相田守の場合その1
気が付いた時、俺は河原の岩場に座って目の前の大きな河を見つめていた。
いつからここにいたのか、どうやってここまで来たのか、
そして、一体自分は何者なのか、全てが記憶を司ると言われている
脳の海馬から消去されていた。
そこまで考えに至ってから、ある程度の知識は持ち合わせている自分に驚いた。
自分のことですぐに理解できたことと言えば、男だということくらいだった。
自分の手を見る。骨ばったごつごつした大きな手をしていた。
まず、右の手のひらをゆっくりと握る。
ぐっと力を入れると短い爪が手のひらの肉に食い込んだ。
少し痛みを感じた。それから、ゆっくりと手の力を弱めて開く。
左手も同様にその行為を行った。
下を向いたことで足が視界に入った、下駄を履いていた。
そして、俺は今、浴衣を着ている。
記憶がないと言いながらも、今まであまり着たことがない。
というのはおかしいのだろうが、そんな気がするのだ。
白い浴衣の生地は柔らかく薄い生地で気持ちがよかった。
履きなれない下駄を手に持ち、裸足になる。
足場の悪い岩場だ。気をつけながら立ち上がる。
河の上流、向かって右側に目を向けると、
河に赤い大きな橋が架かっているのが見えた。
その向こうにはさわやかな青空が広がり、白い羽の鳥が飛んでいた。
緑の木々が生い茂るそこは、自然豊かできれいな景色だった。
上流の方から少し風が吹き、前髪をゆらす。
心地のいい風だった。
向かって左側の下流に目を向けると、荒々しい岩肌がむき出しになり、
噴火口がちろちろとヘビの舌のように赤い色を放っている。
そんな不気味な木の生えていない黒い山がそびえたっていた。
上流とは違い、黒い羽の鳥が濁った空気の中を飛び回っていた。
空の色は水彩画でまだ乾いていない灰色に
ところどころ黒を落としたような斑模様だった。
無意識に奥歯をぎりりと噛みしめていた。
もし、ここから移動するのであれば、上流に移動しよう。と心に決めた。
河に近づき、覗き込む。存外きれいな河だった。
そこに、見慣れた顔が映りこんだ。そうだ、これは自分の顔だ。
一重で眠たそうな目をしていて、髪の毛は耳が少し隠れる程度の短髪で、
後頭部を撫でると、短い髪が手にちくちくと刺さった。
体格は、何かスポーツをしていたのか筋肉質な体つきをしていた。
右手でこぶしを作り、二の腕辺りを左手でグッと掴むと、
硬くてたくましい筋肉を感じられた。
視界に動く影があった。
その動いたものは、随分小さい子供だった。
にこにことこちらに笑顔を向けている。
なんだか、不気味な笑みに感じたが、
他に周囲に人影はなさそうだったので声をかけてみることにした。
「ここはどこだ?」
自分の声を低さに驚く。
子供は高い声でけたけたと笑って、岩から岩へと飛び移る。
俺についてこいと言わんばかりにこちらを振り返りながら手招きする。
ここにいつまでもつっ立っているわけにもいかない。
その子供の後について行く決心をした。
足場が悪いことなんてその子供は構いもせずに、
どんどん進む。俺はなんとかついて行く。
下駄を持った両手を広げてバランスをとりながら進む。
息が切れて、下を向いて息を整える。
その時怒声がした。
男とも女とも判断しがたい声色だった。
その声のした方を見ると、俺と同じ白い浴衣を着た、
容姿も声と同じくどちらともとれる端正な顔立ちの人がいた。
端正な顔立ちだからこそ、怒りの表情がより凄みを増す。
その人は子供を蹴り上げた。
あまりにも突然のことで、俺は声も出さずに、
きれいな放物線を描いて河に落ちた子供を見た。
「見知らぬ人について行くなと子供の頃に両親から教わらなかったのか。」
蹴とばした子供が河からはいあがって岩場まで戻ってきた。
汚いものを触るかのように自分の体からできるだけ遠い位置で
人差し指と親指だけで、軽々とその子供を掴みあげた。
その首根っこを掴む顔は、激しい剣幕だった。
見開いた目で射ると、子供の様子がおかしい。
手足がやけに長く、頭は小さい。
その横についている耳は尖っていた。
骨と皮と筋だけでできたような生き物に変化した。
そいつからしているのであろう腐敗臭が鼻をつく。
俺は喉を逆流しそうなものを、ぐっとこらえた。
「こいつは地獄からの迎えだ。ついて行くか?」
俺と同じ浴衣を着た人が、憐みの表情を俺に向けた。
それをこちらへ投げてよこした。
俺はヒッと小さく悲鳴を上げてその腐敗臭のするものを避けた。
それは、小虫のように長い手足を巧みに動かして、逃げ去った。
俺はその後ろ姿を見た。
俺がついて行こうとしていたのが
あの化け物の後だったのかと思うと、背筋が寒くなる。
今、目の前にいる人が言った言葉を思い出す。
『こいつは地獄からの迎えだ』
衝撃的な発言をした後で、『地獄からの迎え』である、
あの気味の悪い生物に触れた手と足を顔をしかめがなら見た。
