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毎日2話更新をしておりましたが、作者多忙につき、明日の更新は1話のみとなりますのでご了承ください……!
王都の大通りは、祝祭の日のような喧騒に包まれていた。露店の香ばしい匂い、賑やかな子供たちの声、きらびやかな商人たちの呼び込み───すべてが、突如として轟く悲鳴によって打ち消された。
異様な振動とともに、建物の壁が爆ぜる。空気が裂け、瓦礫が白昼の空を舞った。逃げ惑う市民たちの絶叫が、恐怖に染まりながら響き渡る。その中心───割れるような地鳴りとともに、黒い何かが姿を現した。
それは、人の形ですらなかった。濃く、淀んだ闇の塊。建物の石壁を紙のように破り、鉄製の街灯を無造作にへし折る。這いずるように広がる無数の黒い触手が、獲物を探すように蠢いている。
「殿下!お下がりください!」
騎士の叫びが空気を切り裂く。だが、ヴィルヘルトはひるまない。正義と誇りに突き動かされ、彼は己の剣を強く握った。騎士たちが必死に彼を守ろうとするのも構わず、彼は一歩、また一歩と、灼けるような恐怖の只中に踏み込んでいく。
───人々を守らねばならない。
ヴィルヘルトはただ一人、黒の奔流の前に立ちはだかった。足元の石畳が砕け、粉塵が舞い上がる。
そして───彼は剣を、天へと振り上げた。
加護を帯びた銀の刃が、微かな光を発する。剣先が黒い塊に触れた瞬間、辺りに雷鳴のような衝撃が走った。闇が一瞬、悲鳴を上げて弾け飛び、瘴気混じりの霧となって四散する。瓦礫に混じって、虚ろな影が悲鳴を残しながら消え去った。
静寂が訪れた。市民たちのすすり泣く声、崩れ落ちた壁の下で微かにうごめく者たち───。
ヴィルヘルトは、わずかに息を切らせたまま、未だ黒い残滓が漂う空気の中に立ち尽くしていた。
ほんの一拍の後、空気が急激に震え、まるで舞台の幕が切り替わるかのように、街路の空気が一変した。
どこからともなく歓声が巻き起こる。安堵と尊敬の入り混じった声が、群衆の間から沸き上がる。
「ヴィルヘルト殿下!」
「お怪我はありませんか!」
騎士たちの声にヴィルヘルトは小さく息をつき、すぐに周囲を見渡す。
「俺は大丈夫だ。それより市民の安全を最優先に───」
だが、その声が言い終わるより早く。
世界そのものが軋むような異様な圧が、地の底から湧き上がった。
空気が急激に重くなり、まるで巨岩に首筋を押さえつけられるような錯覚。膝が自然に折れそうになる。恐怖とは違う、抗いがたい威圧───それは、魂そのものをひねり潰されるような感覚だった。
───頭を垂れなければならない。
誰もがそう思った。
そんな中、不意に空気がふわりと揺らぐ。
人知を超えた、静謐で───しかし底知れぬ異質さを孕んだ気配が、広場の中心に舞い降りた。
それはまるで、雪が舞い落ちるかのごとく、あるいは夢の中の幻のように、唐突で、不可解な美しさだった。
細い黒髪が、夜の帳のような黒衣の上で微かに揺れた。無表情とも、微笑ともとれるその横顔は、人間離れした完璧な造形で、どこか現実感がない。
彼は軽やかに、まるで重力すら支配下に置いているかのように着地した。地に触れた足元には、まるで現世と異界の境界線が生まれたような、歪みとざわめきが広がる。
───魔国の王、ルクルーシュ。
誰もがその正体を、本能的に悟った。恐怖と、言葉にならぬ畏怖、得体の知れぬ魅力が、見る者すべてを貫く。
これまで民衆が信じてきた魔族のイメージ───汚らわしく、異形で、浅ましい───それらが一瞬で打ち砕かれる。目の前の存在は、圧倒的な威厳と美しさ、そしてどこまでも冷たい何かをたたえていた。
ルクルーシュの視線が、ただ静かにヴィルヘルトを捉える。氷のような無慈悲さと、万物を見下ろす慈しみが、同時に宿る両の瞳。
やがて、低く、響き渡る声が静寂を裂いた。
「バインベルクの王太子、ヴィルヘルト殿」
広場を覆う静寂の中、ルクルーシュの声は低く、濡れた夜闇を這うように響き渡った。その声音には不思議な威圧と、得体の知れぬ優雅さが混在している。言葉ひとつで空気の密度が変わり、周囲の音が消えていく。
「ま、魔王陛下……これはどういう……」
ヴィルヘルトの困惑と警戒が滲む声も、その場の異様な雰囲気に呑み込まれ、かすれそうに震える。
「先程、王太子殿が討ったのは───我らが抑え込んでいた脅威の残り火だ」
その言葉に、ざわめきが起きる。市民、騎士、誰もが理解を超えた現実に思考が追い付かない。だが、あの黒い怪物を見た後では、否定すらできない。ルクルーシュの言葉が、否応なく現実を上書きしていく。
ゆっくりと、ルクルーシュはヴィルヘルトの方へと歩み寄る。
その歩みは静かで、音もなく、しかしひどく現実離れしていた。白磁のような手、静かな目元、纏う漆黒の衣───彼が歩むたび、地面が薄氷のようにひび割れていく錯覚を覚える。
そして、誰も予想できなかった行為が起こる。
───ルクルーシュは、静かに、深く、頭を下げた。
その所作はどこまでも静かで、どこまでも異様だった。まるで人の姿をした別の存在が、儀式のように首を垂れる。広場にいた誰もが、その瞬間、言葉を失った。
