25
王座の間には、普段とはまるで異なる気配が漂っていた。
王宮の重臣たち───これまで魔族を、汚らわしく、浅ましい存在だと侮蔑し、声高に語ってきた大臣たちでさえ、いまや一言も発することができない。
息を詰め、身動き一つできぬまま、その場に鎮座している。
呼吸も、瞬きさえも憚られるほどの緊張。
冷たい汗が背中を伝い、心臓の鼓動だけがいやに大きく響いているようだった。
ゆっくりと、まるでこの場の異物であることを自ら誇示するかのように現れたのは、魔国の王───ルクルーシュ。
白磁のような肌、漆黒の髪、そして一瞥するだけで魂を凍てつかせる真紅の瞳。その一歩ごとに空気が張り詰め、周囲の光までもが歪んでいく錯覚を覚える。
彼の傍らには、王弟ウォロが静かに控えていた。
人間の世界では到底見かけることのない、不穏で、危ういほどの美しさと威圧感。その存在は、ここにいる全ての者を〝人間〟であることを思い出させ、抗いがたい異界の気配で包み込む。
「まずは、礼を述べよう」
王座の間に低く、よく通る声が静かに響き渡った。その声はどこまでも穏やかであるはずなのに、言葉の端々にしっとりとした威圧と、底知れぬ冷たさが滲んでいる。
ルクルーシュの一言が、空間そのものをわずかに震わせた。
「王太子ヴィルヘルト殿。そしてバインベルクの皆にも。此度の件───我らが抑え込んでいた脅威を討ってくれたこと、心より感謝する」
その言葉に、王座の間の空気が一層重くなる。
誰一人、すぐに反応できる者はいなかった。
大臣たちは揃って口を噤み、王もまた、口を開けず、玉座の上でルクルーシュの言葉を慎重に受け止めていた。
その沈黙を破ったのは、ヴィルヘルトだった。
まるで場の空気に呑まれまいとするように、勇気を振り絞って声を出す。
「魔王陛下……その〝脅威〟とは、一体……」
ルクルーシュは静かに、しかし絶対的な存在感と共に言葉を継いだ。
「深淵胎。我ら魔国では、そう呼んでいる」
「深淵胎……?」
「深淵胎とは、人の世に生じる〝歪み〟から生まれるもの。恨み、妬み、怒り、絶望……人の心が生み出す澱が形を成し、異形の怪物と化す。それを抑え、留めるのが我ら魔国の役目だった」
ルクルーシュはわずかに間を置き、鋭く静かな目で王たちを見渡す。
「───制約によって、な」
その一言が、まるで冷たい刃物のように場の空気を切り裂いた。
制約───その言葉が発せられた瞬間、王座の間にひそやかな波紋が走った。重臣たちの間に緊張が走り、低いざわめきがさざ波のように広がる。
そんな中、ルベルトが口を開いた。
その顔にはかすかな怯えが滲んでいる。だが、それをかき消すかのように、冷ややかで鋭利な声が場に落ちた。
「……その言葉を、そのまま信じろと?」
彼の声は震えていたが、その瞳には意地のような強い光が宿っている。
「恐怖を演出し、都合のいい物語を作り上げる……それが、為政者の常套手段ではありませんか?」
その一言が、場の空気をさらに冷たく、張り詰めたものにする。重臣たちの間にも動揺が広がり、宰相がそっと王の顔色を窺う。
ルベルトは言葉を止めない。怯えを押し殺し、冷徹な批判者としての役を全うしようとしている。
「抑え込んでいた、制約を課せられていた───もし、それが事実だと言うのなら、なぜ今になって、その脅威が解き放たれたのです?なぜ今、この王都で、民を危険に晒したのですか?」
ルベルトの声が王座の間に響いた瞬間、場が凍りついた。重臣たちは、息を呑み、成り行きを固唾を呑んで見守る。
「我ら魔族に、深淵胎を討つ力はない」
ルクルーシュの声は、まるで闇の底から響くかのように低く、重い。
「だが、深淵胎は時の流れとともに膨張する。やがて、我らがどれほど力を尽くそうと、その封印すら効かぬほどに肥大化するのだ。貴殿らの王都に現れたのは、我らが故意に解き放ったのではない。ただ、もはや我らの手にも余る───それほどの存在となってしまったからだ」
その説明は、論理を超えた、どこか異界の現実を突きつけるものだった。
