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火の輪くぐりのライオン

作者: 岩槻大介


 天井全体が微かな音を立てて一瞬揺れた。

 点検口に頭を突っ込んだ年配作業員の下半身も、脚立に跨ったまま同時に揺れた。若い方の作業員は、床で脚立を押さえながら先程から俺の顔をちらちら見ている。おそらくテレビで見たことがある、とでも思っているのだろう。無理もない。確かに俺は、先週一週間だけで3本のトーク番組に出た。週刊誌は挙って時代の寵児、と書き立てている。検索ランキングでもついにトップに躍り出た。

 何かと暗い見出しが紙面を埋め尽くすこのご時世、注目されるのはイケメンスポーツ選手ではない。歌って踊れる弁護士でもない。ゴールデンタイムにマツコ・デラックスとガチでやり合える、俺のようなカリスマ霊媒師に国民は食い付くのだ。

 両手で脚立を押さえたまま、若い作業員は俺に話しかけるタイミングを計っている。黒縁眼鏡を掛けたその顔は、くしゃみを我慢しているトカゲを連想させる。トカゲがくしゃみをするかどうかは別にして。ともあれ、俺は意味もなく勿体ぶることが大嫌いだ。ここはひとつ俺から話しかけてやろうか。名前を名乗って作業服の背中にサインでもしてやろうか。しかしそれはあまりにも拙劣な行為だ。少なくともカリスマと呼ばれる人間のすることではない。

 そんな俺の煩悶を尻目に、目の前に座った若い女性客がブラウスの一番上のボタンを外して中に小さな空気を入れた。

「あ、あぁすみません、暑いですよね」

「いえ、大丈夫です」

「何もこんな日に壊れなくてもいいのに」

「ほんと、大丈夫ですから」

 客は俺と目が合うと、恥ずかしそうに耳朶の尖端を紅潮させた。純白のブラウスに紺色のパンツ・スーツ。髪は栗毛色のショートカットで、思慮深そうな一対の二重瞼が細い鼻筋を隔てて同じ動きをしている。服装だけではなく表情も涼しげだったので俺はとりあえず安心し、お客様カードに視線を落とした。

 谷崎桃子。22歳。墨田区立むくどり幼稚園勤務。

「で、脳の精密検査を受けたのが」

「先月です。どこにも異常がないと分かって一安心したのですが、それからも症状は変わらなくて」

「精神科の検査は」

「受けていません。と言うか、これは精神的なものではない気がするのです」

「なるほど。それでうちに来た、ってわけだ」

 先程出したアイスコーヒーの氷が、グラスの中でカランと音を立てる。昨日は高校野球の試合中に9回ツーアウトまでノーヒットピッチングだったエースが熱中症で倒れ、そのまま帰らぬ人となった、というニュースが全国を席巻した。

 谷崎桃子はアイスコーヒーを飲むでもなく、グラスをじっと見つめていた。視線で氷は溶けるかどうかの実験をしているようだ。

「その、症状というのはやはりあれですか。肩に重みを感じる、とか枕元に人の気配を感じる、とか」

「いえ、脱ぎたくなるんです」

「は?」

「脱ぎたいんです、服を」

 あぁこれはやはり部屋が暑いと言っているのだ、と俺は思った。

「ねぇ、エアコンもう動かしていいかな」

 俺が話しかけると、トカゲは待ってましたとばかりに微笑んで、された質問の内容を脳で再生しながら、脚立に跨った年配作業員の爪先をポンポンと叩いた。主任、エアコン動かしていいっすか。

 天井の小さな点検口の中から主任の声が響いた。あぁ、そっちはもう直ってるよ、でも天井がさぁ。

「先生、直ってるそうです」

 主任の声を途中で遮って、トカゲは意気揚々と俺に伝えた。

 先生、か。どうやら名乗るまでもなかったようだ。テレビの画面で見た顔が目の前にいるのだ。いやでも高揚する心理は分からなくもない。こいつは帰ってから早速家族や友人たちに自慢するのだろう。そして一躍人気者となり、みんなに饗応される。そう思ったら、この安直なシチュエーションを生んだ偶然性が、なんだか腹立たしくさえ思えてきた。そうだよ、これは単なる偶然でしかないのだ。たまたまうちのエアコンが壊れ、たまたま電話帳にお宅の会社名が記載されていた。それだけのことなのだ。努力もせずに人気者になられては、俺のように努力をして人気者となった人間が報われない。この構図、どう見ても公平さに欠ける。

「なんだ、早く言ってよ」

「えへっ、すんません、先生」

 俺はわざと舌打ちしながらエアコンのスイッチを入れた。しかし、そんな俺の苛立ちもトカゲには伝わっていないようだ。まぁいい、とにかくこれで客に不快な思いをさせなくて済む。天井埋設型のエアコンから涼風が降りてきて、谷崎桃子の前髪を微かに揺らした。

「よし。もう大丈夫ですよ。で、症状の話でしたよね」

「はい。私、とにかく服を着ていたくなくて」

「ですからそれはもう大丈夫です。すぐに涼しくなりますから」

「違うんです。服が、恐怖なんです。もう、どこにいたって全部脱ぎたくなるんです」

 桃子の語尾が少しだけ喘ぐようにかすれた。俺は持っていたボールペンをそっとテーブルの上に置き、桃子の目を見た。からかいに訪れた客なら即刻帰ってもらう必要がある。そして、その可能性は充分考えられる。何しろ俺はカリスマ霊媒師なのだ。人気を妬む輩も当然現れるだろう。或いはただ単に揶揄したいだけであったり、マツコ・デラックスの熱烈な支持者だったり。人気を得るということはすなわち、敵を多く作るということだ。

 しかし、桃子の目からはそんな斜に構えた匂いは感じられなかった。彼女の仕草はあくまでも真剣に、そして切実に、降りかかった苦悩を吐露しているように見えた。その、明鏡止水とも言える黒い瞳からは、明らかに救いを乞う儚げな光がカラータイマーのように点滅しており、縁のあたりは若干潤んでもいた。

「谷崎さん。人は普通、入浴中以外は着衣しているものです。言うまでもなくそれは、服を着ることによってとりあえず最低限の安心を確保するためです。それを恐怖と感じるってことは、やはり精神的な何かが不安定になっているように思えますが」

「分かっています。でも、だからといって私を精神病扱いしないで下さい」

 桃子はそう言って上唇を尖らせた。その表情には何度も味わったもどかしさみたいなものも含まれていた。しかし、口調に似合わず童顔なため拗ねた子供のようにしか見えず、俺は思わず噴き出しそうなった。

「精神病だとは言っていませんよ」

 その時、天井がまた音を立てて揺れた。主任の下半身は相変わらず微妙に震え、脚立を押さえるトカゲは口を半開きにしたまま俺を、いや、桃子を見ていた。

「でも」

 エアコンの稼働により部屋の温度が徐々に下がってきた。

「でも?」

「でも、普通の人はそうだ、ってさっき仰いましたよね」

「言いました。だってそうでしょう」

「私は」と言いかけて、桃子は一瞬言い淀んだ。自分の声が思ったより大きく聞こえたらしく、指先で口元を押さえてからトーンを下げて同じ言葉を繰り返した。

「私は、家にいる時は殆ど着衣していません」

「えぇっ、嘘でしょう」俺は耳を疑った。

「本当です」

「本当にその、着衣、していないんですか」

「はい」

「全く?」

「全く」

「だって、え、あの、失礼ですがご家族は」

「父と母と弟がいます。最近ではもうみんな、慣れたというか」

「父? 弟?」

「それが普通の恰好なんだ、と気にしなくなってくれたみたいで」

「いやいや、気にすると思います。と言うかなっちゃうと思います。だって、じゃ、テレビを見ている時も、みんなで食卓を囲んでいる時も、あなただけ、その、なんと申しましょうか」

「全裸です」

「そう。って、だめです。やっぱりなっちゃいます、気に」

「そうですか」

 桃子はゆっくりと視線を落とし、小さなため息をついた。

「そうですよね。やはり私の存在は、周囲にとって」

「ストップ」

 俺はふと得体の知れない違和感に包まれ、桃子の言葉を遮った。やけに部屋が静かだ。その理由はすぐに判明した。作業員二人の手が、なぜか止まっている。主任は頭を点検口に突っ込み、トカゲはひたすら俯いて脚立を押さえたままの状態で。

