やる気もないくせにできるだなんて大口叩くからそうなるのです
ロザリンドは静かに怒っていた。
別にロザリンドは怒りっぽい女性というわけではないけれど、それでもどうしたって怒りを抱く事はある。
月のものがどうだとか、そういうものではない。
ムカつく時は精神肉体関係なくムカつくものなので。
怒りの原因は夫の浮気だ。
ロザリンドの夫であるオリバーとは、家同士を結び付けるための政略結婚である。
政略ではあるけれど、しかしオリバーはロザリンドに愛していると言い、それはもう熱烈にその気持ちを表してきたのだ。
最初はその勢いにおされていたロザリンドも段々とオリバーのその気持ちに、自分も同じ気持ちを返したいと思うようになり、そうして政略で結ばれたなんて言われても周囲が信じないくらいの――どこからどう見ても恋愛結婚だと思われる程の仲睦まじさであったのだが。
そんな夫が浮気したのである。
(もしかして実は私のことなど愛しておらず、単純にどれくらいの期間で落とせるかとかそういう……噂で聞いた事はあるしそんな人の心を踏みにじるような非道な方がいらっしゃるとは思わなかったけれど、もしかしてその非道なクズが私の夫……!?)
まんまと騙されていたのだろうか。
そう考えると、簡単に絆された自身の甘さにすら怒りを覚える。
勿論すぐに浮気だなんだと糾弾するつもりはない。
もしかして自分の勘違いだったならオリバーに対して申し訳ないし……なんて考えたりもしたからだ。
だからすぐに「貴方浮気してますわね」と言うような事はしなかった。
まずは夫が浮気しているというのが自身の勘違いである事を証明しようと、ロザリンドは自ら動きひっそりこっそり情報を集めていたのだが。
勘違いじゃなかった。
どう足掻いても浮気だったのだ。
静かに、鍋の中で長時間ぐつぐつと煮込まれたスープよりもどろついた感情はその時点で愛から憎しみへ変わった。
たまたま転びそうになっていた相手を支えただとか、通りすがりに手がぶつかっただとか、そんなものではない。
あの男は職場で盛っていたのである。
ちなみにオリバーは騎士をしていて、浮気相手は最近配属された女騎士だ。
新人ながらもその実力は目を瞠るものがある、とオリバーから聞いた事もあるし、社交界でも噂はちらほらと耳にしていた。
まだ若い女騎士は、以前ロザリンドが見かけた時凛とした佇まいでいたものの、しかしまだどこか慣れない雰囲気を纏っていた。それは人によっては初々しいと見えるのかもしれない。
オリバーの方が年上であり、立場的にも上であることからもしかしたら、無理矢理関係を迫られているのかも……なんて思ったりもしたが、そういうわけでもなかったようだ。
なんでもその女騎士は元々オリバーに想いを寄せていたのだとか。
幼い頃から憧れていた人。
そんな彼を追いかけるように騎士としての道へ進んだのだとか。
そこら辺の事情はロザリンドが直接聞いたわけではないが、女騎士――ビビアンの友人経由で得た情報である。
ビビアンの友人の友人のそのまた……といった状態であるので噂が盛られた可能性もあるけれど、それを含めてロザリンドは調べ上げた。
秘めた恋。
表沙汰にできない話。
背徳感というものが二人を燃え上がらせたようではあるが……
その場の一時だけで終わる関係であれば、ロザリンドも一度だけならとこの感情を飲み込んだだろう。
しかしビビアンはこのまま既成事実を作りオリバーと結ばれる未来を画策しているようで。
ロザリンドとオリバーの間に子どもはまだいない。
子ができやすい時期、という時丁度オリバーが忙しいのと重なって、子作りをしているけれど中々……という状況であったのだ。
そうはいってもロザリンドとてまだ若いので、焦る必要はないと思っていた。
周囲だってオリバーの忙しさを理解していたからこそ、ロザリンドに対してせっつくような真似はしなかったのだから。