「抑え込んでいた」という言葉が、単なる言い訳や支配の方便ではなく、本当に人知の及ばぬ責務だったのだと、じわじわと場に理解が浸透していく。
ルクルーシュは続けて冷ややかに言葉を重ねる。
「バインベルクの王よ。貴殿ならば───魔国との〝制約〟の存在について、何か思い当たるところがあるのではないか?」
その瞬間、王座の間にいた全員の視線が、王へと集まった。
国王は、僅かに唇を震わせた。その目の奥には消しきれぬ怯えと、遠い過去の記憶がうっすらと浮かぶ。
「……覚えは、ある」
その声は、低く、かすれ、場の隅々まで響いた。
「───魔国が、かつて我が国に重大な過失を犯し……その償いとして、制約を結んだ。それが、すべての始まりだったはずだ」
その言葉が落ちた瞬間、王座の間は激しくざわめいた。
「そんな話、我々は一度も聞いたことがありませんぞ!」
「国王陛下、それは一体どういうことなのですか!」
「なぜ、今の今までそれを隠してこられたのです!」
大臣たちの声が捲し立てるように重なり、場の混乱は頂点に達した。宰相までもが愕然とし、王の顔を問い詰めるような視線で見上げている。
ヴィルヘルトも、戸惑いと困惑に満ちた声を絞り出した。
「父上……!もしそれが、事実だとしたら……我々は、一体、何の上に国を築いてきたというのですか……!」
その問いは、王座の間に重く響き渡った。
誰もが王の言葉にすがりたいのに、その答えは今や、過去の闇と魔国の理の奥に埋もれてしまっている。
そんな沈黙を、今度はルベルトが破る。
「し、しかし魔王陛下───お言葉ですが……」
彼の声は、無理やり冷静さを装っているが、どこか不自然に上ずっている。けれどそのまなざしは、いまだに敵意と猜疑心に満ちていた。
「制約は、魔国が我が国に過失を犯した、その償いとして結ばれたもの───」
そこで、ルベルトは唇を歪め、わざとらしいほど冷笑を浮かべる。
「ならば、我らは被害者ということになりますね?制約を盾に、今さら我が国に責任をなすりつけるつもりですか?」
その言葉は、静かな毒を含んで王座の間に落ちた。
大臣たちの中にも、どこか安堵したような表情を浮かべる者がいた。やはり自分たちは悪くない───そんな安易な思いが、一瞬だけ場の空気を緩ませる。
だが、ルクルーシュの横顔は微動だにせず、氷のような沈黙をたたえている。その姿が、かえって不気味な威圧となって大広間を満たしていた。
「そもそも、過失の真実すら、我々には明かされていません。魔国が何をしたのか、それをどれほど悔い改めているのかも───すべてが、あなた方の語りによって操作されてきたのではありませんか?」
ルベルトの声は、ますます辛辣になる。
その裏側には、理解の及ばぬ異界への恐怖と、王座を守ろうとする幼稚な意地が透けて見える。
彼の言葉の端々には、自分たちの正しさに縋りたい弱さが、じわじわと滲み出していた。
ルクルーシュの膝の上で組んでいた両手に、わずかに力がこもった。その白磁の指先が、静かに青白くなる。場の空気は、彼の仕草ひとつでさらに張り詰め、誰もが気づかぬうちに肩を強張らせていた。
その時、傍らのウォロが、ほんの小さく「兄さん」と呼びかけた。
呆れとも、静かな諫めともつかぬ声音。
その言葉に、ルクルーシュは静かに目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。まるで、激情を呑み込んで再び王としての理性を取り戻すかのように。
「……償いならば、深淵胎の脅威を長年抑えてきたことで、十分果たしたつもりだ」
その言葉は決して大きくはないが、どこまでも深く、冷たい水底から響いてくるようだった。
だが、ルベルトはその静けさをあざけるように口を開く。彼の目はどこか意地悪く細められ、口元には皮肉げな笑みが浮かぶ。
「そうでしょうか?」
声はわざとらしく低く、どこか人を小馬鹿にしたような響きを含んでいた。
その態度は、場の誰もが見て取れるほど露骨で、彼の中の醜悪な不信や敵意がそのまま形になったかのようだ。