 俺が一瞬怪訝そうな表情をしたからか、桃子は不安気な目で俺を見た。

「ごめんなさい、続けて下さい」

「はぁ。えっと、ですから私がそんなだと、やはり周りに不快感を与えてしまいますよね」

「あいや、不快とかじゃなく、その、戸惑いと言うか、むしろ罪悪感と言うか」

 俺は自分が何を言っているのか分らなくなった。

「罪悪感、ですか。確かに洗濯物を干す時などはそれを感じます。昨日もベランダで」

「ストップ」

 俺は思わず桃子の眼前に手をかざしてしまった。無音となった室内が一瞬張り詰めた空気に包まれた。

「まさか、ぜ、全……着衣なしの状態で、ベランダに出たんですか」

 桃子に顔を近付けて、小声で俺は聞いた。

「はい」

「はい、って」

「そしたら、隣に住んでいる高校生の息子さんに」

「ストーップ! あいや、すいません、続けて。……あぁやっぱ続けないで」

 迷走する俺に戸惑って目を丸くする桃子の後ろで、カタッという音がした。見ると、妙な態勢で前かがみになったトカゲの胸ポケットから落ちたドライバーが床を転がっていた。苦笑する彼の上で、脚立に跨った主任もなんだか不自然に腰をすぼめている。無理もない。彼には声しか聞こえていないのだ。その分、想像力が全開フルスロットルでからだを駆け抜けて、制御不能になってしまったのだ。点検口の中の顔はきっと真っ赤になっているに違いない。

 俺は立ち上がって二人の作業員に言った。

「あの、エアコンはもう直ったんだよね」

「はい、あいや、でもまだ天井が」

 主任が慌てて点検口から頭を抜き出した。想像通り赤らんだその顔は汗と蜘蛛の巣と妄想が複雑に絡み合い、左門豊作の顔をヤスリで研磨して炭火で炙ったような状態になっていた。

「天井はいいですから」

「でも、吊っているボルトが全部錆びていますよ。このままだとエアコンだけじゃなく天井自体が落っこちて」

「大丈夫。その時はデスクの下にでも避難しますよ。さ、お引取り下さい。暑い中ご苦労様でした」

 俺の無情の通達に、二人は死ぬほど名残惜しそうな顔をして脚立を片付け始めた。そして最後にトカゲが取ってつけたような口調で俺にこう言った。

「じゃ先生、ここと、ここにサインをお願いします」

 一つは修理確認伝票で、もう一つは自分の背中だった。



 俺はまだ完全に谷崎桃子の話を信用したわけではなかった。

 快適な室温になった事務所のソファーで、桃子はやっとアイスコーヒーに手を伸ばした。溶けて小さくなった氷がグラスの中で唇に当たり、小さく跳ね返った。桃子は慌てて上唇の縁を指先で拭い、その光景を俺に見られていたことに気付いてぽっと耳朶を赤らめた。なんて魅力的な唇なんだ。俺は、ストローを出さなくて良かった、と思った。

 それにしても不条理なことだ。彼女は完全におかしなことを言っている。これは誰だってそう思うに違いない。しかし、桃子の口から出るその不条理さには一抹の「遊び」も感じられなかった。どうにかしたい問題があり、それを是正するための様々な方策を真剣に考え、検討し、動いてみて出した結果がこれです、といった徒労が感じられた。実際俺の事務所に来る前に脳や自律神経の検査を受け、婦人科にも相談に行ったらしい。

 つまり谷崎桃子は、真剣に悩んでいたと言うわけだ。

 しかし、どこへ行っても建設的な改善策や治療方法は得られなかった。

「谷崎さん。ご存知の通り、私は医師でもセラピストでもありません。単なる霊媒師です。従って私にできるのは、治療でもカウンセリングでもなく、除霊です。お分かりですよね」

「もちろん分かっております」

「では、なぜ私のところに」

「霊だからです。これは私に取り憑いている霊たちが、そうさせていると思ったからです」

「霊たち。複数形ですね。明確な心当たりがあるようだ」

「はい。あります。明確に」

「分かりました。ではまずそこからお聞きしましょうか」

 俺が言うと谷崎桃子は一瞬緊張した表情になり、それを抑えるように耳朶を軽くつまんだ。俺は膨大な試験問題の中の一問が、労せずして解けたような気がした。耳朶だ。桃子の耳朶には、たくさんの真剣さと実直さが詰まっているのだ。

「私は四国にある小さな町で育ちました」

 桃子は意を決したように語り始めた。

「人口が少ないせいか、町民全員が大きな家族のようでした。そこでは強い人が弱い人を守るという習慣が根付いており、女性は何かと優遇されたりもしました。成人式では毎年役所の人が町の観光バスで女の新成人の家を回り、式典が行われる会場まで送り届けてくれるのが慣わしでした。女の人は晴れ着を着たりして移動が大変だろうから、との理由で。

 保育科の短大生だった二年前、私もついにそのバスに乗ることになりました。

 朝から晴れ着を着せてもらって、丹念な化粧を終えた頃、バスは私を迎えに来ました。運転しているのは町の観光課長さんでした。

 その年、女の新成人は私も入れて合計8人でした。みんな小学校からずっと一つの教室で過ごした仲の良い同級生です。それぞれの晴れ着や衣装を見せ合って、バスの中で私たちは大いに盛り上がりました。手を叩いて笑ったり、なぜか突然涙ぐんだり、20年間の思い出も一緒になって走っているような気がして、車内ではとにかく話題が尽きませんでした。

 そして会場に続く海沿いの道に出た時、悲劇は起きました。対向車線を走ってきた居眠り運転の大型トラックに正面から追突されたのです。バスはそのまま崖を滑り落ち、海に転落しました。事態を把握する間もなく私は、無我夢中で車外へ脱出しました。転落した時の衝撃でちょうど私の座っていた席の窓ガラスだけが割れていたのです。でも、車外に出てからが本当の地獄でした。海はそんなに深い筈がないのに、水面らしい光がすぐ先に見えているのに、手が、足が、全く動かないんです。信じられないくらいの重力が、私のからだを羽交い絞めにしていたのです。薄れてゆく意識の中で、私の目に沈んだバスが映りました。混濁した水飛沫が舞い上がる車内に色とりどりの布が浮遊しているのが見えました。死の乱舞だ、と思いました。布たちは私を引き寄せ、恐ろしい重力で飲み込もうとしていました。

 服を着たまま水中に潜ると、人間は本当に動けなくなります。服が、信じられない程重くなるんです。まして晴れ着なんて、もう完全に悪魔です。物凄い力を持ったたくさんの小人たちに取り押さえられているようなものです。こうして思い出しただけでも、からだじゅうを掻きむしりたくなります。一刻も早く、衣服を剥ぎ取りたくなるんです」

 谷崎桃子は言いながら指先で首のあたりをゆっくりと引っ掻いた。一番上のボタンが外れたブラウスの中で、銀のネックレスが見え隠れした。そして俺の視線に気付き、慌てて指を耳朶に移動した。

「そうですか。そんな辛い事故を。いや何となく分かりました。あなたが着衣することに恐怖を覚える理由が」

「分かっていただいて嬉しいです」

「ちなみにその時、事故に遭遇した他の人たちは」

「運転していた課長さんは崖を転落中に車外へ放り出されて一命を取り留めたらしいんですが、私以外の女の子たちは全員、海に沈んだバスから出ることもできませんでした」

「つまり、あなた一人が生き残った、と」

「そうです」

「お気の毒としか言いようがない」

 俺がそう言うと、桃子は俯いたまま黙って目を閉じた。悲しい出来事を思い出させてしまい、俺は申し訳なく思った。

「彼女たちなんです」

「は?」

「こうして目を閉じると、あの時見た乱舞する布の中から、彼女たちの手が伸びてくるんです」

「仲の良かった、お友達の?」

「そう。あの7人の手が私のからだを、服を、こうして重くさせて、うっ」

 桃子の指が再び服を掻きむしり始めた。今度は先程よりも力強く。ブラウスの二番目のボタンが引きちぎれそうになっている。俺は慌てて彼女の名を呼んだ。

「谷崎さん。谷崎さんっ」

「先生、今すぐ除霊して下さい。分かったでしょう、これは明らかに霊なんです。彼女たちの霊が私の着る服に取り憑いて、あの海に引き摺り込もうとしているんです。だから、だから早く」

 桃子は視点の定まらない目を見開いて、必死に訴えかけた。俺はどうしていいか分からず、咄嗟に彼女の両肩を掴んで人差指でトン、トンと軽く叩いた。

 やがて桃子は落ち着きを取り戻し、長い息を吐いてそのままぐったりとソファーに凭れかかった。俺はそれを確認してからショートホープに火を点け、お客様カードを再び手に取った。

