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剣と剣がぶつかり合う鋭い金属音が、訓練場の澄んだ朝空に高く響く。その中央、踏みならされた砂の上に、二人の姿が向かい合っていた。
ロエナの手には細身で鋭いレイピア。
その対面には、長身で無造作なブロンドの髪を風に揺らす青年───ヴィルヘルト・バインベルク。
王の長子でありながら、正妃の子ではないため、王位継承権は第二位。だが、その実力は王族の枠に収まるものではなく、剣を握れば誰もが一目置く、宮廷きっての剣士として知られていた。
ヴィルヘルトは、どこか気怠げで野性味を帯びた笑みを浮かべている。その鋭い青い瞳には、どこか底知れぬ挑戦の色が宿っていた。
「突然どうしたんだよ」
彼は軽く剣を構え直しながら、茶化すように言う。
「書斎に籠ってばかりだったロエナ次期王妃様が、俺に剣術を教わりたいなんてさ」
「ふふ、前から考えていたことですわ。たまには体を動かしませんと」
ロエナは余裕の笑みを返し、軽やかに一歩踏み込む。レイピアの切っ先が、朝の光を受けてきらめいた。
ヴィルヘルトの剣が素早く振り下ろされる───しかし、ロエナは驚くほど自然な動きでそれをかわし、カン、と澄んだ音を立てて受け流す。
反撃の突きは鋭く正確。だが、ヴィルヘルトもまた余裕を崩さず、それを見事に受けてみせた。
「それにしても、本当に初めてか?」
彼は片眉を上げて言う。
「動きがいい。剣も軽々持てているじゃないか」
「あら、もしかしたら、才能があったのかもしれませんわね」
───いいえ。本当は違う。
(エリシャの加護のおかげね。剣術の腕はまだまだだけど、体がこんなにも軽いなんて)
自分の動きが、今までとはまるで別人のように洗練されているのがわかる。
目の前の相手の体重移動、呼吸、視線の変化───すべてが研ぎ澄まされた感覚の中に映り込んでくる。
剣を振るうたび、手首や肩の可動域が広がり、疲労感すら感じさせない。
ヴィルヘルトがにやりと笑う。
「なら、もう少し本気でいこうか」
瞬間、彼の剣が横薙ぎに鋭く振るわれる。
ロエナはレイピアを握る手にわずかな力を込め、真正面から受け止める。振動が腕を駆け抜けるその瞬間、彼女の視線は真っすぐにヴィルヘルトの瞳を見据えていた。
それは、この国の王家の象徴たるサファイア───。
深い蒼の奥に、誇りと覚悟、そして人知れぬ孤独が見て取れる。
ロエナの胸には、冷たい復讐の意志が燃えていた。
───目的はルベルトへの復讐、そして、彼を次期王の座から引きずり下ろすこと。
ルベルトは王家の正嫡、誰もが〝次の王〟と疑わぬ存在だ。
だがその本質は、特権に甘えた脆弱さ、己以外を見下す幼稚な自尊心───そんな男に、この国の未来を任せてはいけない。
そして何よりも、わたくしの人生を壊した男に、いかなる栄光も、報いも、与えてはならない。
だからこそ、最適解はあまりにも明快だった。
───ヴィルヘルトを、王に仕立てること。
側室の子として蔑まれながらも、誰よりも誠実で、己を鍛え抜き、真っ直ぐな意志を持つ男。
人々の噂や権力闘争に惑わされず、自分の信念だけで世界を切り開くことができる男。
その姿を見てきたロエナには分かる。
この国に真に王の器を持つのは、血筋でも、地位でもなく、こうして誇りを保ったまま、まっすぐに立ち続ける者なのだと。
───昔から、ルベルトは心の底でヴィルヘルトを見下していた。
剣しか能のない兄。自分より劣っている存在だと、幼い頃から当然のように思い込んでいた。
───けれど、もし、その兄がお前を超えたら?
