ダイヤJ/透明人間の生活
誰とも口を聞かないで過ごしてから、もう一週間以上は経っていた。
そろそろ精神的におかしくなる頃だ。おかしくなる前に誰かと会話すべきかもしれない。
そうは思ってみるものの、誰かと話せばかえって気分が悪くなることもある。
おれはベッドから起きるとシャワーを浴び、腰にバスタオルを巻いて剃刀でひげを剃った。
もう真昼だ。窓ガラスから差し込む光がむかつくほどまぶしく、熱い。
洗面所の鏡に映ったおれの体は半透明で、後ろの壁が透けて見える。
透明化はまた一段と進んだようだ。
いつから透明化が始まったのか覚えていない。
過去の記憶そのものが薄れている。
記憶も透明化しているのか。
ドーラン化粧をしてカツラをかぶる。長袖のタートルネックのシャツ、ジーンズ、靴下、それに手袋をはめ、サングラスをかけると、半透明の肌はどこも露出していない。
外出するときは肌を完全に覆うことにしていた。
おれが透明人間であることがばれると、世間の連中が黙っていない。
よってたかっておれを捕まえ、おれの存在をニュースにし、おれを見世物にする。
専門家と名乗る高慢ちきな馬鹿どもが、おれの言い分は無視して、新種の昆虫を発見したかのようにおれを学術研究の標本にするにちがいない。
あいつらのやり口はわかっている。
一人暮らしのアパートから外に出る。
大通りに出る。片道二車線は途切れることなく車が通るが、渋滞してないから、今日の交通量は少ない方かもしれない。
乳母車を押す若い女。それを乱暴に自転車で追い抜く子供。
三列横並びで、だべりながら歩く高校生。亀のようにゆっくり歩く老人夫婦。スーツ姿の中年男はやや急ぎ足だ。
道ですれ違う人間どもは誰もおれのことを気にも留めない。おれが消滅しても、彼らの人生に何の影響もないだろう。
周囲から完全に切り離された存在。それがこのおれだ。
体が透明化してきたのは、このためかも知れない。
駅の方へ歩いていくと、『ABCバーガー』が見えてくる。
店の中はいつもより空いていた。おれは行列の最後に並ぶ。ほどなくしておれの番が来る。
「いらっしゃいませ」
カウンター越しの店員はポニーテールの若い女だった。
「・・・・あっ・・・・そのう、チーズバーガーを一つ・・・・」
おれは一週間ぶりに口から言葉を発した。緊張した。言葉を発すると喉が渇いた。
「ご一緒にお飲み物はいかがですか」
「じゃあ、コーラのスモール」
「かしこまりました」
勘定を済ませると、おれはスタンドでコーラをすすりながら、チーズバーガーを食べた。
これで一週間は誰とも口を聞かなくとも生きていけるだろう。
そういえば食事をするのもほとんど一週間ぶりだった。
透明人間化していくと、普通の人間のように食べたり、飲んだりしなくても生きていける体になっていくのかもしれない。
『ABCバーガー』を出て、さらに駅の方角へ向かう。
何の気なしに路地を進んでみる。すると向こうから四人の若者がやってくる。
一人はモリカン刈りの髪を茶色に染め、別の一人は腕に趣味の悪いタトゥーを施し、三人目は鼻にピアスをしていた。最後の一人はゴスロリファッションで女かと思いきや、よく見ると女装した男だった。
どうも行儀の悪そうな連中だった。
いつのまにか四人はおれを取り囲んでいた。
「おまえ、真夏なのに長袖着てんのかよ。だせえぜ」
”モヒカン”がそう言うと、他の三人が下品に笑った。
「兄ちゃん」”タトゥー”が言う。「怪我したくなかったら、財布置いてきなよ」
”鼻ピアス”は無言のまま、ジャックナイフを出しておれの目の前に突き出した。
「聞こえねえのか」”タトゥー”が言う。「金出せって言ってんだよ」
おれはおもむろに右の手袋を取る。半透明の右手は遠目には見えないだろう。
「お前って」”ゴスロリ”が驚く。「手がないのか」
おれは太陽に右手の拳をかざし、角度を調整しながら、”鼻ピアス”の髪に狙いをつける。
半透明の右手の拳は凸レンズと同じだった。
日光の熱を一点に集める。突然、”鼻ピアス”の髪が燃え上がる。
「どうなってんだ」
”鼻ピアス”は仰天して頭を手でかきむしる。火はすぐ消えたが、おれと目が合うと駆け逃げた。
”モヒカン”と”ゴスロリ”も”鼻ピアス”に続いて逃げ出した。
”タトゥー”だけは最後までおれを睨みつけていたが、おれが”タトゥー”に拳を向けるそぶりをすると、「ちぃっ」と叫んで仲間の後を追いかけた。
おれは彼らに背を向け、アパートに帰ることにした。
この次、外に出るのはまた一週間後くらいになるだろうか。
外の世界にはろくなことがない。
西の空に浮かぶ入道雲の形が、どことなくチーズバーガーに似ていた。
(完)