(それにしたって結婚してまだたった一年半よ? 愛が冷めるにしたって早すぎないかしら……)
結婚して三年が過ぎたにも関わらず子ができる様子がない、とかであればわからなくもない。
そうなった場合跡取り欲しさに……なんて話も耳にした事があるのだから。
どちらにも子を作る事に関して問題ないと診断されているにもかかわらず、互いの相性がいまいちだったり、タイミングが悪かったりでできないというのもそれなりに聞く話だ。
オリバーももしかしたら、ロザリンド以外の女であれば簡単に子ができるかもしれない……なんて血迷って考えた結果なのかもしれない。
それにしたってどうかと思うが。
ともあれ既にやっちまったので、無かった事にはできそうにない。
このままビビアンに子ができたとなれば、その場合自分は子が作れない女として離縁だろうか。
まさかビビアンを愛人に据えるような真似はしないと思うが、そうしないのであれば離縁して彼女が正妻の座におさまる流れだ。
ロザリンドがオリバーの愛人の立場になる、なんて可能性は流石にないだろうと思いたい。
(いえでも、浮気するような倫理観の相手にマトモな価値観が備わっているかどうか……)
浮気の事実を知る前ならばオリバーは人格者だと思ったけれど、既にその人格者という仮面は粉々である。
それにもし離縁するとしてもだ。
オリバーの浮気が原因です、程度の理由では、その程度で? なんて無神経に言ってくる相手がいたりするので、そうなるとまるでロザリンドの精神が未熟であるかのように言われるのだ。それはとても腹立たしい。
そういう手合いは他人事だから言えるだけで、実際自分がその立場になったら烈火のごとく怒るくせに。
離縁したとして、そういった手合いを相手にするのも面倒くさい。
オリバーの浮気で煩わしい思いをしているというのに、これ以上他の要因を増やしたくはなかった。
(であれば、浮気以外の……それこそ離縁するのも無理はない、という展開に持ち込むしかないのよね)
ロザリンドの考えがそちらに向くのは、そういう意味では当然と言えた。
だって現状オリバーの浮気で離縁となったとしても、今まで周囲から見た二人は熱愛状態だったのだ。
それが急に離縁だなんて、ロザリンドに女としての魅力がなくなってしまったかのようにも受け取られかねない。
(私の名誉と浮気男の社会的立場なら、私は当然私を選ぶわ……!)
浮気していなければ、オリバーは最愛の男性だった。
浮気さえしなければ、ロザリンドだってオリバーを守るために様々な手を尽くしただろうけれど、しかし既に浮気をしているので。
(落ちてもらうわ、オリバー・トライエン)
静かな怒りは周囲に知られる事のないままに、熱量だけを増していった。
「――貴方が浮気をしているのはわかっているの」
「な、突然何を言って」
「言い逃れは無駄よ。既に証拠は揃っているもの」
静かな口調。
ついでに少しばかり眉を下げて、悲しそうな表情を作る。
明確に怒りを表したわけではない。どちらかといえば悲しんでいると思われるように。それでいて、僅かばかり怒りを滲ませた。
じっと目を見る。
言い逃れは許さないと言うように。
流石に妻のそんな態度に思う部分があったのか、オリバーはふっと息を吐くと、
「すまなかった。もうしないよ」
そう言った。
あまりにも軽い謝罪である。
それが余計にロザリンドの怒りに火を注いだとは、オリバーも夢にも思っていないのだろう。
だがロザリンドはそれでも怒りを見せなかった。
「本当に?」
「勿論。一時の気の迷いだったんだ。本当に愛しているのは君だけだ」
「そう。わかったわ。今回だけよ?」
「あぁ神に誓って」
「次はないわ」
「心得ているよ」
あまりにも軽い言葉。
羽毛以上に軽そうな言葉にロザリンドは内心の怒りを堪えて、そのかわりに笑みを作った。
そのままそっと手を伸ばす。
「あまり私を不安にさせないで下さいませね?」
