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「……は?」


 ルベルトは寄付記録の帳簿に目を落とした瞬間、思わず声を漏らした。

 そこには、これまで自分の名だけが並んでいた支援者の欄に、見慣れぬ名前がずらりと加わっている。

 王家慈善会、神殿、その他名の知れた貴族たち───以前なら決して混じらぬはずの団体や名家が、揃いも揃って支援者として記載されていた。


 どういうことだ。

 これまで根回しを重ね、他の支援者の介入は固く断らせていたはず。

 資金の流れも、孤児院との連絡も、全て自分の掌の内でコントロールできていたはずだ。それが───!


「シャーワル!シャーワルはいるか!」


 感情を抑えきれず、ルベルトは声を荒げながら文官の執務室へ足早に向かった。

 重い扉を乱暴に開け放つと、中にいたシャーワルが驚いた顔でこちらを振り向く。


「は、はい、殿下。こちらに……!」


 机の上の書類を押しのけながら、慌てて椅子から立ち上がるシャーワル。


「これは一体どういうことだ?何故孤児院の支援者が、ここ最近増えている?」


 怒気を孕んだ声に、室内の空気が一気に緊張で引き締まる。

 シャーワルはおずおずと寄付記録を差し出し、眼鏡越しにルベルトを見上げた。


「そ、それは……ロエナ様からのご助言でして……」

「ロエナの?」


 ルベルトの眉がぴくりと跳ね上がる。

 シャーワルはその反応に一瞬身をすくめながらも、慎重に続けた。


「殿下お一人のご厚意に頼る形では、万が一の際に孤児院が立ち行かなくなる恐れがございます、と。聖女様に関わる施設であれば、王家として正式に関与を明確にした方がよいのではないか───そうロエナ様が仰られまして。私も確かに理に適っていると感じましたので、上に報告を上げましたところ……肯定的なご意見が次々と寄せられまして……」


 その言葉を聞いた瞬間、ルベルトは唇を強く噛みしめ、拳に力を込める。


 今まで自分の意思ひとつで存続を左右できた孤児院が、王家や貴族たちの名のもとに管理される。これでは、エリシャに従うよう命じても、彼女は怯える必要がなくなる。


 まるで自分の権威ごと、軽々と無効化された気分だ。


(ロエナ……!余計なことを!!)




♦︎



 そろそろ、ルベルトの元にも例の件が伝わる頃合いだろう。

 ロエナは中庭の小道をゆっくりと歩きながら、唇の端をわずかに持ち上げた。

 透き通る青空の下、花壇の花々は穏やかに風に揺れ、鳥たちのさえずりが遠くで響いている。その平和な風景の裏で、ひとつの権力構造が静かに崩れつつあることに、誰も気づかない。


(悔しいでしょうね、ルベルト。せいぜい奥歯でも噛み締めていればいいわ)