「話してくれてありがとう。確かにあなたは陰惨な光景を目の当たりにして、その時の恐怖に今もなお拘泥されているようです。ただし、それが霊によるものかどうかは、はっきりと断言できません。今一つ事態を掘り下げていく必要があります。そこでいくつかお聞きしたいのですが」

 桃子は疲弊した表情で言葉を発さずに小さく頷いた。

「あなたは現在、都内の江戸川区にお住まいのようですね」

「はい。あの事故以来、しばらく私は誰とも会うことができなくなってしまい、家に籠って死んだような生活を送っていました。とにかく不安で不安でたまりませんでした。一人だけ生き残ったことで誰かに後ろ指を差されているんじゃないか、と。それは私だけではなく、うちの家族全員がそうでした。実際、父の職場には嫌がらせのメールが届くようになりました。どれも私が元気に生きていることを妬むような内容でした。私だって大切な同級生を失ったのに。厚い連帯感で構築された風土は、妬みのパワーも団結するのです。妬まれる方はたまったもんじゃありません。そうして居づらくなった私たちは、高校球児だった弟が東京の大学にスポーツ推薦で受かったのを機に家族で東京に引っ越すことを決断したんです」

「なるほど。そういうことでしたか。それでこっちに来てからは、幼稚園の先生になられて」

「そうです。せっかく資格を持っているのだから、といくつか当たってみて、ちょうど空きがあった今の幼稚園に昨年の春から採用されて働き始めました」

 俺は元気な子供たちに囲まれた桃子の顔を想像してみた。暗い記憶を払拭するように笑い、子供と真剣に立ち向かっている姿がそこにはあった。

「一年が経ち、仕事にもやっと慣れてきた今年6月のある日、私のからだは初めてそれを感じました。

 その日はとても暑かったので、みんなで園庭の水撒きをしていました。しばらくして、クラスのやんちゃな男の子たちがホースの先を突然私に向けたのです。私はすぐに避けたのですが、ズボンの膝から下あたりに少し水が掛かってしまいました。その時、私はあの恐ろしい重力を感じたのです。私のふくらはぎに張り付いて重くなったジャージのズボン。次第に何かがからだ全体に張り付くような気がしてきて、それを今すぐ脱ぎたくなったのです。むしり取りたくなったのです。ズボンだけではなく、着ている服全てを。今思うとその何かとは、あの7人の手だったんです」

「亡くなったお友達の、ですか」

「はい。だって彼女たちには、いえ、彼女たちの霊には、明確な悪意があるんです。私を陥れようとする明確な悪意が」

「でも、仲の良いお友達だったんでしょう」

 俺はだんだん早口になってきた桃子の言葉を遮った。

「事故のことは不運だったとしか言いようがありませんが、その後のことは、つまり谷崎さんだけが助かったということについては、偶然と言いますか、たまたまそうなっただけじゃないですか。それにあなた自身、深い悲しみを感じている。友達ならそれをちゃんと理解してくれていますよ」

 本心だった。

 確かに桃子の話は、霊を引き寄せるストーリーとしては辻褄が合っている。しかし、そこには何か腑に落ちない点が茂みの中に隠れているような気がした。

 桃子は俺の話を聞きながら細い指先でしきりに心臓の辺りをトントンと叩いていた。先程俺がそうしてあげたように。どうやら自らを必死に落ち着かせているらしい。

 トン、トン。松の葉から滴る雨水のようなリズムで白いブラウスの上を小刻みに叩く白い指。叩くたび、ボタンとボタンの間が一瞬ふわっと広がり、その奥に水色の隙間が一瞬見え隠れする。

 俺は慌てて自分の視線の元を掻き消した。

「とにかく、私にはあなたの症状、つまりその、服を脱ぎたくなってしまうことと、事故で死んだ7人の同級生たちの間に因果関係があるとは思えません。私もプロです。私自身がその存在を疑うものについては手を触れないと決めています。だから申し訳ありませんが、現時点で私にできることは何一つありません」

 しばらく桃子は黙ってテーブルの端を見つめていた。唇が微かに震えて、それは泣きだしそうにも、笑いだしそうにも見えた。

「分かりました。今日は帰ります」

 しばらく沈黙が続いた後、桃子は今にも消え入りそうな声でそう呟いた。俺の中を微かな安堵心が旋回した。そして桃子は、玄関でサンダルを履きながら俺の顔を見ずにこう言った。

「でも先生、これだけは判って下さい。私にはもうここしか、先生しか頼れる人がいないってことを」

 開いたドアの外から、世界中の悲しみを粉末状にしてジェット機のプロペラで飛散させているような夕空が現れた。それは桃子の細く透き通ったシルエットをシュークリームの皮みたいに包み込んだ。白いブラウスの背中が一瞬透けて、そこに白い肌と水色の横線が幻のように浮かび上がった。



 谷崎桃子が帰ってから、俺は冷蔵庫から葡萄ジュースを取り出し、グラスに注いで一気に飲み干した。そしてたった今まで桃子が座っていたソファーを見降ろした。テーブルの上には氷がすっかり溶けてなくなったグラスが二つ並んでいる。

 俺はしばらく頭の中を整理した。どこにいても服を脱ぎたい衝動に駆られる22歳の女。それだけ考えたら、まるでコントかAVのネタだ。もしくは新種の風俗詐欺。

 しかし彼女の口調には、いやらしさもキナ臭さも感じなかった。むしろ得体の知れない清潔感が漂っていた。

 谷崎桃子の脳裏にはあまりにも悲惨な出来事が焼き付いている。深い悲しみを背負い、それと真剣に戦っている。語られた話が全て真実ならば、彼女は明らかにSOSを発信しているわけで、カリスマ霊媒師である俺としては何とかしなくてはならない案件となる。

 今、この時にもどこかの路上で彼女は服を全部剥ぎ取っているかもしれないのだ。それは法的な問題を発生させ、罪人を誕生させることになる。仮にそうなったとしたら、助けを求めに来た彼女を無下に放逐した俺は、ただの無慈悲な男になってしまう。

 でも俺には本当に見えなかったのだ。彼女の言う、死んだ同級生たちの手が。

 これは話の信憑性の問題ではなく、あくまでも人間の絆を想像しての見解だ。死ぬ直前まで車中で楽しく語り合った同級生たちが、悪意に満ちた霊となって桃子を苦しめるとは思いたくなかったのだ。あの至極魅力的な唇と耳朶を持つ桃子の……、とここまで考えて、俺の頭の中に新たな邪推が割り込んできた。

 本当に楽しく語り合ったのだろうか。たとえばあまり友好的ではない、それこそ悪意に満ちた会話がバスの中で交わされ、桃子がそのスケープゴードにされていたとしたら。そう言えば、厚い連帯感で構築された風土は、妬みのパワーも団結する、と彼女は言った。それは事故後のことではなく、以前からの関係性がそうだったのではないか。そして、海底でバスの中に閉じ込められた7人を見た時、彼女はこう思ったのではないだろうか。

 みんな死んでしまえばいい――。

 この仮説が当たっているとしたら、その後の展開は実にありがちなケースとして成立する。誰にも言えない罪悪感が、日を追うごとに恐怖感となり、次第に霊の存在だと思うようになる。人は身に覚えのある恐怖心をメタフィジカルなものへ転嫁させたがるものだ。それが最も手っ取り早くて分かりやすい処理方法だということを知っているのだ。なるほど、そうか。海底で彼女が見たものは、死の乱舞ではなく助けを求める7人の必死の形相だったのだ。それを、彼女は見捨てたのだ。

 俺はショートホープに火を点けてソファーに腰を下ろした。すっかり沈んだ太陽が向かいのビルの輪郭をオレンジ色に際立たせていた。先程見た桃子の透けた背中を思い出した。

 よし。腕を組んで、俺はそう呟いた。谷崎桃子は溺死した7人に恨まれても仕方がない状況にあった、彼女は、その悪霊に取り憑かれて苦しんでいるのだ、よし、成立した、これは俺の使命だ、彼女を救ってあげられるのは、カリスマ霊媒師である俺以外いないのだ。

 自分の中で妥当性が証明できた途端、俺は猛烈な後悔に襲われた。なぜ、桃子を無下に帰してしまったのだろう。俺は今すぐにでも彼女を追いかけたくなった。彼女は真っすぐ家に帰ったのだろうか。いや、そう悠長な状況でもなさそうだった。一刻も早く悪夢から脱却したがっているように見えた。そうなると、俺ではなく別の霊媒師のところへ向かったかもしれない。或いは何か別の機関へ駆けこんでいる可能性だって考えられる。

