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後書きにて音楽用語解説します。
「――お前かぁあああい!」
ある冬の日の深夜一時。狭い部屋の中で、男の声がこだました――。
時は遡り、一週間前の金曜日の昼のこと。
ピンポーン。
軽快に鳴る呼び鈴。
それに呼応して、男は財布を左手で握って立ち上がり、短い廊下を、数歩、駆ける。
空いた右手でドアチェーンを開けようとするが、片手ではなかなか開いてくれない。仕方ないな、と財布を脇に置き、両手でスムーズにチェーンを開放させる。重力のままに、ドアの金属枠にチェーンが当たる音は、不思議と抜けが良かった。
ドアを開けると、冷気が彼の耳元を吹き抜けた。
今年は暖冬だと言われているとはいえ、さすがは十二月。外に出るのが億劫になり、部屋を換気する回数は減っていた。よどんだ空気のせいか、外の冷気はむしろ気持ちがよかった。
「代引きです。重たいので気を付けてください」
ドアの外に立っていた男――宅配員――から、彼は荷物を受け取る。財布を置いていて正解だった、と安堵しながら両手で受け取ると、荷物は確かに重たくて、非力な彼は足元すぐに荷物を置いた。履き捨てられていたサンダルが下敷きになったが、特に気にはしない。
一息つき、改めて宅配員に目を配ると、一瞬、営業用の笑顔が消えた。
仕方ない。こんな寒い中の作業なのだ。
そういえば先日見た朝のニュースの視聴者アンケートで「暖房はつけ始めましたか?」というようなものがあった。どうやら、ほとんどの人が何かしらの暖房器具を使用しているらしい。そんな彼も、ニュース番組を、最近部屋の奥から取り出してきたヒーターを浴び、タオルケットに丸めこまれて震えながら見ていた。
エアコンをつけたいのは山々だったが、付けたくなかった。うちは貧乏なのだ。今年は暖冬だし、自分ひとりのための贅沢はよそう、と思っていた。。――まあ、ヒーターも十分喰らうのだが。
お疲れさまです、と宅配員に心の中で感謝する。特に意味のない行為ではあるが、それが彼の性格。
宅配員は小慣れた口調で値段を言い、さも当たり前であるかのようにサインを求めた。
そして彼も小慣れた手つきで財布から一万円札を数枚取り出し、当たり前のようにポケットに入れていた印鑑を押す。
財布はすっかり軽くなった。それもそのはず、六万円以上もさよならしたのだ。
DTMerである彼は、何か月も前から「十二月になったらモニタースピーカーを買う」と決めていた。十二月、というのは、バイトの給料を考慮しての数字だった。十一月になると、パワーディストリビューターやインシュレーターの情報なども調べ、準備を蓄えてきていた。
だが、思った以上に十一月末に入った給料が豊かじゃなかった。色々と忙しくてバイトに休みを入れた日も多かったから仕方がないのだが、そこでモニタースピーカーなどを買うと、十二月の生活に多大なる影響を与えてしまう。
それなりに悩んだが、彼は買うことに決めた。いま作っている楽曲をモニターでミックスしたかったし、何よりも、できる限り耳を痛めつけたくなかったからだ。
ちなみに、モニタースピーカーとは音楽制作に用いられるスピーカーのこと。家庭にあるリスニングスピーカーは普通、良い音を求められる。ある程度の値段以上になると、音源以上に良い音を出すために工夫されていく。
それに対してモニタースピーカーには、素直な音を求められる。例えば、元の音源以上に良い音を出すリスニングスピーカーでよい音楽を作っても、そうでもないスピーカーで聞いたら大したことがない、ということが起こり得る。なので、どのスピーカーで聞いてもある程度よく聞こえさせるために、癖のない、良すぎない音で音楽は制作しなければならない。
さて。
貧乏生活の始まりだ! なんて嘯きながら、受け取った段ボールたちを部屋まで連れていく。そして、ひとつひとつ開けていく。
テープにカッターで切れ目を入れる。そして、引っ張り、破く。ああ、いい音だ、なんて快感に浸りながら中身を取り出すと、踊るように段ボールを放った。おかげで、狭い部屋の、ベランダへの道を閉鎖してしまった。窓を開けに行くだけでアドベンチャーだ。
が、気にしない。どうせ今日はもう、窓を開けないのだ。これから音を鳴らすのだから、開けられもしない。
