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 大広間の扉を静かに閉めると、ロエナは一度、深く息を吐き出した。怒りや無力感、焦燥が渦巻く心をなんとか抑え込みながら、誰にも邪魔されずに考えをまとめられる場所を求めて、宮殿内を歩き始める。


 人目の少ない裏廊下を抜け、ふと足を止めたのは、夜の庭園へと続く小さなバルコニーだった。

 そこは普段ほとんど人が寄り付かず、静かな夜風が薔薇の香りとともに流れてくる。



 さて、状況を整理しよう───。


 大広間でエリシャに暴力を振るったという、身に覚えのない虚偽の告発を受けたのは、確か二年前のことだった。その記憶が、先ほどの光に包まれた瞬間と、奇妙なほど鮮やかに重なっている。

 つまり、あの魔法陣は、二年前まで時を巻き戻したのだ。


 今のロエナは、すでに悪女と噂されつつも、まだ宮廷内で決定的に孤立しているわけではない。貴族たちの間で、王太子の婚約者としての立場も一応は保たれている時期。

 ここから先、どんな些細なきっかけで歯車が狂い出すのか。そんなことを思い出そうとすると、胸の奥がぞわりと粟立った。


 もしかして、これはすべて夢なのではないか───そんな淡い希望も、肌を撫でる夜風の冷たさ、靴底に伝わる大理石の感触、鼻腔をかすめる薔薇の香りがあっさりと打ち砕いていく。五感の一つひとつが、いやというほど現実を突きつけてくる。

 やはり、回帰したのだ。


 ……どうやら、わたくしだけが。


(王宮内に、古代魔法を記した本があるのは知っていたけれど……まさか、それを使える人間がいるなんて)


 あの牢で見た魔法陣を思い出す。あれほど精密で膨大な知識を要する図形、ほんの僅かな線の乱れさえ致命傷になるというのに、エリシャはそれを血で描ききってみせた。

 ……正直、舌を巻くしかなかった。あの異様な集中力と執念。


 ロエナの中でエリシャは、これまで〝自分を地獄に突き落とした悪女〟だった。

 信じていたもの全てを裏切り、王妃の座も未来も、ことごとく奪った張本人。


(けれど───)


 回帰前、あの牢で必死に訴えてきたエリシャの言葉。先ほど大広間で見せた、怯えと困惑の入り混じった表情。


(……わたくしが演技だと思っていたあれは……本心だったのかしら)


 疑念と、いくらかの動揺が心の奥底で揺れた。


 ロエナは、自分の心臓の鼓動がいつもより大きく聞こえるのを感じていた。怒りや戸惑い、そして説明のつかない不安が胸の奥で渦を巻く。けれど、もはや曖昧な疑念に苛まれたまま、事実から目を背け続けることなどできなかった。


 ───直接、確かめるしかない。


 ルベルトとエリシャの関係について。真相を、本人の口から聞かなくてはならない。


 回帰前の自分を思い出す。あの頃は、エリシャの存在そのものが憎くて仕方がなかった。視界に入るだけで苛立ち、声を聞くだけで吐き気すら覚えた。自分から話しかけるなど、想像もできないほどの嫌悪と敵意。そのはずだった。


 それなのに今は、自ら彼女の元へ向かおうとしている。その変化が、どこか他人事のようにすら思えた。


『ロエナ様は、このまま死ぬことをお望みなのですか?』


 不意に脳裏に蘇る、エリシャの静かな声。その問いかけの冷たさと、微かに滲む哀しみが、心の奥で鈍く響く。

 今のままでは、きっと同じ運命を繰り返すだけ───。そんな予感が、ロエナを衝き動かした。


 歩みを進めながら、ロエナは考える。もしこの問いかけがすべてを壊すとしても、それでも前に進まなければならない。回帰したからには、同じ過ちを繰り返さないために、自分から向き合うしかないのだと。