河の水であの生物に触れた部分をごしごしと
青白すぎて光っているようにさえ見える肌が、赤くなるまでこすり洗った。
俺はその様子を立ちつくしながら見ていた。
目の前での出来事や、先ほどの言葉を反復する。、
見聞きした情報を脳にインプットするのに時間がかかっていた。
それは、もちろん記憶がないからではなくて、
目の前の出来事があまりにも現実離れしていたからだった。
痛々しく赤くなった手と足の水を振るって滴を飛ばし、
浴衣の袖口で乱暴に拭うと、俺を見た。
「あいだ まもる」
口の端を少し釣り上げて言ったのは、おそらく俺の名前なのだろう。
聞きなじみのある単語に、少し反応したかのように
耳の奥の方で小さな火花が散った。
ゆっくりと俺に近づいてくるこいつは、一体何者なのだろうか。
あの気味の悪い生物の実態を知っていた。
あの気味の悪い生物の仲間ではない、と信じたい。
俺さえ知らない俺の名前をこいつは知っていた。
俺の過去を知っているのだろうか。
浴衣の胸元に手のひらが添えられる。
俺の目線よりも幾分か低い身長で、華奢であったが男だった。
前髪が長く、右目を覆っていて左目しか見えない。
たゆんだ浴衣の胸元を慣れた手つきで撫でてから、
ピンと張ると、たゆみがなくなった。
「ついておいで。」
一瞬、男が憐れんだ眼で俺を見た。
記憶がなくなった俺に対してだろうか。
それとも、また別の理由だろうか。
そんなことは今はどうでもいい。
とにかく、自分の知らない自分を知りたい。
俺が決心して、そいつの後について行こうと足を進めた時だった。
「見知らぬ人について行くなと子供の頃に両親から教わらなかったのか。」
今度は先ほどの激しい剣幕ではなく、
少し微笑んだような表情で男は俺を詰った。
俺は何と返していいかわからず、バツの悪い表情を浮かべて
後頭部をガシガシと掻いた。
短い髪の毛が手にチクチクと刺さった。
彼の名前は『やまだたくま』と言うらしい。
お前の名前は『あいだまもる』だ。とその後に続けた。
河の上流に向かって歩く。
岩場を少し過ぎると砂利になっていて、少し歩きやすくなった。
そこで、手に持っていた下駄を履いた。
俺の前を歩く『やまだたくま』は聞いてもいないことを喋りだした。
「あっちが天国、そっちが地獄。」
あっち、で上流を指さして、そっち、で下流を指さした。
『地獄からの迎え』を見てしまった以上、その言葉を信じるしかなかった。
俺が黙っているのをいいことに、たくまは続けた。
「この河が現世で言う、三途の河だ。」
三途の河にしては、殺風景だと思った。
岩場とか、砂利とか、こんな無機質なものばかりある河だったのか。
俺の脳内では、花畑の真ん中にあるイメージだった。
「気を引き締めろ。でないと、またあいつらが寄ってくるぞ。」
たくまが指さした方には、先ほどとはまた違った形の
気味の悪い生き物が岩陰からこちらを盗み見ていた。
俺が険しい顔を作ると、そいつはビクリと身体を振るわせて
大急ぎで俺から見えない位置に隠れた。
「体格の割に、隙の多い奴だ。」
鼻をふんと鳴らして俺に視線を寄越した。
怒ってもいないのに険しい顔を続けるのはなかなか顔の筋肉を使うもので、
眉間の筋肉がぴくぴくと動くのを必死になってこらえながら
気になっていたことを口にした。
「俺は死んだのか。」
天国と地獄、三途の河と言えば、死後の世界だ。
そう考えれば、なんとなく、しっくりくるような気がした。
「それが、残念なことに、僕たちは死に損ないだ。」
三途の河に架かる大きな橋が近づいてきた。
橋の幅は想像していたよりも遥かに広く、昭和な雰囲気を漂わせる瓦屋根の建物が建ち並ぶ。
真ん中の1本道を挟んで住居や屋台のような店がひしめき合うようにして建てられていた。
「この橋には結界が張っているから安心しろ。」
眉間の辺りをぐりぐりと指で揉む。
めったに使わない筋肉を使った気がする。
周りを見渡してみると、様々な年齢の人々が行き交う。
俺たちのように白い浴衣を着ている人もいれば、洋服を着ている人もいる。
出店の店主であろう年配の男性が客寄せの為に声を上げる。
それに釣られて買い物籠を持った女性が店の商品を手に取り、品定めを行う。
キャッキャとはしゃぎながら走り回る子供たちも見受けられる。
その様子は昔ながらの商店街を想わせた。
俺は見失わないように、たくまの横を歩いた。
それにしても、よくもまあ、この橋はこれだけの建物や人々を支えている。
この橋が重みに耐えかねて崩れることはないのだろうか。
そう考えた瞬間に、すぐに後悔した。
そんなこと考えるんじゃなかった。と。
「死後の世界を見ながら、僕たちはここで生活をするんだよ。」
たくまは小さくつぶやいた。
その目の色は灰色だった。その中の瞳孔が黒く鈍く光る。
背の低い建物の合間から見える地獄の空の色と
似ている色をしていると思ったすぐ後に、罪悪感に苛まれた。