崩壊の始まり
雨が明けて、幽月は海兎のことを気にも止めずに朱濃、飛希羅、昂翔と酒を飲んでいた。
きっと彼女は知らないだろう。海兎がどれだけ悩んでいるのかを。
しかしながら時折見せるその悲しそうな幽月の表情に気付いた朱濃は声をかける。
「幽月…どうしたでありんすか。そないな悲しい顔して…」
「え、あ…あらそんな顔をしていたかしら?」
そう言いながら微笑むと、隣で聞いてた男の姿の飛希羅はげらげらと笑う。
「幽月ィ、ヌシはやっぱり笑ってる方が好きじゃよ。めんこいからの。わしは笑顔の主が好きじゃ」
「…飛希羅、飲み過ぎだ」
「飲みすぎとらんぞぉー?昂翔の方が飲みすぎじゃ」
夜桜を除いた帝架のメンバーが酒を飲む。
ここ最近はそういうことが多くなった。
ドタドタドタドタドタッ
廊下から騒がしい足音が響く。
その足跡の持ち主は幽月の自室前で止まった。
聞こえるのは荒い息遣い。
酔っていた帝架の四人に不穏な空気が流れた。
「ゆ、幽月様…!大変でござります。夜桜様が…夜桜様がっ…!胸に大変深い傷を負って帰ってきまして…!」
女中が障子越しで、声を震わせながら話し出す。
その言葉を聞いた途端、部屋の不穏な空気が一瞬にして凍りついた。
幽月は血相を抱え、すぐさま立ち上がる。持っていた盃は音を立て落ち、畳に染みを作る。
誰よりも先に部屋から、女中を押しのけて廊下を走った。
「幽月!!落ち着け、取り乱すんじゃない!」
叫ぶ昂翔の声を聞かずに彼女は廊下を走る。
大広間に辿り着いた幽月は襖を勢いよく開いた。
そこには血塗れになり胸を押さえる夜桜の姿。
夜桜の周りには、燐華と鈴香が座り込んで泣き喚いている。
家臣たちは治療をしても無駄と言う判断をしたのか、静かに涙を流していた。
「父様、父様…父様ぁっ…ひっく、お願い、お願い死なないで…」
燐華が涙を流しながら、夜桜を見つめる。
「父様、ひっく、うっ…父様…逝かないでください、逝かないで…父様、と、うさま…が逝ったら私は、わた、しは…」
燐華の隣で鈴香は夜桜の手を取りながら、泣く。
幽月は鈴香と燐華を優しくどけ、夜桜に抱き着く。
「や、お…う…何があったのよ…」
「…ああ、幽月…ゴメンな…。吾葉座の帰りに、奇襲を受けた…」
「…吾葉座の…?どこの、誰よ…っ!」
「知らん…が、ふん…どうせ、俺に…恨みのある奴らだ、ろ。はっ…見当はついている、が、な」
そう言うと胸を押さえて血を吐く。
「誰よ…どこのどいつよ…」
「…俺の視界には…、一角の鬼が、いたな…」
「ま、さ、か…」
「その、まさか…かもな…ぐっ…」
幽月はぽろぽろと涙を流す。恐らくこの涙は、他人に見せる最初で最後の涙だろう。
もうすぐ、彼は。
「父様ぁ…!!」
燐華と鈴香が泣き叫ぶ。悲痛な表情をする双子に夜桜はそっと微笑む。
「燐華、鈴香、愛してる…。俺の可愛い可愛い双子。いとおしい、かわいい、俺の子供…っ。どんな風に…思われていても、俺は…お、れは…お前らを愛している」
そして幽月の方へ顔を向ける。
「さ、いごに…ゆ、づ…き」
「なあに、夜桜」
夜桜の手を己の頬に重ね、微笑む幽月。流れる涙は止まらない。
「例え…お前が、俺以外の子を…産もうとも、俺はお前を愛してる…、殺したいほどお前を、愛している。だ、れよりも」
「や、お・・・う…」
そう言って、夜桜は静かに目を閉じた。
燐華と鈴香は泣き叫ぶ。
どんなに幽月から虐待を受けても、あんなに泣かなかった子供たち。
二人を愛してくれた人が居なくなった。
幽月も今までに見せたことない表情を、この大広間に居る者に見せた。
あんなに気高く美しかった幽月。
誰よりも孤高で、恐れを知らないように思えた彼女。
いまは双子と同じように、ただ愛した人の死に泣く。
その一部始終を海兎は静かに眺めていた。
昨日のことをぼんやりと思い出しながら。
嗚呼、嗚呼。これは運命なのだろうか。
僕が一番悩んでいたこと。
彼が居たらきっと僕たちは結ばれないだろう。
刹那的にそう思ったが、その考えはすぐに消えた。
そしてすぐさまに後悔する。一瞬でも死んでよかったのだと思ったのだ、僕は。
嗚呼、僕はなんとも最低なのだろう。
また心の中で自分自身に悪態をつき、自己嫌悪に陥った。
家臣たちが静かに見守る中、外の木陰から鰍と氷鏡も共にその様子を見ていた。
ただ幽月とその双子の娘は愛した人の死に泣くばかり。
それを見ていた海兎はぽつりと呟いた。
「幽月様は、子供を生むのだろう…・。」
そんな独り言を聞き逃さなかった鰍は海兎の目を見ずに話す。
「は?子供?お前、なんか俺に隠し事してる?俺に言わなきゃいけないことあるんじゃないの。」
怒りを含んだ言い方。まるでもう知っているかのように、鰍はそう言ったのだった。
「あの、その、氷鏡くんにはもう言ったのだけど…僕、幽月様を、孕ませちゃった、んだ。だから、その…」
