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 ロエナは幼い頃から、妃教育の名のもとに実家を離れ、王宮で暮らしてきた。

 その日々は、絢爛な表舞台の裏で、徹底的に作法と知恵、そして王家の内情を身に沁み込ませる訓練の日々だった。


 妃教育で学ぶのは、テーブルマナーや美しい立ち居振る舞いといった教養だけではない。

 宮廷の空気を読むこと、権力者たちの意図を測ること、そして時には王に直接助言し、政局に介入することすら求められる。

 その一環として、ロエナは王宮内の執務室───つまりルベルトの仕事場に、正式な許可を得て立ち入る権利を与えられていた。


 とはいえ、ルベルト自身はそのことをあまり快く思っていなかった。

 回帰前も、何度か面会を求めてみたものの、理由をつけては部屋の前で追い返されるのが常で、執務室の中に入ったことはほとんどなかった。


 だが今───ルベルトが不在のタイミングを見計らい、ロエナは静かに執務室の扉を開いた。


 重厚な扉の向こうは、いつもとは違う静寂に包まれている。

 ロエナは一歩足を踏み入れ、扉を背後でそっと閉める。

 柔らかなカーペットが靴音を吸い込み、窓から差し込む陽光が、机や棚の上にほこりの舞う筋を描いている。


(……ここで何か手掛かりが見つかれば)


 ロエナは胸の奥に微かな緊張と期待を抱きつつ、まず部屋全体を見渡した。

 机の上の文箱、書類トレイ、引き出しの取手。壁際の本棚には、分厚い記録簿や地図、幾つもの鍵付きの木箱も並んでいる。

 執務机の上には、ルベルトの筆跡で何か書きかけの書簡が置かれていたが、内容まではまだ分からない。


(不用意に乱せば怪しまれるわね。触れる順番にも注意しなくては)


 そう考えつつ、まずは目につく範囲から、控えめに手を伸ばす。


(……あら)


 ロエナの指先が、机上に無造作に積まれた書類の山から一枚をすくい上げた。整然と分類されているものもあれば、急ぎで扱ったのだろう、乱雑に置かれている書類もある。


 それは〝孤児院への寄付記録〟の書類だった。


 ぱらりとめくると、そこには辺境の、王都から遠く離れた小さな孤児院の名が記されていた。

 ページを繰るごとに、その孤児院から届いた手紙や報告書、そして孤児院の現状についてまとめた表も綴じられていた。


 ロエナは椅子に腰を下ろし、光の加減に気をつけながらじっくりと目を通す。


 違和感が、次第に胸の奥に広がっていく。


 まず、寄付記録の数字が異常だった。王宮の財政を熟知するロエナの目から見ても、到底小口では説明のつかない多額の金額が、年単位で孤児院に流れている。まるでそこだけに、王太子の〝特別な恩恵〟が注がれているかのように。


 さらにロエナは、寄付記録に同封されていた書簡の束にゆっくりと指を滑らせた。

 紙の手触りはざらつき、インクの匂いがほんのりと立ちのぼる。どれも質素な便箋で、内容はどこまでも簡素で素朴。

 読んでいくうちに、そこに共通する不自然な単調さが際立ってくる。


『ご寄付のおかげで、みな元気に過ごせています』

『お恵みをいただき、本当に感謝しています』

『殿下のご厚意に感謝しかありません』


 そうした感謝の言葉ばかりが、これでもかというほど繰り返されていた。


 普通なら、資金援助を受ける側であれば、今後の運営についての相談や、修繕の必要、子供たちのための新たな支援の要望など、現場の切実な声がどこかに混じっていてもおかしくはない。

 だが、ここにある手紙たちは、まるで決められた定型文をなぞるかのように、感謝以外の言葉を避けているようにさえ見えた。


 ───本当に困窮している孤児院なのだろうか。それとも、余計なことは書くな、と暗に圧力がかかっているのか。


 ロエナは束の中から、ひときわ小さな便箋を何枚か引き抜いた。紙の端がわずかに曲がっている。それは明らかに大人の手によるものではなく、幼い子供が一生懸命に書いたものだった。


『エリシャはげんきですか?』

『エリーはどうしていますか?』


 拙い字で、でも懸命に───たどたどしい文字で綴られた手紙。職員に字を教えてもらったのだろうか。


 孤児院の子供たちが、エリシャに宛てて送ったに違いない。

 余白には、ぶかっこうな花や動物の落書きが描かれている。



 そして、極め付けは、支援者のリストだった。

 ロエナはその表に目を走らせ、ある種の確信とともに唇の端を上げる。


 支援者───そこには、ルベルト個人の名しか記されていない。他の貴族、商人、王族の名前は一切なく、孤児院はすべてルベルト単独の寄付で成り立っているという構図だった。


