22
「……おいっ、無事か」
深淵胎の断末魔が消えていく中、ルクルーシュが険しい顔でロエナに駆け寄ってきた。その瞳は、さっきまでの冷徹な王のものとは異なり、一瞬だけ人間味のある驚きと心配を宿している。
ロエナは、ぐらりと体を揺らしながらも、しっかりと自分の足で立ち上がる。
「えぇ。ご心配、痛み入りますわ、魔王陛下」
その柔らかい笑顔に、ルクルーシュは目をぱちぱちと瞬かせた。
「……俺の一撃を受けて、平然としていられるとはな」
驚きと戸惑いが混じった声。だが、ロエナはさらに微笑みを深くし、軽やかに答える。
「きっと加護のおかげでしょう。しかし、流石は魔王陛下ですわ。普通なら聖女の加護が一撃で解けるはずありませんもの」
まさか一振りで聖女の加護が消し飛ぶとは───。ロエナは内心で、改めてルクルーシュという存在の〝規格外さ〟を思い知らされていた。
その時、床を這う不穏な気配。
ロエナが下を見ると、そこには先ほどの深淵胎が、見るも無惨な姿で地面を這いずっていた。かつての巨大な威容は消え、今や目玉ひとつだけが、ちいさく蠢いている。体からは粘液が滴り、もはや生きているのかすら怪しい。
ロエナは迷わず、その目玉をひょいと指でつまみ上げた。
「何をしている。早くとどめを刺せ」
ルクルーシュが訝しげに声をかけるが、ロエナは落ち着いたまま答える。
「いえ、もう衰弱しきっております。今ここで殺してしまうのは、もったいない」
指の中で、深淵胎は弱々しく蠢く。さっきまでの狂暴さも毒気も、すっかり抜け落ちてしまっていた。
「このまま、バインベルクへ〝放つ〟つもりです」
ロエナはあっけらかんと言い放つ。その表情には、天使のような無垢さと、悪女のようなしたたかさが同居していた。
「……はっ?」
ルクルーシュは、まさかの言葉に完全に呆然とする。目を見開き、思わずロエナの顔をまじまじと見つめた。
「───そして、バインベルクの王太子、ヴィルヘルトに討たせます」
ロエナは淡々と告げる。その声音は、まるで他人事のように冷静だった。
「……ふざけているのか。なぜ、そんな回りくどい真似をする必要がある」
「先ほどの話をお忘れですか?」
ロエナはゆっくりと顔を上げる。その表情は余裕すら浮かべ、真意を見抜かれることを恐れていない。
「〝悪〟だった魔族が〝正義〟に変わる物語を、現実に紡ぐためです」
弱体化した深淵胎を指先で転がしながら、淡々と続ける。
その仕草は残酷ですらあり、ロエナの目には人間的な感傷はほとんど浮かんでいなかった。
「魔国が〝何をしてきたか〟ではなく、人間が〝何を見たか〟。内情をいくら語ったところで、人間は決して信じません。けれど、目の前で異変が起き、人間がそれを討ち、魔王陛下が現れて感謝を述べる……」
一歩、静かに踏み出すロエナ。
「異変は魔国の仕業ではなかった。むしろ魔国はバインベルクを守っていた───そう、見せかける物語を作るのです」
ロエナの言葉が空間の静寂に沈んだ。
言葉のたび、深淵胎の目玉が虚ろに動き、意味もなく上を見上げる。かつては暴威の象徴であったその存在が、今は小さな生き物のようにただ震え、静けさの中に溶けていた。
その沈黙は、決して心地よいものではなかった。
空間の隅々に染みついた闇が、息をひそめて二人の対話を聴き入っているような気配すらある。
やがて───。
その沈黙を割って、ルクルーシュの声が低く、深く、洞窟の奥底から湧き上がるように響いた。
「……なるほど」
真紅の瞳には、かつてないほどの深い思索と、静かな感銘が宿っている。ロエナの言葉の意味の真意を理解したらしい。
「同情や理解ではなく……印象そのものを塗り替える、か」
ルクルーシュは、ふっと口元にかすかな笑みを浮かべた。
嘲りも、軽蔑もなかった。あるのは、純粋な興味と、目の前の人間───ロエナという異質な存在への認知の変化。
「面白い」
その一言は、重くもあり、どこか愉しげでもあった。空間に反響するその響きが、闇を一層濃くする。
ロエナは、静かに、満足げに微笑んだ。
「了承していただけて、何よりですわ。では、早速バインベルクへ参りましょう」
「……あぁ」
ルクルーシュは短く答えると、迷いなくロエナの方へ手を差し出した。その指先から滲む冷たい魔力の気配。
転移魔法───その合図と悟ったロエナは、静かにその手を取る。
次の瞬間、世界が一度裏返るような感覚に再び包まれる。
光も音も、重力さえも失われ、空間そのものが歪み、視界が白黒の波紋となって流れていく。
耳鳴りと心臓の高鳴りが混ざり、全身がふわりと浮き上がった。
気付けば、ロエナは宙に漂っていた。重力の感覚が薄れ、足元にはどこまでも霞む空と、雲を突き抜けるような浮遊感。
思わず身体を強張らせると、すぐ傍でルクルーシュの冷たい手が、腰をしっかりと抱き寄せてくる。
「……さあ、どこに放つ」
ルクルーシュが低く問いかけた。
ロエナが下を見ると、眼下には王都バインベルクが広がっている。高い城壁に囲まれた都の街並みは、昼のはずなのに薄い雲がかかり、どこか不吉な静けさに満ちていた。
