半月湖に、扇舞い
今宵も、月虎は一人、湖のほとりに腰掛けていた。月は明るく、足元の下草と湖面を照らしている。
『こんばんは、若き陛下』
優しく澄んだ声が、耳元で聞こえた。彼の束ねた長髪を撫でるかのように、夜風が吹く。しかし、湖畔には誰の姿も見えない。
山中の美しい湖、半月湖。名前通り、半分の月を象った湖水の内に存在する『彼女』は、水妖なのだ。
「こんばんは、ハヌル」
月虎も微笑み、答える。空――という意味を持つ名を教えてもらったのも、最近のこと。初めて語りかけられた時には驚いたが、こうしてひっそりとした真夜中の会話を楽しむようになった今では、それも笑い話になった。
『どうかして? 陛下。今夜はご機嫌のようね』
少女――といっても、姿を見たことがないのだから、声音だけで判断した結果だが――ハヌルは不思議そうに問う。微笑を苦笑に変えて、月虎は肩をすくめた。絹の長衣にはその血筋と紛れもない地位を示す、虎の刺繍が入っている。この白虎国、第十五代、月虎王である証だ。
その名も称号も、都の白京から遠く離れた山中にいる時点で意味も意義もないものだ。が、そんな心中を彼女に吐露したところでどうなるものでもない。湖面を優しく見下ろし、月虎は足元の布袋からある物を取り出して見せた。
『まあ、大琴……素敵なものを持ってきたのね』
湖面から響く声は、その人ならざる者の力ゆえか、隣で笑う顔まで思い描けそうなほどに近く感じる。手を叩き、喜んでいるまだ見ぬ少女の顔を想像しつつ、月虎は頷いた。
さすがに人より長命とされる存在だけに、楽器の名称までもよく知っているらしい。琴という字を使うが、実のところ黄竹で作られた、太く長い横笛のことである。のびやかな高音も美しく奏でられる笛だが、深く耳に染み入るような低音を月虎は好んでいる。
「ああ、一昨日都から使者が来てね。私が以前宮で使っていたものを届けてくれた。昨日のうちに見せてあげたかったんだが、少々時間を要したものだから」
『時間を?』
そう、と月虎は笑みを深くする。久々の感触も、一日置いた今は手に馴染んでいる。
「勘を取り戻すための時間だよ」
言って、月虎は吹き口に唇を当てた。彼の奏でる静かな音色が、夜の闇に流れていく。うっとりと聴いてくれる少女の顔を、目を閉じた脳裏に描いてみる。まだうまく行かないことに自分が安堵しているのか、それとも失望しているのか、月虎にはわからなかった。
大陸の端に突き出た半島である白虎国は、隣接する大国、赤龍に常に悩まされ続けてきた。数え上げるのも苦になるほどの回数、攻め込まれ、支配され、また取り戻し――今の国土をなんとか維持してきたのだ。しかしその安寧もまた、此度の戦で危うくなろうとしているらしい。というのが、先日の使者からの話だ。
朝になると、数少ない臣下を集め、形ばかりの謁見が始まる。王宮でのそれとは規模も重みもまるで異なるものだが、形だけでも同じにしようと努力された結果だ。
ここは都から遠く離れた南京。なだらかな稜線の美しい南京山に築かれた、山城だ。戦火が激しくなるにつれ、都の白京ではいつ何時攻め込まれるかわからない。戦いから王族を守るため、また、落ち着くまでの避難先として築かれた山中の城である。
「……下、陛下。お聞きになっておいでで?」
同じ単語でも、深夜に聞くあの可愛らしい響きとはまるで違う。どことなく嫌味にも聞こえるその敬称に、月虎は平静な表情を保ちつつ、視線を向けた。
「ああ、聞いている。それで結局、宴の開催を決めたと言うのだな。……わかった、では準備を進めるように」
御意、と臣下らが一斉に叩頭する。自然に、自嘲の笑みが月虎の頬に浮かぶ。すぐに立ち上がり、自室へ向かう回廊に出たために誰にも気づかれはしなかっただろうが。
(お飾りの王は、黙って言いなりになっていればいい――そういうことか)
国中が戦に疲弊している今、あえて年中行事を慣行――いや、強行する理由がどこにあるだろう。そんな暇があれば、一刻も早く和平を取り戻す算段を講じるべきだ。そんな月虎の意見に耳を傾ける者は、この山城にも王都にも、誰一人いなかった。