「あぁ、すまないロザリンド。君には悪い事をした」
そうしてオリバーの手を取れば、オリバーも甘い言葉を囁きながらそっとロザリンドの手を包み込む。
「本当に? 誓って下さいますか?」
「勿論。神にも剣にも誓おう」
「そう。それでしたら今回は許します」
「ありがとう。君はなんて心の広い女性なんだ」
手を離し、オリバーはそのままロザリンドを抱きしめた。
ロザリンドもまたそっとオリバーの背に手を添える。
そうして僅かばかりの抱擁をした後、オリバーは仕事があると屋敷を後にした。
「本当に、その言葉に、その誓いに嘘がなければいいのですけれど……ふふっ」
そう呟いたロザリンドの笑みは、先程オリバーに向けた作られた笑みとは違う、清々しいまでの悪意に満ちていた。
あんな軽い謝罪でロザリンドが許すはずもない。
証拠を集めそれを目の前に叩きつけて逃げ場もないくらい精神的に追い詰める方法を取る事だってできたけれど、その結果オリバーが逆上してこちらに危害を加えるような事になれば堪ったものではない。
暴力をふるわれた事でロザリンドに目に見えてわかる怪我ができれば一応被害者の図にもなるけれど、騎士として日々鍛錬を重ねる男の暴力をロザリンドが無防備に受けたなら無事ではすまない。
怪我が治るまでにどれくらい時間がかかるかもわからないし、後遺症が出るかもしれない。
そんな目に遭うのはごめんだった。
だからこそロザリンドは、やんわりと貴方のやっている事をわかっているわ、と匂わせる程度に留めたのである。
その結果本当にオリバーが浮気を悔いて今後ロザリンドに誠実な態度をとるのであれば別にそれでも構わない。
だがしかし、あんな粉雪よりもふわっふわな謝罪だ。オリバーの内心では適当に言いくるめておけばいいだろう、くらいのものなのかもしれない。
誓うと言いながらも、その誓いだってとても軽い。口先だけだとわかるものだ。
あれを本気にする者など、貴族社会の社交辞令の何もかもを真に受けるようなものだ。
恋に目が眩み盲目状態であれば……世間知らずの恋に浮かれた女であったなら、もしくは騙されたかもしれないが。
生憎ロザリンドは既に小娘と呼ばれるような年齢でもない。
オリバーがロザリンドに暴力をふるうような事になったなら、その時ただ一方的にやられるようなか弱い存在ですらないのだ。昔だったら抵抗するどころか嬲られるだけであったかもしれない。
ロザリンドは治癒魔法を使う事はできないし、ハッキリと相手を害するような魔法も使えない。けれど、使える魔法がないわけでもない。神聖誓約魔法であれば詠唱無しで扱う事ができる。
そして先程ロザリンドはこっそりとオリバーにその魔法をかけたのだ。
「結果は……すぐに出るでしょうね」
わかっているからこそ、ロザリンドは荷物を纏める事にした。間もなく離縁する事になるのだと確信して。
――ロザリンドの予想通り、その後オリバーとは離縁する事となった。
オリバー有責での離縁である。
離縁理由は単純に、子が作れないから。
結婚した時点ではどちらにも問題はなかったが、しかし現時点オリバーが子を作る事ができなくなってしまったためロザリンドが結婚している意味がなくなったからだ。
子を作る事ができなくとも、養子を迎える事ができれば離縁する必要はないように思えるが、それとて夫婦仲に問題がない場合に限る。もしくは最初からその予定であっただとかであればいいが、オリバーが不貞していた事もあってロザリンドが婚姻関係を続ける意味はない。
養子を迎えるにしてもその不貞相手と共に育てればいいだけだ。
家同士を結び付けるための婚姻だったけれど、オリバーがロザリンドに熱烈に愛を囁くものだから問題などなかったはずのそれは、しかし今では大問題である。
仲睦まじいと思われていた二人の様子に両家の関係も以前以上に強固になっていたものの、二人が結婚した後から徐々に派閥の力関係に変化が生じ、両家が繋がる旨味が薄れていたというのも離縁するのを後押しした形となった。
