26
「───てな感じで……全っ然うまくいかなかったんだ」
ヴィルヘルトは、どこか情けない笑みを浮かべたまま、肩を落として溜息を吐いた。
朝の光が差し込むガゼボは、静かな庭園の中で淡い霧に包まれている。バラの花弁が露に濡れ、風が柔らかく葉を揺らしていた。そんな穏やかな朝の情景も、彼の落胆を癒やすには少しばかり力不足のようだった。
「それはそれは……大変でしたのね」
ロエナは隣に座り、ふむ、と顎に手を添える。
昨日の会談───彼女も想像はしていた。魔族との歴史的な会談、緊張に満ちた舞台、思惑うずまく大人たち。けれど、現実は想像以上に冷ややかで、進展は望めなかったようだ。
ロエナは思わず小さくため息をつき、手元のティーカップに目を落とす。
薄紅色の朝日が、ガゼボの天蓋を透かして降り注ぎ、紅茶の表面に淡い光の輪を作っていた。
魔国との会談が上手く進めば、ヴィルヘルトの立場が大きく変わるかもしれない───それはロエナ自身にも、運命を動かす転機となるはずだった。だが、現実は思い通りにはいかない。
(どうしたものかしら……)
思案に沈むロエナのもとに、ヴィルヘルトのお付きの執事が静かに近づいてきた。
「ヴィルヘルト殿下、そろそろご準備のお時間です」
「ああ、もうそんな時間か……悪いな、ロエナ。つい話し込んでた」
「いえ、お気になさらず。成功をお祈りしておりますわ」
ヴィルヘルトは、名残惜しそうに一度ロエナを振り返ると、執事の背中を追うように去っていった。
彼の背中が朝靄のなかに消えていくのを、ロエナは静かに見送る。
ふとティーカップの紅茶を覗き込む。淡く揺れる液面に、自分の顔がぼんやりと映り、その隣に、禍々しい黒い影───角のようなものが一瞬、ちらりと揺らめいた。
「……?」
不思議に思い、ゆっくりと振り返る。
やはり───そこには、ルクルーシュとウォロが並んで立っていた。
王宮の中庭という人目の多い場所に、堂々と現れるその姿。けれど、彼らの気配は現実離れしていて、花々や朝露の景色にまったく馴染まない。
「……驚いたわ。もう来ていたのね」
ロエナが淡々と言うと、ウォロが肩をすくめて呆れたように返した。
「だから、驚いたっていうならリアクションぐらいしなよ」
「ふふ、ごめんなさい」
ロエナはくすりと笑い、ティーカップをそっと置く。
「それにしても、こんなに堂々と王宮に現れて大丈夫なの? もし見つかったら……」
ロエナが小声で問うと、ルクルーシュは少しだけ口元に微笑を浮かべて答える。
「魔法があるから問題ない。俺たちの姿はロエナにしか見えないようになっている」
「そう……魔法って、本当に便利ね」
ロエナは周囲にさりげなく視線を送る。
庭師や使用人たちが淡々と仕事に打ち込む姿が見えるが、誰一人こちらの異質な来訪者たちに気づく様子はない。
「今日も会談を取り行うのでしょう?二人とも頑張ってね」
ロエナが励ますように微笑むと、ウォロがちらりとルクルーシュに視線を投げた。
その視線を受け、ルクルーシュは静かに一度咳払いし、ロエナの前に一歩踏み出す。
「その件なんだが……ロエナ、今日の会談に参加してはくれないか」
その言葉に、ロエナは瞬きを繰り返す。
ほんの一瞬、聞き間違いではないかと、再度ルクルーシュの顔を確かめた。
「……わたくしが?」
ルクルーシュはほんのわずかだけ眉をひそめ、乾いた溜息を漏らした。彼の表情は冷たく険しく、怒りと諦念が入り混じった複雑な色を帯びている。
「昨日の会談は……正直、最悪だった。人間どもは自分たちの利益しか考えない。臆病で、傲慢で、恩知らずだ」
ルクルーシュの声は氷のように冷え切っていた。
その語尾には、感情を押し殺すような強い意志と、長年積み重ねてきた苦労が滲んでいた。
「支配や恐怖で縛っていれば、まだ従順だったろう。だが、一度頭を下げればこのありさまだ……下手に譲歩したせいで、つけあがるだけだった」
彼は拳を握りしめ、言葉を選びながら続ける。
「このままでは、人間との〝協力〟など夢物語だ。……むしろ、昨日の会談は俺の中に、人間どもへの憎悪と嫌悪しか残さなかった」
