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騎士団と共にローサン村に向かったヴィルヘルトは、村人たちを引き連れて周辺を丁寧に調査していた。
やがて、村の古い洞窟を調べていたときだった。かび臭い闇の奥で、小さな呻き声が聞こえる。ヴィルヘルトが灯りを掲げて奥へ進むと、そこには衰弱し、倒れ込んでいる一人の青年がいた。
その姿は、明らかに異質だった。
鋭く尖った耳、額から伸びる角。
まだ幼さが残る顔には土と血の痕がこびりつき、細い手足は震えている。
恐怖に見開かれた大きな瞳で、彼はヴィルヘルトたちを見上げていた。
───魔族だ……!
後ろに控えていた数人の村人が、悲鳴じみた声を上げた。
その瞬間、村の空気が一変する。
誰もが息を飲み、怒りや恐怖が一気に膨れ上がった。
───こいつが全部の元凶だ!
───こいつの所為で村に災いが……!
───早く殺してしまえ!
村人たちは口々に叫び、誰もが棍棒や鍬を手に駆け寄ろうとする。混乱と激情に呑まれた彼らの目には、もはや理性などなかった。
ヴィルヘルトは村人たちの前に立ちはだかり、必死に説得しようとした。彼の声は真摯で力強かったが、群衆の恐怖はそれを押し流していく。
───黙れ!魔族はみんな悪だ!
───こんな奴、生かしておけるか!
一人の男が、叫び声とともに青年へ向かって武器を振り上げる。ヴィルヘルトは咄嗟に男の腕を掴んで止めようとした。
その一瞬、揉み合いになった腕の動き、土埃が舞い、村人の叫び声と混ざって、尖った光が視界を裂いた。
───事故だった。
混乱の中、槍の切っ先が青年の細い身体に深く突き刺さる。
青年の瞳が、驚愕と苦痛の色に染まる。
彼の体はゆっくりと崩れ落ち、地面に広がる血の赤が、洞窟の闇に溶けていった。
事態は、誰の想像も及ばぬほど最悪の方向へと転がっていった。
村に襲来した魔族は、ヴィルヘルトによって討伐された───表向きには、そう伝えられていた。けれど、それは単なる事実の表面に過ぎない。
実際は、恐怖にかられ、理性を失った村人たちの暴走が惨劇の発端だった。
ヴィルヘルトは、村人たちの愚かさを責めるでもなく、ただ静かに、すべての罪を自分のものとした。その背中には、彼なりの優しさと哀れみがあった。村人を庇い、民の未来を守ろうとした。
だが、それが致命的な過ちであった。
やがて、その亡骸の正体が明らかになった。亡くなった魔族の青年は、ただのはぐれ者ではなかったのだ。
───彼は、魔国の王の弟君であった。
魔国の王は、最愛の弟の命を奪われたことを知るや否や、烈火のごとき怒りを燃やした。その咆哮は王宮を揺るがし、怒りと憎悪が渦巻く魔力となって王国を侵食し始める。
バインベルクに向けて解き放たれたその怒りは、まるで災厄だった。空が不自然に暗く沈み、空気は重く、街中に見えない圧力が満ちていく。
地を這うような冷たい風が、町を、村を駆け抜ける。何もないはずの空間に、得体の知れぬ影が揺らめいた。
それまで魔族を〝異質〟と蔑み、見下していた王国の民たちは、このとき初めて、彼らの持つ真の力を思い知らされることになる。
無力さに膝をつき、逃げ惑うことしかできなかった。絶望の淵で、国そのものが飲み込まれるのではないかと誰もが思った。
そんな中、ただ一人、立ち上がった男がいた。
ルベルトだ。
彼は聖女エリシャに、全身全霊の加護を注ぐよう命じた。
エリシャの小さな身体が苦悶に震えるほど、魂を削って絞り出された祝福の光。それを身にまとい、ルベルトは剣を振り上げる。
本来ならば、ただ剣を振り回すだけの男。その腕にも技にも、英雄の片鱗はない。だが、加護の力がすべてを覆い隠す。
聖光に包まれた剣が振り下ろされるたび、厄災の影はかき消え、王都を包む闇が晴れていく。