個人で仲良くする事に問題はないが、派閥同士の結びつきだとかそういう所まで考えると別にそこまで……みたいになってしまったのである。
もしそうならずに離縁が許されず、ロザリンドがトライエン家の跡取りを産まねばならないとなったなら、その時は結婚相手がすげ変わっていただろう。だがそこまでではなくなってしまった。
貴族社会での女の立場など駒のようなもので、使える駒を無駄に死なせておくわけにもいかない。
であればロザリンドには離縁してもらい、新たな嫁ぎ先を見つけた方が……とロザリンドの父も考えたようではあった。オリバーとの間に子を儲ける事はできなかったが、それでもまだ若く健康な女だ。嫁ぎ先はそれなりに存在する。
颯爽とトライエン家から出ていったロザリンドは、故に次の嫁ぎ先を早々に父に申し渡される事となった。
熱烈なまでの愛があったはずの男は、しかし他の女に手を出したのだ。
それなら別に最初から愛など必要ない。
むしろ愛があったからこそこうなったとも言える。
最初からオリバーとの関係に愛などなければ。義務としての関係であったのならば。
ロザリンドとてオリバーが他の女に手を出したところで、なんとも思わなかったのだろう。
最初からそういうものと思っていたのなら、煮えたぎるような怒りを身に宿す事もなかったはずだった。
故に、次の嫁ぎ先でロザリンドは愛なんてものに期待せず、淡々と己の役目をこなした。
彼女の新たな夫になった男は、妻に浮気された哀れな男だ。危うく自分の子ではない子を跡取りにされそうになった、あわや家を乗っ取られるところだったという男である。
だがしかし、結果としてそうはならなかった。妻と離縁し追い出したので。
だが、跡取りは必要である。
故に新たな妻を必要としていた。
互いに伴侶だった相手に浮気された者同士ではあるが、別に傷の舐めあいなどをする必要はなかった。
どちらもお互いに愛など必要ないと思っていたし、やるべき事を成すだけだと理解していたので。
そうして淡々と関わっていくうちに信頼が芽生え、それがやがてかつての伴侶とは異なる愛の形へ昇華して。
社交界でおしどり夫婦と呼ばれるようになるのだが、今はまだ遠い未来の話である。
――オリバーがロザリンドに浮気を指摘され、そこから離縁するまでの流れにオリバー本人はついていけなかった。
浮気相手であるビビアンは幼い頃からオリバーに憧れを抱き、オリバー自身その感情に気付いてはいた。
憧憬であって恋愛ではないと最初オリバーは妻がいたからこそ断っていたのだが、それでもビビアンに押し切られていくうちに絆されてしまった。
一度だけでいいから。
思い出を頂戴。
そんな風に懇願されて、オリバーはビビアンがこうまで言うのだから……と自分を正当化したのである。
最初はちょっとした触れ合いだった。
だが、一度触れ合ってしまった結果、そこで諦められなくなってしまった。
ビビアンは想いが通じるかもしれないという期待に。
オリバーも妻とは異なる若い肢体に。
溺れるまでそう時間はかからなかった。
こんな事はいけない……と思えば思う程、想いが燃え上がった。
スリルが快感に上乗せされて、互いにどんどんのめり込んでいったのである。
事実オリバーはロザリンドに浮気を指摘された時、面倒な事になったと思っていた。
妻の事を愛していないわけではない。けれど、結婚を申し込んだ時と比べると、当時ほどの熱量ではなかったし、自分を慕い激しく求めてくるビビアンに気持ちは傾きつつあった。
政略結婚である以上離縁だなんだと簡単に言い出す事もないだろうと思っていたし、だからこそオリバーはロザリンドの気持ちを宥めるべく、謝罪はした。
もっともその謝罪は自分でも軽いものだと思ったが。