「ふぅん…お前、それで夜桜様が亡くなってよかったとか思ってるわけ?最低だな」
鰍のその指摘は事実である。海兎はその言葉を受け止め涙目になりながらも、屋敷の中を見つめる。
「そ、そ、そういうわけじゃ…」
涙で視界が霞みながらも、主の夫を見届けなければならない。
これはある種の懺悔だ。
嗚咽を堪えながら鰍に返答すると、鰍は海兎を睨んでいた。
今までに見たことがないくらいの怒りの表情で。
「違わないだろ。てか、ずっと俺に言わなかったわけ?氷鏡には言ったのに、俺には教えなかったんだ」
そんな二人の様子を見ていた氷鏡は優しく宥めた。
「二人共…、故人の前でそんなことを行っている場合じゃないだろう。落ち着け。」
「ごめん、氷鏡くん…」
「…悪ぃ。俺、ちょっと頭冷やしてくる」
そう言い、鰍は二人の元から音もなく去っていった。
海兎はぽろぽろと涙を流しながら、声を抑える。氷鏡はそんな彼の背中を優しく撫でたのだった。
*
それから、亡くなってからまもなくして夜桜の葬儀が行われた。
静かに厳かにに行われた葬儀にて幽月は、いつもの牡丹色の着物から黒い着物に。
いつも着崩していて肌を見せていたときとは違い、きっちりと着ている。
金髪は高い位置に縛り上げ、黒い蝶の簪。
双子の娘らも、黒い着物を来て幽月と同じく髪を高い位置に縛っていた。
彼が亡くなる前彼女は取り乱し人目を憚らずに泣いていたというのに、葬儀中は一つも涙を零さず過ごしていた。
ただ静かに、静かに夫の夜桜を見送ったのだった。
そんな幽月に倣い、燐華と鈴香も喪服に髪を結いあげ黙って父親と別れを告げる。
しかし、幽月と違い娘たちはわなわなと震える拳を握りしめ、唇を噛み、葬儀中ずっとお互いの傍を離れなかったのだった。
葬儀が終わると幽月は自分の部屋に戻り、涙を流す。
「何で逝ってしまったの…?貴方は私が殺すはずだったのに。どうして、どうしてなのよ…あんな奴に、あんな奴に」
その様子を海兎は影から見ていて、止められない衝動に我慢しながらも幽月を見つめていた。
彼のことを忘れさせたい。僕のことだけを想って欲しい。
どうしたら、この願いは。
自分のことしか考えてない、そんな思いを抱きながら俯くと幽月が儚げな声で海兎を呼んだ。
「海兎…。そこにいるのでしょう?ほら出てきなさいな…。」
障子を開け、海兎は部屋の中に入ると幽月は海兎を暫く見つめた。
………。
沈黙が続く。
何で黙っているんだよ。僕を呼んだんだから…何か話してよ
沈黙に耐えられず海兎は心の中で呟く。
すると幽月が躊躇いながら、話し掛けた。
「何か…話したい事があるのでしょう?」
幽月は腕を広げ、そして海兎抱き寄せる。
火葬するその寸前まで彼を抱きしめていたのだろう、未だに残った血のにおいと屍体特有のにおいが彼女から薫る。
「幽月様…。」
「ヤダ。いつものように呼んでよ。」
「幽月ちゃん…。あのさ…」
「なーに?」
幽月が子供のように話す。いつもの誰も近づけさせない雰囲気とは違い、暖かい雰囲気。
いつも二人きりで過ごすときの甘えた声。
この声を僕にも出すなんて、夜桜様は知っているのだろうか。
「子供…産むの?」
すると幽月は驚いたように一瞬、眼を見開いたがまだ穏やかに話す。
「ん…。産むわ。可愛い貴方の子供だもの。それにね…、知ってたのよ。彼。私と海兎のこと。お腹に子供がいることも、全部、全部知ってたの。知っててなお、それでも私を愛してくれていたの。私、わ、たし…とっても、とても、最低だわ。こん、なのっ、裏切り行為なのに。わたしとっても、さいていっ…。最後に、彼ね…私に言ったのよ。『お前が、俺以外の子を…産もうとも、俺はお前を愛してる…、殺したいほどお前を、愛している』って。」
幽月はまた、泣き出し、着物の袖で泣いている顔を隠した。
海兎はその幽月の言葉に驚きを隠せず目を見開いた。
夜桜は全てを知っていた。
僕と彼女の関係を。それでも、彼は咎めようともしなかった。
死ぬ間際まで彼女を思い、彼女を許し、彼は逝ったのだ。
その言葉を聞いて、僕は死んでも彼には勝てないのだと悟る。
それから海兎は幽月を優しく幽月を押し倒す。
幽月は驚いて、海兎を見上げる。
「どうしたのよ…」
「ごめんね、ごめんね…っ。僕、ぼく、どうしようもなく、貴女を愛してます、愛してるんです」
「うん…」
「僕は、一番じゃなくてもいい、だけど、僕を、ぼくをあいして、幽月ちゃん」
「…本当に?夜桜ほどあなたを愛せなくてもいいの?構わないの?」
「…う、ん。だから、その僕の子供を、産んでください…」
「…わかったわ、それでもいいなら、私はあなたの子を産むわ」
そう言い、幽月は優しく海兎のかさかさした唇に口づけた。
なんとも、滑稽な愛の茶番だろう。
それでも構わなかった。
君と僕の証が、子供が生まれるのならば。
しかしながら、この時点で何もかもが崩れ始めたのを二人は知らなかった。