病で突如父王が崩御し、即位した齢二十二の月虎。当初は見目麗しく年若き新王と歓迎した民も、既に彼を切り捨てていた。武より文に秀で、平和を愛する穏やかな王など、この戦火の時代には求められていなかったのだ。
「まあ、本当に? そんなの……じゃないの!」
こそこそと、回廊の裏から侍女たちの噂話が聞こえたのは、月虎が空しいため息を吐いた時だった。
まさか当の王本人が近くで聞いているとは思わないのか、それとも気にもしないのか。この山城に来て半年が経ち、確実に怠惰になった彼女らのひそひそ声は、大きくなるばかりだ。
「まさか、世蘭様が? だってあの方は、陛下のご婚約者じゃないの」
「そうそう、ご病気でここまでの旅が難しいとかで陛下にご同伴なさらなかったでしょう? ところが、療養中のはずのご実家でなく、陽虎様の別宅に入りびたりだと都では専らの噂だって」
「道理で……文も陛下から送られるばかりで、まるで来ない訳だわ。よりによって陛下の弟君と――」
「でも、今の王都を守られているのは陽虎様なのだし、賢明なご判断かもよ。大きな声では言えなくても、王にふさわしいのは陽虎様だって皆思ってるもの……」
愕然と立ち止まっていたのは、どれほどの間だっただろうか。胸を抉る話題はすぐに移り変わり、姦しさと共に去っていく。優しい水の匂いが一瞬漂ったような気がして、月虎は我に返った。あの、軽やかな声が聞きたい。心の底から思った。緑の瓦屋根を照らすまぶしい陽光を、これほど疎ましく感じたのは初めてだった。
刺繍靴の先が、ぱきりと枝を踏む。それだけで、ハヌルの嬉しそうな気配が伝わってきた。
『何かあった? 陛下が全然来ないから心配して……』
「その呼び方はやめてくれ」
低く遮られ、ハヌルは驚いたようだった。が、すぐ気を取り直したように尋ねてくる。
『じゃあ、どう呼んだらいい?』
「ただ、月虎と」
『まあ、水妖の私ごときが、王様の名前を呼び捨てにしてもいいのかしら』
一度も告げたことのない名前も身分も、ハヌルはちゃんと知っている。不思議な力は、世のどれだけのことを網羅しているのだろう。この国の王である自分が知らないことのほうがよほど多いのだから、皮肉なものだ。ゆがんだ笑みさえどこかで見ているかのように、ハヌルが気遣うような沈黙を置く。それから、遠慮がちな声が伝わってきた。
『月虎』
初めての呼び声は、なぜか耳に優しい。心にも優しいのだと月虎が気づいたのは、そよそよと風にゆらぐ湖面から次の言葉が聞こえてからだった。
『私ね、月が大好きなの』
「月が……?」
ええ、といたずらっ子のような、笑みを含んだ声が続ける。
『私は、この半月湖で生まれた。水は私の体で、手足で、心なの。そこにいつも、月が輝きを与えてくれる。太陽ももちろん、明るく照らしてはくれるけれど――あれはまぶしすぎるし、外の世界全てに向けられた光だわ。でも、月は違うの。優しい、控えめな光で私を見守ってくれる』
揺れる湖水には、ハヌルの言うとおり丸く黄色い月の影が映りこんでいた。まるで、湖と月の逢引にさえも思えるほど、二つは親しく見える。
『あなたみたいだわ、月虎』
どこか遠くに感じていた話が、突然近くなったのはこの時だった。やわらかな夜風が、月虎の頬を撫でてゆく。
『初めて会った時、月が人の姿を取って現れてくれたのかと思った。だから、声をかけていたの。話がしたかったの。ねえ、また笛を聞かせて……?』
心に開いていた穴に、ハヌルの言葉は染み入った。会わなくなって久しい婚約者の顔よりも、ハヌルの表情ばかり想像しようとしている自分。ただ、人外の者との密やかなやりとりを楽しんでいたつもりの気持ちが、わずかに変わった夜だった。
秋夕。それはここ白虎国で、先祖の魂が現世に戻ってくると言われる時期だ。収穫物や料理を供え、法事が行われた後、人々は飲めや歌えやの大騒ぎに突入する。下々の民の過ごし方とは多少違ってはいても、王宮でも毎年宴が開催される。その『秋の宴』をこの山城でも開くと決定したのは、弟の陽虎だった。争いごとを好まぬ兄に今の情勢は辛いだろうと、山城への避難を半ば強引に促したのも彼だ。そうして一人王都に残り、戦陣を率いながら王の代任を務める彼のことを、民も臣下もいつしか頼るようになっていた。そして知った。自分は守られたのではなく、体よく厄介払いされたのだということに――。