民は歓喜し、涙ながらにルベルトの名を叫んだ。その英雄譚は瞬く間に国中へ広がり、彼の威光は絶対のものとなった。
ルベルトは、国を救った英雄として称えられ、玉座への道を確固たるものにした。
───だがその裏で。
ヴィルヘルトには重すぎる罰が待ち受けていた。
魔国との国交を断絶させ、王国を危機に陥れた元凶として。民の敵意も、失望も、すべて彼ひとりに向けられた。彼は静かにその運命を受け入れ、罪の償いとして命を差し出すほかなかった。
♦︎
───そんな未来を、起こしてはいけない。
ロエナは夜更けの自室で、一人静かに思索に沈んでいた。
窓の外では、雲に隠れた月が薄く光を投げかけ、王宮の庭の木々が静かにざわめいている。部屋に満ちるのは重厚な静寂と、淡いランプの光、そしてロエナ自身の安定した呼吸だけ。彼女の表情には焦りの色はなく、むしろすべてを見通すような静けさが漂っていた。
ヴィルヘルトが村へ向かうのは一週間後。
それまでに自分が為すべきことは決まっている。
内なる決意を確かめるように、ロエナはゆっくりと椅子から立ち上がった。スカートの裾を整え、ひとつ深呼吸をすると、迷いのない足取りで扉を開ける。
静かな廊下を歩くロエナの姿は、夜の王宮の中にあっても凛とした気配を放っている。彼女の目的地は、王宮の一角にある聖女の礼拝堂。
そこは日中は祈りの声と香の匂いに包まれる神聖な場所だが、今はしんと静まり返り、薄明かりの中で床の大理石がぼんやりと光っている。
礼拝堂の扉をそっと押し開けると、すぐにロエナの姿を見つけた少女が、ぱっと顔を輝かせてこちらに駆け寄ってきた。
「あっ、ロエナ様!」
その声には心からの喜びが溢れている。エリシャは亜麻色の髪を揺らし、白いローブの裾を小さく跳ねさせながらロエナの前で立ち止まった。
「ご機嫌よう、エリシャ。こんな時間まで修行とは、感心ね」
「はい。最近は、以前よりもずっと修行に集中できているんです!」
弾む声と、きらきらと輝く瞳。無邪気な微笑み。
その無垢な表情を前に、ロエナは思わず瞬きを繰り返す。自分の目の前に立つ少女が、本当にあのエリシャなのかと、一瞬だけ現実感を失いかけた。
───この子、こんなに明るい子だったかしら?
記憶の中のエリシャは、いつも静かで、何かに怯えたような気配をまとっていた。
人と視線を合わせることを避け、控えめに、影のように身を縮めていた。笑顔を見せることも滅多になく、たまに微かに口元が緩むことがあっても、目には決して光が灯っていなかった。
今、目の前にいる少女はまるで別人のようだ。
白いローブの裾が小さく揺れ、亜麻色の髪が光を受けて輝き、心の底から嬉しそうに自分の言葉を口にしている。
───もしかしたら、ルベルトの支配なき今、彼女の本当の姿がこれなのかもしれない。
ロエナはそんな思いを胸に、ふっと表情を緩めた。
「それはよかったわ。私も、エリシャの加護のおかげで毎日とても身体が軽いのよ」
「き、気付いていらっしゃったんですね……!こっそり、そっと加護をおかけしたつもりだったのですが……」
エリシャはいたずらが見つかった子どものように、少し恥ずかしげに指先をもじもじと絡める。
「聖女の加護は、どのくらい持続するものなのかしら?」
「私の加護は、基本的に半永久的に続きます。よほどのことがない限り、解けてしまうことはないはずです!」
その明るい声には、かつての怯えが微塵も感じられなかった。自らの力に誇りを持ち、誰かの役に立てることに純粋な喜びを感じているのだろう。
「まあ、それは素晴らしいわね」
「はい!……でも、加護って不思議なんです。善意を持つ人───他人の幸福を願う人には、自然と加護が降り注ぐのですが、もしも心に害意があったり、人を傷つけようとする気持ちが強い人には、どうしても加護が弾かれてしまうんです」
