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 転移魔法が発動した瞬間、ロエナの視界はぐるりと反転した。重厚な玉座の間の空気も石の冷たさも消え失せ、次の瞬間、全く異なる世界が眼前に広がっていた。


 そこは、現実と夢の境界があいまいになったような、不可思議な空間だった。目の前には果てしなく続く、宙に浮かぶ石段。階段は規則正しいジグザグを描きながら、天へと昇っていく。その途中にはいくつもの黒い扉がぽつりぽつりと浮かび、どこか別の場所や世界へと通じているかのようだった。


 足元には、物理法則を無視したように階段だけがぽつねんと存在している。周囲を見下ろせば、遙か下方にも別の階段や扉が見えるが、雲や地面といった現実的な「下」はなく、ただ淡い光と渦巻く闇が広がるばかりだ。


 空間全体は渦を巻く光と闇の糸で織られ、星々がまるで生きているかのように脈打つ。まるで夜空と深海が溶け合ったような空間には、複数の光源がきらきらと瞬いていた。それは星なのか、別の次元の「目」なのかすら判別できない。全てが不気味なまでに静かで、それでいて、どこか神聖な気配を漂わせている。


 ロエナは、ふと自分の足元を見る。ハイヒールのつま先が、虚空に浮かぶ一枚の足場にしっかりと乗っている。その先には、まるで天の川に橋をかけたかのように、階段が続いていた。


「ここは……」


 ロエナは、視界いっぱいに広がる摩訶不思議な空間をぐるりと見回した。そんな異質な世界で、ルクルーシュの声が静かに響く。


「ここは、俺が作り出した深淵胎を封じ込める為の空間だ」


 淡々としたその言葉に、ロエナは思わず息を呑む。玉座の間で感じた威圧感が、今はこの世界そのものから滲み出ている気がした。


「……たくさん部屋があるのですね」


 ロエナは、宙に浮かぶ無数の扉や枝分かれした階段を見上げながら言った。ルクルーシュは、まるで何でもないことのように答える。


「深淵胎は、時間と共に膨張し続ける。手狭になれば分裂させて部屋を分ける。……それだけだ」


 その口調には、誇りでも自慢でもなく、ごく当然のことを語る静けさがある。

 ロエナは心の奥でぞくりと震えた。空間を自在に創造し、異形の存在すら封じ込め続ける───魔国の王としての格と、その力が、目の前のこの世界に結実していた。


 ルクルーシュが無言で手を掲げ、宙をなぞる。すると、周囲に浮かんでいた無数の黒い扉が、まるで意思を持つかのように音もなく集まり、絡み合い、重なり合う。

 光と闇の渦巻く世界に、扉同士が溶けていく様は、現実離れした悪夢のようだった。


 やがて、全ての扉が合体し、巨大な一つの扉へと姿を変える。

 その異様な存在感に、空間全体がきしみ、空気が重たく歪む。


「今、分けていた深淵胎の空間を一つにした」


 ルクルーシュの声は淡々としているが、その奥底には何かを警告するような響きがあった。


「だが、既に膨張している深淵胎を、ここに長くは封じておけない」


 いかに魔王であっても、この異界の管理には相当な負担がかかるらしい。封印した存在が巨大すぎるのだ。


 ルクルーシュは扉へと歩み寄り、その背をロエナに向ける。その背中を見つめながら、ロエナはそっと言葉をかけた。


「……正直に申し上げて、一度の謁見で討伐の協力を頂けるとは思っておりませんでした。何度も足を運び、説得を重ねる覚悟でしたが……」


 その率直な声に、ルクルーシュは取手に手をかけたまま、冷ややかに返す。


「勘違いするな、人間」


 振り返ることなく、続ける声が広間に響く。


「俺は、お前を信用したわけではない」


 空気が張り詰め、周囲の渦巻く闇が一瞬だけ静まる。


「お前は先ほど、己に聖女の加護が施されていると言ったな。……その加護が本物であれば───使える」


 ルクルーシュの声は静かだった。しかし、その声音の奥底には鋼鉄のような硬さと、容赦なき非情さが潜んでいる。


 言葉の途中で、彼の真紅の瞳がぎょろりとこちらを向いた。


「だが、もしそれが紛い物なら───」


 ルクルーシュはゆっくりと言葉を切り、冷たく続けた。


「───お前の命はここまでだ」


 静かに放たれたその一言が、空間を一層冷え込ませる。

 それは「見殺しにする」と声高に脅すよりも、はるかに冷たく、現実的な死の気配を帯びていた。

 ルクルーシュはロエナの命運など、ほんの一片も気に留めていない。役に立たぬと判断した瞬間、迷いもなく切り捨てるに違いない。


 ルクルーシュはそのまま低く息を吐き、扉へと手を伸ばす。重厚な扉が、きしりと音を立ててゆっくりと開かれた。


 扉の向こうから、言葉では形容できない圧が溢れ出す。空気が歪み、視界が暗転し、何か巨大なものが蠢く気配が伝わってくる。生き物の呼吸とも、空間の脈動ともつかない、不快な律動。