それから、月虎はただ『王』としてここで暮らしている。お飾りの、人形王として。
既に習慣となったため息は、差し出された文を見て止まった。
「世蘭が、宴に?」
「はい。お越しになられるとのことです」
目を見開いた月虎に、臣下が微笑む。
「何を驚かれます? 陛下。扇舞を舞えば王宮で右に出る者はいないと噂の世蘭様は、他でもないご自身の婚約者であらせられるのですぞ。当然のお話ではございませぬか」
美しさと比例して気位も高い、生まれながらの姫。もう彼女に会うことはないと思っていた。自分を選ぶ者などいないのだとあきらめていた。それでも、少しは望みを抱いていたのかもしれない。自分にそんな感情がまだ残っていたことを、月虎は夜になってから知った。
『まあ、ご婚約者様が舞を? それは……とても素敵ね』
一瞬の沈んだ響きにも、あわてて明るくしたような声音にも、気づけなかった。空しく感じていただけの宴だが、本来自分が舞いも音楽も好んでいたことを思い出す。
だから、軽く笑って答えたのだ。
「ああ。世蘭の扇舞は殊更に美しいんだ。そうだ、舞台はここに――半月湖の前にあつらえよう。宴は日が暮れてから始めるから、お前も見物するといい。たまには私以外の人間を眺めてみるのも、面白いだろう」
『あなた、以外の人間?』
「今はまだ無理でも、戦況が静まれば私もこの山城を出るかもしれない。そうなれば誰もいなくなるし、お前も退屈になるだろう? 今のうちに、賑やかな宴見物をしておけば――」
ちゃぷん、と魚が跳ねた音で月虎は言葉を止めた。風もやみ、湖面は再び静寂に包まれる。ハヌルの答えは、かなりしてから返された。
『舞は……好きよ。音楽と同じくらいに。音を奏で、全身を使って舞う時、人はとても美しいもの。そこに込められた想いは、心は――正直だから』
意味を掴み損ね、怪訝な顔になる。そんな月虎の表情に、ハヌルは寂しげに笑った。彼女がねだる前に笛を吹き始めたのは、奇妙な沈黙に耐えかねたから。なのに、すぐに悔やんだ。今夜の大琴は、なぜかとても落ち着かない音色だったのだ。
(音や舞は正直、か。私の奏でるこれは、一体どんな心を表しているのだろう)
都に戻る、などと、どうして今更そんな言葉が口をついたのか。世蘭が来ることが嬉しいのか、それとも怖いのか――。月虎の音色を、ハヌルはただ静かに聴いていた。
*
水妖――古くは半月の精と呼ばれ、恐れられ、また敬われてもいた人外の存在。いつの頃からか供物は途絶え、人々の心からも忘れ去られ、今は怪しげな伝承の中にだけその名を連ねることとなった異形。それが自分、ハヌルという生き物だ。名前も、月虎に尋ねられた時に自分で決めた。大好きな月に似たあの人と、いつも共に見える空になりたかったから。
「何やってんだ? お前」
ぼんやりしていたハヌルに声をかけたのは、頭に二本の角を持つ小鬼の少年だった。名前は知らない。だって、人間のように呼び合うことなんてないからだ。双方、姿形などいくらでも変えられる。けれど、やはりその者の本質は外見からもにじみ出てしまうものだった。
今のハヌルは、一見人間の乙女に似た風貌をしている。しかし、それを構成するのは半月湖の水だ。ゆらゆら揺れる、危うい水で形作られた少女の体は、淡く透ける水の色をしていた。そんなハヌルの手元を覗き込み、少年は顔をしかめる。
「あ、これってあれだろ。人間がよく手に持って踊ってるやつ……そうそう、扇!」
ハヌルの長い髪の先にもつながる、水でできた一本の扇。零れ落ちそうにゆらめきながらも、それは不思議な質感を保っていた。
「お前、まーた人間の真似してんのか。懲りねえなぁ。噂になってんぞ、人好きの水妖娘が、ついにどこいらの王に惚れ込んじまったらしいって」
角の間をぽりぽり掻き、小鬼は鼻で笑った。今度はハヌルが顔をしかめる番だ。
「うるさいわね。別にいいでしょ」