エリシャはほんの少しだけ寂しげな表情を浮かべたが、すぐに気持ちを切り替えるように、また微笑みを取り戻した。
善意の想いがなければ、聖女の加護は決して降りない───。
たとえルベルトのように、回帰前の厄災時、その胸の奥にいかに深い闇や黒い野望を抱えていようとも、「ブルクハルトを救いたい」とほんの一瞬でも純粋に願えば、その一片の祈りにだけは、聖女の加護が応える。
ロエナ自身もまた、決して穢れなき存在ではない。
むしろその胸の裡には、ルベルトを地獄の底へと突き落とすという、冷たい野望すらひそめている。その計画に必要であった為とはいえ、「エリシャを支配から解き放ちたい」というその小さな善意が、彼女にも聖女の加護をもたらしたのだろう。
それが、聖女の力の公正さでもあり、危うさでもあるのかもしれない。
ロエナは心の中で、くすりと小さく笑う。
(……私も、あまり悪巧みはしないようにしなくちゃ)
ほんの小さな冗談めいた思いが心をよぎり、彼女の顔には静かな余裕が宿る。
「ところで、ロエナ様はどうしてこんな夜更けに礼拝堂へ?」
「そうね……実は、エリシャに相談したいことがあったの」
ロエナは軽やかに微笑み、少し肩の力を抜いて言葉を紡ぐ。エリシャはその返事を待ちきれないように、ぱっと目を輝かせて一歩、ロエナの方へと近づいた。
「私にできることなら、何でもお力になります!」
「あら、ありがとう。では、さっそくお願いしたいことがあるの」
そう前置きしてから、ロエナはほんの少し声を潜める。
厳かな礼拝堂の空気が、ふたりの会話を優しく包み込んでいた。
「明日、ローサン村へ行くの。それに付き添ってもらえないかしら」
「ローサン村……?」
「えぇ。最近、村で不審な出来事が続いているらしいの。もしかしたら、あなたの聖女としての力で何か解決の糸口がつかめるかもしれないと思って」
ロエナは淡々と説明しながらも、エリシャの反応をじっと観察していた。
───ルベルトに屈辱を味わせ、王の座から引きずり下ろす。そのためには、ヴィルヘルトを王に仕立て上げなければならない。
だが、その道筋は決して単純ではない。あの村で本来死ぬ運命だったヴィルヘルトを救い出し、彼の名誉を守り抜くこと。これが計画の最も肝心な部分だ。
もし、ローサン村の異変を解決することができれば、ヴィルヘルトを死の運命から解き放てる。その瞬間、物語の歯車は大きく動き出す。
王宮の一角、静かな礼拝堂の中で、ロエナは冷静な顔のまま、内心で確信を深めていった。
───ヴィルヘルトが村に向かう前に、わたくしが異変を解決する。
まずはそこからだった。
「……分かりました!私で良ければ、ぜひご一緒させてください。村の方々のお役に立てるよう、精一杯頑張ります!」
エリシャの真っ直ぐな返答には、一点の曇りもない善意と誠実さが宿っていた。彼女の笑顔は、まるで夜明けの陽射しのように澄み切っていて、礼拝堂の空気を一瞬だけ明るくした。
ロエナは、その光景を優しい微笑みを浮かべて見つめる。
だが、その内心は静かに冷たく波打っていた。
エリシャの純粋さが、自分の計画にとってどれほど都合が良いものか、ロエナは十分に理解していた。
この子が善意の塊でいてくれるからこそ、聖女の加護は疑いなく発動し、誰からも疑われることはない。
ロエナは穏やかで慈愛に満ちた表情を崩さぬまま、内心でひそかに、冷たく計算する。
(あなたが〝いい子〟で、本当に良かった)
やわらかな月明かりがステンドグラスを透かして礼拝堂に降り注ぐ中、ロエナはその光に微笑みを重ねる。
その胸の奥で、決して誰にも見せることのない冷徹な意志が、静かに輝きを増していた。
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