その冷たい一言には、理想と現実の狭間で揺れる王の孤独と、深い失望が滲んでいる。
ウォロも横で、兄の苦しみにそっと目を伏せていた。
王宮での会談。大臣たちや貴族たちは、自分たちの利益や権力のことばかり考え、魔国との未来や本質的な和解には目もくれない。
表向きの丁寧な言葉や虚飾の敬意、その裏に蠢く打算と傲慢さは、ルクルーシュの眼にはすべて透けて見えた。
───なんと浅ましく、下劣なものか。
心の内で、ルクルーシュは幾度もそう呟く。
力を見せれば恐れ従い、頭を下げればつけあがる。昨日の会談は、その人間の愚かしさと身勝手さを、これ以上なく鮮やかに示していた。
「だが……」
一呼吸、間を置く。
ルクルーシュの声が、ごくわずかに柔らかくなる。
「ロエナ、お前だけは、権力も派閥も利害も関係なく───自分自身の目で世界を見ている。誰の意志にも染まらず、自分の頭で考え、感じている。それだけで、俺には十分だ」
その言葉を受け、ロエナは静かに、しかし強い意志を秘めた瞳でルクルーシュを見返した。彼の瞳は、氷のような静けさと、どこか救いを求める熱を同時にたたえていた。
思えば最初は、ロエナにとって魔国も魔族も〝利用できる存在〟にすぎなかった。
ヴィルヘルトを王に据え、ルベルトに復讐する───そのための駒。
魔国の運命や、魔族の誇りがどうなろうと、正直どうでもよかった。この身のすべては、自分の目的だけのために使えばいいと思っていた。
だが───。
あの日、ウォロと言葉を交わす中で、魔族が人間社会から忌み嫌われ、蔑まれ、虐げられ続けてきた歴史を知った。
そのとき、ロエナの胸に今まで感じたことのない痛みが走った。自分でも驚くほど自然に、魔族への同情が芽生えていたのだ。回帰前の自分であれば抱えていなかった感情。
(……まったく、柄にもないことを)
そんな感傷を嘲るように心の中で呟きながらも、ロエナは思い出す。
回帰前───自分が〝悪女〟と呼ばれ、誰にも理解されず、蔑まれ、孤独に震えていたあの時代。
どれだけ声をあげても、誰も自分の真意など見てくれなかった。あの絶望と孤独は、魔族たちが辿ってきた歴史と、どこか重なるものがあった。
気づけば、ロエナは魔国や魔族のことを他人事と切り捨てられなくなっていたのだ。
「それに……」
ルクルーシュは、少し言葉を切って続けた。彼の声音は先ほどまでの冷静さを失い、どこか不器用に揺れている。
「ロエナに、傍にいてほしい……これは、俺が個人的に思うことだ」
普段は冷徹で威厳に満ちた魔王が、今この瞬間だけは年相応の青年のように見えた。頬には僅かな赤みが差し、視線は落ち着きなく宙をさまよっている。
ロエナはそんなルクルーシュの姿に、胸の奥を強く握られるような衝撃を覚えた。
ウォロもまた、兄の意外な姿に完全に固まっている。大きな瞳をまるく見開き、言葉も出ないまま、ルクルーシュとロエナを交互に見つめる。
ロエナは微笑みを保ちつつ、ごく自然に返した。
「も……ちろん。ルクルーシュとウォロと───そして魔国のためにも、力を尽くすつもりよ。遠慮なく頼ってちょうだい」
ロエナの言葉にルクルーシュは目を輝かせ、思わず花が咲いたような無垢な笑顔を見せる。
「そ、そうか。ありがとう、ロエナ」
彼の笑顔は、魔王としての威圧をすべて脱ぎ捨てた、まるで少年のような純粋さだった。その無邪気な喜びように、ロエナは胸の奥に強い愛おしさがこみあげるのを感じる。
───まさか、自分が他人に対して、こんな感情を抱く日が来るとは思わなかった。
「じゃあ……そうと決まれば、準備をしてくるわ。すぐに戻るから待っていて」
「あぁ、待っている」
ルクルーシュは力強く頷く。ロエナは静かに一礼し、二人に背を向けて歩き出す。
その背後で、こそこそと兄弟の会話が聞こえてきた。
「に、兄さん、もしかしてさ……兄さんってロエナのこと……」
「…? どうかしたか、ウォロ?」
「あー、いや、うん……後でね、後で説明するよ……」
ロエナはそれを聞こえていないふりで受け流しながら、足早に自室へと向かった。
閲覧ありがとうございました!!
少しでも面白いと思ってくださったら、評価★やブックマークよろしくお願いします♪