 ううむ。俺は嫌な胸騒ぎを感じた。桃子の悩みは内容が内容なだけに慎重に扱う必要がある。決して遊び半分で下劣な角度から扱ってはいけないのだ。もし、俺とは正反対の悪徳エロ霊媒師のところへ行っていたりしたら、彼女は報われない。クリーンで誠実な霊媒師である俺は、何としてでも彼女を救ってやらねばならない。

 谷崎桃子は、俺を頼ってきたのだ。谷崎桃子は、俺の客だ。

 気付いたら俺は携帯電話を握っていた。お客様カードに書かれた桃子の番号をプッシュしようとして、指を止めた。待てよ、どう切り出せばよいと言うのだ。まさか「あなたは友達に嫌われていたでしょう」とは聞けない。俺は霊媒師であって、町の占い師ではない。それ以前に、この上なく失礼な質問である。では、そんなことには一切触れずに、こう切り出してみてはどうだろう。「いやちょっと心配になって。どうです、脱ぎたくなっていませんか」待て。これではただの変態だ。さて困ったぞ、どうしよう。などと悩んでいると、掌の中で突然電話のベルが鳴った。桃子からだ、と何の根拠もなく感じた予感は見事に外れた。掛けてきたのは来週収録が行われるテレビ番組のアシスタント・プロデューサーだった。

「先生、今どこにいらっしゃいます?」

「どこって、事務所だよ」

「あれ、打ち合わせ18時からですよ。大丈夫ですか」

「え?」

 忘れていた。

 俺は慌てて手帳と簡単な荷物をバッグに詰め込み、エアコンのスイッチをオフにした。きゅるきゅる、きゅる、と情けない音を発してエアコンの電源が切れた。同時に、慌ただしく揺れながら4つのウイングが閉じた。それは点検口を覗いていたあの主任の下半身にそっくりな揺れ方だった。



 打ち合わせが終わり、スタッフと食事をして事務所に戻ったのが23時近くだった。勿論その間、谷崎桃子からの電話はなかった。俺からも結局掛けることはできなかった。

 まぁいい。こちらからアクションを起こして下手に噂が広まったりしたら、俺の立場もややこしくなるし、カリスマというエンブレムに埃が付く恐れもある。それは何としてでも回避しなければならない。ここはひとつ、静観するのが一番だ。なに、非常事態になったらおそらく向こうから掛けてくるだろう。俺は無理やりそう納得してテレビを点けた。液晶画面には避難訓練をしている小学校の児童たちが映し出されていた。

 それをぼんやり見ながら、俺は桃子の非常事態について考えた。非常事態、すなわち例の症状が突然現れて、それが街中のとんでもない場所だったりしたら……。たとえば人が大勢いる、どこかのターミナル駅とか、電車の中とか、コンビニとか。コンビニの店内で桃子が着ている服をいきなり荒々しく脱ぎ始めた姿が目に浮かび、慌てて大きく頭を振った。

 俺は何を考えているのだ。

 止そう止そう。俺はテレビで人気のカリスマ霊媒師だ。神妙に、そして誠実に人の心から恐怖と悲しみを払拭する、好感度ナンバーワンの真面目な救世主なのだ。

 そう言い聞かせて俺はとりあえず風呂に入ることにした。明日は午前中から雑誌の取材が二本とCM撮影の打ち合わせが一本入っている。俺は忙しいのだ。目まぐるしくスケジュールをこなすうちに、きっと谷崎桃子のことなど否応がなくとも忘れてしまうだろう。


 二日後、俺は出張で新潟にいた。

今日除霊した相手は、人ではなく一台の車だった。依頼人の話によると、その車は半年前に購入した中古車で、乗り始めて間もなく立て続けに三度の人身事故を起こした、とのことだった。

 仕事を終え、新幹線で東京に戻った頃にはすっかり日も落ちていたが、暑さは相変わらず居座ったままだった。玩具屋の店頭に口を曲げて座り込んだ子供のように。そしてタクシーを降りた時、舗道の隅で本当に座り込んでいる人間を俺は見た。口を曲げた子供ではなく、憔悴しきった顔の谷崎桃子だった。


「今日帰宅すると、ポストにこんな物が入っていました」

 事務所に入るなり桃子は泣きそうな声でそう言って、一枚の紙片を俺に差し出した。そこには達筆な筆文字でこう書かれていた。

『ここは集合住宅です。室内とは言え公序良俗に欠ける行為は慎むようお願い申し上げます。』

 俺は桃子をとりあえずソファーに促し、エアコンのスイッチを入れた。

「これは、誰からのメッセージですか」

「おそらくマンションの隣の部屋に住んでいらっしゃる方かと」

「その、高校生の息子がいるという」

「そうです」

 先日とは雰囲気の違う、黒い無地のTシャツにブルージーンズといったラフな服装の桃子は、言い終えると俯いたまま唇の端を微妙に噛んだ。

「公序良俗って、谷崎さん、あなた一体何をしたんです」

「私は何もしていません。ただ、その息子さんが建造物不法侵入で警察に補導されたらしくて」

「不法侵入?」

「母が昨日聞いた話なんですが、息子さんは数日前、向かいのマンションの屋上にいたところを警官に補導さられたらしいのです。普段は施錠されている外階段のドアがバールでこじ開けられていたことと、屋上に望遠鏡が設置されていたことで充分な犯罪性があると判断されて、パトカーでそのまま連行された、と言っていました」

「つまり、望遠鏡で覗いていたわけですね」

「そうらしいんです」

「お宅の室内を。って言うか、あなたを」

「はい。十数人で」

「十数人?」

「最初は一人で見ていたそうですが、そのうちクラスの仲間を呼ぶようになり、そしたら噂が一気に広まったらしく、商売になると思った息子さんは見学料を徴収するようになったらしいんです」

「それで毎夜、高校生たち数十人が望遠鏡で代わる代わるあなたを覗いていた、と。しかも金まで取って」

「まぁ、そうみたいです」

 最低だな、その息子。俺の中でコマのような怒りが旋回し始めた。

 母親も母親だ。警察から息子が白状した内容を知らされ、逆恨みして「息子は挑発されただけだ」と矛先を桃子に向けたのだろう。

 桃子は申し訳なさそうに目を伏せて、耳朶を摘まんでいる。その表情に怒りや恥ずかしさは感じられなかった。

「あなたは見られていることを、それまで全然気付かなかったんですか」

「気付きませんでした。それより窓際で体操を始めると、決まって向かいのマンションの灯りがいくつか消えるので、そっちの方が変だなぁと思っていました」

「窓際で、体操を」

「はい」

「その、あなたが普段家にいる時の恰好で」

「そうです。あ、体操と言っても大したものじゃありません。いわゆるソフト・ヨガと言うもので、簡単な美容体操のような」

「いや、そういうことではなく」

「はぁ、どういう」

「ですから、その、ヨガだろうがバレエだろうが盆踊りだろうが、その時あなたは衣服を、その何と言うか」

「着ていません」

「そこです」

「あ、でも私、盆踊りは苦手なんで」

「だからそういうことじゃなくて。って言うか谷崎さん、あなた、その高校生たちだけじゃなく、向かいのマンションに住む多くの人たちに見られていますよ」

「まさか」

「まさかじゃありません。灯りを点けたままだと、覗いていることがバレちゃいますからね。だから消すんです」

 俺は心なしか口調が荒くなっていることに気付き、慌てて作り笑いを浮かべた。

「……そうでしたか」

 桃子は俯いたまま消え入るような声をテーブルの上に落とした。

「やっぱり、私が悪いんです。私は公序良俗に欠ける人間なんです」

「いや、行為としては、その隣の息子の方が劣悪だと思いますよ」

 これは正論だ。毎夜望遠鏡で人の家を覗き、しかも己の楽しみだけに留めず愚劣な友人たちにもその光景を提供して報酬まで得るなんて、人間として断固許せない行為だ。

「先生お願いです。このままだと私、いろんな人に迷惑を掛けてしまいます。だから早く、私に取り憑いた霊を払って下さい」

 そんなハレンチ高校生を責めるどころか、責任を感じている桃子が俺にはいじらしく思えた。苦しんでいる彼女を何とかして助けてあげたいと思った。同時に、彼女を苦しめるに至ったそのバカ息子たちが、憎くてたまらなくなった。