背を向けるなり、ハヌルは水の扇を片手で操り、ひらひらと振った。
「姉様たちに教えてもらったのよ。綺麗でしょう」
微笑むハヌルは、いつのまにか短い上衣とふわりと広がった下衣をまとっている。人間の娘たちが纏う、チマ・チョゴリだ。もちろんこれも、似せただけだが。
水を通して、ハヌルには遠く離れたところにいる仲間の声も、彼女らが過去や現在目にした光景さえも見聞きすることができる。雨が運んでくれた情景をうっとりと思い浮かべ、また扇を振った。そんなハヌルの姿をじっと見ていた小鬼は、小さく呟いた。
「どうせ長い命だ。遊びならいくらだってやりゃいいけど……度が過ぎると山神霊様のお怒りを買う。身を滅ぼすことになるぞ」
掟を忘れるな。そう言い残すと小鬼はぴょんと飛び上がり、あっという間に森に消えていったのだった。
(わかっているわ、そんなこと)
小鬼が去ってから、ハヌルは俯いた。人間をからかったり、惑わしたり――古来から、自分たち異形の存在と呼ばれるモノたちは、自由気ままに生きてきた。その中でもまだ年若いほうに入る自分とて、昔は人間を脅かしたりして遊んだものだ。
『人に恋をしてはいけない』
それが、ハヌルや小鬼のような異形の者の長――山神霊の決めた、まず第一の掟。
『彼らのために、人の姿になってはいけない』
これが第二にして最後の掟だ。いたずら心からではなく、人を想い、人のために自らの姿までも変えてしまう行為。それは想いの強さゆえに人そのものの命と成り果て、か弱き存在に身を落としてしまう。人と異形の交わり深かった時代に起きた様々な悲しい出来事を受け、憂えた山神霊は厳しい掟を決めた。破った者には罰として、死を与えることも。
ハヌルは表情を硬くし、扇を下ろした。ぱしゃん、と全てが水に帰っていく。体さえも水に溶け込ませ、ハヌルはまた漂い始めた。いつものように、広い自由の中へ。それから、深い深い孤独の内へと――。
(ただ、あの人に笑っていてほしい。そう願うことは……そんなにいけないことなのかしら)
漂うハヌルの耳に、水はまた新たな報せを運んだ。今、ちょうど都で交わされている、美しい女性と別の男性の会話だ。
ああ、あの人が、事実を知ってしまったら。彼の想い人は来はしないのだとわかったら、きっと傷つく。彼の心が、涙を流す。
その時、自分は掟を守りきることができるだろうか――。
ハヌルの声なき葛藤は、半月の湖にだけ溶けていった。
*
宴の日がやってきた。既に都から楽人や客は続々と到着している。といっても、あくまで赤龍国との戦の只中にあるわけだから、そうとわからぬよう小規模の隊を組み、少しずつの移動だ。
「陛下、そろそろ日も暮れます。舞台のほうへ移動なさりませんんと」
宴の場、それは半月の形をしたあの湖だ。唯一、自分の意見が聞き入れられた結果である。半年の間、人知れず通いつめた場所だった。ここ数日は行けなかったが、水妖の少女は元気でいるだろうか。宴を喜んでくれたらいいのだが――。
まだ見たことのないハヌルの笑顔を想像し、やっと月虎は立ち上がった。
たどり着いた湖畔は、常の静けさが嘘のように人で賑わっていた。結い上げた髪に冠を付けた、正装姿の月虎が宴席に腰掛けると、歓迎の声が掛けられる。
「やはり陛下の凛々しいお美しさには、常日ごろより驚かされますな」
「都の者も、皆早く陛下の元気なお姿を拝したいと、戦況の落ち着くのを心待ちにしております」
訪れた貴族たちの心にもないお世辞に、月虎はただ頷く。まだまだ続く話に本音など一つも込められていないことはわかっていたから、月虎はひそかに暮れていく夕空を見ていた。
(今夜は、ちょうど月が半分だな)
そう気づいた時だけ、ふっと微笑が漏れる。が、すぐに儀礼的な笑みへと変わった。やがて、最後の楽隊の到着が知らされる。
「まあ、世蘭様が……!?」
「お越しになるのではなかったのかしら」
侍女たちが騒いだのは、訪れた舞姫たちの中に王の待ち人がいなかったから、だけではなかった。それまで静かであった湖面全体にさざなみが起き、震えるように水が揺れるのを目にしたからだった。
(ハヌル……?)