ロエナの胸に、冷たい期待がじわじわと満ちていく。自他ともに自分こそが王座に最も近いと信じ切っていたルベルト。
その男が、ある日〝剣しか能のない兄〟に追い抜かれたと知ったとき───。
その瞬間、彼の誇り高い顔はどう歪むのだろう。
信じて疑わなかった自分だけの世界が、音を立てて崩れていく。選ばれし者のプライドが、誰も相手にしなかった兄に粉々にされる。
唇を噛み、血走った目で誰かを睨みつけ、顔を真っ赤にして嗚咽すら漏らすかもしれない。
かつて自分が見下してきた兄の背中を、みじめに追いかけるしかできなくなった彼の姿は、まさに滑稽としか言いようがない。
(早く見てみたいものね。その愚かな顔を)
ロエナの胸の内で、嘲笑が静かに渦を巻く。
ルベルトの自信が崩れ去る、あの愉快で哀れな瞬間を想像しながら───。
♦︎
「筋はいいな。正直、驚いたよ」
稽古の終わりを告げるように、ヴィルヘルトは汗ばむ額を袖でぬぐいながら、ロエナににこやかな笑顔を向けた。
その声色にはからかいも遠慮もなく、ただ素直な称賛と親しみがにじんでいる。
「ありがとうございます。殿下のおかげです」
ロエナは小さく頭を下げた。
どこか高揚感と満足感が胸の奥でふつふつと膨らんでいく。あれほど難しく思えた剣の動きが、今は身体の一部のように馴染み、呼吸さえも軽やかだ。
「……長いことやったな。そろそろお開きにしようか」
「はい。突然のお願いにもかかわらず、時間を割いてくださって本当に感謝しています」
ロエナは丁寧に礼を述べる。
だがヴィルヘルトは、肩をすくめて気軽に返した。
「気にしないでくれ。むしろ嬉しかった」
ブロンドの髪がそよ風に揺れ、光を受けてきらきらと煌めく。その立ち姿は、威圧感ではなくどこまでも自然で、親しみやすさに満ちている。
「お前はいつも、どこか張り詰めた様子だったから……最近は、表情も雰囲気も柔らかくなってて、正直、安心したよ」
その言葉に、ロエナは思わず驚き、けれどすぐに目を細めて微笑んだ。
ルベルトがどれほど取り繕い、威厳を演出したところで、ヴィルヘルトの持つ本質的な強さや優しさには到底及ばない。
回帰前、宮廷中が自分を悪女と蔑む中、どんな噂にも左右されず、ただ真っ直ぐに味方でいてくれたのは、この人だけだった。
(……ルベルトへの復讐は前提として、これは貴方を救うためでもあるのよ、ヴィルヘルト殿下)
その時───。
「ご歓談中、失礼いたします、ヴィルヘルト様」
騎士団の制服を着た騎士が、丁寧に一礼して近づいてきた。
ヴィルヘルトは軽く顎で合図し、二人は数言だけ小声で言葉を交わす。騎士はすぐに礼を述べて、その場を静かに立ち去った。
「何か、ありましたの?」
「……いや、大したことじゃないさ。ただ、ローサン村って知ってるか?」
「えぇ、存じております。王国随一のワイン産地でしょう?」
「そうだ。そのローサン村で、最近どうも妙な出来事が続いているらしくてな。……魔国の関与が噂されてる。宮廷でも警戒を強めていて、騎士団の派遣が正式に検討されているらしい。俺にも、現地調査に同行するよう打診があった」
「まあ……魔国の?」
魔国───。
魔族と呼ばれる、魔法をその血に宿す異形の者たちの国。
ここ、バインベルク王国の国境の向こう側に広がる、霧深く、時に闇よりも濃い影を落とす土地。
王国の人々にとって、魔族は畏れるべき脅威であり、呪いであり、理解しがたい他者───その象徴であった。
だからこそ、人は魔族に怯え、蔑み、排除しようとする。
魔族に向ける眼差しは、時に冷笑と恐怖がないまぜになり、魔法という力への羨望すらも、敵意へと形を変えるのだ。
そしていま、この両国に横たわる平和は、あまりにも脆い幻想だった。
まるで夜露が残る蜘蛛の巣のように、繊細で、触れれば簡単に崩れ落ちる。互いに腹の底では、いつ裏切りが起きても不思議ではないと思い続けていた。
「魔族の仕業だとしたら……魔国との関係にヒビが入りそうで気が重いな」
ヴィルヘルトはそう言って、困ったように口元を緩めた。
冗談めかした声音とは裏腹に、その瞳の奥には王族としての責任と、放っておけない性分ゆえの真剣さが滲んでいる。
彼はいつもそうだ。問題から目を逸らさない。たとえそれが、国同士の微妙な均衡を揺るがす火種であったとしても。
───そう、確かこの時期だったわね。
ローサン村での異変。
不自然な噂、説明のつかない現象、そして魔国の名。
それらを耳にした時、ヴィルヘルトは迷わなかった。正義感が強く、責任感があり、そして───自分が行くべきだと信じて疑わない人だから。
王族として。
剣を取る者として。
何より、人として。
率先して村へ向かい、現地を自分の目で確かめようとした。
それがどれほど危うい選択であるかを、彼自身は理解していなかったわけではない。それでも、行かずにはいられなかったのだ。
───でもね、ヴィルヘルト。
貴方は行ってはいけない。その正しさが返って致命的になる。
───村に向かえば、貴方は処刑される運命を辿るわ。
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