 次の瞬間だった。


 ぐっと、腰に強い力がかかる。

 ルクルーシュの魔法が、容赦なくロエナの腰を引き寄せ、勝手に体が前へと進む。


「来い」


 低く、命令するような声。

 そして、そのまま、二人は、扉の向こうへと踏み込んだ。


 いや───踏み込んだ、というより、引きずり込まれたと言うべきだった。


 世界が裏返る。

 上下も距離も意味を失い、闇と圧力が全身を包み込む。


「……!」


 気がつくと、足元に広がるのは、常識の及ばない異界の地───。

 天井知らずの巨大な鍾乳洞。地面も壁も、無数の尖塔や岩柱が天へと突き刺さっている。天井からは幾筋もの光の柱が降り注ぎ、岩肌はどこまでも白く、淡く輝いていた。空気は静謐でありながらも、不気味なほど冷たく澄み切っている。


 だが、ロエナの目を最も奪ったのは───その中心に蠢く〝何か〟だった。


 それは、もはや生物と呼んでいいのかも分からない。

 宙に浮かぶ巨大な黒い胴体。その腹部からは数十本もの不気味な房状の触手が垂れ下がり、まるで胎根のように空間全体へと根を張っている。房の一つ一つには、見たこともない目玉や口のようなものが、静かに瞬き、うごめいていた。


 そして、その中心───。

 まるで胎児のように垂れ下がる一筋の糸。その先にぶら下がるのは、奇怪な模様の殻に覆われた球体。その殻がゆっくりと割れ、内部から巨大な眼球がこちらをじっと覗き返す。


(これが深淵胎ね……)


 そんなロエナを他所に、ルクルーシュは無言で横に手を伸ばす。その指先が空をなぞるだけで、周囲の闇がざわりと揺れた。

 次の瞬間、何もない虚空から、黒く蠢く闇が湧き上がる。闇の中から、月のような朱色の刃を持つ巨大な斧が、じわじわと姿を現した。

 その斧は、ただの武器というにはあまりにも異様だった。

 刃は燃えるような赤黒さで欠け崩れ、柄は影の塊が凝固したかのように歪み、闇の瘴気を纏っている。全体が不定形に揺らぎ、見る者の目を惑わせる。まるで、この世界そのものを蝕む月蝕の象徴のような不吉な魔斧。


 ルクルーシュはそれを薙ぎ払うように掴み取る。


(……収納魔法かしら?あんな巨大なものを……便利ね)


 ルクルーシュがどこからともなく現した禍々しい斧を横目に、ロエナは場違いなほど冷静な感想を抱いていた。

 だがその思考も一瞬で断ち切られる。


 ───ひゅっ。


 何の前触れもなく、空気が切り裂かれる音。深淵胎の黒い触手が、蛇のようにうねりながらロエナに向かって伸びてくる。無数の眼と口、異形の器官がその表面を蠢かせるさまは、見る者の理性を否応なく侵食してくる。


 だが触手がロエナの目前に迫った瞬間───。


 ───バチンッ!


 見えない結界が、はじけるような音と共に触手を弾き返す。

 淡く光る聖女の加護が、彼女の全身を絶対不可侵の結界で包み、深淵胎の瘴気を寄せ付けない。


(……無駄よ)