少女の気配だけを、強く強く感じた。それがすぐ後にふっと掻き消え、その場から感じられなくなったことで月虎は動揺する。
婚約者が来なかったことよりも、あの少女に何かあったのではないかと思うほうが辛いことに、たった今気が付いたのだ。
苦笑しつつ、月虎は緩やかに首を振った。
「よい。予定通り、宴を始めてくれ」
楽団の演奏は、順番に執り行われた。賑やかな杖鼓や、情緒深い伽耶琴、細やかな音色の美しい奚琴。打楽器から弦楽器、管楽器まで、様々な音楽が奏でられ、またそれに合わせた舞が披露されてゆく。艶やかで美しい宴に、自然と皆の顔が綻んでいた。ただ一人、月虎だけを除いて――。
(ハヌル――ハヌル。お前に、会いたい……!)
無力で無能な自分への絶望。そんな中で彼が強く願ったのは、それだけだった。水の匂いが濃く漂った刹那、雲に月が隠れる。焚かれていた篝火が、夜風に騒ぐ。続いて、驚きの声が上がった。
「世蘭様――!? そんな……」
呼ばれ、ゆっくりと舞台に進み出た娘。それは半年振りに見る、婚約者その人だった。白の上衣に、紅色のチマを履いた舞い手たち――揃いの衣装の中央、一人だけ艶やかな水色の上衣と、濃紺のチマを身に着けている。結い上げた黒髪には、銀のかんざしがきらめいていた。
「遅くなって申し訳ございません、陛下」
万感の想いを込めたように、娘――世蘭は言った。深々と頭を下げられ、固まっていた唇を動かし、月虎は挨拶に答えた。何を言ったのかも、自分で覚えていなかった。
(これが、世蘭……?)
誰もが驚きながらも、まさに本人でしかありえない容貌と凛とした立ち姿に納得しているようだった。何か間違いがあって、遅れて到着したのだろうと。話はまとまり、いよいよ宴の最後を飾る舞台――扇舞が始まる。
ゆったりと奏でられる伴奏に合わせ、群舞が繰り広げられ、赤い牡丹が描かれた扇が揺れる。全員で動きを合わせ、時には花のように、また時には蝶のように扇で表現する舞だった。中央にいる世蘭は、一際美しく、流れるような動きで舞う。まさに、この世のものとも思えぬような美だった。
あの黒髪は、これほど艶やかに輝いていただろうか。滑らかな肌は、月光に照り映える陶器のようだっただろうか。何より、強い光を湛えた瞳は、こんなにも心にまっすぐ入り込み、自分を捕らえて離さぬ魅力に満ちていただろうか。
(あれは、まさか――)
閃いた予感に押されるように、いつしか月虎は立ち上がっていた。持ってこさせていた楽器――自身の最も好む横笛、大琴を手にし、唇に当てて構える。
夜の湖面を滑るように、低く深く大琴の音色が響いた。最初の一音で、舞っていた世蘭の足が一瞬止まった。見開かれ、揺れる目と目が合う。それだけで、月虎は確信していた。ずっと焦がれ続け、思い描いてきた少女。その本当の顔が、垣間見えた気がしたのだ。世蘭の仮面を被った奥で、驚く少女の顔が。
しかし、突然歩み寄ろうとした王の行動も、舞姫の不審な驚愕も、何もかもが一瞬のうちに掻き消えた。否――消されてしまったのだ。もっと壮絶で激しい、混乱の攻撃によって。
「軍勢だ……陛下、赤龍の奇襲です!」
敵軍は宴の場に忍び寄り、周りを取り囲んでいたらしい。誰も気づかぬうちに周囲を埋め、逃げ場も立って。そうして、深紅の鎧に身を包んだ軍勢は一気に火矢を放ったのだ。
「危ない――月虎!」
呆然と襲い来る矢を見ていた月虎は、背後から押され、よろめいた。臣下たちが皆逃げ惑い、その本心を示すように王である自分を見捨てた中、たった一人。我が身を犠牲にかばったのは、美しい刺繍の施された扇をかなぐり捨て、チマが乱れるのも気にせず駆けてきた舞姫、世蘭――否、あの少女だった。
「……ハヌル!」