 ロエナは緊張した面持ちで廊下を進んだ。床に敷かれた赤い絨毯が靴音を吸い込み、廊下の壁に飾られた油絵や花瓶が、薄暗い光の中で静かに影を落としている。


 エリシャの部屋の前に差し掛かると、扉が僅かに開いているのに気づいた。そこから、柔らかな灯りが廊下へと漏れ出している。


 心臓が早鐘を打つ。ロエナは裾を握りしめる手に力が入るのを感じながら、無意識のうちに歩幅を速めていた。

 部屋の前に立つと、一度だけ深く息を吸い、震える拳を固めてノックしようとした。


 ───その時。


「エリシャ……駄目じゃないか」


 思いがけず、聞き覚えのある低い声が扉の内側から聞こえてきた。ロエナの動きが止まる。思わず息を殺し、ほんの僅かに開いた扉の隙間から、そっと部屋の中を覗き込む。


 室内には、ほのかなランプの明かりが満ちていた。静まり返った空間には、人の気配が二つ。


 そこにいたのは───ルベルトと、エリシャ。


 エリシャは椅子に腰掛け、ルベルトは彼女のすぐそばに立っていた。互いに向き合い、低く抑えた声で何かを話しているようだ。エリシャの顔は緊張と戸惑いの色が浮かび、ルベルトの表情にはどこか優しさと、微かな叱責の気配が漂っていた。


「君は、本当に優しすぎるんだよ」


 ルベルトの声は、どこまでも甘く、耳元にまとわりつくようだった。しかし、その奥にはどこか冷たいものが潜んでいる。ロエナが扉越しに聞いていても、その響きに微かな寒気を覚えるほどだった。


「……あの場では、もう少しロエナを追い詰めてもよかったんだ。君が被害者らしく振る舞えば、彼女の立場はより危うくなったはずだろう?」


 エリシャは小さく首を横に振り、肩を縮める。震える声で必死に言葉を紡ぐ。


「そ、それは……私には、できません……ロエナ様は、何も───」


 言葉の続きを遮るように、ルベルトの手がエリシャの肩に重くのしかかる。彼の指先にじわりと力が籠もり、細い肩を容赦なく締め付ける。その痛みに、エリシャは思わず身をすくませ、青ざめた顔で彼を見上げた。


「分からないのか、エリシャ」


 ルベルトはエリシャの顔を自分の方へと向けさせ、その瞳をじっと覗き込む。表情は微笑んでいるのに、瞳の奥には冷たい炎が灯っていた。


「俺がここまでするのは、全部君のためだ。君が本当に幸せになれるように───」


 低く囁くその声は、優しさと恐ろしさが入り混じっている。エリシャは唇を震わせ、何も言い返せない。


「……ロエナを婚約者の座から引きずり下ろすことができれば、次にその席に就くのは君だ。分かるな?」


 ぐ、とさらに強く肩を握りしめられ、エリシャの身体が小さく震える。痛みと恐怖、そしてどうしようもない戸惑いがその表情に浮かんでいた。


「君はもともと、辺境の寂れた孤児院で、何も持たずに生きてきたじゃないか」


 ルベルトの声色が、今度は甘く諭すような響きに変わる。


「俺の言うことを聞いていればいい。そうすれば、君は王妃になれる。誰もが羨む立場だ。……なあ、エリシャ。こんな幸せ、他にあるか?」


 逃げ道を塞ぐような言い回しだった。

 エリシャの瞳は小刻みに揺れ、光を失いかけている。理解と恐怖と拒絶が、入り混じったまま整理できず、ただ震えていた。


 ルベルトはその様子を、満足そうに眺めてから、吐き捨てるように続ける。


「……それに、聖女が現れた年は、聖女を妃に迎える王が多いというのに。まったく、父上は頭が硬すぎる」


 くつり、と小さく笑う。


「ロエナのどこが王妃に向いている?感情的で、融通も利かない。王宮という檻の中では、せいぜい正義を振りかざすだけの女だ」


 ───ギリ、と。


 扉の外で、ロエナは奥歯を強く噛み締めていた。


 この男は、今、何と言った?