「長年抑えてきた、と仰いますが結局は、封じきれずにこうして我が国に災厄を招いた。その抑えとやらが、どれほど誇れるものなのか、甚だ疑問ですね」
ルベルトは視線をそらさず、堂々と皮肉をぶつける。
その瞳は一切の畏れを見せず、いや、むしろ見せまいと意地を張るようにルクルーシュを正面から見据えていた。
その挑発に、大臣たちの間にも一瞬、安心と高揚が広がる。
「……そ、そもそも過失を償うと仰るのであれば、より明確で、具体的な形で謝罪と補償を行っていただく必要があるのではありませんか?」
「そうですとも!このたびの被害規模を考慮すれば、口先だけの感謝では、我々も到底納得できませんな!」
「被害を受けた王都の復興には、莫大な資金と労力が必要です。まさか感謝の言葉だけで終わらせるおつもりはありますまい?」
「具体的に補償を行っていただく必要がありますなあ。例えば───貴国の鉱山資源や、魔国独自の技術。これらを一定期間、我が国に優先供給していただく……そういった誠意ある譲歩があって然るべきでしょう」
「制約の詳細も全て開示いただきたい。こちらで再発防止策を監査、指導できるよう、貴国の内政に関する権限も一部譲渡いただく必要がございます」
「他にも───魔国領内の交易特権、治外法権の付与、新たな鉱区の開放……これらを条件としてご提案させていただきます」
大臣たちの要求は次々とエスカレートし、もはや補償の名を借りた強奪に等しかった。
声を荒げる大臣、知ったふうな口をきく宰相、勝ち誇ったような視線を交わし合う重臣たち。
恐怖はやがて軽薄な自信へと変わり、ルクルーシュらを下に見ることで自らの心を守ろうとする、群集心理の醜さがあからさまに広がっていく。
最初は異質さに怯えていた人間たちが、今は「大したことはない」とでも言いたげに声を揃え始める。
まるで、魔王という存在さえ〝利用できる弱者〟であるかのような、侮蔑と軽蔑の空気が膨れ上がっていく。
ルクルーシュは、その様子を一言も発さずに見つめていた。
彼の瞳の奥に、苛立ちと冷たい軽蔑が、じわりと滲む。
───やはり、人間とはこの程度か。
力でねじ伏せられている間は大人しく従うが、一度相手が譲歩し、頭を垂れれば、今度は群れとなってそれに群がり、責任を押しつけ、さらなる利益をむしり取ろうとする。
傲慢で、利己的で、そして何よりも浅ましい。
『人間と協力し合い、共に解決するのです』
───不意に、ロエナの静かな声がルクルーシュの脳裏をかすめた。
心の奥底に、微かな清涼の風が吹き込む。しかし、現実の王座の間に満ちるのは、人間のあまりにも醜悪な声ばかりだ。
───ロエナ、俺はやはり、人間など……
大臣たちの口からは、嘲笑と侮蔑が遠慮なく溢れ出す。
今や、場の誰一人としてルクルーシュを恐れようとしない。むしろ、「勝った」とでも言いたげな薄ら笑いが、玉座の間の空気を一層濁らせていた。
ルクルーシュは、静かに───だが確固たる意志を持って、椅子から立ち上がった。
その動作ひとつで、さきほどまで調子に乗っていた大臣たちの顔色が引きつる。誰もが、思い出したように背筋を伸ばし、無意識に身構える。
ルクルーシュの眼差しは、氷のように冷ややかだった。その瞳には、もはや一片の期待も残されていない。
「……どうやら、これ以上〝冷静な話し合い〟は望めそうにないな」
場の空気が一瞬で凍りつく。
続いて、ウォロも静かに立ち上がった。兄の背を守るように、その小柄な身体をすっと伸ばす。
「本日はここまでとする。また明日、会談を取り行おう。───我々が再びこの場に現れるかは、貴殿らの態度次第だ」
その声音には、かすかに蔑みすら滲んでいた。
ルクルーシュは、わずかに顎を上げ、王と大臣たちを無言で見下ろす。誰もが、その視線に、理由もなく胸を締め付けられた。
「……それでは、失礼する」
ただそれだけを冷たく告げると、ルクルーシュはウォロとともに、魔法の微かな残響を残してその場から消え去った。
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