 おそらく肉眼でも見える距離なのだろう。それを、東京タワーの展望台にあるような望遠鏡で拡大して、今目の前にいる桃子の、一糸まとわぬ姿で体操を始めた姿を、拡大して、代わる代わる、拡大して、毎晩拡大して……。おぉ、何と言う劣悪極まりない行為だ。そんな没義道な人間たちは、カリスマとして断じて許しておけない。

「分かりました。私に任せて下さい」

「本当ですか。やっぱり先生を選んで良かった。お願いします」

 何だろう。次の瞬間、俺の口が意思とは関係なく動き始めた。

「しかし今すぐに、というわけにはいきません。これは非常に稀なケースであるため、除霊するには極めて繊細な準備が必要となります。そこで少し、時間を下さい」

「どれくらい掛かりそうですか」

「そうですね」俺は壁のカレンダーを見た。「一週間もあれば準備できるかと」

「一週間ですね。分かりました。約束ですよ、先生」

 もっともらしい理由を言って、俺はその日も谷崎桃子を帰した。

 部屋にはシャンプーの香りとエアコンの回転音だけが残った。



 一週間。なぜ俺はそんな期限を提示してしまったのだろう。一週間で何ができると言うのだ。何が。もちろん、準備だ。桃子に取り憑いた霊を振り払うための、準備だ。それ以外、俺は何をすると言うのだ。何をするために、こんな時間にこんな場所に来ているのだ。

 準備とはやはり、霊的要素の発生状況と周辺環境を調査することから始めなくてはならない。よって俺はここに来る必要があるのだ。

 そんなわけで、俺は依頼者である谷崎桃子の居住するマンションの前にある、通りを隔てたバス停付近を歩いている。時間は22時5分。仕方がない。仕事の打ち合わせを終えてから来たのだから、こんな時間になってしまったのだ。

 よし、早速調査にかかろう。まず、谷崎家はこのマンションの304号室。俺は舗道からマンションを見上げた。なるほど、三階のあの中央の部屋だな。ベランダの上の白い天井が明るく照らされている。細い路地を挟んだ向かい側に、レンガタイル張りの小奇麗なマンションが建っている。これだな、この建物の屋上でバカ息子は捕まったのだな。見ると、非常用外階段の昇り口にあるドアに大きな張り紙が貼ってある。立ち入り禁止、の文字がここから判読できる。不道徳なやつめ、捕まって当然だ。それにしても俺がいるこのバス通りは、実に閑寂な夜の風景に包まれている。この時間、歩行者はおろか車も殆ど通らない。従って俺は現在、非常に目立つ環境下に晒されている。最終バスもとっくに出たようなので、立ち止まっていると余計怪しまれる。ただでさえこの現場周辺にはまだ緊張感が漂っている筈だ。俺はとりあえず携帯電話を広げたり持っていた文庫本をわざと落として拾ったりしながら右往左往していたが、これではかえって目立ってしまうと思い、調査の場所を変えようとした。その時、衝撃的な光景が俺の視界を覆った。なんとレンガタイルのマンションの、数戸の灯りが突然同時に消えたのだ。これは、始まったのだ。窓辺のソフト・ヨガが、始まった合図だ。そうに違いない。気付いたら俺は走り出していた。暗いバス通りを走って、振り返って、また走って、を繰り返したが、やはり三階の高さを地上から見ることは不可能だった。俺は桃子の家があるマンションの真下に戻り、辺りを見渡した。街灯、バス停、民家の玄関、銀杏の街路樹。そしてレンガタイルのマンションの並びに同じくらいの高さの白い壁が見えた。児童館だ。児童館ならこんな時間は誰もいない。俺は早歩きで児童館の前に移動した。砂場の向こうに屋上へ通じる外階段が見えた。屋上に上がれば角度的に三階の高さまでは見える筈だ。しかし敷地の周囲にはチェーンが張られている。俺の中で何かが外れた。この瞬間、俺が生きていく上での敵は街灯と月明かりだ、と思った。そして左足がチェーンを跨いだ時、俺は視界の端に人影をキャッチした。自転車に乗った制服姿の警官だった。やはりパトロールが強化されていたのだ。俺は跨いだ左足を慌てて舗道に戻し、その場に屈んで咄嗟にミケー、と小声で言った。

「ミケー、愛するミケちゃーん、どこ行っちゃったんだーい」

 警官は、これでもかというくらい怪訝そうに俺を見ながら、ゆっくりと目の前を通り過ぎた。俺はエア猫探しをしながら、野球帽を目深に被り直した。あれ、俺はいつ野球帽なんて買ったのだ。

 自転車に乗った警官はバス通りを右に曲がり、一度だけこちらを振り返ってから建物の陰に消えた。俺も念には念を入れようと、そそくさとバス通りに出て、小さくなってゆく後ろ姿を目で追った。それが闇の中へ完全に溶け込んだのを確認してから振り返った俺は、レンガタイルのマンションを見上げて愕然とした。先程消えた筈の灯りが全て点いていたのだ。桃子の家を見上げると、ベランダから洩れていた灯りは無情にも消え、行き場のない静けさがもう何事も起きない風景を包み込んでいた。


 翌日、俺はバラエティ番組の収録のため深夜まで生田のスタジオに拘束された。休憩中に携帯を開いたら、留守電にメッセージが一件入っていた。桃子からだった。

「先生お疲れさまです。昨夜もまたうちのマンション付近に不審者が現れたという通報があったそうです。仕方がないので私の在宅時は全ての雨戸を閉めることにしました。エアコンの電気代が嵩んでしまいますが、近隣のみなさんが安心してくれるのなら我慢しよう、と家族は言ってくれました。先生、一刻も早く除霊をお願いします。これ以上家族を苦しめたくないんです」

 俺はメッセージを聞きながら背筋が凍りつきそうになった。不審者とはまさか、野球帽を被った俺のことではないだろうか。そうだとしたら俺は九死に一生を得たことになる。危なかった。ともあれもう二度と桃子の家に近付くのは止めよう、と俺は決めた。いずれにしろ行っても雨戸が閉められているのだ。リスクを負荷するだけで何も収穫は得られない。

 収穫?

 俺は何を収穫しようとしているのだ。

 もちろん、除霊の準備に必要なデータだ。これは仕事なのだ、あくまでも。俺は心の中で理路整然と答えた。聞かれてもいない誰かの尋問に。


 俺の仕事のスケジュールは、嵐のように容赦なく俺のからだを扇動した。マネジメント事務所に所属しているわけでもない俺は、その管理を全て自分で行わなければならない。しかしここまでタイトになってくると、長期スパンの工程までは目が届かなくなる。朝にその日の予定を確認するだけで精いっぱいだ。よって俺は、バラエティ番組の収録が明けた翌日の朝に手帳を見てはっとした。今日は大阪へ出張する日だった。関西のテレビ局が主催する防災キャンペーンのイベントにゲスト出演するのだ。祈祷師や霊媒師は、そのイメージからか防災関係の仕事によく呼ばれる。俺は慌てて旅行鞄に荷物を詰め込み、東京駅へと向かった。

 そして大阪で嵐のようなスケジュールをこなした俺は、その夜の新大阪駅で本物の嵐にやられてしまった。今年になって最大の台風が関西方面を直撃したのだ。

 朝から降っていた雨は午後から本格的になり、夕方には風を伴ったスコールのような状態になっていた。おまけに観測史上稀に見る風速を観測したその台風は、よりによって新幹線の送電ケーブルを切断してしまった。結局、復旧の見込みが立たないまま、その日の東京行き新幹線は全線ストップした。

 陸上がそんな状態なため空の便も殆どが欠航となっているようだ。八方塞がりだ。俺は諦めて今夜はこのまま大阪に留まることにした。駅ビル内の紳士服売り場でTシャツとブリーフを買い、書店で本を一冊買った。突然の運休に駅周辺は一時騒然としたが、幸い土曜日だったので出張サラリーマンの姿は少なく、ビジネスホテルもすぐに手配できた。

 ホテルの備え付けテレビでは気象情報が終始画面の端にインサートされていた。それによると、現在関西地方上空を通過中の台風はそのまま列島を縦断し、明日の夕方には関東に上陸する可能性が高い、とのことであった。

 浴衣に着替えてベッドに寝転ぶと、テレビから「ここお台場では、台風上陸に備えて急遽、催事用テントの撤収作業が行われました」という声が聞こえた。液晶画面にはテントを撤収する若者たちや、それを訝しげに見つめる子供たちの姿が映し出されていた。なぜか俺はそれを見て東京がとても懐かしい場所に思えてきた。