 わたくしが積み上げてきたものを。

 王妃になるために、幼い頃から叩き込まれてきた礼儀も、政治も、我慢も、責任も。

 すべてを、一言で切り捨てた。


 胸の奥が、冷たく焼ける。


「……ああ、すまない」


 ルベルトは、ふと思い出したように言って、ようやくエリシャの肩から手を離した。

 指が離れたそこには、くっきりと赤黒い痣が残っている。細い肩に、不釣り合いな力の痕。


 だが彼は、それを見ても眉一つ動かさない。


「次のパーティーでは、肩の露出があるドレスを用意させよう。それまで───その痣は、上手く隠しておくんだ」


 まるで壊れ物の手入れを指示するような口調だった。

 自分がつけた傷であることなど、最初から問題ですらないと言わんばかりに。


 その言葉を聞いた瞬間、ロエナの記憶が、嫌な音を立てて繋がる。


 ───回帰前。

 次のパーティーで、肩に痣を残したまま現れたエリシャ。あの時、周囲の視線が一斉にロエナへと向けられたこと。

 「あなたがやったのではないか」と、疑いと非難が、当然のように浴びせられたこと。


 あれは───。

 最初から、こうなるように仕組まれていたのだ。


 吐き気がするほど、丁寧で、周到で、気持ちが悪い。


 ロエナは、扉の向こうから聞こえてくる甘い声を、まるで腐った蜜のようだと思いながら、静かに拳を握り締めた。


 その瞬間、胸の奥にかすかに残っていたルベルトへの情が、まるで蝋燭の灯が消えるように静かに、しかし確実に消え失せた。


 何かが、ぷつんと切れる音がした気がした。張り詰めていた糸が断ち切れ、ロエナの内側には澄みきった静寂が広がる。だがその静けさは、決して穏やかなものではなかった。冷たい湖面の底に、泥のように淀んだ怒りと憎しみが、どろどろと湧き上がってくる。


 ロエナはゆっくりと唇の端を吊り上げる。無理やり笑顔を作ったわけでもない。勝手に口元が歪み、頬の筋肉が自分の意思とは別に動く。まるで、自分の内に巣食う黒い感情が、顔を乗っ取ったかのようだった。


 ───そう。

 貴方は、恋だの愛だの、そんなつまらない幻に取り憑かれて、わたくしの人生を躊躇いもなくぶち壊したのね。


 わたくしの幼い日々を、誇りを、努力を、全てを台無しにしてくれた。


 苛立ち、悔しさ、恥辱───それらが熱く胸を焼くのではなく、逆に、氷のように冷たい感情となって、全身に広がる。


 ロエナは踵を返し、静かにその場を離れる。背中に残るのは、部屋から漏れる腐った蜜のような甘い声と、エリシャの震える息遣い。二人の影が重なる部屋の前で、ロエナは一度だけ振り返り、扉にそっと視線を投げた。


 ───いいわ。


 今度は、わたくしの番。


 この手で、あなたの人生を粉々に───

 否、もっと……もっと惨めで、ぐちゃぐちゃで、二度と立ち上がれないほどに潰してあげる。


 喉の奥からこみあげてくる笑いを、ロエナは必死に押し殺す。だが、視界の端が奇妙に歪み、世界の色がどこか淡く滲んで見える。

 心臓は静かに、しかし確実に冷たく脈打っていた。


 ───ルベルト。


 わたくしの人生を、これほど無惨に踏みにじってくれた報いを。


 今度は、わたくしが味あわせてあげる。


 あなたの誇りも、名誉も、夢も、全部───美しく、冷たく、バラバラに粉砕してあげる。

 そう、爪の先で、少しずつ壊していくように。あなたの世界がきしみ、じわじわと崩れていく様を、すぐ傍で眺めてやる。


 何もかもを失い、周囲の信頼も愛情も凍り付く。かつてのわたくしのように、誰にも救われず、孤独と絶望に沈むその顔を───どうしても見てみたいもの。


 部屋を離れ、闇の中に消えゆくロエナの足音は、まるで復讐の序章を告げる不吉な鐘のように、静かな宮殿の廊下に響き続けていた。





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