事のことしか頭にないもの」
「貿易のお仕事?」
「ええ、そう」
「どちらの国のものを扱っていらっしゃるの?」
「どちらの国……そうねえ、どこでもないところ、かしら」
「なあに、それ? なぞかけ?」
「いいえ。そうではないわ。そうではないのだけれど、どうにも教えようがないのよ」
姉さまが困ったように微笑まれたとき、窓の外をすいっと黒い影が横切りました。はっとして見やると、もうその影はなく、さんさんと日が降り注ぐ庭が広がるだけでした。
「いまの、なにかしら」
姉さまに尋ねると、
「いまのって?」
と問い返されました。
「窓の外を影が通り過ぎたでしょう?」
「そうだったかしら? 鳥かもしれないわね」
いわれてみればそのような影だった気もします。
鳥と聞いて、むしょうに姉さまのお歌を聞きたくなりました。
「ねえ、姉さま。お歌を聞かせてちょうだいな」
「ええ? いま?」
「もちろん、いまよ」
「むりよ。もうずいぶん長いこと人様には聞かせていないもの」
「そのように恥ずかしがらないで。うちにいたころはよく歌ってくれたでしょう」
「でも、歌は」
姉さまは困ったような、泣きそうなお顔で静かに首を振りました。それからお紅茶をひと口。そのしぐさをじっと見つめたまま、わたしもカップに口をつけました。
お紅茶の味がしませんでした。淹れたてだというのに、温かさも感じられません。ぬるいというわけでもなく、まるで空気を飲んでいるかのように、舌先になにも残さないのです。
そのような飲み物があるのでしょうか。わたしが知らないだけなのでしょうか。
姉さまに問うてみようと顔を上げると、姉さまの姿を撫でるようにすいっと影が過ぎていきました。
「あ、ほら、また」
わたしはつと立ち上がり、サンルームの窓を開けました。
「いけないわ、悦ちゃん」
姉さまも立ち上がり、窓枠にかけた私の手にご自分の手を重ねられました。
重ねたのです。たしかに重ねた姉さまの白く細い指が見えるのです。
けれども、お紅茶と同じように、わたしの手の甲は温かさも冷たさも感じません。触れているという感じも。
そこにないようにある姉さまの手は、わたしの動きを封じることができません。
窓は開け放されたまま、生の日差しを誘い込みます。花の香りが漂ってきます。遠く鳥の声が降ってきます。
「ほら。姉さま、歌って。あの鳥たちを呼んでみて」
姿の見えない鳥たちは、きっと姉さまの歌声にひかれてこの窓辺にやってくるはずです。
「いけないわ、いけないわ」
姉さまはかたくなに首を振ります。
わたしはだんだんと苛立ちを感じ始めていました。せっかくこうして会いに来たというのに、お歌のひとつも聞かせてくれないなんて、いじわるがすぎます。
姿の見えない鳥たちが庭を飛び回り、羽ばたく影が交差します。花壇に降り注ぐ日差しが黒く切り裂かれてはふさがり、ふさがっては切り裂かれます。
「悦ちゃんはここへ来てはいけなかったのよ。懐かしくて招き入れてしまったけれど、わたしがいけなかったわ。少しの間なら平気と思ったのに……。帰って。早く帰るのよ」
姉さまが声を放つたびに鳥たちが集まります。やはり姉さまの声は鳥を呼ぶのです。歌声でなくても鳥を呼ぶのです。
みるみるうちに鳥影は増えていき、日差しを遮ります。あたりは、夕間暮れとまがうほどの薄明かりとなりました。ただ鳥は影ばかりで姿も声もありません。けれどもそれはたしかに鳥でありました。姉さまを慕って集まる鳥でありました。
ああ、いったいどのような鳥たちが、わたしの姉さまを慕っているのでしょう。わたしと同じく姉さまの声に魅せられた鳥たちは、まるで我が身の血肉のように感じられました。この世でもっとも姉さまの素晴らしさを知るのは、わたしのほかは鳥たちしかいないような気がいたしました。
わたしの同志たちを知りたくなりました。息が苦しいほどに知りたくなりました。わたしはひと目その姿をみとめたくて、窓から身を乗り出し、手を差し出しました。止まり木のように羽を休めてくれるかもしれないと思って。
夕闇が訪れます。それともこれは鳥の群れなのでしょうか。
がしりと思いのほか大きな鳥の足が、腕に爪を立てました。重みに下がりそうになる腕を必死の思いで上げ続けます。
「悦ちゃん、悦ちゃん……」
姉さまが涙を含んだ声でわたしの名を呼びます。腕に、肩に、頭に、次々に鳥の鋭い爪が刺さります。たちまちわたしは鳥たちに覆われました。
「姉さま、歌って……」
鳥影に埋もれた暗闇からただひとつの願いを放ちます。
懐かしい姉さまの歌声が聞こえてきました。涙が織り込まれ、細やかに震えるその声は、いままで耳にしたどのお歌よりも清らかでありました。
声が、露を連ねる蜘蛛の糸となって見えました。いいえ、見えた気がするのです。わたしの視界は姿なき鳥たちの影に覆われ、なにも見ることはかなわないのですから。それは耳から見た景色なのでありました。風に揺らめき、光を転がし、冷たい香りを漂わせるのでありました。
ほどなくして、体中が熱くなってきました。深く刺さる爪の鋭さとは異なる、もっと太く重い熱が広がります。
ついばまれている――。
どこか遥か遠くにあるわたしの心がそう教えてくれました。
鳥の血肉となって、姉さまの歌声を聞けることは、かぎりなき誇りに思えました。この歌声はわたしの姉さまなのよ、と世に触れて回りたい気分です。
けれども鳥の重みを感じた体もいまは失われ、伝えるすべを持ちません。心のみが軽やかに空を渡ります。鳥影のひとつとなって、姉さまの歌声を心待ちにしております。
姉さまはとてもお歌がお上手でした。姉さまが歌うと、窓辺に小鳥たちが並んでいることもありました。きっとお仲間だと思ったのでしょう。それほどに美しいお声なのです。お会いしたらなにか歌っていただこうかしら、などと踊る心持ちで訪れた日のできごとでした。
(了)