 胸の内に冷ややかな勝利感が広がる。

 エリシャを縛る鎖が断ち切られたことで、彼女への脅しはひとまず止むはずだ。

 もちろん、ルベルトが再び新たな道具を用意してくる可能性もある。けれど、そんなことは無駄だとロエナは確信していた。

 どんな手を使われても、必ず潰す。何度でも、完膚なきまでに───。


 その時、不意に名を呼ばれた。


「ロエナ様……」


 振り返ると、そこにはエリシャがいた。

 やや頼りなげな足取りで、けれど真っすぐにこちらに向かってくる。

 その顔にはもはや恐怖は浮かんでいない。

 ただ、どう感情を表現すればよいのかわからず、戸惑いながらも何かを伝えたがっている───そんな幼子のような表情があった。


 エリシャは立ち止まり、小さな声で言葉を紡ごうとする。


「あの……ありが───」

「あら、お礼を言われるようなことを、わたくしはしたかしら?」

「え……?」


 エリシャは驚いたように目を瞬かせ、戸惑いの色が濃くなる。


 ロエナは、エリシャの言葉を受けて、わざときょとんとした表情を作った。

 まるで、本当に自分が何をしたのかわからないとでも言うような、無垢で愛らしい微笑み。

 首をかしげ、小さく瞬きをしてみせるその姿は、傍目には優美で無害な令嬢そのものに映るだろう。


 そのロエナの仕草を見たエリシャは、何かこみ上げるものを必死に押し殺すように、ぐっと唇を噛みしめた。

 そして次の瞬間、まるで堪えていた思いがあふれ出すように、深々と頭を下げた。


 その動作は決して形だけのものではない。

 真摯で、どこか震えるような決意がその背中に宿っている。エリシャの長い睫毛が頬に影を落とし、亜麻色の髪が柔らかく揺れる。


「エリシャ様?」


 ロエナの声に、エリシャはゆっくりと顔を上げる。

 目元にはまだ涙の跡が残っていたが、その瞳は澄んでいて、微かに光っている。その口元には、幼子のような素直な決意と、初めて自分の意志を示す誇らしさが同居していた。


「───どうぞ、エリシャとお呼びください、ロエナ様」


 その言葉には、これまで彼女を縛っていた聖女という肩書きを、自分から一歩踏み越えようとする、ささやかな勇気が込められていた。


「私、このご恩は一生忘れません」


 エリシャは静かにそう言い切ると、ゆっくりと頭を上げた。胸の前で両手を組み、その細い指先には迷いもためらいもなかった。ほんのわずかに頬を紅潮させ、けれどその瞳は真っ直ぐにロエナを見据えている。


「?」


 ロエナは一瞬、体がふっと軽くなったような、不思議な浮遊感に包まれた。

 重力が和らいだような、心臓の鼓動だけが際立つような奇妙な感覚───それは、一歩引いて見れば、ありふれた感動とも取れるし、逆に何か霊妙なものに触れた証にも思えた。


 視線をエリシャに向けると、彼女は優しく、温かな微笑みを浮かべていた。


「ロエナ様が今後……お怪我などなされぬよう……」


 それだけを静かに告げると、エリシャは再び頭を深々と下げ、裾をつまんで一礼し、軽やかに駆けていった。

 春の光を受けて髪がきらめき、背中はどこか安堵に満ちていた。


 残されたロエナは、しばしその場に立ち尽くした。

 今の───あの一瞬の、体の芯から満ちるような感覚。

 胸の奥で何かが温かく膨らみ、同時に、神聖な膜に包まれるような確かな守護の気配が残っている。


(今のは……まさか、加護?)


 ロエナは、ゆっくりと自分の手を見下ろした。指先から手の甲、肩、全身───まるで自分自身が薄い膜に包まれているかのような、静かな守護の気配がじわじわと満ちていく。


 聖女の加護───神聖なる祝福の力が、人の肉体に宿るという伝承。

 怪我や病を寄せ付けず、常人離れした力、素早さ、耐久力さえ発揮できる、王国中で最も神聖かつ現実離れした奇跡。

 ほんの一握りの王侯貴族や、伝説の英雄にしか与えられたことのない加護───。

 その力が、今まさに自分の内に根を下ろしている。そんな実感が、心の奥底から湧き上がる。

 無意識のうちにロエナに加護を施したのか、それとも意図的か。いや、先程の彼女の言葉から察するにおそらく後者だろう。


 ロエナは唇の端を緩め、愉悦を含んだ笑みを浮かべる。


 ───聖女の恩寵を得るには、もっと多くの恩を売り、信頼を積み上げなければならないと読んでいた。


 だが、エリシャは想像よりもずっと早く、しかも自らの意思で───彼女の命とも言える力を、ロエナのために使ったのだ。


(これは───想像以上の報酬よ。エリシャ)


 暖かな陽射しの下、花々が揺れる小道を、ロエナは迷いなく進んでいった。





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