 子供たちはみんな裸だった。お台場海浜公園の人工浜なので、当然の光景だ。

 裸でいても咎められない場所。咎められない年齢。

 反対に咎められる場所。咎められる年齢。望遠鏡で見たくなる年齢、光景、動き、唇、耳朶。

 あぁ、俺は疲れている。

 テレビを消して目を閉じると、分厚い眠りが俺のからだをあっという間に挟み込んだ。

 翌朝、俺は風の音で目を覚ました。雨は上がったものの、依然吹きすさぶ突風が安普請の窓枠をカタカタ揺らしていた。

 夜を徹して行われた送電線の復旧工事は、暴風雨が影響してなかなかスムーズに遂行できなかったらしく、新幹線は依然止まったままの状態だった。そうなったらもう鈍行で帰る気力も失せ、俺は朝からホテルの一室で昨日買った本を読むことにした。スウェーデンの著名な霊能力者が書いた除霊における新解論だ。帯には「本書は霊と真剣に向き合うための世界一手軽でスマートなレシピである!」と書かれており、その下に俺の名前と顔写真が印刷されている。俺は努力してカリスマ霊媒師となったわけだが、読んでもいない本の帯原稿まで書くはめになるとは思ってもいなかった。

 昼過ぎに、なんとか送電線の復旧工事は完了の目処が付いたとの報告があったので、俺は逆に全くはかどらない読書を止めて駅へ向かうことにした。溜め息をつきながら着替えていると、携帯電話が鳴った。液晶には谷崎桃子、と表示されていた。

「先生、忙しいところ、すいま、せん」

 桃子の口調は明らかに尋常ではなかった。



 桃子の声を聞き、俺はなぜか咄嗟に毛布を腰に巻いた。おニューのブリーフに履き替えようとしていたところだったので、下半身は何も着けていない状況だった。しかし、テレビ電話でもないのに、なぜ隠す必要があると言うのだ。俺は自分で自分に突っ込みを入れたくなった。

「どうしました。なんか、声が変ですよ」

「先生助けて下さい。来たんです、現れたんです症状が。あぁ服が、私を締めつけるの、苦しい、苦しいんです」

「ええっ、ちょっと待って谷崎さん。あなた今どこにいるんです」

「野球場の、トイレの、中」

「野球場?」

「弟の試合の応援に来て、スタンドにいたら突然雨が降ってきて」

「とりあえず誰にも見られない場所にいるんですね」

「はい。あぁ、脱ぎたい、脱ぎたい」

 桃子はそう言って荒い呼吸を繰り返した。

「ダメです。落ち着いて。えーと、とりあえず原因を取り除きましょう」

「原因?」

「思い出して下さい。症状が出るには何かきっかけがあった筈です」

 桃子が一瞬黙った。その後ろから木霊のような歓声が聞こえた。

「そんなこと分かりません。私、大勢の人と一緒にスタンドで応援をしていただけです。そしたら雨が降ってきて、着ているTシャツが濡れて重くなって……あ、そうだ先生、雨です。雨に濡れて、それで私どうしようもなく脱ぎたくなっちゃったんです。でも応援団の人や、選手の家族たちが近くにたくさんいて、ここで脱いだらきっとまた酷い目に遭うと思って、でも、手が言うこときかなくなっちゃって、勝手にTシャツをまくり上げて」

「わぁ、ダメですよそんなことしちゃ」

「だから必死で我慢しました。我慢して、具合が悪くなったふりをしてそのままスタンドの外にある通路を走って、トイレに駆け込んだんです」

「服をちゃんと着た状態で?」

「なんとか。でも、もう駄目です、我慢できません」

「個室の鍵は掛けてありますか」

「鍵、えーと、はい、掛けてあります。あぁ、苦しい」

「分かりました。じゃあ、もういいです。脱いじゃって下さい」

「いいんですね」

「いいです。緊急事態です。ただし絶対にドアを開けないように」

「ああぁ、先生、先生……」

 受話器越しに繊維がかすれる音が聞こえた。俺は携帯電話を鼓膜に直接当てたくなった。

「谷崎さん、谷崎さん聞こえますか」

 俺の呼びかけに桃子は答えない。布が擦れる音に加えて、何かの金具が壁に当たる音がせわしなく響く。相当焦って手足を動かしていることが窺える。足? まさか、下まで脱いでいるのか。

「谷崎さん、谷崎さんっ」

「あぁ、はい」

 受話器から聞こえる桃子の声が遠い。おそらくロータンクの上に携帯電話を置いたままなのだろう。絹擦れの音に混じってはぁはぁという荒い息遣いが時折漏れた。

「ドア、ちゃんと閉まっているでしょうね」

「はい、大丈夫です。あぁ先生、楽になっていきます。Tシャツを脱いだだけで、なんかすっごい軽くなりました」

「そうですか」

 そうか。さすがにTシャツだけで治まったか。

「そのまま。じゃあ下着は着けたままでちょっと様子を見てみましょう」

「えー、ダメです」

「いや、苦しいでしょうが、やはりそれ以上脱ぐのは危険です」

「だからダメです。もう、脱いじゃいました」

「脱いだ、って、ブラ……下着も」

「はい。スカートも、パンツも」

「何ですって」

「うちにいる時と同じ恰好になっちゃいました」

 桃子の口調は次第に落ち着きを取り戻していった。桃子は、あの魅力的な唇と耳朶を持つ小柄な体は今、小さな野外空間で一糸まとわぬ姿となっている。抽象的で空虚な美に包まれて、朝露に濡れた果実のように所在なげに震えている。そう思ったら、俺は眩暈に似た衝動に魂ごと貫かれ、息苦しくなった。そして腰に巻いた毛布の中がそれ以上に息苦しくなり、剥ぎ取るとそこには鋼鉄のように硬く腫れ上がった俺の困惑が仁王立ちしていた。

「先生」

「何ですか」

「さっきは取り乱しちゃってごめんなさい。もう大丈夫です」

「そうですか。良かった」

「霊たちから解放されたみたいです」

「そう、ですか」

「気持ちいい。あは。やっぱりこの恰好が一番落ち着きます」

 桃子はなんと、笑っている。家の外で、白球に祈りを込めている球児や、それを見つめるたくさんの人々が存在する野球場の壁一枚隔てた場所で、全裸でこっそりと微笑んでいる。その姿を想像しただけで、俺のからだの中枢にピンク色の電流が走る。そして坂道を転がるゴム毬のように、俺の右手が無軌道な暴走を始め、細長い鋼鉄の困惑を硬く熱く激しく握りしめる。

「先生、ありがとうございます」

「私は、何も、して、いない」

「いいえ。先生は私に脱いでいいよ、って言ってくれました。私、先生が許可してくれたからできたんですよ、こんなこと」

「そんな……じゃあ君は、私がいいと言ったら、どこでも、その」

「脱ぎますよ、きっと」

 俺は耳を疑った。桃子は今、自分が何を言っているのか分かっているのだろうか。あぁ、だめだ。昼下がりのビジネスホテルで、俺は制御できなくなった自分の右手にこそばゆい憤りを感じた。

「私は先生に除霊していただくまでは、先生の指示に従うしかないんです。私、待っていますからね。とりあえず今は服が乾くまで、このままでいます。あ、鍵はしっかり掛かっているので安心して下さい。誰もいないし、誰に知られることもありません。先生以外、誰も……。先生? あれ先生? どうかしました?」

「別に、私は、何も、して、いない、よ。うっ」

 カーテンの隙間から台風一過の空が見えた。その、青くて細長い二等辺三角形が意識の外側で別のものに見えた時、充血した台風が俺のからだの衷心をやり切れない速度で縦断した。



 自立式電波塔としては世界一を誇る東京スカイツリー。

 俺は今、その地下二階にある防災システムコントロール室にいる。さすがは世界一だけあって、最新技術の防災機器やコンピューター制御の巨大装置が並ぶ室内は、信号機や横断歩道があってもおかしくない程の広さだ。そこに同じユニフォームを着た数十人のスタッフと背広姿の職員たち、胸に赤い造花を付けた各省庁の役人たちが一堂に会している。吹き抜け天井の中層当たりにはキャットウォークがあり、腕章を着けた多くのプレス関係者が手摺越しにカメラを構え陣取っている。