 ロエナは不敵な笑みを浮かべ、唇の端をゆっくりと持ち上げた。


 次の瞬間───。


 ぶわりと空気が逆巻く。

 隣にいたはずのルクルーシュの気配が、忽然と消えていた。


 そして気が付けば、深淵胎の巨大な体が、赤黒い軌跡と共にバラバラに切り裂かれていた。

 その動きは目にも止まらぬ速さ。

 ルクルーシュは、まるで闇に溶ける影のごとく深淵胎の周囲を駆け抜け、禍々しい斧を振るうたび、空間ごと引き裂かれるかのような重低音が響く。


 斧の一撃ごとに、深淵胎の肉体が裂け、飛び散る。

 だが───その異形は、切り離された部分を、黒い粘液でつなぎ合わせるかのように、瞬く間に再生させていく。


 ぐじゅり、とおぞましい音を立てて、体が再び一つに戻る。無数の眼が怒りと怨嗟で膨れ上がり、触手が乱暴に振り回される。

 その何本かがルクルーシュを狙って襲いかかるが、彼は一切動じず、斧をひと振りするだけで全てを沈黙させる。


「……どうやら、お前の加護は本物らしいな」


 ルクルーシュは淡々と呟き、赤黒い斧の先で血のような液体を払い落とす。


「……俺が補佐を引き受けよう」


 ルクルーシュは静かにそう宣言すると、黒い外套をひるがえし、地を蹴った。その動きは人間離れしており、闇を滑るように深淵胎へと疾駆する。

 朱く輝く巨大な斧が宙を舞い、軌跡が残像となって空間に刻まれるたび、不協和音のような轟音が広がった。


 斧が振るわれるたび、深淵胎の肉体が裂け、断面から黒い液体が噴き出す。だが、その切り口はすぐさま瘡蓋のように盛り上がり、ぐじゅりと音を立てて再生されていく。

 幾重にもねじれた房状の触手が、ルクルーシュを追い、空間全体が波打つように脈動した。


 ロエナは、加護の淡い光に包まれながら、静かに深淵胎へと詰め寄った。

 足音が冷たい空間に反響し、その一歩ごとに、空気が重く、ねっとりとまとわりついてくる。加護のせいか、周囲の瘴気や腐敗の匂いすら届かず、ただ自分の足元だけが清浄な結界のようになっていた。


 しかし、ロエナが深淵胎との距離を詰めようとすると───。


 深淵胎は、まるで動物的な本能に突き動かされるように、一気にロエナから後退した。その触手が恐れるようにひゅっと縮み、巨大な胴体が彼女の前から後ずさる。


 ロエナが一歩進めば、深淵胎もまた一歩分、距離を取る。

 その様子はまるで、見えない線を引かれているかのようだった。触手の一本一本がロエナの加護の光を敏感に察知し、恐れるように身を引く。


 ルクルーシュも斧を振るい、魔法を幾度も放つが、深淵胎の肉体は、いくら切り裂かれても黒い粘液を滴らせながら、じゅるじゅると再生していく。物理も魔法も、深淵胎の本質にはまったく届かない。

 それどころか、攻撃の度に増える傷が、むしろ怪物をますます凶暴に駆り立てているようだった。


 ───このままでは、こちらの魔力切れが先か。


 ルクルーシュの目にも焦りが宿る。

 深淵胎はむしろ余裕すら感じさせ、無数の目でロエナとルクルーシュを同時に睨みつけていた。


(……賭けるしかないわね)


 ロエナはそっと息を吸い、深淵胎の背後へと回り込んだ。その一歩ごとに、加護の光が淡く揺れ、空気がざわめく。

 だが深淵胎は即座にそれを察知し、今度は逃げるように大きく身を引く。

 滑るように空間を移動し、粘着質な根と触手を地面に引きずりながら、再び加護から距離を取る。


 刹那───。


 ルクルーシュが狙いすました一撃を放った。

 だが、深淵胎が軌道を外れて逃げたため、斧はまるで的を失ったかのように宙を薙ぎ───次の瞬間、その軌道の先にはロエナの姿があった。


「なッ───!」


 ロエナの身体が斧撃をもろに受け、空中へと吹き飛ばされる。岩壁に叩きつけられ、痛烈な衝撃が全身を貫いた。


 その瞬間、ロエナを包んでいた聖女の加護が消え失せる。空間に残ったのは、弱々しい呼吸をするロエナと、深淵胎のどす黒い気配だけだった。


 ───その隙を、深淵胎は決して見逃さない。


 無数の目が、飢えた獣のように見開かれる。触手の群れが獲物を捕らえるために一斉に伸び、あっという間にロエナの目の前まで到達した。


「……待っていたわ」


 ロエナは岩壁に埋まったまま、血に染まった唇で静かに微笑む。

 素早くレイピアを抜き放ち、深淵胎が油断しきって迫る、その中心へと狙いを定める。


 レイピアの刃には、まだかすかに聖女の加護が残っていた。

 その光だけが、闇を裂いて真っ直ぐに深淵胎へと届く。


 ロエナは渾身の力を振り絞り、レイピアを深淵胎の本体へと突き刺した。


 刃がぬるりと不気味な肉を裂き、硬い核に到達した感触。

 深淵胎が震え、凄まじい絶叫とともに空間そのものが歪み揺れる。おぞましい黒い液体が飛び散り、怪物の目玉がひとつひとつ潰れていく。


 ロエナの意識がわずかに遠のく───しかし、その手は、決して剣を離さない。


 悪夢のような光景の中、彼女は自らの〝賭け〟に全てを託していた。






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― 新着の感想 ―
真剣な、とても真剣な戦闘の表現でした。 想像力があまりないので、もう少し読み込んでみます。 ドキドキしながら読みました。でも、うまくいきそうですね。 むしろ、そのあとロエナが何をするかですね。 楽しみ…
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