部屋のレイアウト上、モニター環境は決して良くないが、知識や説明書を頼りに、スピーカーを設置。初めて触るインシュレーターには少し苦戦したが、それはそれで楽しかった。
設置を終え、変貌したデスクを見ると、色々なものが込み上げてきて、それが頬に現れた。きっと、いま、自分は気持ちの悪い顔をしているに違いない。
さあ、
いざ参らん。
まず、パワーディストリビューターの電源を入れる。デスクの影で点灯する緑色のランプが彼の幼心をくすぐる。
そして、スピーカーの電源を入れる。カチッ、というアナログで温かみのある音は、帰宅して電灯をつける時のものとは、まるで響きが違う。
最後にボリュームを上げ……、となるはずだった。
しかし、
「……あれ?」
ノイズが鳴っている。ホワイトノイズではなく、もっと機械的で、不快な音。ジー、とも、ブー、ともつかない音。
今まで古いスピーカーのノイズを聞いたことはあったが、全く質が違う。ずっと、はっきりと存在している。
ボリュームノブを改めて確認する。そんなことあるはずはないが、もしかするとボリュームがかなり上がっているのかもしれない。
だが、ボリュームはひとつも上がっていない。
音が出るはずなんてないのだ。
一旦、電源を消した。すると、ノイズが消え、PCのファンだけが部屋の中に残った。
「故障?」
試しにもう一度電源をつけると、やはり、あのノイズが放たれている。
次に、他のスイッチも確認してみた。何も異常はない。
初期不良だろうか。
運悪いなあ、と溜息しつつ、もう片方のスピーカーの電源もつけてみた。
そして、戦慄する。
こちらも同じようにノイズが乗っているのだ。
「……え?」
ステレオペアでふたつ買ったスピーカーの両方が初期不良。
そんなこと、あり得るだろうか。
もしかして、運搬の時に何か変になったのか?
いや、この電源環境に何か問題があるのか?
それともケーブル? パワーディストリビューター?
ふう、と深呼吸をし、様々な可能性を指折り数え、トラブルシューティング開始。
まず、パワーディストリビューターを通さずに電源ケーブルを直接コンセントに差してみた。――直らない。
電源ケーブルを異常のない別のものに変えてみた。――直らない。
さっきまでコンセントの下側に差していたので、上にあるものを全て抜き、そちらに差してみた。――直らない。
とすると、運搬などを含めての初期不良だろうか。
それ以外、その時の彼には何もアイデアがなかった。
椅子にもたれかかり、天井を見上げる。
メーカーや購入したサイトに問い合わせる気力はなかった。
「仕方がない」
月曜日、こういうのに詳しいやつに訊いてみるか。
音楽用語集
・DTM……DeskTop Musicの略。スタジオなどではなく、部屋などで音楽を作ること。それをする人を俗にDTMerと呼ぶ。
・モニタースピーカー……音楽鑑賞ではなく、音楽制作のために使われるスピーカー。詳しくは本編内で。
・パワーディストリビューター……高性能な電源タップ、のようなもの。
・インシュレーター……スピーカーの下に敷く小さな台。机の上にスピーカーを置くと、机が共振して音が悪くなるので、それを防ぐ目的に使われる。
・ミックス……音楽制作において、音量バランスやエフェクトのかかり量を調整する作業。通常はモニタースピーカーで行い、ヘッドホンで修正をかけていくのだが、スピーカーがない人はヘッドホンを中心に行わざるを得ない。すると、スピーカーアウトした際、かなりの確率でバランスの悪い音になってしまう。(ヘッドホンでは音が平坦に聞こえるため、バランスを整えるのには向いていない)
・ホワイトノイズ……すべての周波数に均等なレベルの音があるノイズ。要するに、ほとんどの人が「ノイズ」と聞いて思い浮かべる「サー」っていう音。
・ステレオ……音楽における、LとR。イヤホンの左耳から出る音と右耳から出る音。たいていの音楽はこの2チャンネルのペアでできている。
反対語:モノラル……1チャンネルのみ。
参考:5.1chサラウンド……5ch+サブウーファー(低音用チャンネル)
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