 目の前には銀色のポールが数本立ち、その間に結ばれたピンクのリボンが空調の風に揺れている。俺は今日、この世界でも最先端と言われる防災システムの発動開始記念式典に呼ばれたのだ。

 先程から室長によるエマージェンシー特別防火装置の説明が続いている。マイクを通した室長の声は、俺の鼓膜がおそらく最も聴取しにくい周波数で形成されている。インターフォン越しにセルジオ越後のサッカー解説を聞いているようだ。

「……その高純度濾過機を内蔵した直径50インチのライニング鋼管は、地中を通って隅田川と直結しています。そして火災発生時にはドイツ製の加圧ポンプで川の水が一気に第一展望台まで揚水され、外周に設置された計70個の回転式スクリューから毎秒2・5トンの量でジェット噴射される仕組みとなっております」

 室長の背後には20個程の巨大液晶モニターがコンクリートの壁を被覆している。画面にはさまざまな場所のリアルタイム映像が投影されている。東西南北の各ゲート付近、広場、ショップエリア、イベントスペース、エレベーターホール、二つの展望室内部、そして上空から見下ろした敷地内全景。どの映像にもたくさんの人が映っている。彼らは時折上を見上げては、一様に夏休みの宿題を最初に提出する生徒のような顔で白い歯を見せている。

「つまり、どこで火災が発生してもこのエマージェンシー特別防火装置を使って放水すれば短時間で鎮火できるというわけです」

 そう言って室長は壁の一部に嵌め込まれた銀色の操作盤を指差した。中央に透明のプラスチックカバーが着いた緑色の大きなボタンが見える。おそらく放水稼働スイッチだろう。

 その後も室長は防災システムの高度な性能を聴取困難な喋り方で延々と続けた。さすがに俺も後半は無聊に感じ始め、一言一句聞き取ろうとしていた鼓膜が別の意識を捉え出した。

実は、除霊と防災の間にどのような関係性があるものか俺は未だに分かっていない。そもそもこれだけ防災に関する完全性を釈義された後で何を除霊すればよいと言うのだ。カリスマ霊媒師としては、もちろん霊の入り込む余地のない者に対して力を使うことはしたくない。しかし、これはあくまでも儀式なのだ。だから俺は、この種の仕事を自分の中では完璧な営業活動として嚥下している。

 やがて室長の説明が終わり、蝶ネクタイを巻いた司会者の手にマイクが渡った。彼は便宜的な進行コメントの後で急に神妙な顔つきになり、俺の名前と除霊の意義を訴えた。すると照明がフェイドアウトして、スポットライトが俺の姿と緑色のボタンに照射された。そして光と音が遮断された打ち放しコンクリートの巨大な箱の中で、司会者は静かにこう言った。

「それでは先生、お願いします」

 俺は邪念を排斥してゆっくりと頷き、右手を真っすぐ前に伸ばしたまま眼を閉じようとした。と、その時だ。一台の巨大モニターに邪念の巣窟とも言うべき光景が映っているのを、俺の細めた視界が捉えた。

 広場を生中継しているそのモニターには、なんと数名の園児を連れて青空の下を歩く桃子の姿が映っていたのだ。

 俺は目を見開いてそのまま硬直した。上げた右手は行き場を失い、小刻みに震えだすのが自分でも分かった。意識の片隅で桃子の勤務する幼稚園がこの近くであったことを思い出した。桃子は白いTシャツにオレンジのエプロンをして、膝丈のスパッツを履いている。子供に話しかけられると、クルッと後ろを向いて前かがみになり、身振り手振りで何かを説明している。尻の隆起によりできた影が、青い芝生に見事な放物線を描いている。桃子は今、笑っている。あの日、野球場のトイレで笑った時とおそらく同じ笑顔で。そうだ。あれは、桃子だ。哀しい霊たちに憑依されて苦しんでいる桃子だ。苦しんで、脱いでしまう桃子だ。脱いでしまうのだ。どこでも、いつでも。いや、いつでもではない。先日は雨に濡れたことで突然症状が表出してしまっただけだ。だから今日は大丈夫。この晴天ではそれはあり得ない。

 雨はどう考えたって降り出しそうにない。雨は。……雨。あぁっ。

「先生、どうしました」

 蝶ネクタイの司会者が慌てて俺に駆け寄る。

「いや、霊が、霊が」

「霊が、もうここにいると言うんですか」

「雨……、水……、雨」

 俺の右手の動きは意識よりも完全に前にあった。

「早く、早く取り除かねば」

 そう言って俺の右手が向かった先は、もちろん緑色のボタンだった。司会者を押しのけてセンター室長が俺の右手を掴む。

「何をするんです、これはまだテスト前で、放水後の排水処理システムが」

「放水、放水を今すぐに」

「そんな無茶なっ」

 室長のこめかみに青筋が浮き上がる。その太い腕を俺は死に物狂いで振り払おうとする。たくさんの人々が一斉にざわつく声が聞こえる。なぜかカメラのフラッシュとシャッター音が響き渡る。

「大変なことになりました。どうやら霊がいる模様です」

 レポーターがカメラの前で喋っている。俺はもう完全に忘我していた。頭から2・5トンの水を浴びる桃子の姿が血液と一緒に俺のからだを駆け巡った。数人の防災スタッフたちが俺の手足に夢中でしがみつく。俺は室長の腕に噛みつく。

「いてて、おい、早く取り押さえろ。全く何なんだ、この人は」

 室長の部下たちが俺のからだを背後から羽交い絞めにする。ジブリアニメに出てきそうな小太りで坊主頭の男が俺の右手をしっかりと握りしめ、無言で目を見て何度も頷く。違うんだ、水だ、今雨が降ったらちょっと素敵なことが起きるんだ、お前だってそんな目をして俺の手を握っている場合ではなくなるぞ、と思ったが、それを口に出してしまったら俺は谷崎家の隣室に住むバカ高校生と同じになってしまうと思い慌てて発言を撤回しようとしたが、考えてみたら俺は何も言ってもいないので別に撤回する必要はないということに気付き、と言うかその小太りジブリの顔が頷きながらなぜか次第に紅潮していくのが分かって、これは別の意味で除霊が必要になるかも知れないと俺は危惧した。

「すいません、式典の公開はここまでとさせていただきます。ただちに撮影は終了して下さい」

 俺に噛まれた腕を押さえながら、苦渋に満ちた表情で室長が叫ぶ。

「どういうことだ」

「隠蔽する気か」

「先生には霊が見えているんだろう」

「これじゃ尖閣ビデオの時と一緒じゃないか」

「先生に失礼だと思わないのか」

「これは一大事です。日本が誇る世界一の建造物に早くも暗雲が立ち込めています」

「撮影を止めろと言っているだろう、分からないのかっ」

 プレスとタワー関係者との間で怒号が飛び交う中、俺は息を切らしながらモニターを見上げた。そこには既に桃子の姿はなく、青々と茂った天然芝が哀しい日の光に照射されていた。



 俺はカリスマ霊媒師だ。

 10代の頃、自分に霊視能力があることに気付いた俺は、次第に苦しんでいる人のためにそれを役立てたいと思うようになった。それからは家族も持たずにたった一人でこの事務所を立ち上げ、堅実にそして誠実に仕事をこなして現在の地位を築いた。

 そうして国民に最も注目されている成功者となったのだ。

「では18時に、お待ちしています」

 俺は今回の大事な相談者、谷崎桃子22歳に電話でそう言って、事務所の玄関脇にあるパイプスペースの扉を開けた。打ち放しコンクリートの壁に囲まれた狭い空洞に、何本かの縦配管が並んでいるのが見えた。一番細い管に小さなハンドルのようなものが付いており、スプリンクラー制御バルブと書かれた札がぶら下がっている。俺はそれをゆっくりとまわして全開にすると、扉を閉め部屋に戻って煙草に火を点けた。

 桃子と実際に会うのは一週間ぶりとなる。そう、今日は俺が設定した、約束の日だった。

 余程の強い圧力が掛かったのか、スカイツリーでの一件はどのワイドショーでも取り上げることはなかった。もしかしたら収録した写真や映像も没収されたかも知れない。或いは信じられないくらいの高値で買われたとか。日本のマスコミは、最終的に金と権力には勝てない。

 しかし、それは俺にとっても好都合であった。あの時の忘我した行為は、やはり桃子には見られたくない。たとえ偶然にせよ桃子はあの場所にいたのだ。あの場所で突然頭から大量の水を浴びたらどうなるか、分かっているのは世界で俺だけなのだから。

