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王宮の中庭。朝露が残る石畳に光が差し込み、噴水の水音が静かに響いていた。その縁にぽつんと座り、エリシャは顔を伏せて肩を震わせていた。細い指で涙を拭っても、次から次へと頬を伝う雫は止まらない。金糸のような髪が、淡く揺れる水面に映る。
少し離れた植え込みの陰で、数人の侍女たちが囁き合っていた。誰もがエリシャに直接声をかける勇気はなく、ただ遠巻きにその姿を眺めている。
「ねえ、あれ見て……聖女様が泣いてるわ」
「本当ね。どうしたのかしら」
「もしかして、故郷に帰りたいのかも?」
「でも、最近ちょっと変な噂を聞いたの」
「噂って?」
「……ほら、ロエナ様が聖女様をいじめてるって」
思わず息を呑むように、もう一人が声を潜める。
「嘘でしょう?そんな……」
「だって聞いた?この間のパーティーで……」
その時だった。
「───わたくしが、何か?」
澄んだ、けれど低くよく通る声が背後から響いた。
侍女たちはびくりと肩を震わせ、振り返る。そこに立っていたのは、菫色のドレスに身を包み、優雅な微笑みを浮かべるロエナ・エディノースその人だった。
「ろ、ロエナ様……!?わ、私たちは決して───!」
侍女のひとりが慌てて弁解しようとしたその瞬間、ロエナはふと何かに気付いたように小さく声を上げた。
「あら……?」
まるで今、初めて気付いたかのような仕草で、ロエナは噴水の方へ視線を滑らせる。
「あちらにいらっしゃるのは……エリシャ様ね。まあ、あんなふうに泣いていらして……何か辛いことでもあったのかしら」
わざとらしさなど微塵も感じさせず、純粋な心配を装った優しい声色。侍女たちは一斉に視線を噴水の方へ向け、ロエナの表情をそっと盗み見る。
ロエナはちらりと侍女たちに目をやり、慈愛に満ちた穏やかな笑みを浮かべてみせた。
「ちょっと様子を見てまいりますわ」
そう言って、ロエナはゆったりとした足取りで噴水の方へ歩き出す。裾がさらりと石畳を撫で、光沢のある靴が静かな音を立てる。背筋は伸び、姿勢も所作も、まさに次期王妃としての完璧な立ち居振る舞いだった。
その背中を、侍女たちはぽかんと見送る。
「やっぱり……あの噂、嘘だったのかも?」
「えぇ……あんなにお優しい方が、聖女様を苛めるなんて……」
ひそひそと交わされる声。それは安堵にも似て、ロエナへの信頼を改めて確かめ合うような響きだった。
ロエナは背中でその会話をしっかりと拾いながら、唇の端を微かに持ち上げて笑みを浮かべる。だがその笑みは、侍女たちからは決して見えない。
(……さて)
ロエナは一度だけ小さく息を吐き、噴水の縁に座るエリシャへと静かに歩み寄っていく。
回帰前のロエナであれば、たとえエリシャがどれほど泣いていようとも無視して通り過ぎていたはずだ。だが、今は違う。
目的は、エリシャから情報を引き出すこと。
昨夜。ルベルトとエリシャの会話を盗み聞きした時の情景から見るに、エリシャは、完全にルベルトに逆らえなくなっていた。
その理由さえ突き止めてしまえば、ロエナにとって状況は一変する。エリシャを支配しているであろう脅しの道具を取り除き、ルベルトが彼女を操れなくする───それが今、ロエナの最優先事項だった。
慎重に表情を整え、穏やかな笑みを浮かべる。目元まで柔らかくほころばせ、どこにも冷たさや敵意の影が見えないよう細心の注意を払う。
「ご機嫌よう、エリシャ様」
ロエナは声にまで気を配った。柔らかく、包み込むような音色。噴水の水音に混じって、澄んだ空気を震わせる。
その声に、エリシャはびくりと体を震わせた。小動物のように身をすくめ、涙の痕が残る頬を慌てて袖で拭う。