かつて人々が信じていた魔族という存在が───全ての先入観が、今まさに崩れ落ちていく。悪であるはずの者が、人間の英雄に深く礼を尽くす。その姿は恐ろしくも、美しかった。
沈黙が支配する。空気は張りつめ、誰一人、息をすることすら忘れる。
「バインベルクの王太子殿に、感謝を」
信じられない光景だった。魔族の王が───バインベルクの人間の王子に、明確な感謝と礼を示してみせたのだ。
その姿は、見る者すべての心に、不気味なほど鮮烈な刻印を残した。
やがてルクルーシュは、静かに、ゆっくりと身を起こした。
その動作ひとつとっても、どこか現実離れしている。異国の王に相応しい、重力すら支配するかのような静謐さ。
周囲の誰もが、まるで夢の中の光景でも見ているかのように、ただ呆然とその姿を見つめていた。
魔国の王は、何も言わない。何の要求も、警告も、約束も、褒美も残さず、ただ淡々と礼を尽くした。それだけだった。
───あまりにも異質で、あまりにも美しく、そして、どこまでも不気味だ。
ルクルーシュは静かに踵を返し、ゆっくりと背を向ける。その衣の裾が、風もないのにゆらりと揺れる。その姿が人の目に映るのはほんの一瞬で、次の瞬間、彼の存在は闇に溶けるように消え去った。
誰もが、いま見た光景の意味をすぐには受け入れられない。記憶の中で、ただ静かに、魔王の影が揺れ続けていた。
♦︎
───気づけば、王都の混乱も遥か遠くの出来事のようだった。
ひと段落した後、ロエナはルクルーシュの転移魔法によって、瞬く間に王宮の自室へと送り届けられた。先程まで耳にこびりついていた人々のざわめきも、闇の残滓も、今は微塵も感じられない。どこまでも静謐で、整えられた空間。馴染んだ自室の空気が、急に現実味を帯びて迫ってくる。
「……お手間を取らせました、魔王陛下。わざわざすみません」
ロエナは扉の近くで立ち止まり、控えめに口を開く。しかし、ルクルーシュは静かに首を振った。
「構わない。俺がしたいと思っただけだ」
その声音には、先程の謁見で見せた魔王としての威圧や冷たさは微塵もなかった。どこか静かで、穏やかな余韻が漂っている。
ふいに、ルクルーシュは足音もなくロエナの前に進み出る。
「……ロエナ。まだ、君に伝えていなかったな」
初めて、ルクルーシュがロエナの名を呼ぶ。その響きは柔らかく、どこかぎこちなささえ感じさせた。ロエナは、意外そうにわずかに目を細める。
そして───。
ルクルーシュは、そのままロエナの前に膝をつき、彼女の手を両手で包み込むように取った。その手が、自らの額にそっと押し当てられる。
「弟……ウォロを救ってくれたこと。そして、深淵胎を討ち、バインベルクと我が国の未来のために尽力してくれたこと───本当に、感謝している」
その声は、真摯で、どこまでも低く静かだった。誇り高き魔王が、ひとりの人間の前でこうまで頭を下げること。その事実の重みが、部屋の空気をひやりと引き締める。
ロエナは一瞬、返す言葉を見失う。思いもよらぬ感謝と礼節。まさか、ルクルーシュがここまでしてくるとは想像もしなかった。
「……魔王陛下、わたくしはそのような───」
「ルクルーシュ」
ルクルーシュは短く、自分の名を告げる。その声音には、先ほどまでの威厳も気高さも影を潜め、どこか人間味のある脆さすら滲んでいた。
「……そう、呼んでほしい」
彼は静かに立ち上がり、ロエナを真っ直ぐ見つめる。けれどその瞳は、ほんの僅かに揺れていた。頬には薄く朱が差し、視線は迷子のようにロエナから逸れる。あの魔国の王が、まるで年若い少年のような頼りなさを見せている。
ロエナは胸の奥を不意に強く掴まれる感覚に襲われた。それでも、表情ひとつ変えず、微笑みを湛えたまま静かに応じる。
「……わかりました。ルクルーシュ様」
その言い回しに、ルクルーシュは小さく首を振った。
「〝様〟も……敬語も、必要ない」
「しかし、わたくしが魔王陛下にそのような口をきくなど……」
ロエナが言いかけると、ルクルーシュはふいに肩を落とし、目元を曇らせた。その仕草は、先程までの堂々たる姿からは想像もつかないほど、しゅんとしていて頼りなかった。
「……ウォロとロエナは、何の隔てもなく言葉を交わしていると聞いた。俺とは……そのように話してはくれないのか」
その言葉は、まるで孤独な少年のように脆く、静かだった。ロエナは、胸の奥に雷が落ちたような衝撃を感じた。これほど無防備に、感情を露わにする魔国の王の姿など、想像出来なかったからだ。
ひと呼吸、間を置く。ロエナはゆっくりと、その感情の波を飲み込み、静かに、しかし丁寧に言葉を紡いだ。
「……お望みでしたら。よろしくね、ルクルーシュ」
その一言で、空気が和らいだ。ルクルーシュはぱあっと顔を明るく綻ばせ、子供のように無邪気な笑みを浮かべる。
「……! あぁ……」
途端に、彼の周囲に透明な花びらが舞い散るようなあたたかな空気が漂う。
これほど素直に感情を表すルクルーシュの姿に、ロエナは思わず心の中でそっと呟いた。
(……初めて殿方をかわいいと思ったわ……)
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