 そう。俺だけなのだ。彼女はもう俺の力に頼るしかないのだ。俺にしか、彼女を救えないのだ。俺だけしか、彼女の症状に立ち向かうことはできないのだ。だから俺は桃子を救う。それが俺の役目であり、使命なのだ。

 といった、もはや誰に対しての主張かさえも分からない独り言を呟きながら、俺は今日買ったばかりの脚立に跨って事務所の天井点検口を十円玉で開けた。あの時の主任のように膝下が微妙に震えだした。懐中電灯で中を照らすと、銀色の細い管が水平に走っているのが見えた。それは途中で分岐して、一方はこの事務所の中央へ、もう一方は直角に曲がって隣室にある書斎の天井へと伸びていた。

 分岐点の手前にプラスチックのレバーコックが見える。おそらくこれが仕切り弁なのだろう。俺は手を伸ばして書斎へ通じる方のコックをひねり、管の向きと垂直にした。よし。これで消火用の水は全て事務所にあるスプリンクラーに流れるようになった。

 俺は点検口を閉めてソファーに座り、ゆっくりと真上を見上げた。化粧石膏ボードでできた天井の中央に、意気揚々と出番を待つスプリンクラーヘッドが銀色の小さな光を放っていた。

 それから俺は、ソファー近辺にあるプリンターや卓上時計などの電化製品を部屋の隅に移動した。濡れては困る書物や書類関係は全て書斎に運び、カーペットの下にはありったけのビニールシートを敷き詰めた。

 桃子は約束の5分前にやってきた。

「いらっしゃい」

 俺が言うと桃子は心から安心したという表情で微笑んだ。まるでしばらく会えなかった恋人を見るような目で。

 俺は桃子をソファーに座らせ、氷を浮かべたオレンジジュースをテーブルに置いた。頭の中に一瞬、物凄く薄まったオレンジ色が見えたような気がした。いかん、視覚が視神経より先走っている。

「一週間、よく頑張りましたね」

「はい。でも私、信じていましたから。先生が必ず、私を救ってくれると」

 桃子は今日、小花柄のノースリーブワンピースを着て、髪にシックなドット柄カチューシャを付けている。一週間ぶりに会う桃子の唇と耳朶を見て、俺は心臓が肋骨の隙間から擦り抜けていきそうなくらい高揚した。それがこうして誰にも咎められず法的にも赦されて露出していることに、なぜか痛いくらいのスリリングさを感じた。からだのどの部分が、どんな状態が公序良俗に反するのか俺にはもう判別できなくなっている。真っすぐな髪の毛も、愛らしい瞳も、ほんの少し赤らんだ頬も、白すぎる肩も、細い指先も鎖骨も膝もふくらはぎも、全てが決して誰にも見せることのできない、放送できない、直視することが憚れる途轍もなく隠微で猥雑で官能的な局部に見えてしまう。同時にそれは、俺の視界の待ち受け画面となり、俺の心臓を、衷心を硬く激しく膨張させた。

 桃子がソファーにちょこんと座り、不安そうな顔つきで俺を見る。俺が笑いかけると、桃子は耳朶を摘まむ仕草をしながら淡い微笑をこちらに向けた。何かの拍子に何かの隙間から一瞬だけ見えた奇跡のような笑顔だ、と思った。

「では早速、除霊を始めましょう」

「よろしくお願いします」

 そう言って桃子はすくっと立ち上がった。

「あ、そのままで結構。座っていて下さい」

「え、ここで、できるんですか」

「祈祷や催眠術とは違って除霊は場所を選びません。お札さえあればどこででもできるのです」

「そうですか」

 訝しげに視線を傾けてから、桃子はソファーに座り直した。俺は全てのカーテンを閉めて、部屋の照明を1ランク暗くした。

「お札を用意してきます。座ってお待ち下さい」

 俺はそう言うと素早く玄関に移動して、放水後すぐにバルブが閉じられるようパイプスペースの扉を開放した。そして書斎に入り、後ろ手にドアを閉めてデスクの上に飛び乗ると、ポケットからライターを出して天井のスプリンクラーヘッドに炎を近付けた。

 くどい、しつこいと言われようが構わない。何度でも宣言する。

 誰に? 

 自分にだ。

 俺は、俺は、カリスマ霊媒師だ。日本で一番の人気者だ。

 しばらくして火災を知らせる警報音が鳴り響いた。よし、放水が始まった合図だ、事務所の天井からは今、桃子に向けて世界一いたずらな雨が降り注いでいる筈だ。よし、よし、今だ、俺はデスクから飛び降りて事務所に通じるドアを開けた、そして愕然とした、桃子はソファーに座ったまま目を丸くしてこちらを見ている、濡れていない、ちっとも濡れていない、どういうわけか天井のスプリンクラーからは一滴の水も落ちていない、何だ、一体どうしたスプリンクラー、作動した筈だぞ、何をやっている、放水しろ、お願いだから放水してくれ。

「先生……」

 桃子が青ざめた表情で俺に駆け寄る。

「大丈夫。座って、谷崎さん、いいからそこに座ってて」

「でも、これって火事じゃないんですか」

「誤作動です。よくあるんですこのマンション。今警報音を止めますから、とにかく座っていて下さいっ」

 口調を荒げて俺はそう言うと、急いで脚立を立て点検口を開けた。おかしい、水が出ないのはおかしい、落ち着け、理由がある筈だ、先程確認した細い給水管を懐中電灯で照らしてみる、コンクリートの梁をくぐるように管は暗闇に伸びており、手前に緑色のコックが二つ並んでいる。

 二つ?

 俺は改めて見直し、息を飲んだ。コックが分岐する前と後に一つずつあるではないか。俺が先程遮断したのは分岐前のコックだったのだ。つまりこれをひねったら書斎にも事務所にも消火用水は供給されなくなる。そういうことか。

 俺は曲げたコックを元に戻そうと、点検口の蓋に捕まって暗闇に右手を伸ばした。あれ、届かない。脚立を立てた位置が先程と違うのか、コックまで微妙な距離が生じている。俺は片足を最上段に乗せたまま懸命に手を伸ばす。もうちょっとだ、よし、指先が触った、これをひねればソファーの真上にあるスプリンクラーからたちまち水が噴射して、谷崎桃子22歳が自宅にいる時のあらわな姿に変身するのだ、よし、あとちょっと、ううっ、考えてみたらなんと魅力的な名前なんだ、谷崎桃子、上に谷があって、下に桃があるのだ、名前からして既に着衣していないではないか、ううっ、早く、早くコックをひねるんだ、俺の右手、早く。俺は渾身の力を振り絞って腕を伸ばした。その時、鳴り響く警報音に混じって何かがきしむ音が聞こえた。あれ、捕まっていた点検口の蓋がどんどん下に下がっている、あっ、天井が床に向かって膨らんでいる、俺は慌てて捕まっていた手を離す、しかしもう遅い、コンクリート片がポロポロと天井下地に落下する音が聞こえる、抜け落ちた吊ボルトが次々と倒れ、粉塵を飛散させている、化粧石膏ボードの粉砕音が暗い天井裏に反響して増幅し、拡大し、絶望的な破壊音となって脚立に跨った俺の上半身を包み込む、わぁ、どうしたことだ、天井が、天井が、天井全体が、わぁ、わぁ。

 うわぁぁっ。

 脚立もろとも床に転げ落ちた俺は、もう笑うしかない程の痛みと衝撃に襲われる中で部屋の中央にあるソファーを見た。そこには、いる筈の桃子の姿はなかった。桃子、桃子どこだ。俺は床の上で、発生源の分からない激痛が駆け巡るからだを夢中で翻そうとした。俺の鼓膜が、退嬰的な轟音とふてぶてしいまでの諦念を感知する。顔に白い粉が降り注ぐ。やがて粗い粒子となり、皮膚に突き刺さりながら次第に大きくなる、それがコンクリートの欠片だと分かった頃にはもう、天井は巨大で非情な白い化け物となって俺を押し潰そうとしていた。もう終わりだ、俺は叫喚しながら、絶望の縁で目を細めた。玄関ドアに着いた郵便受けから覗いているような視界の隅に、一瞬俺のデスクが見えた。その下にからだを丸めてうずくまり、俺を眺めている桃子の姿が見えた。

 目が、合った。

 桃子が、笑った。

 服を着たままで、笑った。

 火の輪くぐりに成功したライオンみたいな目で、笑った。

 そして夏と天井が同時に崩れ落ち、俺の郵便受けを遮断した。




                                    おしまい



               daisuke iwatsuki 2011

            

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