「ろ、ロエナ、さま……!こ、こんにちは……」
視線は合わせない。肩が小さく跳ね、明らかに警戒している様子。
昨日、あれほどの騒動があった直後なのだ。無理もない。エリシャはきっと、報復しに来たとでも思っているのだろう。
(……まあ、当然ね)
ロエナは内心で冷たく思いながらも、表面には微塵も出さない。そっとエリシャの隣に腰掛ける。石の噴水の縁は朝露で冷たく、ロエナは裾を整えながら、エリシャとの距離が適度になるよう意識して座った。
「エリシャ様、昨日は……ごめんなさい」
その言葉を選ぶのにも、ロエナはほんの一瞬、呼吸の間で考えた。謝罪という手札を先に切ることで、相手の警戒心を緩める。予想外の展開に弱い人間は、本音をぽろりとこぼしやすい。
「え……?」
エリシャは目を大きく見開いた。明らかに問い詰められる、と身構えていたのだろう。まさかロエナの方から謝罪されるとは思っていなかったらしい。涙が乾きかけていた頬が、さらに赤く染まる。
「わたくしは……ルベルト様が仰ったように、あなたに暴力をふるった記憶はないの。でも……もしかしたら、わたくしの至らぬ言動で、エリシャ様に誤解をさせてしまったのかしら……?」
ロエナは優しく、少しだけ眉を下げて見せる。
真摯な反省と配慮───それを演じることは、彼女にとって決して難しいことではなかった。
「い、いえ……ち、違うんです……!わたし……」
エリシャは勢いよく言いかけたものの、そこで言葉を飲み込んだ。喉の奥で何かが詰まったように、唇だけが小さく動き、やがてぎゅっと閉じられる。視線は宙を彷徨い、助けを求めるようでありながら、誰にも向けることができない。
噴水の水音だけが、二人の沈黙を埋めていた。
(……まだ、足りないわね)
ロエナは内心でそう判断する。今の問いでは、エリシャの心の奥には届いていない。警戒心は強く、恐怖が先に立っている。ならば───責めるのではなく、包み込むように、逃げ道を与えながら、少しずつ核心に近づくしかない。
ロエナは視線を噴水の水面へと移し、あえてエリシャを見ないまま、何でもない世間話のように口を開いた。
「そういえば……エリシャ様が王宮にいらしてから、もう随分経ちますわね」
柔らかく、穏やかな声。まるで本当に気遣っているだけのような調子で。
「慣れない環境でしょう。不自由なことはありませんか?」
「は、はい……」
エリシャは反射的に頷いた。けれど、その声はひどく小さく、どこか空虚だった。自分の言葉に、自分自身が納得していない───そんな響き。
ロエナはそれを聞き逃さない。
「もし何か困ったことがあったら……使用人でも、侍女でも。ええ、わたくしにでも構いませんのよ」
ようやくエリシャの方を向き、微笑みを添える。押しつけがましくならないよう、けれど確かに味方であることを示す距離感で。
「王宮は広いですもの。ひとりで抱え込む必要なんて、ないのですから」
「……お、お気遣い、ありがとうございます……」
エリシャはぎこちなく頭を下げた。礼儀は完璧だが、その仕草はどこか硬く、緊張に縛られている。
ロエナは、そこで〝名前〟を出した。
「ルベルト様も……きっと、お力になってくださるでしょうし」
その瞬間だった。
エリシャの体が、はっきりと震えた。
指先が噴水の縁を強く掴み、肩がびくりと跳ねる。呼吸が一瞬、乱れたのが分かる。ほんの一瞬の反応───だが、ロエナの目には十分すぎるほど明確だった。
(……やはり、そう)
恐怖。
条件反射のような怯え。
ルベルトという名前は、エリシャにとって救いではなく、鎖なのだ。
ロエナは表情を変えない。気づいていないふりをしたまま、噴水の水面を見つめ続ける。