オリバーが愛を告げ続けていくうちにロザリンドもオリバーの事を愛していたようなので、浮気を知った時点で嫉妬をしたのだと思ったし、ちょっと拗ねている程度にしか思わなかったのだ。
実際にオリバーの軽い謝罪にロザリンドが激怒する様子もなく、次はないなんて言っていたが具体的な事は何も言わなかった。
浮気相手ともう会わないようにして、だとか、同じ過ちを繰り返さないためどう行動するべきか、だとか、そんな話をされなかったからというのもある。
そういったところまで言い出していたのなら、オリバーもロザリンドの本気度合を推し量れたかもしれないが、そんなものは一言も出てこなかったのだ。
今にして思えば、それはオリバー自身がけじめとして言うべきだったのだが。
あまりにもあっさりと許してくれたと思えてしまって、オリバーは完全に油断していたとも言える。
一応言われた数日間は大人しくしていたけれど、その後のロザリンドの態度に変化らしいものもなかったため、いつも通りの日常が戻ってきたのだ。あまりにも早い段階で。
そのせいでオリバーはロザリンドからすっかり許された気持ちになっていたし、少しだけ距離をとっていたビビアンともまた関わるようになった。
会わない、なんて言ったところで配属先を変える権限まではオリバーになかったし、そうなればどうしたって職務の間にビビアンと顔を合わせる機会は発生する。
会わない、と言い出さなかったのはそれもあった。
距離をとるといっても明確に拒絶するような事まではしていなかったのもあって、ビビアンも少しばかり寂しさを覚えはしたが避けられたとまでは思っていない様子だった。
むしろ駆け引きの一つだとでも思っていたのかもしれない。
職務が終わり、引継ぎを済ませれば後は帰路につくだけだ。
だがそこで二人は人目を避けるようにして宿へ向かった。
そこで互いの気持ちをぶつけ合うように事に及んだのである。
ところがそこでとんでもない事態が発生した。
取れたのだ。
何がって、オリバーの両足の間にある一本のナニが。
玉もセットでぽろっと取れた。
痛みはなかったが、何が起きたのかを理解するまでに相当の時間を要してしまった程だ。
腰を打ち付けていたはずが、突然スカッと空振るような感覚になってふと見れば、ビビアンの中に入ったままオリバーの男性器がそこにあったのである。
突如動きを止めたオリバーに、喘ぎ声を上げていたビビアンも一体どうしたのかと困惑した。
折角もう少しで……なんて思っていたから焦らさないで……なんて言ってみたもののオリバーからは何の反応も返ってこない。
中に入っているのはわかるが、突然動きを止めたまま呆然とした様子のオリバーに視線を向けて、そこで何か変だなと思い始める。
なんというか、距離があるのだ。
物理的に。
ビビアンの中に確かにオリバーの存在があるはずなのに、位置がおかしい。
戸惑いながらも身を起こして、そこで見てしまった。
オリバーの下半身にあるはずの物がなくなっている。
意味が分からなくなって、ビビアンは自分の下半身へ視線を移動させた。だってそこにはまだ確かに感触があるのだ。オリバーのそこにないのなら、じゃあこれは一体……と思って見た事で。
「え、なに、ひっ、いやああああああああああ!?」
オリバーから離れてしまったそれが入ったままであるという事実に意味がわからなくなって、ビビアンは悲鳴を上げてしまっていた。
二人が入った宿は、所謂連れ込み宿とも呼ばれるもので男女がそういった事をするための場所でもあった。
故に他の部屋からの嬌声が聞こえてくることも場合によっては存在するが二人が選んだ宿は本来そこまで外に声が漏れないもので、しかし騎士として鍛えられたビビアンの本気の腹式呼吸での悲鳴はあっさりと分厚い壁を貫通し、相当な範囲に聞こえたらしい。
ただ事ではないと思った宿の者がやってきて、部屋の扉がブチ開けられる。
多少激しい行為をする客もいるけれど、ここで殺傷沙汰なんてやられては商売あがったりだ。
