通訳は誰でもいいと言われたので、隣国の使節団付きになりました
外務局の廊下で、次官補のエルマー・コーデルは、書類を抱えた私の前に立ちふさがった。
「ナタリア。君の通訳官の任を、今月いっぱいで解く」
私は、抱えていた条約草案を、一度だけ持ち直した。
「理由をお聞きしても?」
「通訳なんて、語学ができれば誰でもいいだろう。君は高給取りだが、新人のクララは語学院を首席で出ている。同じ仕事が半額で済むんだ。それに」
彼は、少し視線をそらした。
「僕は、クララと婚約することにした。君との婚約は、解消させてもらう。家同士のことは、父が話をつける」
廊下の奥から、栗色の巻き毛の若い女性が、こちらを窺っていた。目が合うと、会釈をした。礼儀正しい子だ。悪気がないところが、また始末に悪い。
「承知しました。婚約の件は、書面でお願いします」
「話が早くて助かる。君は昔から、そういうところだけは優秀だ」
褒め言葉のつもりなのだろう。
私は、廊下の窓から、庭の木を眺めた。三年間の恋人が、一言で他人になるのは、不思議なほど、静かな出来事だった。
「ひとつだけ、よろしいでしょうか」
「何だ」
「来月のヴァルガ国との通商条約会議は、通訳が要になります。ヴァルガ語は、語尾の使い分けが難しい言語です。クララさんに、引き継ぎの時間をいただけますか」
「いらない。彼女は優秀だと言っただろう」
エルマーは、肩をすくめた。
「君は、自分の仕事を特別に見せたがるな。誰でもできるんだよ、通訳なんて」
誰でもできる。
私は笑顔のまま、うなずいた。
「では、お言葉に甘えて、これで失礼します」
*
外務局の私物を片付けるのに、半日かかった。
辞書の山、三冊の書き込み帳、歴代のヴァルガ使節の手紙の写し。それらを木箱に詰めていると、扉の外から、低い声がかかった。
「ナタリア・ベル殿。入ってもよいか」
見知った顔だった。ヴァルガ国の外交使節団長、ライナー・ヴァス。三十代半ばで、白金の髪と、鷹のように鋭い灰色の目の持ち主だ。
「団長閣下。ご無沙汰しております」
「聞いたよ。君が外務局を辞めると」
「耳が早いですね」
「君の国の廊下は、声が響く」
ライナーは、くすりと笑った。
「三年前の漁業協定会議から、君に何度助けられたか分からない。……ひとつ、聞きたい。君は、私の国の言葉を、本当は何階層で使い分けている?」
「話し手と聞き手の身分差で、三階層。ですが、実際には、気持ちの高ぶりでさらに半段ずつ揺れます。五階層と考えたほうが、正確です」
「その五階層を、完全に訳せる人間を、君以外に知らない」
ライナーは、卓の上の木箱に、そっと手を置いた。
「私の使節団付きの通訳官に、来てくれないか。我が国の外務院が、正式に君を雇いたいと言っている。期間は三か月。その後は、君の意思で決めていい」
「……それは、私に、祖国の敵になれということでしょうか」
「違う。私は、両国の間の橋を探している。橋は、片側だけでは架からない」
私は、少し黙った。
三年間、私は誰にも褒められなかった。いや、褒められてはいたのだ。「便利だね」「助かるよ」と。便利と、尊重の間には、深い溝がある。
目の前の人は、私の仕事の名前を、正しく知っていた。
「お受けします」
私は、顔を上げた。
「ただし、条件があります。私は、自分の国の不利益になる翻訳を、決していたしません。通訳は、言葉を運ぶ者です。偽りは運びません」
「それでいい。むしろ、それでなければ困る」
ライナーの口元が、初めてほどけた。
*
一か月後、通商条約会議は、王宮の大広間で開かれた。
長い卓の左右に、我が国の大臣たちとヴァルガの使節団が並ぶ。私は、ライナー閣下の斜め後ろに座っていた。こちらの国の通訳席には、クララ嬢が、緊張で青白くなって座っている。
最初の一時間は、穏やかだった。
危ういのは、二時間目の、関税の話に入ってからだった。
我が国の外務大臣が、立ち上がって言った。
「我が国は、貴国との友好のために、関税を三割引き下げる用意がある。これは、対等な友人としての申し出である」
クララ嬢が、ヴァルガ語に訳した。
「我が国は、貴国の弟分として、関税を三割引き下げる用意があります。これは、目下の友人としての申し出です」
大広間の空気が、凍りついた。
私は、思わず息を止めた。
ヴァルガ語で「友人」を表す言葉は、「ミーラ」。語尾を平らに伸ばせば対等な友、語尾を下げれば、目下の友。つまり、庇護を受ける側になる。クララ嬢は、教科書どおりに語尾を下げてしまった。教科書には、そう書いてあったのだろう。けれど実際の外交の場では、まったく逆の効果を生む。
ヴァルガの使節団員たちが、ざわめいた。
「侮辱だ」
「我が国の王を、この国の弟分に見立てたのか」