「……なるほどね」


 小さく呟いた声は、思考の隙間から漏れたものだった。

 記憶の中で、ルベルトがエリシャに投げかけたあの冷たい台詞が、妙に生々しく甦る。


『君はもともと、辺境の寂れた孤児院で、何も持たずに生きてきたじゃないか』


 その言葉と、今手元にある書類の現実───。


 表向きは、〝聖女様の心の拠り所を守る〟───そんな美名を掲げて、ルベルトは孤児院への寄付を続けているに違いない。


 だが、その実態はどうだろう。書類のどこにも、他の小口支援者の名は見当たらない。


 すべてを〝王太子の寛大な御心〟という体裁で覆い隠し、小さな善意の寄付や他の後ろ盾が排除されている───。

 これでは孤児院は、たとえ聖女の心の故郷であったとしても、ルベルトという一人の庇護者の掌の上に置かれたも同然だった。


 もしも彼が寄付を辞めれば、孤児院は即座に資金を絶たれ、存続の道を絶たれるだろう。


 エリシャにとって、孤児院は唯一の帰る場所であり、幼い日々の記憶が詰まった心の支えだったに違いない。その命綱がたった一人の手に握られているという現実。


 もし『言うことを聞かなければ寄付をやめる』と告げられたら、エリシャはどうあっても逆らえない。


 それは単なる金銭的な脅迫ではない。〝生まれ育った場所と、共に育った家族のような存在〟を人質に取るという、残酷なまでに巧妙で冷酷な支配の構造だった。



「……想像以上に、汚い手口ね。まったく……」


 ロエナは思わず、呆れと軽蔑の入り混じった溜め息を漏らした。

 目の前の書類の束───それは、善意の仮面を被ったルベルトの支配の証拠に他ならない。

 彼女の指先には、すでに迷いはなかった。


 ───さて、ひとまず〝ここ〟を潰しましょう。


 ロエナは静かに立ち上がる。

 手に取った書類を一枚ずつ、慎重に、しかし迷いなく重ね直す。その手付きには、緊張と計算された冷静さが宿っていた。




♦︎




「失礼いたしますわ」


 静かにノックをした後、ロエナは迷いのない足取りで扉を開けた。

 そこは、王宮の文官・シャーワルの執務室。


 突然の来訪者に、シャーワルは慌てた。ちょうど口に運んだばかりのコーヒーが喉を詰まらせ、咳き込んで眼鏡がずり落ちそうになる。


「ろ、ロエナ様……!わ、私めに何かご用で……?」


 眼鏡を慌てて押し上げつつ、椅子から立ち上がりかけるシャーワルに、ロエナは柔らかな微笑みを浮かべて手を制した。


「えぇ、急にごめんなさい。少しお時間をいただけるかしら?実は、ルベルト様の執務室を整理していた時に、こんなものを見つけたの」


 ロエナは、孤児院への寄付記録と支援者の名簿を丁寧に机に並べる。


「ご覧になって。支援者の名前がルベルト様お一人でしょう?しかも、かなりの額よ」


 ロエナの指先が、支援額の記載欄を軽く叩く。

 シャーワルは書類を覗き込み、眼鏡をさらにぐいと掛け直す。


「は、ははあ、そうですね。もともと支援が乏しい孤児院だったと記憶しております。殿下が他の支援者より多額を拠出されるにあたり、資金を一本化するよう希望されたと……」


 ロエナはその説明を静かに聞き、時おり小さく頷く。


「うーん……ですが、ルベルト様お一人の善意に頼るのは、かえってご負担ではありませんか?」


 ロエナは、わざとらしく哀れみを込めた表情をつくる。声も一段と柔らかく、まるで孤児院とルベルトの双方の身を案じているかのような優しい響きを帯びていた。


「聖女様のご出身の孤児院であれば、本来は王家として正式に関わる方が自然かと存じますわ。万が一の事態にも揺らがぬように、制度として整えるのが、きっと聖女様や子どもたちのため……いえ、王家全体のためにもなると思いますの」


 その提案を受け、シャーワルはぱちぱちと何度も瞬きを繰り返した。

 これまで、エリシャの出自や孤児院についてロエナが一言も口を挟まなかったことをよく知っているだけに、その変化に軽い衝撃を受けているようだった。


「あら、どうかなさいました?」

「い、いえ……! 確かに……一理ございますな……。王家全体として管理体制を整えるのは、私共にとっても安心材料ですし……ありがとうございます、ロエナ様。上にも、すぐにご報告を……」


 シャーワルはようやく言葉を絞り出し、胸の前で書類を持ち直した。


「えぇ。お手数をおかけしますけれど、どうぞよろしくお願いいたしますわ」


 ロエナは柔らかな微笑みのまま、静かに頭を下げた。





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