行為の最中に精神が昂りまくって相手を害するような事をしでかす者もいるせいで、緊急事態と判断されての乱入だった。
宿の人間が見る限り、危惧していた光景ではなかった事に安堵する。
時として暴力をふるいながら事に及ぶ者もいるせいで、下手をすると血が飛び散っている事だってあるのだ。
だがそういう見るからに凄惨な光景などではなかったからこそ、単純に声が大きいだけの客だったのかと思い直し……
そこで見てしまった。
てっきり道具を使ったプレイなのかと思いきや、それにしても女に入っているそれはあまりにも肉感的で。
中途半端に入った状態のそれは随分とリアルな形状をしていた。
呆然とした様子の男を見れば、股間にあるはずの物がない。
「え、えぇぇぇえええええええ!?」
乱入してきた宿の人間も何が起きたのかわからずに、思わず声を上げてしまった。
そこからは、大騒ぎである。
宿の人間の驚いた大声に何事かと更に人がやってくる。
そして部屋の中の光景を見た者が目を疑い声を上げる。
オリバーが我に返った時には既に遅く、複数名に見られていた。
わけがわからないままだったが、その時たまたま往診に来ていた医者がいたので診てもらえば。
「あぁ、これ魔法によるものですね。綺麗に取れてるけどちゃんと対処しないと魔法で適当につけてもすぐ取れるやつだ」
なんてあまりにもあっさり言われるものだから。
宿の人間からすれば原因がわかったのでそれ以上二人に関わる事もなく。
非常事態とはいえ大勢の人間に痴態を目撃される事となったビビアンは羞恥で顔を真っ赤にしながらも未だ自分の中に入っていたブツを無理矢理抜き取った。
そしてそれを強引にオリバーに押し付ける。
それから大慌てで身体を清めて、ビビアンはオリバーから逃げ出したのだ。
愛していて、妻から奪い取ってやろうと思っていた男だった。
大勢に二人の関係が知られる事だってビビアンからすれば計算の一つとして見ていた。
だがそれは、恋人関係として知られるものであったり、オリバーが妻に離縁を突き付けた後の新たな妻としてであり、こんな姿を見せたいわけではなかったのだ。
あくまでもビビアンが周囲に見せたかったのは相思相愛の夫婦としての姿であって。
真っ裸で事に及んでいた姿ではなかった。
宿で野次馬としてやってきた者の中には、ビビアンの見知った人物もいた。その相手が面白いものを見たとばかりの表情だったのもあって、その後噂は凄まじい速度で広まる事にもなってしまった。
そうなるともうビビアンは外をマトモに歩けなくなってしまった。
知り合いのほとんどがオリバーとの関係と宿であった出来事を知る形となったし、表面上普段通りに接してくれていてもふとした瞬間ビビアンは自分が笑われているように感じてしまった。
実際笑い物にしている奴もいたので全てが被害妄想ともいかない。
単なる恋愛関係であれば職場である騎士団も何も言わなかっただろうけれど、しかし相手は既婚者である。
オリバーから誘われて断れなかった、なんて偽りで自分を守ろうとしても周囲はビビアンが熱心にオリバーに関わっていっていたのを知っていたため、そのような嘘を吐いたところで余計に自分が惨めになるだけ。
職場での立場も失って、ビビアンは結局騎士団を辞する形となってしまった。
ちなみにオリバーの妻、ロザリンドは離縁する際ビビアンに特に何もしなかった。
不貞の慰謝料だとか、そういった請求の一つでもされていたのならビビアンとてある種のけじめをつける事ができたかもしれない。だが、ロザリンド本人も、彼女の生家もビビアンの事などまるでいないものであるかのように一切関わる事がなかったため、ビビアンは恐る恐る連絡を取ろうと試みたものの。
恥を忍んで書いた手紙は、届きはしたものの読まれていたのかいないのか。
それすらわからないまま、彼女は一切相手にされないままだったのである。