(ちょうどいい場所に転移してくれたわね)
ロエナは、口角をわずかに上げる。
この眺めこそが、彼女の計画を舞台へと引きずり出すための最高の一幕だった。
───王都の視察があるんだ。
ヴィルヘルトがそう言っていたのを、ロエナは鮮明に思い出していた。王都の喧騒、その中に彼がいるはず。
眼下の街並みは、石畳の道が幾重にも重なり、白壁の屋敷と尖塔が不規則に林立している。広場には露店と人混みが波のように渦巻き、その全てが雲間から差し込む不穏な光に照らされている。
「……このままでは、少し目立つか」
ルクルーシュが低く呟くと、その声と同時に周囲の空気が震えた。
ロエナとルクルーシュの体を柔らかな光が包み込み、輪郭がゆらゆらと揺らめく。
「魔法ですか?」
ロエナが尋ねると、ルクルーシュは短く頷いた。
「あぁ。姿を眩ませる魔法だ。これで俺たちの姿は人間どもには見えない」
───魔法とは、どこまでも便利なものだ。
空を飛び、武器を闇に隠し、己の気配すら消し去る。その万能さに、ロエナは軽く息を呑むと同時に、戦慄すら感じた。
不可視のまま、二人はゆっくりと高度を下げていく。王都の街並みが間近に広がり、賑わう市井の人々、警護の騎士たち───彼らの誰一人として、真上に魔王が潜んでいることなど知る由もない。
ふと、ロエナは見慣れたブロンドの髪を発見する。
群衆の中、堂々たる背筋と気品───あれは間違いなくヴィルヘルトだ。
ロエナはニヤリと口角を上げる。
すべてが、彼女の筋書き通りに動き出そうとしていた。
「では、こちらに」
冷たい風がふたりの髪をなぶり、太陽の光さえどこか冷たく感じられる王都の上空。
策略の幕が、静かに切って落とされた。
ロエナの言葉とともに、小さくなった深淵胎が王都の空へ解き放たれる。
最初はただ蠢くだけの小さな異形───だが、王都の空気に触れるや否や、それはみるみる膨れ上がり始めた。
数多の人間たちの穢れを吸い上げ、たちまち巨大な怪物へと変貌する。
地上で何かが崩れ、悲鳴が連鎖する。
広場を埋め尽くす人々が、一斉に恐怖と混乱に飲み込まれていく。その様子を、ロエナとルクルーシュは冷ややかに、上空から静かに眺めていた。
「一つ、聞くが」
ルクルーシュが低く尋ねる。その声音は、地上の混沌とは裏腹に静謐そのものだった。
「深淵胎を討てるのは、本来、聖女の加護のみのはずだ。だが───お前の言う王太子は、加護を受けた人間なのか?」
下ではさらに大きな悲鳴が上がり、街が次第に災厄の色に染まっていく。ロエナは涼やかな微笑を浮かべて、静かに首を横に振った。
「いいえ、違いますわ。しかし───彼の持つ剣には、加護が宿っています」
ルクルーシュの視線が、僅かに鋭くなった。
ロエナは、群衆の中で深淵胎に立ち向かおうとするヴィルヘルトの姿をじっと見つめる。その手には、ロエナのレイピアと何度も鍛錬した剣が握られている。
ロエナは脳裏に、エリシャの言葉を思い浮かべていた。
───無機物への加護は、生き物みたいに意思がない分、とても流れやすいのです。もしどこかに強くぶつけたりすると、加護がぶつけた対象へ流れてしまいます。
幾度も、何度も手合わせを重ねてきた。
ロエナの加護が込められたレイピアと、ヴィルヘルトが振るう剣。
刃と刃がぶつかるたび、目には見えない力の流れが、じわじわと移ろっていく。
意図せずして、〝力〟は移る。
無機物は生き物ほどには加護を留められず、打撃や衝撃を受けるたび、簡単に受け手に流れていくのだ。
───偶然の積み重ねに見せかけた、周到な仕込み。
ロエナは、誰にも気づかれぬよう、静かに口元を歪めた。
王都の上空から見下ろすその双眸は、まるで全ての駒の動きを先読みしているかのような冷静さと残酷さをたたえている。
さあ、ヴィルヘルト。
深淵胎の〝残り火〟を討つ、その瞬間───。
〝剣しか能のない男〟と陰で嗤われ、弟にも見下されてきた貴方が、いま群衆の目の前で異形の怪物を討つ。人々は歓声をあげ、恐怖と興奮が交錯する。貴族たちも、庶民たちも、その光景に心を奪われる。
歓声が、畏怖が、噂が───。
王都の隅々まで、鮮やかな衝撃となって広がっていく。
その時、ルベルト。
お前が玉座にふんぞり返ってきた、その座は───たった一日で、たった一振りの剣で、根こそぎ奪われる。
人間とは、そういうものだ。
〝見たもの〟が現実となり、〝信じたいもの〟が真実になる。どれほどの堅牢な権威も、努力も、血統も、〝英雄〟という冠を得た瞬間、すべては上書きされる。
ロエナの眼差しは、群衆の悲鳴と混乱の中に、すでに次なる未来を見ていた。
深淵胎のうごめき。王都に渦巻く瘴気と絶望。
だがその闇さえも、彼女の掌の上に踊る物語のための舞台装置にすぎない。
静かに、王都の運命が動き出す。
誰にも悟られることなく、冷たい笑みが空に消えていった。
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