月虎の確信が、彼女の変化を解いたのか。それとも力の限界であったのか。人の姿をしたハヌルは胸に刺さった矢から赤い血を流し、苦痛に顔をゆがめていた。もはや、あの婚約者の面影一つも見出せない、まるで異なる愛らしい容姿。それが蒼白な顔色になり、倒れ伏すのを、月虎は信じられぬ思いで見ていた。足元に倒れたハヌルを、あわてて抱き起こす。
「月、虎……」
ごめんなさい、とかすれた呟きが耳に届いた。少女の頬が、かすかにゆがむ。微笑もうとしたのだとわかった時には、もう瞼は閉じられていた。皮肉なことに、まるで人そのもののように体はまだ温かい。
「嘘だ……嘘だ、そんな」
やっとわかったのに。本当は誰を愛しく想っていたのか、気づいたのに。もう遅いなんて、信じたくなかった。
軍勢は迫り、みるみるうちに臣下は捕らえられ、または殺され、残りは王である月虎一人となった。呆けたように、血塗れた少女の遺骸を抱いている青年に向かい、敵の大将らしき男が近づいてくる。
「久しぶりですね、兄上……傀儡の国王陛下」
兜を取った顔、それは王都を守っているはずの実弟――陽虎だった。
「知らぬは本人ばかりとは、よく言ったものですわね。人ならぬ者に入れ込んでいるらしいと、ひそかな噂は都にまで届いておりましたが……わたくしにまで化けるなんて、不届き千万。陛下、そんな異形など、さっさと始末しておしまいなさいませ」
そっと歩み寄り、鎧の肩に手をのせかけたのは、婚約者であったはずの娘。
「世、蘭……」
壊れたような頼りない声が、月虎の喉から零れ出た。陛下と呼ばれたのは、敵国の鎧を着た弟のほうだったのだ。
(宴も、奇襲のための偽装だったというわけか……!)
「おや、隣国に通じた裏切り者とお怒りか? 兄上はやはり甘い――私の望みはそれ以上だ。大国と手を組んだのではない。いずれは赤い龍の喉元に噛み付いて、全てを手に入れてやるのですよ」
「流される血は……罪もない民はどうなる」
「民? そんなもの、掃いて捨てるほどいるではありませんか。私が仰ぎ見るのは天下の玉座だけ。足元の蝿など、どうでもいい」
冷酷に笑う弟の言葉に、月虎は爪が食い込むほどに強く、手のひらを握り締める。
『月虎』
優しい少女の声が、耳に蘇った。大切だった、清らかなハヌル。己の弱さが全てから目を背けさせ、挙句愛しい少女までも死に追いやった。傀儡の身に成り果て、本当の思いをごまかしてきた自分に下った天罰。
(いや……まだ、終わっていない)
こんな自分を慕い、守ってくれたハヌルのためにも。非道な赤龍の軍勢から、美しい白虎の土地を。そして、民を守る本来の役割を、今こそ果たす時だった。
「私は十分に力を蓄えた。人望も得た。あなたの役目はもう終わりです。人形王、覚悟――!」
(力を貸してくれ……ハヌル!)
剣を片手に駆けてくる弟めがけ、月虎は弓を射た。自身の技量では当たるはずのない無謀な攻撃はしかし、鎧の隙間を縫い、正確に陽虎の胸を射抜いたのだ。
「馬鹿、な……」
がくりと膝を折った陽虎。恐慌し、それを支えようとする世蘭。向かってくる赤の軍勢。全てを、突然の豪雨が遮った。雨で水かさをましていく半月湖。そこに、今までで一番強く濃い水の匂いが漂う。一瞬の後、爆発的な水が彼ら全てを襲った。渦を巻き、あふれ出た湖水が氾濫し、敵勢を押し流していく。まるで命と意思を持つかのような水の流れは、敵軍を全滅させるまで止まらなかった。
*
水の奇跡が、赤龍国の企てを失敗に終わらせた。国と民を裏切った弟を征伐した月虎王はその後王都へ戻り、今までの憂いた姿が嘘のように偉大な王となったという。しかし、毎年避暑のために彼は必ず半月湖を訪れた。月虎王の奏でる笛の音に合わせ、湖面はさざめき、揺れた。舞うように、想いを伝えるように。それがもう二度と語りあうことはかなわない恋人たちの、魂だけの逢瀬であったことは、誰も知らない――。 (了)
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