そして、ほんの少しだけ、声を落とした。
「どうかしたのかしら?寒いの?」
ロエナはとびきり優しい声でエリシャに問いかけた。
その声音は、心配そうに寄り添う姉のようでもあり、春風のような温かささえ滲ませている。だがその実、瞳の奥には冷たい光が宿っていた。
その瞬間、エリシャの大きな瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちた。ひと粒、ふた粒───止めどなく溢れる涙は、噴水のきらめきよりもずっと儚く、朝の光に濡れて頬を伝った。
「エリシャ様……?」
ロエナはあくまで優しく呼びかける。だが、内心では勝利を確信していた。
(───後少しね)
心の奥で冷ややかに微笑む。
エリシャの肩は細かく震え、拳は膝の上でぎゅっと握りしめられている。何かを堪えるように、唇を強く噛みしめていたが、とうとう耐え切れずに嗚咽が漏れる。
「何かあったの?」
ロエナはついに、核心に触れる言葉を投げかけた。その声は優しくもあり、逃げ道を塞ぐ静かな圧も孕んでいる。
「ろ、ロエナ様……!」
エリシャの大きな瞳が、不安と希望が入り混じるようにロエナを見上げる。その唇が、言いかけては震え、ついに意を決したように動いた。
「わ、わたし、実はルベルト様に───」
しかし、その告白の瞬間。
「ロエナッ!」
鋭い怒号が、無遠慮に中庭の静けさを引き裂いた。
その声に、近くの使用人たちもぎょっとして作業を止め、皆が一斉にこちらへと視線を向ける。心臓が跳ねる音が一瞬、耳の奥で大きく響いた。あと一歩、だったというのに、余計なことを。
ロエナは内心で舌打ちした。
ルベルトが足早に近寄り、険しい顔でロエナとエリシャの間に割って入る。その動きには、どこか芝居がかった力強さがあった。
「ルベルト様、大きな声を出さないでくださいませ」
ロエナは冷静に、いつも通りの上品な声でたしなめる。周囲の目があることも心得て、完璧な淑女としての振る舞いを崩さない。
「これが出さずにいられるか。ロエナ……お前、またエリシャを泣かせたな」
強い非難と憤りをこめたルベルトの声。
───ああ、そうきたのね、とロエナは心の中で静かに溜め息をついた。
「わたくしはエリシャ様が、何かお困りのようでしたので、ご相談に乗っていただけです」
にこやかに微笑みつつ、余裕すら漂わせて弁明する。だが、ルベルトは一歩も引かず、まるで判決を下すように冷たく言い放つ。
「そのような嘘が罷り通るとでも?嗚呼エリシャ……さぞ怖かったろう。さあ、部屋に戻るぞ」
威圧的な声。エリシャは一瞬ロエナに助けを求めるような視線を送るが、すぐにうつむき、ルベルトに肩を抱かれるまま従った。
「っ……は、はい。ルベルト様……」
その小さな声には、抗う力も、訴える意思も感じられない。ただ、静かに従うしかできない少女の弱さだけが滲んでいた。
使用人たちは、遠巻きにこのやりとりを見て、口元を手で覆いながらひそひそと囁き合っている。
ルベルトはわざと大声を張り上げて、周囲の注目を集め、空気ごと「ロエナが聖女を泣かせた」という印象を植え付けた。
───まったく、なんて意地汚い手口だろう。
冷静に状況を分析しながら、ロエナはゆっくりと吐息をついた。
エリシャ本人から聞き出すには、思った以上に時間がかかりそうだ。聖女としての修行や公務の合間でしか接点は持てず、しかもその時には決まってルベルトが寄り添い、ガードの役割を果たしている。さらに、こちらが頻繁に接触を試みれば、それだけで余計な噂におひれがつき、泥沼化しかねない。
(いいわ。まだ手はあるもの)
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