相田守の場合その3
「ここに、守の現世のデータがある。
だいたいのやつは、この自分のデータを読むと
現世での記憶が戻ると言われている。
けど、このデータを読むか読まないかは自由だ。」
拓真が稔先輩を見る。
その視線につられて稔先輩を見ると幼い顔には
とても不釣り合いな大人びた表情で2回頷いた。
「俺はこっちに来てすぐに読んだよ。
拓真の言った通り、一気に全部思い出した。
だからこそ、俺は勧めない。
現世でやり残したことが大きければ大きいほど
精神的にきつい。お前くらいの年齢だと尚更、な。」
表情を変えずに、俺の目を見て言った。
瞬きをした時、まぶたの裏に成人男性が映り込んだ気がした。
目をゆっくりと開くと、目の前にはどう見ても子供でしかない稔先輩がいた。
右側から声がした。拓真の声だと気付くのに数秒かかった。
「このデータを読まなくても、徐々に記憶が回復する場合もある。
そういうやつの場合は少しずつ記憶が回復するから、精神的ダメージは比較的少ない。
このデータに頼ると、一気に記憶が回復する。覚悟が必要だ。」
拓真の左目を見つめると、グレーの瞳の中の黒い瞳孔が少し揺らいだ。
「僕が管理しておくという方法もある。
読みたくなった時に僕に声をかけてもらえればいつでも読める。」
目の前の拓真は真剣な表情でギュッと下唇を噛みしめた。
その表情の裏側が気になったものの、
つらそうな表情を見ていられなくて俺は拓真の膝に視線を落とした。
俺のデータが書かれたという白い紙が視界にはいる。
「自分でデータを管理する。という選択肢もある。
読みたいと思った時にすぐに読める。
ただ、一人でこのデータを読むことだけは止めてくれ。」
胸の中にざわざわと自分で理解できない感情が芽生えた。
その感情を抑え込むために、唾を飲み込んで喉をごくりと鳴らし、
一つ大きく頷いた。拓真の左目が俺の目を射る。
俺は口を開いて言葉を発した。
「俺には、それを今すぐ読む度胸はないです。
拓真と稔先輩にそこまで脅されて読むほど
俺は強いとは思えないんで。
拓真さんに当分の間は預けておきます。」
あまりに張りつめた空気だったので、少しおどけた風に言ってみた。
時間が止まったかと思った。
目の前の拓真が微動だにしなかった。
俺の左に座っている稔先輩も息をしていないんじゃないか
と思うくらい静かな時が流れた。
俺も動いちゃいけないような気がして、息を止めた。
拓真の眉の端が少しずつ下がった。
「俺らに気ぃつかってんじゃねーぞ、この筋肉バカ!」
容赦ない小さな手の衝撃を背中に受けた。
拓真は困ったように笑った。
間違った答えを言ったのかと一瞬焦ったけれど
この選択は間違っていないことを確信した。
もしかしたら、そのデータをどうしても読みたくなる時がくるかもしれない。
でも、それは今じゃない。
自分の過去を知りたくないのかと言われると、もちろん嘘になる。
けれど、自分のことを心配してくれていると疑いようのない2人を差し置いて
自分勝手に行動する必要性は、まだ、ない。
コーヒーカップを持ち上げる。
正直、あまり得意な飲み物ではなかったような気がする。
恐る恐る口を近づける。
香ばしい香りに目を見開く。
コーヒーって、こんないい匂いだったか?
首を傾げつつも口に濃い茶色い液体を少し含む。
鼻に抜ける香りが今まで飲んだコーヒーとは違う。そう感じた。
見開いた目を何度か瞬いて、同じくコーヒーを飲んでいる拓真を見て言った。
「美味いです。」
「それは良かった。」
拓真はコーヒーの香りを楽しむかのように、ゆっくりとコーヒーカップを回した。
俺と拓真は同じコーヒーを飲んでいるのに、その仕草はまるで違った。
俺はコーヒーカップを片手で手に取り、ごくごくと喉を鳴らして飲む。
拓真はソーサーをカップに添えて上品に一口一口を楽しんでいた。
なんだか、恥ずかしい気がしてきた。
「守、テレビつけろ。」
稔先輩がリモコンを俺に投げてよこした。
自分でつければいいものを、なんでわざわざ俺にリモコンを託すのか。
恥ずかしい気持ちを打ち消すかのように稔先輩へ不満を抱いた。
それでも、まあ年功序列だ。仕方なくリモコンの電源ボタンを押す。
画面には先ほどの画質の悪い昔の映像ではなく、
平成26年夏の甲子園での高校野球大会の映像が映し出された。
これ、観たことがある。
耳の奥の方で小さな火花が散った。
今、テレビの左端に映し出されている得点は8回表で5-4。
だけど、9回裏で投手の暴投により4ボールで押し出し。
同点になって延長戦にもつれ込む。
13回裏で満塁になり、センターフライをエラーして、結果は5-6になる。
その時、目の前が真っ暗になったことを覚えている。
「お、甲子園?」
横に座る稔先輩が身を乗り出す。
拓真は相変わらず上品にコーヒーを飲みながら、テレビに視線を移した。
俺はテレビから目をそらしてコーヒーカップを手に持って見つめる。
俺は野球が好きだ。
きっと、野球をしていたんだと思う。
9回裏の場面がやってきた。
俺は視線をあげ、稔先輩に負けないくらい身を乗り出し、
テレビ画面を食い入るように見る。
2アウト満塁。ここで、
「うおっ暴投!?4ボール?延長か!」
稔先輩はこの試合を初めて見るようだ。
大興奮しながら見ている様は、まるで少年だった。
ふと拓真を見ると、目が合った。
今日何度目かの、憐れむような目をしていた。
突然、不安が押し寄せてきた。
そうだ。少しずつ、思い出してきている。
試合結果は、やっぱり13回裏でセンターフライをエラーして5-6だった。
一瞬、目の前が真っ暗になった。