せめて慰謝料を支払うなどで多少なりとも禊ができればビビアンとて気持ちに区切りをつけられたかもしれないが、それすらできなかった。一度強引に相場と思しき金額分の小切手をロザリンドの家に送った事もあるけれど、それは即座に送り返されてしまった。
関わりたくないからこそ、なのだとビビアンは思ったが、しかしそれなら彼女の家ならビビアン一人どうにかするくらい、もっと簡単にできたはずだ。ビビアンと、実家諸共潰すくらい容易いだろう。
だがそういった気配はない。
一生涯この罪を背負い続けろ、という事なのかと考えたビビアンは最終的に修道院で生涯を過ごす事にした。
貴族家の女性が優雅に過ごすようなものではない。平民とほぼ変わらぬ暮らしである。朝から晩まで身を粉にするように活動する。
彼女自身が自らを赦せる日が来るまで――実に長い歳月が過ぎるまで、それは続けられた。
――突然取れてしまったマイサン。ビビアンの中から引き抜かれたそれを押し付けられたオリバーが我に返った時には、とっくに周囲から人はいなくなっていた。
医師の言葉は耳に届いていたものの、今でも実感がない。
だが、取れてしまった自分のブツだけはそっと、壊れ物を扱うかのように手にしていた。
のろのろとした動作で身を清め、服を着る。
普段であれば服の下に隠れるであろう自身の息子とも呼べるべき存在は、しかし今は外にいる。
下着の中に押し込めようにも、安定しないせいで何かの拍子に落ちてしまいそうであるべき場所に収める事ができなかったのだ。
だが流石にそのままこれを持ったまま外に出るわけにもいかない。
考えた末にオリバーは布で包んで運ぶ事にした。
そうして屋敷に戻ってみれば、ロザリンドから離縁を突き付けられたのである。
オリバーにとっては突然すぎる出来事だった。
そもそもまだ自分の身に起きたことが理解しきれていないのに、そこに畳みかけるようにロザリンドからの離縁宣言である。
どうにか思い止まらせようと試みたものの、ロザリンドの態度は変わらなかった。
「だってもう子供も作れないのであれば結婚していても意味がないでしょう」
そしてあまりにも当然のようにそう言われて、オリバーは頭の中が真っ白になったのだ。
「もげたのですよね」
「何故それを!?」
「だってそのように魔法をかけましたもの」
「君の仕業だったのか!? 一体どうするんだこれを!」
「どう、も何も……浮気はしない、誓うと仰ったのはご自身でしょう。
神にも剣にも誓うと。人として、騎士として誓ったくせに早々にその誓いを破った結果ですわ。
貴方の誓いって随分と軽いのですね。王家に捧げた剣にまで誓っておいてこれですもの、忠誠心もなかったという事かしら」
騎士としての誇りまで侮辱されたように思えて、カッとなりかけたけれど。
ロザリンドは既にこの状況を読んでいたのだろう。彼女の背後には護衛が控えていた。
ここでオリバーが暴力に訴えるような形になれば、護衛は一切の容赦なく己が役目を果たすだろう。
「な、なぁ、これは一体どうすれば元に戻るんだ……?」
「戻る? 何をおっしゃっているのか意味がわかりませんが。誓いが破られた以上、どうにもなりませんよ。誓いを破らなければ何の問題もないままでしたが……まさか舌の根も乾かぬうちにこうなるだなんて私も思いもしませんでした。それに次はないとも言いましたし。
私への謝罪も誓いも軽んじた以上、私は貴方とやっていけません。
それにここ最近貴族の勢力図も色々と書き変わりましたから、離縁に関しても我が家は問題ないとお父様が」
ロザリンドはしれっと嘘を混ぜた。
実際こうなる事は予想済みであった。けれど、分かった上でやりました、と言うのはオリバーを余計逆上させる形になるかと思ったからこそ、彼女は浮気した夫を許す振りをして結果再び裏切られた妻を演じた。
「一度は許したのにすぐさま二度目、でございましょう?