ライナー閣下が、静かに私を振り返った。
私は、この場で、口を開く権利を持っていない。ここは我が国の会議の場で、私の席は、ヴァルガ側の通訳席だった。ただし、私には、私自身が決めた規則がある。
偽りは運ばない。誤りも、運ばせない。
私は、そっと立ち上がった。
「失礼いたします。ヴァルガ使節団付き通訳官として、発言を許可していただけますか」
議長役の宰相が、驚きながらも頷いた。
私は、まず我が国の言葉で、次にヴァルガ語で、同じ内容を告げた。
「ただいまの翻訳に、語尾の誤りがございました。外務大臣の『対等な友人』は、ヴァルガ語では『ミーラ・ヴェ』、語尾を平らに申します。弟分という意味合いは、元の発言には含まれておりません」
それから、ヴァルガ語のまま、団長に向かって、丁寧に頭を下げた。
「失礼な行き違いがございました。この場の誤訳は、発言者の本意ではないことを、通訳官として保証いたします」
ライナー閣下は、じっと私を見て、使節団員たちに向き直った。
「皆、聞いた通りだ。今の発言は取り下げ、改めて審議を続ける」
ざわめきが、徐々に静まった。
我が国の外務大臣は、額に冷や汗を浮かべていた。
大臣は、後ろの席のエルマーに目をやった。エルマーは、真っ青な顔で俯いていた。
*
会議は、その後、順調に進んだ。
私は、自分の国の通訳席で、クララ嬢が使い物にならなくなったのを見かねて、残りの時間、両国の側から交互に訳した。双方が、そのことを許した。信頼して任せてくれた、という意味だ。
休憩の時間に、クララ嬢が泣きながら私に頭を下げた。
「ナタリア先輩。私、語学院では満点だったのに……」
「語学院の満点は、辞書の上の満点です。会議室には、辞書にない音があります」
私は彼女の背を軽く叩いた。
「次は、聞く練習をしなさい。誰がどんな顔で話しているか。それが、言葉の下にあります」
クララ嬢は、涙を拭って頷いた。彼女は悪い子ではなかった。ただ、誰かが「誰でもできる」と言ったから、その言葉を信じてしまったのだ。
条約は、翌週、無事に締結された。
その日の夕方、外務局の廊下で、エルマーが私を待っていた。
「ナタリア」
顔色は、ひどかった。
「君が来てくれなかったら、あの会議は、決裂していた。……父上が、大臣から呼び出しを受けた。僕は、次官補の任を解かれるかもしれない」
「そうですか」
「戻ってきてくれ。通訳官の席を、君に戻す。クララとの婚約も、考え直す。僕が間違っていた。通訳は、誰にでもできる仕事じゃなかったんだ」
私は、廊下の窓の外を眺めた。三年前、同じ窓から、同じ庭を眺めていた。そのときは、自分がこの庭を去る日が来るなんて、考えもしなかった。
「エルマー様」
「何だ」
「誰にでもできる仕事は、確かにあります。けれど、誰にでもできる、と言い切れる人は、その仕事を、一度もやったことがない人です」
彼は、何か言いかけて、やめた。
「私は、ヴァルガの使節団付きとして、もう三か月、契約しています。その後のことは、自分で決めます。席は、必要ありません」
廊下を歩き出す私の背中に、彼は何も言わなかった。
*
三か月後、契約の最終日。
ライナー閣下は、王宮の迎賓館の庭で、私に紙を差し出した。
「我が国の外務院からの正式な書簡だ。『両国共同の公式言語官』という新しい役職を作る。報酬は両国が折半する。拠点は、国境の街。ただし、これは、君の意思で決めてほしい」
「両国の……ですか」
「君の国の外務局も、同意している。先日の会議以来、誰も、君を『誰でもいい』とは言わなくなったそうだ」
私は、紙に目を通した。役職名の下に、署名欄がある。上の段には、すでに両国の外務院の印がある。
「閣下」
「何だ」
「橋を、架けてみたくなりました。片側だけではなく」
「それは、承諾か」
「はい」
ライナー閣下は、肩の力を抜いた。そして、灰色の目をまっすぐこちらに向けて、小さな声で、ヴァルガ語で言った。
語尾は、平らに伸びていた。
対等な友に対する、「ミーラ・ヴェ」。けれどそのあとに、もうひとつ、私にしか分からない短い音が、続いていた。
五階層のうち、最も低く、最も近い声。
家族や、恋人にだけ使う、あの響き。
「……閣下。その語尾は、教科書には載っておりません」
「だろうな。君以外の誰にも、訳させるつもりはない」
私は、笑ってしまった。笑いながら、署名欄にペンを走らせた。
言葉を運ぶ仕事は、これからも続く。ただ今度は、運ぶ先で、私の名前を、ちゃんと呼んでくれる人がいる。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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