私への謝罪も、誓いも、随分と軽いものなのだから縁を断ち切ったところで特に問題もないでしょう。
離縁に関しては貴方有責となりますが、慰謝料などは望みません。これから迎える養子の教育にお使いになって?」
さ、お早く署名を、とばかりに差し出された離縁に関する書類をオリバーは見たくないとばかりに首を振ったが――更なる醜聞をお望みですか? と言われ震える手でサインをする事となった。
その後は散々だった。
あの宿での目撃者の中にいたビビアンの知り合いが噂をバラまいてくれたおかげで、オリバーの同僚たちにも醜聞は広まったからだ。
男としての象徴とも言えるべきそれが取れた、という事に同僚たちはじゃあ今そこにないのか、と言わんばかりに視線を向けてくるし、用を足すときどうしてるんだ? なんてずけずけと聞いてくる者もいた。
周囲に女性がいるならその手の会話ももう少し控えただろうけれど、周囲は野郎ばかりであったため遠慮も何もなかったのだ。
ちなみに用を足す時、今までのようにはいかなくなってしまったと言えばじゃあ女みたいにやってるって事か、とやはり遠慮も何もなく言われ。
文字通りのタマ無しか、と揶揄うように笑われて。
どうにか自己弁護をしようとしたものの、その頃にはどうしてこうなってしまったのか、という事実が広まっていたのもあって、神と剣への誓いを簡単に破るから……と蔑まれる形となってしまった。
オリバーの誓いがあまりにも軽すぎたせいで、自分たちの誓いまでそう見られるかもしれないとなれば、まぁいい顔をされるはずもない。
その頃にはとっくにビビアンも騎士を辞めていなくなってしまったので、余計にこの話題の矛先はオリバーに集中する事となってしまったのだ。
跡取りを望めなくなった事で、養子を迎えると言う話はオリバーと親の間で確かに出たものの。
だがしかし、こうも笑い話として醜聞が広まった以上トライエン家の名も落ちたも同然である。
オリバーの親はロザリンドに対して最初、何もここまでしなくても……と思ったようではあったけれど、しかしオリバー自身がもう浮気はしないと誓った結果であると言われてしまえば何も言えなかった。
貴族である以上、そして騎士でもあるために契約や誓いは重んじられる。
だがオリバーのそれがあまりに軽すぎたせいでこうなったのだと突き付けられれば、オリバーの親とてそれ以上何も言えなかったのだ。
結果としてトライエン家からオリバーは除籍される事となった。
彼をいつまでも置いておけば、トライエン家の名は更に落ちていくだけだと判断された結果である。
平民であっても騎士にはなれる――が、しかしオリバーの誓いがあまりにも軽すぎた事で、王家の信頼も仲間たちの信用も何もない状態であるオリバーが騎士を続けていくのは途轍もない困難で。
結局彼は騎士を辞め、住んでいた国を出る形となった。
騎士としての実力はそれなりにあったため、傭兵などで稼ぐ事は可能だろう。
だが、その生活がいつまで続くかは不明である。
その後のオリバーの行方を知る者はいない。
分かたれてしまったブツを元に戻せる魔法使いを探し求め旅に出た、とかつてオリバーが所属していた騎士団では言われていたが……結局彼が自身のそれを元に戻せたのかを知る者は誰もいないので。
ただ、時折遠い地の噂話として、それらしい話が聞こえてこないでもなかったが……
それが本当にオリバーの事であるかどうかを知る術は彼を知る者たちにはなかったのである。
次回短編予告
婚約破棄を突き付けた王子は言う。
真実の愛なのだと。
それに対して女は言った。
真実の愛だというのなら、是非ともその証を見せて下さいな。
次回 真実の愛で乗り越えて!
そうはならんやろ、なっとるやろがい! 系に近い感じのお話となります。




